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4.見てはいけないもの、見られたくないもの

ある日の夕方。

仕事を終えた私は、一人お屋敷の『裏棟』を歩いていた。


ここは端的に言えば、使用人達の作業場だ。

厨房や洗濯場、各職人達の作業スペースが軒を連ねている。


だから、装飾は一切施されていない。

壁は無機質な白灰色の塗り壁、床は実用性を重視した硬く平らな石畳だ。


左右の壁際には、木箱やリネンのカゴ、掃除道具の入った戸棚が整然と並んでいる。


「…………」


私はそんな廊下で立ち止まり、周囲を見回す。

そして、廊下に誰もいないことを確かめると、掃除用具を手にして――勢いよく駆け出した。


これは何も盗みを働こうとしているわけじゃない。

()()()()()()に入るまで、誰の目にも触れたくないからだ。

特に()()()()には――。


「あっちゃ~……」


今日もまた遭遇してしまった。

そのお方――ヴァレリオ様は、ビアンカちゃんとお話をされている。


強い逆光に遮られて、二人の表情までは読み取れない。

でも、凄く楽しげで、幸せそうで……。


『服装が乱れております。一体何をされていたのですか』

『っ!!? ちっ、違う! 僕はモデルをしていたんだ! 断じてその……女性と淫らな……っ、とっ、とにかく、そういうのじゃないからね!!』


昼間、ヴァレリオ様が必死になって否定されていたのを思い出す。


まさか……付き合ってるの……?

ビアンカちゃんとヴァレリオ様が……???


「……どっ、どうしよう」


個人的には応援したい。

けど、それは茨の道だ。


ビアンカちゃんは二か国語を操る才女だけど、所詮は使用人だ。

主人と使用人では、あまりにも身分の差がありすぎる。


私はどうしたら?

友達として、止めるべき……なのかな?


