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冴えない令嬢と呼ばれていた私が、公爵様に溺愛されるまで

作者: 水炎
掲載日:2026/02/05


王立エルディア学園の卒業パーティーの日だった。


会場は美しい音楽と、卒業を迎えた学生たちの笑い声で満ち溢れていた。

華やかな装いに身を包んだ卒業生たちの顔にはときめきと期待が浮かんでいた。


――けれど、その中でただ一人、明らかに場違いな者がいた。


着古してしわだらけになった地味なドレスを身にまとった私の姿は、侍女よりもみすぼらしい。

誰からも祝福の言葉をかけられることなく、孤立したまま皆を眺めている――そんな自分がどんな顔をしているのか、鏡を見ずとも想像がついた。


「お姉様」


すぐ近くから聞こえた明るい声に顔を向けると、妹のデルがいた。


「セレナお姉様、こんなところにいらしたんですね」


優雅に微笑むデルの顔に、私は漠然とした不安を覚えながら答えた。


「うん……どうしたの?」


デルは答えずに私の服装をざっと眺めると、次いで自分のドレスに視線を落とした。

装飾一つない紺色の地味なドレスの私とは対照的に、彼女が身にまとっているのは、公爵令嬢らしい華やかなフリル付きの赤いドレス。

同じロゼンタール公爵家の令嬢とは、とても思えない差だった。

その違いに満足そうな表情を浮かべたデルは、私に近づき、小さく囁いた。


「手袋のリボンがほどけてしまって」


ぼんやりと彼女の手元を見る。


「こういうの、お姉様の方がお上手でしょう?」


――だから、今すぐ結び直しなさい。


無言の命令が、冷たく突き刺さる。


「ええ、わかったわ」


私は素直に答え、彼女の手袋のリボンを結び直した。


そもそも卒業パーティーに出席したのも、デルに頼まれたからだった。


『お姉様、卒業パーティーに出ないって本当ですの?』

『……ええ』

『どうして?』

『ドレスもないし、それに、みんな私のことなんか……』

『お姉様がいないと、私、困ります』


困っている――いや、苛立っているようにも見える彼女に、断ることなどできなかった。


(ずっと私が世話をしてきたから、癖になっているのだろう)


デルは幼い頃から、何かあるたびに私を呼んだ。


『花瓶が割れました。お姉様、片付けて』

『クマのぬいぐるみが病気なの。治して』

『フォークを落としました』


最初は、子どものわがままのようなものだった。

けれど、それは次第に命令となり、強制となった。


『お姉様、苺のケーキが食べたいです。今すぐ』

『こういう課題はお姉様がやった方が早いでしょう?』


デルが食べたいと言えば、メイドたちが寝静まった時間に厨房へ向かった。

デルの難しい宿題は私が代わりにやった。

デルがそう望んだからだ。

誰もそれを不思議に思わなかった。

その理由は、私自身が一番よく知っていた。


――だって私は、

ロゼンタール公爵家の実の娘ではなかったから。


十七歳まで育ててくれた公爵夫妻と、その実の娘であるデルの機嫌を取りながら、私は生きてきた。

それが、この家の養女である私の生き方だったから。


腰をかがめてデルのリボンを結び直す私を見て、周囲がひそひそと囁き始める。


「見て。ロゼンタール公爵家の長女、また妹の世話をしているわ」

「侍女でもあるまいし、下品ですわ。」

「デル様と比べると、セレナ様は冴えないし、陰気よね」

「とても同じ公爵令嬢とは思えませんわ」


棘のある言葉が胸に突き刺さる。

私は熱くなる頬を隠すように、深く俯いた。


(……そう。私とデルは、比べるまでもない)


「学園一の華」と呼ばれるデルとは違って、私には美しい容姿も、特別な才能もない。

だから仕方ないのだと、自分に言い聞かせてきた。

ロゼンタール公爵夫妻に「家の恥」と罵られても。

人々に侮蔑の目を向けられても。


うつむいていた私の耳元に、くすくす笑う声が落ちてくる。

デルだ。


彼女は華やかに微笑みながら、私にだけ聞こえる声で囁いた。


「お姉様は一生、影で私を支えるのがお似合いですわ。それがお姉様の運命ですもの」

「……」

「だからどこにも行かないで。死ぬまで、ずっと私の世話をして生きていくのよ」


悪意に満ちた言葉にも、私は何も返せなかった。

その願いが叶わないことを、私もデルも知っていたから。


私は婚約している。

メイド同然に扱われてきた養女であっても、家の利益のために利用する――養父母の判断だ。

そしてその婚約者は、私にとってデルから逃れる唯一の逃げ道だった。


(もうすぐだわ)


今夜のパーティーが終われば、私は婚約者の家へ移り、花嫁修業を始めることになっている。

数か月後には式。

それから数年は王都から遠い領地で暮らすことになる。


王都へ戻る頃には、デルだって結婚して家を出ているはずだ。

もう、こんなふうに顔を突き合わせて傷つけ合うこともない。


だから大丈夫、もう少しの辛抱だと、

そう思っていた――そのとき。


カツ、カツ、と乾いた靴音が大理石の床に響いた。

こちらへ向かってきたのは、私の婚約者であり、伯爵家の令息であるルーカスだった。


「セレナ・ロゼンタール」


勢いよく名を呼ばれ、顔を上げる。

いつもの穏やかな笑みで「セレナ」と呼んでくれていた彼とは、明らかに違う。

彼のこわばった表情に、違和感を覚えた。


そして彼はためらいもなく宣言した。


「君との婚約を破棄する」


……破棄?


