感情の座標(センチメント・スケール)
「いいか、これは脳が処理する電気信号、つまり『肉体的な苦痛』を定量化する試みだ」
科学者・久我は、自分に言い聞かせるように呟いた。 目の前には、五つの精密センサーを装着した被験者が座っている。久我のチームが開発したデバイスは、注射の鋭痛、EMSの鈍痛、冷感、圧迫、そして灼熱感という五つの刺激を脳内の発火パターンから解析し、共通単位『pain』として算出する。
「よし、キャリブレーション(較正)を開始する。担当、入ってくれ」
扉が開き、看護師の里香が入ってきた。彼女が微笑むと、被験者の肩の力が目に見えて抜ける。 実験は驚くほど順調だった。里香が被験者に触れ、刺激を与えるたび、モニターには極めて安定した波形が描かれる。部位による誤差も、久我が組んだアルゴリズムが次々と「平均値」へ収束させていく。
「完璧だ」と久我は確信した。これで人類は、ようやく他人の痛みを自分のことのように理解できる「共通の物差し」を手に入れるのだ。
しかし、その確信は三週間後の月曜日に崩れ去った。 里香が急病で休み、臨時の男性スタッフが代わりに入った日のことだ。
「……何だ、この数値は」
久我は目を見開いた。被験者は前回と同じ。刺激の強度も同じ。しかし、モニターに表示される『pain』は、前回の1.5倍に跳ね上がっていた。 「機械を点検しろ! 設定が狂っているぞ!」 だが、いくら調べてもデバイスに異常はない。翌日、病欠から復帰した里香が部屋に入った瞬間、跳ね上がっていた数値は魔法のように元の「平均」へと戻った。
久我は愕然とした。調査の結果、驚くべき事実が判明する。被験者たちは、里香に対して信頼と、ある種の恋心を抱いていた。彼女がそばにいるだけで、脳内には多量の幸福物質が分泌され、物理的な痛みを脳が勝手に「書き換えて」いたのだ。
久我は躍起になった。恋愛感情というノイズを排除するため、被験者を管理し、担当者を無機質なロボットに変え、厳格な「標準化」を試みた。 だが、そうすればするほど数値は暴走した。孤独感は痛みを過敏にし、私生活での苛立ちは波形を乱した。科学が追い求めた「純粋な痛み」は、人間の感情という底なし沼に飲み込まれていった。
数ヶ月後。プロジェクトの予算は底をつき、研究室の片付けが始まった。 久我は、自分の腕に最後の一枚のパッチを貼り、モニターを見つめていた。
背後で、里香が片付けの手を止めて声をかける。 「先生、お疲れ様でした。……結局、難しかったですね」
彼女の声を聞いた瞬間、久我の脳内のグラフが、ふわりと跳ねた。何も刺激を与えていないのに、数値は「心の昂り」に呼応して踊っている。
久我は力なく笑い、デバイスのスイッチを切った。
「……ああ。結局、わかったのはこれだけだ。自分の痛みと他人の痛みを比較したかったが、自分の中での感情の強さを数値化するのがやっとだったよ。いつか、本当に比べられる日が来るのかな。……まあ、今はこのへんが限界か」
久我は自嘲気味に笑ったが、翌週、その手元に一通の手紙があった。
それは、言葉を持たない子供の「感情のスパイク」を読み取りたいと願う小児科医や、選手が最高の集中状態に入る瞬間を見極めたいというスポーツトレーナー、そして観客の心が震える瞬間を知りたいと願う映画監督たちからの、熱切な視察依頼だった。
「痛み」を測る物差しとしては失敗した。けれど、この機械は「その人が今、どれだけ心を動かしているか」を映し出す、世界で唯一の鏡になったのだ。
「……まあ、悪い使い道ばかりじゃなさそうだ」
久我は、窓の外の夕焼けを見ながら、次の研究のための新しいファイルを開いた。その顔は、不思議と晴れやかだった。




