遠ざかる
シルビナは心の底から安堵していた。
かつて、三人で笑い会って過ごしていた日々を思い出す。
「じゃあ、もううちに帰れるのね? 私はエヴァンの家に引っ越しちゃったけど、シアがいつでも帰って来れるように、掃除をちゃんとしてあるから、安心してね」
シルビナの笑顔と言葉で、和やかな空気が広がった――かに思えた。
次の瞬間、シアの顔が曇る。
「……シア……?」
「……ごめん。あたし、もうあの家には帰れない」
「え……な、なんで? どうしてそんなことを……」
動揺するシルビナ。
けれど、愛称で呼び合っていたナサニエルとユリシアの様子を見た瞬間、すぐに一つの可能性が浮かんでしまう。
「まさか……」
「……まあ、そういうことになっちゃって……」
シアは赤らめた顔を隠しながら、そっと薬指に嵌められた指輪を見せた。ナサニエルは顔を伏せて隠しているが、耳の赤さでバレバレだ。
(伯爵は、生き別れた奥様を探していた筈じゃあ……? なのに、どうして……?)
驚きと戸惑いが胸を刺す。
ナサニエルの行方不明の妻の事や、貴族と平民という身分の差の問題。
ユリシアがナサニエルとの関係を隠されていた不満。二人が結婚したら、自分たちとは遠い世界の人間になってしまう不安。
胸の中で疑問と否定が渦を巻き、そのまま口から出そうになる。
――だが、姉の照れた横顔がとても可愛くて、幸せそうで。出しかけた言葉をグッと飲み込む。
まだ本当は心の底からは応援できない。
でも、ユリシアが幸せになってくれるなら。
きっと、ユリシアもたくさん考えたんだ。
(私から言えることは何もない)
胸の奥のざわめきを必死に押し殺し、引きつる頬を無理やり笑みに変える。
「……なんておめでたい話かしら! おめでとう、シア。幸せになってね!」
ユリシアとナサニエルが互いに視線を逸らしつつも、幸せオーラを振り撒いていた。
部屋の中は、しばし穏やかな沈黙に包まれた。
その静けさを破ったのは、庭に面した窓の外から響いた子供の笑い声だった。
「……あ、そ、そうだ! あたしまだロディに会ってないの! ルビー、一緒に行きましょ!」
「え、ええ……」
そう言ってユリシアにぐいぐいと腕を引かれるまま、シルビナは庭にいるクロードたちのもとへ向かった。
色とりどりの花が咲き誇る広大な庭。レンガで整えられた道を進むと、開けた場所に出る。設置された噴水の飛沫が陽光を受けて虹を描いていた。
そんな噴水の側で、クロードは日傘を差す女性と、女性によく似た面立ちの少年と遊んでいた。
「ロディ」
「ママ! ……あ、シアおばちゃん!!」
「やあやあ、あたしな可愛いロディ! 久しぶり!!」
ユリシアを見付けたクロードが、ぱあっ! と顔を輝かせる。遊び道具を放り出して、膝を追って腕を広げるユリシアの胸に飛び込んだ。
二人が久しぶりの再会に盛り上がっているところに、日傘を差した女性が子供の手を引いてシズシズと歩み寄る。
「あ、シルビナ。この方はクリストフ様の奥様のアンジェラ様とご子息のヨシュア様。エルと四人で避暑に来てたの」
「は、初めまして、シルビナと申します」
「初めまして。アンジェラ・エーベルと申します。ヨシュア、ご挨拶を」
「ヨシュア・エーベルともうします! 初めまして、うつくしい方!」
「あら……」
流石貴族令息。所作は綺麗だが、些か元気すぎる自己紹介と幼子らしからぬ台詞に驚くシルビナ。はぁ、と頭を抱えて大きなため息を吐いたアンジェラ。
「ごめんなさいね、シルビナさん。夫の影響で、余計な言葉を覚えてしまって……」
「い、いえ、大丈夫です! ヨシュア様はお幾つですか?」
「先月、五歳になりました」
「ママ、ぼく、ヨシュアよりおにいちゃんなんだ!」
「ちょ、ロディ! ヨシュア『様』、よ!」
「構いませんわ。子供同士ですもの、今は身分関係なくさせてあげましょう」
「そうそう。アンジェラ様は心広いからね。簡単には不敬罪にしないからルビーも安心しなよ」
「ユリシア様に至っては、その限りではございませんが?」
「も、申シ訳ゴザイマセン……」
綺麗だが威圧感のある笑顔を向けられたユリシアが小さくトーンダウンしてしまった。
シルビナの頭の中で、『アンジェラ>ユリシア>ナサニエル(?クリストフ)』の構図が出来上がる。