その言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。

しばらく石のように固まっていた私は、ようやく震える唇を動かす。


「ど、どうしてですか……ルーカス様」


政略結婚で、深い情があったわけではない。

けれど、彼との関係が破綻していたわけでもなかった。

それなのに、なぜ今になって。


問いかける私を、ルーカスはさらに不機嫌そうに睨みつけた。


「理由などお前だって知ってるはずだ。今の自分の姿を見てみろ」


彼は値踏みするような目で、私を上から下へと眺めた。

そこで初めて私は自分の姿を意識した。

着古したドレス。そして、みすぼらしい容姿。


『いいですか。婚約中は慎ましい格好を心がけなさい。軽率に男を引き寄せるような真似はしないで』


義母である公爵夫人は、私の生まれつきの外見を「はしたない」と嫌っていた。

そのため、明るい金髪はクルミの殻で黒く染められた。

肌は毎朝、濃い化粧で覆われ、本来の色を隠すようにしていた。

何の飾りもつけられない髪は一つに結われ、滑稽なほど縁が分厚い眼鏡をかけさせられていた。


――そのせいで、私はこれまで一度も、異性から視線を向けられたことがない。


私の外見は徹底的に矯正されたというのに、公爵夫人はデルの艶やかな銀髪と白い肌をそのままにしていた。

もちろん私がそれを口にすることは一度もなかった。

幼い頃から、私を取り巻く世界は、理解できないことばかりだったから。


それでも、今日のルーカスの態度は納得がいかなかった。

外見だけを理由に、婚約破棄?

最初から、私が美しくないことなど分かっていたはずなのに。


(どうして、今さら。)


その疑問に答えるかのように、ルーカスは一切の躊躇もなく、侮蔑の言葉を次々と吐き出した。


「お前は魅力がないだけでなく、特別な取り柄もない。それに、さっき妹の世話をする姿――あれが、貴族令嬢のすることか?」

「……」

「そんな女を、由緒ある我がハルトマン伯爵家がなぜ引き取らねばならない?」


ルーカスはもはや私を見限ったかのようだった。

その視線があまりに屈辱的で、頬が熱くなる。


そのとき、ルーカスの表情がふと変わった。


「可哀想なデルだ。こんな取るに足らない女を、姉だと信じて慕っていたなんて」


彼の視線の先には、デルがいた。

ルーカスは迷いなく彼女の隣へ歩み寄り、自然な仕草でその腰を抱き寄せる。


デルもまた、拒むことなく身を預けた。

彼女は細い眉を哀しげに下げ、囁く。


「ルーカス様……お姉様が至らなくて、ごめんなさい」

「なんて心の広い子なんだ」


ルーカスは愛おしそうにデルを見つめ、感嘆した。


(……そういうことだったのね)


二人の間に流れる空気を察し、私は苦笑いを噛み殺した。

いつから、こんなにも親密になっていたのだろう。


学園で二人が言葉を交わす姿を見たことは、何度かあった。

けれど、気にも留めなかった。


デルはいつも彼を嘲っていたから。


『家柄も外見も、冴えませんわね。お姉様とお似合いですこと』


――それなのに、どうして。


信じがたい状況に戸惑っていると、周囲からくすくすと嘲るような笑い声が聞こえてきた。

婚約破棄される私の姿は、さぞ良い見世物だったのだろう。


いつの間にか音楽もダンスも止まり、会場にいた卒業生たちは、皆こちらを見ていた。


彼らは観客で、私はその前で芸をさせられる猿だった。


両頬が、かっと熱くなる。


逃げ出したかった。

消えてしまいたかった。

ここでなければ、どこでもよかった。


唇を噛みしめ、空っぽになりかけた心で、言葉を絞り出す。


「……婚約破棄のお話、お受けいたします」

「ようやく話が分かったようだな」


ルーカスは、私の答えを聞く前から予想していたかのように、ふっと笑った。


デルは彼に抱かれたまま、斜めに私を見やり、唇を吊り上げる。

そして、声を出さずに口の形だけで告げた。


――言ったでしょう。

一生、私の世話を、して、生きるのよ。


デルが嘲笑に満ちた目で私を見つめた。

彼女の嘲る笑みしか視界に入らなくて、世界が地獄へと変わった気がした。


私は、永遠に救われないのだろうか。

この地獄から、一生抜け出せないのだろうか。


底知れぬ絶望が、全身を絡め取る。

耐えきれず、顔を背けようとした、そのとき。


ふわりと、柔らかなウッディ系の香りが漂った。

同時に、誰かがそっと私の肩に手を回し、隣に立つ。


仕立ての良い白の礼装。

胸元には、黄金の獅子の紋章。


彼の正体を理解するより早く、

澄んだ声が、会場に響き渡った。


「つまり、ロゼンタール嬢は今、婚約者不在ということだな」


驚いて、思わず彼を見上げる。


太陽を思わせる金髪に、湖のように透き通った青い瞳。

私なんかが目を向けていい存在なのか迷ってしまう、その人の名は――

レオナルト・アデリオン。


黄金の獅子を家紋とするアデリオン公爵家は、王国建国の時代から武功を重ね、最大の領地を有する名門だった。


昨年、若くして公爵となった彼は、学園でも令嬢たちの憧れの的だった。


(そんな方が、どうして私に)


「大丈夫か」


我に返り、慌てて頷く。


「は、はい……ありがとうございます」


彼は、私の呆然とした様子にも、穏やかに微笑んだ。

そして、ルーカスとデルへ、無表情のまま視線を向ける。


「婚約を破棄してくれたおかげで、ようやく私が彼女に求婚できる」


……求婚?