「や、やぁ! フィオーラ」

「っ!」


しまった。ヴァレリオ様に気付かれてしまった。

私は掃除用具を手にしたまま、その場で一礼する。


「やっ、やほ! フィオーラ! あ、えと……バイバーイ!」


ビアンカちゃんが逃げるようにして去っていく。

やっぱり見られたくなかったのかな。


「ああ、ビアンカさん! いいところに。すみません。また、教えていただきたいことが……」


走り出して間もなく、ビアンカちゃんが誰かに呼び止められた。

相手は――日陰にいるせいで誰だか分からないけど、メイドみたいだ。


たぶん新人。正式な指導係がいるはずだから、本来であればビアンカちゃんに指導をお願いするのはNGだ。

ビアンカちゃんも、断らないといけないんだけど……うん。難しいよね。


「いっ、いいともー! 詳しい話は向こうで聞くよー!」

「ありがとうございます!」


二人がバタバタと慌ただしく去っていった。

後には、私とヴァレリオ様だけが残る。


ヴァレリオ様のお顔は、相変わらず逆光のせいでよく見えない。

唯一ハッキリと見て取れるのは、口元だけだ。


これは好都合。むしろ有難い。

私はまだ、自分の身の振り方を決めかねている。


こんな状態で、ヴァレリオ様の幸せそうなお顔だったり、助けを求めるようなお顔を見てしまったら、私は……。


「お疲れ様」

「恐れ入ります」


一礼して足を踏み出す。

いつもならこれで済む。

ヴァレリオ様は笑顔で私を見送って、窓の外に目を向けられる――はずが。


「どこに行くの?」


今日に限って行先を訊ねて来られた。

まっ、まずい。必死に頭を働かせて、もっともらしい口実を考える。


「……東棟の小サロンへ。先ほど通りかかった際に、窓の曇りが気になりまして」

「なっ、なるほど! 相変わらず熱心だね」

「いえ。サヴィオラのお屋敷を清潔に保つのが、私どもハウスメイドの務めでございますので」

「そっ、……そっか……」


ヴァレリオ様の口端が――光と影の境目にある口端が引き攣っている。


サヴィオラのメイドとしては【正解】。

けれど、ヴァレリオ様に仕えるメイドとしては【不正解】。

たぶん、そういうことなんだろう。


やっぱり、自動人形(アウトーマ)のような血の通わないメイドでは、坊ちゃんのお役には立てないのかもしれない。

だけど、私は……私も所詮は使用人だから。


「……失礼致します」


逃げるようにして、その場を後にする。

人目を避けながら向かったのは、『物干し場』だ。

天井には木の梁が渡され、滑車で上下する物干し竿がいくつも吊るされている。


今日は天気が良かったからか、洗濯物はもう何も残っていなかった。

洗い立ての布の匂いだけが、ふわりと漂っている。


そんな部屋の奥には小部屋が一つ。

そう。ここが私の目的地――ヴァレリオ様のアトリエだ。


こんなところにアトリエがある理由。

それは何も、嫌がらせを受けてのことじゃない。


ヴァレリオ様自らが、好んでこの場所にアトリエを築かれたのだ。

何でもヴァレリオ様の目には、ここが開放感あふれる活気のある場所……というふうに映るらしい。


貴人が庶民の生活に憧れる、所謂『ないものねだり』ってやつなのかな。

正直、私にはよく分からない。


「さて、始めますか」


私は三年前のあの日から、週に一回のペースでここの掃除をしてきた。

家令様と、ヴァレリオ様の専属執事であるモーリス様には、きちんと許可を得ている。

ただ、ヴァレリオ様本人には秘密にしていた。


だってこんなもの……私の自己満足でしかないから。


「でも、ビアンカちゃんとのこともあるし……もういい加減やめるべきなのかな」


灰茶色の薄汚れた扉が、ぎぃ……と軋んだ音を立てながら開いていく。

部屋に入ると、左手の窓から夕陽が差し込んでいるのが見えた。


元は古布置き場だったということもあって、天井の木の梁には節が多い。

壁は粗削りな漆喰で、下地の赤レンガがところどころ顔を覗かせている。


手前の机の上には筆や瓶、ろうそくが置かれ、使い込まれた木の天板には、絵の具の染みが幾重にも重なっていた。


机の横には、空っぽのイーゼルと、丸い座面の木製スツールが。

奥の棚には、顔料や溶剤、ニスが入った小瓶が並んでいる。


うん。いつも通り……じゃない!!

アトリエの真ん中に、とんでもないものが落ちている。あれは――。


「ふにゃ~~」


ネコだ。両手両足を広げて天井を見上げている。

色は茶色。よく見たら尻尾の先だけ白い。変わった模様のネコだ。

一体どこから入ってきたんだろう? 窓も扉も閉まっているのに。


……ん? ちょっと待って。このネコ、どこかで……?


「ふっ、不覚……! こっ、こんなはずでは……っ」

「しゃっ、喋った!!?」

「おっ、……おぉ! 貴様、掃除婦か! いいところに来た! そのホウキでいいから、この鱗粉を集めて吾輩に飲ませてくれ!」

「りっ、鱗粉……?」


よく見ると、ネコさんの周りには金粉のようなものが散らばっていた。

もしかして、あれが……?


「はっ、早くしてくれ! このままでは吾輩は死んでしまう~っ」


どうやら本当みたいだ。

ネコさんの体が鈍く明滅して、その度に薄くなっていっている。


「わっ、分かったわ。ちょっと待ってね」


ホウキでせっせと鱗粉を集めて、ネコさんを腕の中に寝かせる。

ネコさんが「あが~」と口を開けたので、私は鱗粉が乗ったチリトリをそっと傾けた。


「お゛ええ゛ぇえ! ゲホッ! ホッ、ホコリが!」

「ごっ、ごめんなさい!」

「うぐぐっ! せっ、背に腹は代えられん! やれ!」

「はっ、はい!」


言われるがまま、残りの鱗粉を流し込んでいく。

やがて、すべてを飲み終えると、ネコさんは私の腕からぴょんっと降りていった。


「掃除婦よ、面倒をかけたな。礼を言う」

「いえ……」


ツッコむタイミング、すっかり逃しちゃったな。

当たり前のように喋ってる。おまけにとても尊大だ。


妖精さん? 神様?

とにかく、何か特別な存在なんだろうけど、やっぱりどこか見覚えがある気が……あっ!


はっとして、ポケットの中から巾着袋を取り出す。

中に入っているのはヴァレリオ様の絵。

あの日、無断で持ち出したキャンバスの切れ端だ。


それにはネコの絵が描かれている。

その子とこのお方? が何だか似ているような気がして。


「……む? むむむむっ!!?」


ネコさんの目の色が変わった――と、思った瞬間。


「きゃっ!!?」


私は勢いよく押し倒された。

手の中から、巾着袋の感触が抜けていく。




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