「ありがとうございます、エーベル夫人。クロードのことも見て頂き、感謝しております」
「まあ……。いいのよ、お気になさらないで」
頭を下げるシルビナに、アンジェラは小さな吐息を漏らして優しい笑顔を向けていた。
貴族夫人を前に戦々恐々としていたシルビナだが、心の広いアンジェラにホッとしたのも束の間。
「ねえ、ママ! おうたうたって!」
何の前触れもないクロードの言葉が飛んで来る。大人たちの目が丸くなった。
「え? な、何、突然……どうしたの?」
「だって、ママのうたがいちばんじょうずなのに、ヨシュアがヨシュアのママのほうじょうずっていうの!」
「ほんとのことだもん! お母様が上手だもん!」
「そ、それは比べるようなことじゃないわ。だから喧嘩しないで、仲良くしましょうね?」
「えー!」
「ちょっとくはい歌ってあげたらいいじゃない。実際、ルビー歌上手いし……」
「ちょ、シア! 余計なこと言わないで!」
「僕、クロードのお母様のうたを聞きたいです!」
「ええっ!? も、申し訳ございません、ヨシュア様、私の歌は人に聞かせられるようなものではないので……」
「ママのほうがじょうずだもん! ウソじゃないもん!」
「ロディー……」
確かに、シルビナは子守唄や家事をしている時にふとした瞬間に歌を歌うことがよくあった。だが、あくまで寝かし付けや作業を楽しくする為に歌っていただけで、人様に聞かせるものではない。
不利な状況を覆すべく、情けない声を上げながら助けを求めてアンジェラに視線を送る。
しかし、アンジェラはにっこり笑うと、ユリシアと肩を並べた。
「それでは、私たちは少し離れた所に居ますからね。歌って聞かせてくださいまし」
「ルビーったら、恥ずかしがり屋なんだから~」
「ちょ、待っ……!!」
悪戯な笑みを浮かべながらクロードを下ろすと、シルビナの引き留める手も虚しく、ユリシアとアンジェラはその場を離れて行ってしまった。
残されたシルビナが子供たちを見ると、わくわくした様子で見詰められていた。
「……ちょっとだけね?」
もうこうなったら……子供だけなら……と、覚悟を決めて、ベンチに座って歌い出す。
いつ聞いたのか、覚えのない旋律と歌詞。まるで記憶ではなく、体で覚えているように口ずさむ。
クロードとヨシュアの笑顔に胸の奥が温かくなり、つい調子に乗る。
――突然背後から大きな足音が響いたのはそんな時だ。驚いて振り返ると同時に、物凄い力で肩を掴まれる。
「!? なっ」
「今、歌っていたのは君か?」
肩を掴んでいたのはナサニエルだった。
掴みかかってきたのは彼の方だというのに、驚愕に目を見開いてシルビナに詰め寄ってきていた。
「は、は……?」
「今の歌は君が歌っていたのか?」
「な、なにを……いたっ……」
ぎりぎりと掴まれた肩が軋みを上げ、悲鳴を上げるが、ナサニエルは手加減しない。血走った眼が迫り、掴む手が骨を砕かんばかりに食い込む。
「答えろ、君なのか!?」
「っそ、そうですっ! 私です!」
「そんな、まさか、じゃあ、君は……!!」
「ナサニエル!!」
ナサニエルの力が抜けた瞬間、彼の体はふっと視界から消える。風圧とともに水音が弾け、次に見たときにはナサニエルが噴水の中に落ちていた。
声をかける前にユリシアに手を引かれ、その場を立ち去ることになる。クロードも戸惑った様子でユリシアに手を引かれていた。
「し、シア!? 伯爵様が」
「大丈夫、浅い噴水だから」
そうだけど、そうじゃない。だがユリシアの有無を言わせない歩みと力に何も言えなくなる。
ユリシアは玄関前に控えていた馬車の扉を開けると、押し込むようにシルビナたちを乗せた。
「ちょ、ちょっとシア! 一体どうしたのよ!?」
「ルビー。……もう二度と、ここへ来ても、あの男と会ってもいけない。……あたしが、絶対会わせないようにするから」
決して逆らえぬ重みを宿した声に反して、慈愛に満ちた笑顔を二人に向けられる。
「クロードも、元気でね。……エヴァンとの結婚式、楽しみにしてるから」
言うや否や、ユリシアは素早く扉を閉めた。
「シアッ!?」
馬車が走り出し、慌てて窓を開けて身を乗り出す。段々と小さく、遠くなるユリシアが静かに手を振っていた。
シルビナ編以上。
次回、別視点となります。