彼の口から飛び出した爆弾のような言葉に、私は目を見開く。


驚いたのは、私だけではなかった。


「なぜ……公爵様が、お姉様に……」


デルは今にも石像になりそうなほど硬直し、唇を震わせ、言葉を失っているようだった。

その隣で、ルーカスも呆然と立ち尽くしている。


ざわめいていた会場は、いつの間にか魔法のように静まり返っていた。

先ほどまでとは違う視線が、私と彼に向けられていた。


そのすべてを気にも留めず、レオナルト様は私に向かって手を差し出す。


「これからは、私がエスコートしよう。どうかな、ロゼンタール嬢」


その手が私には触れてはいけないものだと、分かっていた。

なぜ彼がこんなことをするのか、聞くべきだとは分かっていながら――

私はそっと彼の手の上に自分の手を重ねた。

今は彼の真意よりも、ここから離れることを優先したかった。


彼は優しく私の手を握る。

その温もりが胸を締めつけるほどだった。

心臓が早鐘のように打ち始めた。

彼に手を引かれるまま歩き出し、私は無意識にその手を強く握り返していた。

レオナルト様は、まるで運命の光のように私を導いてくれる。


舞踏会場を後にする背後で、デルが床に崩れ落ちる音が微かに聞こえた。


◇◇◇


レオナルト様に導かれた先は、宴会場の外に広がる庭園だった。

浮き立つ会場の空気とは対照的に、春の夜気は静かで、穏やかに落ち着いていた。

甘い花の香りが鼻先をくすぐる中、繋がれたままの彼の手の温もりがどうしても気になった。

何度か迷ってから、ようやく口を開く。


「……あの、手を……」


消え入りそうな声で告げると、


「ああ、すまない」


レオナルト様はそう言って、すぐに手を離した。

私は慌てて手を振った。


「い、いえ。助けていただいて、ありがとうございました」


深く頭を下げると、彼は穏やかに答えた。


「大したことじゃない。困っているのを放っておけなかっただけだ」


その声は、あまりにも落ち着いていた。

何事もなかったかのような態度に、私は一人で先走りすぎていたことを自覚した。

先ほどの求婚めいた言葉は、やはり私の立場を気遣ってくれただけだったのだろうか。


(……まさか、本気で私に求婚するはずがない)


彼とは学園で、必要な場面で何度か言葉を交わしただけだった。

特別な交流があったわけでもないのに、突然の求婚なんて。


それに、レオナルト様には婚約者がいた。

幼いころに行方不明となったというカシア王女。

国王夫妻も探すのを諦めた王女を、レオナルト様だけは今も生きていると信じ、探し続けていると聞いた。

婚約解消を許すという国王の提案すら退け、数え切れない縁談を断りながらただ一人、王女だけを想い続けているロマンティスト。

社交界に疎い私でさえ知っているほど有名な話だった。


だからこそ、誤解も期待もする余地はない。

そう考えるのが当然だった。

レオナルト様はただ、皆の前で辱めを受けていた私を哀れに思って助けてくれただけ。

それだけだ。


彼の優しさをありがたく思い、感謝の気持ちを込めて見つめていた、そのとき。


「ロゼンタール嬢」


低く、穏やかな声で名を呼ばれる。

ふと気づくと、彼の眼差しは先ほどよりもいっそう真剣になっていた。

呼吸がわずかに早まった、その瞬間。

はっきりとした口調で、彼は言った。


「君のことを、ずっと前から見ていた」


――どくん。


心臓が、大きく音を立てた。

揺れる視線で見上げ、思わず聞き返す。


「……私を、ですか?」

「ああ」


返ってきた答えが信じられなかった。

私とは対照的に、彼の視線は真っ直ぐで迷いがない。


「君はいつも人一倍真面目だった。だから、目に留まった」


彼は少し記憶を辿るように間を置いてから、続けた。


「先日のグループ課題で、誰もが嫌がる一番時間のかかる部分を、自ら進んで引き受けていただろう」

「あ……それは、誰かがやらなければならないことでしたから」


私は、おそるおそる答えた。

それはただ、面倒な仕事を引き受けることにあまり抵抗がなかっただけだった。


「その日、皆が帰った後、君が一人で夜まで実習室に残っているのを見た」


驚いて目を見開いたその瞬間、あの日の記憶が蘇る。

あの日は大雨が降っていた。

傘を持っておらず、寮までどう帰ろうかと困っていた。


そのとき、学園の管理人が声をかけてくれた。


『ロゼンタール様、この傘をお持ちください』


妙に上質な生地だと思いながら、学園に備え付けられたものだろうと思い、深く考えなかったけれど――


「もしかして、あの傘は……」

「そう。私が渡した」


彼の答えに、思わず目を丸くした。

そんな形で、気にかけてくれていたなんて。


「ありがとうございます……そこまでしてくださるなんて」

「いや。むしろ、こちらこそ礼を言うべきだ」


彼が、ふっと唇の端を引き上げた。


「君がルーカス・ハルトマン伯爵令息と別れてくれたおかげで、動けるようになった。待った甲斐があった」


その言葉で、パーティー会場での彼の発言が思い出された。


『婚約を破棄してくれたおかげで、ようやく私が彼女に求婚できる』


まさか、あれは本心だったのだろうか。


その瞬間、彼は真剣な眼差しで私を見つめた。

そして、はっきりと告げる。


「ロゼンタール嬢。どうか、私の婚約者になってくれないか」


一言一言が、胸に響いた。

あまりにも確信に満ちたその申し出を、私はすぐには受け止めきれなかった。


「わ、私は……そんな……」


言葉を濁し、彼の視線から逃れる。


理解できないことばかりだった。

今日、レオナルト様に皆の前で助けていただいたこと。

ずっと前から見ていたという言葉。

そして、婚約者になってほしいという申し出。


どれも現実味がなく、まるで夢の中を歩いているような心地だった。

私は視線を落とし、ゆっくりと首を振る。


「私のような者が……公爵様の婚約者になどなれるはずが……」


そう言いながら、自分のみすぼらしい身なりに目を落とす。

こんな醜く、取るに足らない女が、あんなにも素敵な人の隣に立てるはずがない。

あまりにも、不釣り合いだった。


レオナルト様は、しばらく何も言わなかった。

やがて、一歩こちらへと近づいた。


(……近い)


あまりの近さに、思わず息を止める。

心地よいウッディの香りが、ふわりと鼻先をかすめた。


「少し、失礼する」


彼の手が私の髪に触れた時、私はびくっとして肩をこわばらせた。

彼は、両手で私の眼鏡を外した。


「……っ」


突然のことに、目を見開いて彼を見た。

レオナルト様は私の顔を見つめ、静かに呟いた。


「やはり。私の思った通りだ。ずっと美しい」


注がれる視線が、熱い。

行き場を失った私の視線が、宙を彷徨う。


「その厚い化粧も落とせば、さらに良くなるだろう。もちろん、今でも十分に綺麗だが」


生まれて初めて、誰かに「綺麗だ」と言われた。

そういう言葉はデルだけのものだと思っていた。

私は一生、聞くことはないのだと。


(……心臓が、壊れそう)


甘すぎるその言葉に、胸が苦しくなるほど高鳴った。


レオナルト様は穏やかに目を伏せ、私の肩を軽く、ぽんと叩く。


「だから、もう自分を卑下するのはやめてくれ。君は私が知る誰よりも輝いている人だ」

「公爵様……」


私はゆっくりと顔を上げ、彼と視線を合わせた。

気づけば、目元が少し潤んでいた。


(私は……こんな言葉を、ずっと誰かに言ってほしかったのかもしれない)


いつもデルと比べられ、家でも学園でも無能で醜いと蔑まれてきた私。

どこにいても目立たず、輝くことなど一生ないとさえ思っていた。

それが、彼のたった一言で、価値ある人生に変わった気がした。

胸が、いっぱいになった。


愛おしそうに私を見つめながら、レオナルト様は言った。


「我々はずっと昔から繋がっていた。だから、私の婚約者は君だけだ」


その言葉は、どこか意味深だった。

そんなにも長い間、私のことを見つめていたということだろうか。


「今すぐ返事ができないなら、無理をしなくていい」

「……」

「数日後、準備を整えて改めて迎えに来よう」


そう言って彼は私の手を取り、その甲にそっと口づけた。

くすぐったい感触に、顔まで熱くなってしまった。


◇◇◇


その日、レオナルト様はアデリオン公爵家の馬車で私を屋敷まで送ってくださった。

その光景を目撃した養父母とデルは強い衝撃を受けた。


けれど、それは一瞬だけだった。

彼らはすぐに私を呼びつけ、どんなやり取りがあったのかと執拗に問い詰めた。

そして状況を把握すると、今度は逆に、私を責め立て始めた。


『……つまり、お姉様が公爵様に媚びたっていうんですの?婚約者がいたのに?』

『まったく困ったものだわ。この話が伯爵家の耳に入ったら、どう思われることか……』


ルーカスとの婚約破棄は、私がアデリオン公爵を下品に誘惑したせいだ、と。

皆の前でデルと公爵家の名を汚したのだ、と。


そんな言い分を一方的に押しつけられ、「しばらくは謹慎しなさい」と言い渡された。

食事も与えられないまま、光のほとんど入らない寝室に何日も閉じ込められた。


そしてデルは、そんな私を面白がるように嗤った。


『お姉様、知ってます?お父様がアデリオン公爵家へ書状を送ったのに、返事がないんですって』

『……』

『本当に、公爵様に求婚されたの?まさか、全部、お姉様の妄想じゃないですよね?』


デルの言葉を聞いていると、レオナルト様とのことは絶望の中で私が見た夢だったのではないか、とさえ思えてくる。


私の人生が永遠に救われないことは、誰よりも私が知っていたから。

――けれど。


そんな中、思いもよらない出来事が起きた。

アデリオン公爵家から、正式な求婚状が届いたのだ。


「セレナ。アデリオン公爵が、お前に正式な求婚をしてきた」


養父――ロゼンタール公爵の声と表情は、ひどく暗かった。


私はお父様の前に罪人のように立たされた。

お父様の傍には、デルとお母様がいる。


「なぜ、あの時きちんと言わなかった?」


お父様は責めるように尋ねた。


私は確かに「求婚された」と言った。

けれどデルの言葉を信じて私を閉じ込めたのは、他でもないお父様とお母様だ。


……今さらそれを言っても意味がない。

私は黙って、俯いた。


一方デルは、両親の隣に身を寄せ、泣き声交じりに訴えている。


「お母様。これは何かの間違いですわ。お父様、レオナルト様を説得してください。どうして私ではなく、あんな卑しい血筋がアデリオン公爵家へ嫁ぐんですの?」


デルは赤く滲んだ目で私を睨みつけた。

もはや隠す気もなく、剥き出しの侮辱を浴びせてきた。


お母様はそんなデルを撫で、繰り返し宥める。


「大丈夫よ、デル。落ち着きなさい」

「お願いです、お母様。お姉様じゃなくて私がレオナルト様と結婚できるよう、取り計らってくださいませ……ね?」


デルはハンカチを目元に当てながらお母様へ甘えるように言った。

その不可解な願いに、私は責め立てられていることすら忘れ、思わず顔を上げた。


「デル……あなた、ルーカス様のことが好きだったんじゃないの?」


卒業パーティーでデルは、婚約破棄を言い渡したルーカスに寄り添っていた。

誰が見ても恋人同士だったのに――どうして今、レオナルト様と結婚したいと言うの?

私の慎重な問いかけに、デルは鼻で笑った。


「私が? あんな男を?」


デルの顔から、さっきまでの涙の気配は跡形もなく消えていた。


「お姉様もおかしなことを言いますのね。あんな取るに足らない男のどこがいいっていうんです?私があんなところへ嫁ぐわけないでしょう」


そして平然と、言い切った。


「ただ、お姉様が伯爵家へ嫁ぐなんて身の程知らずだと思っただけ。だから邪魔して、壊してやりたかったの」


ふっと、自分でも驚くほど、乾いた笑いが漏れた。


「……今、笑いました?」


いつもなら、反射的に謝っていたはずなのに。

自分の失言を責めていたはずなのに。

けれど今は、そんな気持ちすら湧かなかった。


どれだけ謝っても、どれだけ頭を下げても、

デルにとって私は“壊していいもの”でしかなかった。


ただ気に入らないという理由だけで私の人生を好き勝手に弄ぶデルから逃げられると。

そう信じていた自分が、馬鹿みたいだった。

気づけば、私はスカートの裾を両手で強く握りしめていた。


「ほら見てください、お父様。公爵様に求婚された途端、お姉様が本性を出してるじゃないですか。公爵家に嫁いだら、どれだけ私を見下すつもりなんでしょう」


デルは到底許せないという顔で私を見た。

まるで自分が被害者であるかのように。


「だが、デル」


お父様が口を開く。


「アデリオン公爵はセレナを結婚相手に指名している」


彼は困ったような表情で愛娘を見つめた。

その隣でため息ばかりついていた公爵夫人が、鋭く目を吊り上げた。


「セレナ。いつから公爵様をたぶらかしたの?学園でやるべきこともやらずに、男ばかり誘っていたの?」

「ち、違います、お母様。私は決してそんなこと……」


理不尽さに声が細く震える。

目の前には、誰よりも“被害者の顔”をしたデルがいる。

けれど、本当に苦しくてたまらないのは、私のほうだった。


どうして、私がこんな言葉を浴びせられなければならないの?

なぜ、私はいつも勝手に悪者にされてしまうの?

込み上げる悔しさに、自分でも驚いた。


今まではお母様やデルに罵られても当然のように受け入れていたのに。

私の中に、こんな反発が眠っていたなんて思いもしなかった。


そのとき、ふとレオナルト様の言葉が胸をよぎった。


「だから、もう自分を卑下するのはやめてくれ。君は私が知る誰よりも輝いている人だ」


――あの人が、私の中の何かを変えたのだろうか。

今まで考えもしなかったことが、自然と浮かんできた自分が、少し不思議だった。


「セレナ。あなたの顔には、反省の色がひとかけらも見えないわね」


お母様は、心底気に入らないという顔をする。


「躾が足りなかったのかしら。……また教育室に行きたいと言うの?」


その瞬間、幼い頃から骨の髄に刻まれた恐怖が蘇った。

言動がお母様の気に入らないたび、私は「地下教育室」へ放り込まれた。

罪人を閉じ込める牢のような部屋。

与えられるのは水と、かびの生えたパン切れだけ。

凍える寒さと飢えに苛まれた日々が思い出され、指先が小さく震えた。


青ざめた私の顔を見て、お母様の口元が満足そうに歪む。

その傍で目を赤くしていたデルが、再びねだるように言った。


「お母様。お姉様を身の程に合ったところへ嫁がせてください。ね? ヴァルト侯爵なんてどうでしょう」


ヴァルト侯爵――その名を知らぬ者はいない。

寝室での異常な嗜好で悪名高く、先妻もその虐待に耐えきれず亡くなったと噂される男。

五十を過ぎた今も残虐な嗜好は衰えず、恐ろしい話ばかりが流れてくる。


私は、まさかと思いながら恐る恐るお母様を見た。

彼女は冷たく言い放った。


「それがいいわね」


胸にずしりと重い石を落とされたようだった。

指先が冷え、息がうまく吸えない。


お母様はお父様へ向き直った。


「あなた。セレナは病気だということにして、アデリオン公爵の求婚を断りましょう」

「軽々しいことを言うな。公爵が真実を知った場合、誰がその責を負うつもりだ」


お父様が顔をしかめた。


「だから早く侯爵家と話をつけましょう。侯爵が最近、新しい妻を探しているという話は聞いているでしょう? 上手くやれば――」


そのときだった。

使用人が足早に入ってきて告げる。


「アデリオン公爵様が、お見えになりました」


一瞬で、部屋は静寂に包まれた。

皆が目を見開く中、私も信じられず、使用人を見つめる。


真っ先に口を開いたのは、ロゼンタール公爵だった。


「……すぐにお通ししろ」


デルは慌てて侍女に手鏡を持って来させ、化粧と身なりを整え始めた。


ほどなく、レオナルト様が姿を現した。

レオナルト様は柔らかな微笑みを浮かべ、まず私に向かって声をかけた。


「ロゼンタール嬢。元気にしていたか」

「……はい、公爵様」


私が慌てて礼をすると、彼は優しく目を細めた。

そしてお父様へ視線を向けた途端、その笑みは形だけのものに変わった。


「ご無沙汰しております。ロゼンタール公爵」

「よく来たな、アデリオン公爵。さあ、こちらへ」


お父様は急いでレオナルト様を席へ案内した。

レオナルト様がお父様の向かいに腰を下ろしただけで、空気が張り詰めた。

彼が口を開く。


「求婚状を送ったにもかかわらず、気が急いてしまい、事前にお知らせもせず伺いました。非礼をお許しください、公爵」

「気持ちは分からんでもないが、このような訪ね方は好ましくない。自重していただきたい」

「重ねてお詫び申し上げます」


淡々と頭を下げると、レオナルト様はそのまま本題に入った。


「お察しの通り、求婚状へのお返事を頂きたく参りました」


その視線が、再び私に向く。


「ロゼンタール嬢。考える時間を十分に取らせてあげられず、申し訳ない」


彼が温かな眼差しでそう告げると、お父様が短く咳払いをした。


「実は、ちょうど今、この求婚をどう扱うべきか話していたところでしてな」

「どう扱うべきか……ですか」

「ああ。あまりに予想外のことだったものでね」


レオナルト様が眉をわずかに動かすと、お父様は肩を強張らせ、取り繕うように続けた。


「私の口から言うのも何だが……セレナは社交界で良くない扱いを受けている。それゆえ、こちらとしては、何かの手違いではないかと……」


気まずそうに笑うお父様とは対照的に、レオナルト様は一切笑わず、じっと彼を見つめていた。

その姿は“求婚に来た男”というより、相手の罪を量る裁定者のように鋭かった。


気圧されたように一瞬視線を逸らしたお父様は、小さく息を整え、改めてレオナルト様の顔色をうかがってから口を開いた。


「……まあ、求婚状を送ったのは事実のようだな。だとすれば、セレナについては、すべて承知の上ということか?」

「私が知っておくべきことが、何かありますか?」


その問いに、お父様は少し余裕を取り戻したような様子で続ける。


「後になって、私が公爵を欺いたと恨まれても困るのでな……ここではっきり言っておこう」


彼は、私の表情など一切見ようともせず、冷然と言い放った。


「セレナは養女だ。どこの血とも知れぬ、卑しい血が流れている。容姿も醜く、社交界では疎まれている存在だ」


言葉を重ねるにつれて、レオナルト様の眼差しは鋭さを増していったが、お父様はそれに気づかず、なおも続ける。


「だからこそ、セレナよりも妹のデルと結婚されてはどうかね?あちらはロゼンタール公爵家の正統な血を引き、容姿も優れ、淑女としての教育も十分に受けている。若い公爵にとっても――」

「もういい」


眉をひそめたレオナルト様はお父様を鋭く睨みつけた。


ようやく異変を察したお父様は、慌てたように咳払いを繰り返す。


「求婚者の前で、娘をここまで貶める親がいるとはな」


レオナルト様は、侮蔑の眼差しでお父様とお母様を見下ろした。


「姉妹を比較する言葉だけで、これまで彼女がどれほど差別されてきたかが分かる」


これ以上聞く価値もないと言わんばかりに立ち上がり、彼は低く告げた。


「今この場で口にした言葉、必ず後悔することになるぞ、公爵」

「……後悔、だと?」


お父様は呆然としながらも、どこか怯えた表情でレオナルト様を見上げた。


だがレオナルト様は、もはやお父様を一瞥すらしなかった。

ただ硬い表情のまま、私に向かって手を差し出す。


その手を取って立ち上がると、彼は私の手をしっかりと握りしめた。


「私が愛しているのは、セレナ・ロゼンタール嬢だ。そして、彼女の代わりなど、誰一人として存在しない」


その言葉が、胸に深く響く。

息をすることすら忘れ、高鳴る心臓の音を感じながら、

彼の力強く、甘い告白を胸に刻みつけた。


私を見つめる青い瞳は、熱を帯びて輝いている。

誰にも大切にされなかった私を、真っ直ぐ見つめてくれる人がいる。

それが、ただただ嬉しくて。

この瞬間が、何よりも幸福に思えた。


父と母、そしてデルは、揃って言葉を失い、瞬きすることしかできない。

そんな三人を無機質に見下ろしながら、レオナルト様が静かに告げる。


「公爵が口にした言葉について、一つ、今すぐ訂正しておこう」


呆然とした視線が、一斉に集まった。

そしてレオナルト様は、その中心へ爆弾のような一言を投げ落とす。


「セレナ・ロゼンタール嬢の血が、どこから来たかも分からぬ卑しいものだという話。――それは、公爵の誤解だ」


レオナルト様は静かに言い切った。


「私は、彼女の本当の両親が誰なのかを知っている。もちろん、今もなお、娘を必死に探しておられる」


(……え?)


雷に打たれたような衝撃が、頭を貫いた。

大きく身を震わせた私を気遣うように、レオナルト様は一瞬、心配そうな表情を浮かべる。


皆が目を見開く中、お父様が震える声で問いかけた。


「……それは、本当なのか?」

「そ、そのご両親というのは……?まさか、大した家柄ではないのでしょう?」


これまで圧倒され、言葉を失っていたデルも、不安そうに口を挟む。


レオナルト様は三人を一瞥し、嘲るように小さく笑った。

そして、これまで一度も想像すらしていなかった言葉を告げる。


「貴公らも知らぬはずがない方々だ。あまりに高貴で、名を口にすることすら憚られる存在だよ」


静かに言い切り、彼は私の前へと歩み寄った。


そして――

片膝をつき、私を見上げる。

彼は慎重に、けれどはっきりと告げた。


「長い年月をかけて、ようやくあなたを見つけることができました。遅くなったことを、お許しください。――王女殿下」

「……な、何を……」

「セレナ・ロゼンタール嬢の本当の名は、カシア・ド・エルディア。ご両親は、エルディア王国の国王陛下と王妃陛下です」

「そんな、ありえない!」


真っ先に叫んだのはデルだった。

彼女は今にも倒れそうなほど、顔色を失っていた。

それはお父様もお母様も同じだった。


「セ、セレナが王女殿下だと……?どういうことだ、公爵……」

「な、何かの間違いよ……急に、王女殿下だなんて……」


その言葉に、レオナルト様は冷ややかに答える。


「すでに王室にて、幾度も確認を重ねた事実だ。それでも否定するつもりか?」

「……そ、そんな……」


父は崩れ落ちるように床に座り込み、母は呆然と立ち尽くしていた。

冷たく彼らを見下ろした後、レオナルト様は、今度は私へと視線を向ける。


私もまた、頭が真っ白だった。

あまりに現実離れした話に、すぐには理解が追いつかない。

私が……この、取るに足らない私が、王女?


戸惑う私を落ち着かせるように、彼はそっと手を取り、温もりを伝えてくれる。

そして、静かに語り始めた。


「王女殿下は、十七年前、洗礼式へ向かう途中で行方不明になりました」


それは、私の出生に隠された真実だった。


十七年前。

国王の第一王女、カシア王女は、洗礼式へ向かう道中、盗賊に襲われた。


見つかった時、金目の物はすべて奪われ、馬車は崖下で無残に砕け散っていた。

国王夫妻が王女の死を信じ込んで、捜索を断念したのも無理はなかった。


「私の父――先代アデリオン公爵と国王陛下は旧知の仲で、陛下は第一王女をアデリオン公爵家の後継者と結婚させると約束しておられました」


彼は、私を射抜くように見つめる。


「だから、探し続けていた。私の婚約者を」


その瞬間、以前彼が口にした言葉が頭をよぎる。


『我々はずっと昔から繋がっていた』


――そういうことだったのだ。


私の、本当の婚約者は、最初からレオナルト様だった。

信じがたい事実が次々と押し寄せ、すぐには受け止めきれない。

それでも、私の手を包む彼の大きな手だけは、不思議なほど頼もしかった。

その温もりを心の支えに、私は息を整える。


彼の語りは、静かに続いた。


「私は、自分の婚約者となるはずだった人が、あまりにもあっけなく姿を消してしまったという事実を受け入れられなかった。だからもしかしたらという思いで探し始めた」


レオナルト様は王女の失踪時期に近い頃、新たに保護された孤児の記録を調べていた。

そして失踪の翌日、一つの修道院に女児が預けられていたことを知った。


それが、私だった。

どうやら盗賊の中に、わずかな慈悲を持っていた者がいたらしい。

彼らは馬車を崖へ突き落とす前、赤子だったカシア王女――つまり私を、殺さずに森へ捨てていったのだ。


そんな私を一人の修道女が拾い育て、

七歳になった時には、重税で悪名高かったロゼンタール公爵が体裁のために私を養女として迎えた。


「この国では珍しい金髪と、紫がかった瞳――それは、現国王陛下の面影そのものだ」


彼の言う通り、黒く染められていた私の髪は、根元から本来の金色を覗かせていた。

きっと、それに気づいたのだろう。


レオナルト様は、私の髪にそっと触れる。


「こんなにも、美しく艶やかな髪なのに」


優しく撫でながら、囁いた。


「ようやく取り戻せた。私の、たった一人の王女様」


切実な眼差しが、私を捉える。


「運命で結ばれていたからこそ、最初から目に留まっていたんだ」


その眼差しがあまりにも優しくて、胸の奥がじんわりと溶けていく。


呆然と立ち尽くすデルは、お母様の裾を掴み、呟いた。


「おかしいわ……お母様。私、悪い夢を見ているんですよね?お姉様が……王女殿下だなんて……」


お母様は目を見開き、半ば縋るようにレオナルト様に訴えた。


「そうです、公爵様。何かの間違いでしょう?あんな子が、王女殿下であるはずが……」

「言葉を慎め」


厳しい声で一喝し、レオナルト様はお母様を睨み据えた。


「よくも王女殿下を、そのように侮辱できたものだ。娘を待ち続ける両陛下に、必ず伝えておこう」


お母様の唇がはっきりと震えた。やがて、力なく視線を落とした。


「さあ、王女殿下。ご一緒に王宮へ参りましょう。ご両親が、心からお待ちです」


彼は私の手をしっかりと握ったまま、優しく言った。


その様子を見つめる三人は呆然としていた。

ためらうように、お父様が口を開きかけて私へと手を伸ばす。


「セレナ……」


その手はすぐにレオナルト様に遮られた。

彼は冷然と告げた。


「王女殿下へのこれまでの扱いについては、すでに国王陛下も把握しておられる。処分を待ち、謹慎していろ」


その言葉が意味するものを悟り、三人の顔色が一斉に青ざめた。


私は彼らから目を逸らし、胸の高鳴りを抑えきれないまま、レオナルト様に手を引かれて歩き出した。

――地獄からの解放だった。


◇◇◇


ロゼンタール公爵家は、私への虐待が明るみに出て、完全に没落した。

一家は爵位を剥奪され、平民へと落ちていった。


元婚約者のルーカス・ハルトマンも、姉妹を弄んでいたという噂が広まり、社交界から姿を消した。


レオナルト様と共に王城へ赴き、実の両親――国王陛下と王妃陛下にお会いしたとき、二人は涙ながらに私を抱きしめてくださった。

その姿を見た瞬間、自分でも驚くほど涙が溢れた。

両陛下は、私とレオナルト様の婚姻を祝福し、心から幸せを願ってくださった。


そして私は、レオナルト様の領地へと向かった。

分厚い黒縁の眼鏡も、不自然な厚化粧も、もう必要ない。

代わりに、香り高い香水を身にまとい、丁寧に髪を整えて上質なドレスに身を包んだ。


レオナルト様との結婚式を終えた、その夜。

昼間の祝祭の喧騒とは対照的に、部屋は静寂に包まれていた。

その静けさの中で、扉が開き、レオナルト様が部屋へ入ってきた瞬間――

心臓が大きく跳ねた。


「王女殿下……ようやく、二人きりですね」


まるでこの時をずっと待っていたかのようだった。

恥じらいを覚えながらも、私はずっと気になっていたことを口にする。


「……公爵様。私は、もうあなたの妻です。どうか、敬語はやめてください」


すると彼は、愛おしむように私の髪を撫でた。


「わかった」


そう低く応えてから、穏やかな声で告げる。


「キスするよ」


私が小さく頷くと、彼はまず額に口づけ、

それからゆっくりと、私の唇に唇を重ねた。

温かな感触に、緊張で強張っていた体の力がふっと抜けていった。

彼は私の緊張をほぐすように、髪や背中を優しく撫で、唇や頬に何度も口づけた。


「そんなに震えなくていい」


レオナルト様は私を愛おしげに見つめ、ふっと微笑んだ。


「……まだ、慣れなくて」


視線を伏せる私に、彼は穏やかに言う。


「そのうち、自然と慣れる。これからは、ずっとこの距離だ」


ふと顔を上げた瞬間、吐息が柔らかく混じる。

これ以上近づけないほどの距離。


窓越しに差し込む月光に照らされた彼は、息を呑むほど美しかった。

金色の髪は月明かりを受け、淡く青を帯びて輝いていた。

端正な顔立ちはより一層彫りが深く見える。


こんな姿を、毎日間近で見ていられるなんて――

心臓が持つだろうか。


鼓動が大きすぎて聞こえてしまいそうで、私は思わず息を止めた。

そして小さく、囁く。


「まだ、夢みたいです。すべてが」


レオナルト様は優しい眼差しで私を見つめた。


「夢のような今は、すべて君が当然に手にするはずだったものだ」


その言葉通り、

私は長い回り道を経て、ようやく本来の居場所へ戻ってきた。

これまでの苦難は、今の幸せをより深く味わうためのものだったのかもしれない。

過去の自分を思い、静かに息を整える。


彼は、優しく告げる。


「これからは、何でも君の望むようにしていい」


望むままに。

誰にも責められずに。

そう生きていってもいい。

その許しが、あまりにも大きくて、涙が滲んだ。


「……本当に、いいんですか?」


突然訪れた幸福がまだ少し怖くて、私は恐る恐る問い返した。

彼は、くすっと笑って頷く。


「ああ、もちろんだ。私が責任を取る」


そして、いたずらっぽく付け加えた。


「気に入らない者がいたら、それが私でも、遠慮せず好きなだけ言ってくれていい」

「そんなの、できません」


思わずふふっと笑うと、彼も一緒に笑った。

笑い合ううちに、心が通じ合ったような温かさが広がる。


ふと笑みを消し、彼は私を深い眼差しで見つめ――

軽く私の唇にキスを落とした。


不意のキスに、胸が甘く高鳴った。


「君が失った時間の分まで、必ず幸せにする。カシア」


彼の唇から呼ばれた私の本当の名前に、胸がいっぱいになる。

過去の惨めな私ではなく、新しく生まれ変わった今の私を呼んでくれたのだと分かった。


「はい、公爵様」


私がそう答えると、彼はどこか不満そうに眉を下げた。


「もう夫婦だろう?『公爵様』は、少し堅すぎる気がするな」

「で、では……」


彼は戸惑う私の頬を優しく撫で、促すように囁いた。


「そう。名前で呼んでほしい」


躊躇いながら、私は口を開いた。


「……レオナルト様」

「うん。それでいい」


レオナルト様は満足そうに微笑み、そっと私の頭を撫でた。

その仕草に照れて目を伏せた瞬間、たくましい腕が私を引き寄せた。

彼の胸は、私の小さな体をすっぽりと包み込めるほど広くて――

気づけば、そのまま抱きしめられていた。


そして、彼は私の耳元で低く囁く。


「愛している。君こそが私の運命だ。カシア」


歌のように甘い声が静かに響いてくる。


もう、私は冴えない令嬢ではない。


エルディア王国の王女であり、

レオナルト・アデリオン公爵に溺愛される、

一人の女性――それが、今の私だった。





おわり

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