秘密
外はエヴァンが言っていた通り、今にも雨が降りそうな湿り気を帯びていた。家まで駆けようとしたものの、すぐに息が切れて歩調を緩める。
途端に、空は待ち構えていたかのように雨をポ降らせ、すぐに叩き付けるような豪雨へと変わっていった。
(……まるで私の心の中みたい……)
なんて自嘲めいた思いを胸に踏み出そうとしたその瞬間――背後から伸びてきた手が口と体を拘束した。
「!?」
驚きに身を捩るが、がっしりと押さえ込まれて動かせるのは視線と足だけ。肘から下も動かせることは動かせるが殆ど無意味だ。
「……女が堂々と一人で出歩くなんざ、平和ボケしてんな、この町」
「良いことじゃねぇか。仕事がし易くて」
聞こえてきた声に、唯一動く目で周りを確認する。前から一人、後ろから顔を覗かせてきたのが一人、シルビナを拘束する男が一人……最低でも三人いるようだ。
「つーか、なんか貧相じゃねぇ? そそられねぇ~」
「そうか? 俺は結構好きだぜぇ」
「容姿なんてどうでもいいだろ。女なんざ穴がありゃ楽しめる」
下卑た笑い声と共に顎を撫でる指先に、体が大きく跳ね上がる。
最悪だ。例え人違いだと伝えることができても、逃がしてもらえる可能性が無くなった。
このままじゃ、助からない――そう悟った瞬間、シルビナは自分が持てる全力で暴れる。
「おやおや、こんなに暴れちゃって可哀想に。でも残念、お嬢さんくらいのか弱さじゃ俺らから逃げらんねーよ」
「さっさとずらかろうぜ。夜は短けーぞ」
「そうだ――」
「――ルビー!!」
ドゴッという鈍い音が轟いた。
シルビナは男の力が一気に抜け、拘束が緩んだのに気付いた。慌てて男を押し退けるが、足が縺れて地面に転がる。
顔を上げた先――崩れ落ちた男の背後に、鬼気迫る表情をしたエヴァン立っていた。
「え……えば……!!」
「てめぇ!」
別の男がナイフを手にエヴァンに襲い掛かる。だが、エヴァンは携えたカンテラで刃を受け流し、拳を突き出す。大木ような腕から繰り出されたパンチは、男の顔面を直撃。男は近くの壁に叩き付けられる。
残る一人は瞬時に力量の差を悟ったのだろう。「逃げるぞ!」と吹き飛ばされた男に声を掛けて一目散に逃げ出した。顔面が潰された男はふらふらながらもその後を追う。シルビナを拘束していた男は動かない。
「ルビー、大丈夫か!?」
「え、エヴァン……エヴァン!!」
駆け寄ってきたエヴァンの腕に縋る。気遣うようなエヴァンの顔を見て一気に安堵の涙が溢れ落ちたシルビナは、彼の胸に身を預けた。
「怪我はないか? 何もされていないか? ごめんな、一人で帰らせるべきじゃなかった」
「わ、私こそ、ごめんっ、なさい……! で、でも、どうして……?」
「あんな悲しい顔の君を放っておけなくて……。雨も強くなってきたから、連れ戻しに来たんだ。来て良かった……」
「ありがとう、エヴァン……! ……そ、そうだ、あの人……! う、動かない……けど……」
「安心してくれ。殴って気絶させただけで、殺しちゃいない」
「よ、良かった……エヴァンが人を殺しちゃったのかと思った……」
顔を上げると、近すぎる距離で彼の真剣な眼差しがあった。自然に視線が絡み、二人の距離はふっと縮まった。
短い口付けの後、エヴァンは照れ隠しのように息を吐いたが、ふと現実を思い出したようにシルビナの背後に転がる男に視線を送る。
「……っと、いけない。あいつを放っておけないな」
力なく地面に転がる暴漢を見て、シルビナは慌てて体を離した。
エヴァンは軽々と男の腕を掴み、ぐいと引き起こす。
ふと、一瞬固まるエヴァン。しかしすぐに持ち物を漁り、ズボンのベルトを外すと手際よく拘束する。
「警邏の詰所は近い。こいつを引き渡してから、一緒に帰ろう。歩けそうか?」
「……うん、大丈夫。ありがとう、エヴァン」
街灯に照らされた石畳を、雨がしとしとと濡らす。
シルビナは今こうして彼の隣を歩けることに、安堵と甘やかな幸福を噛みしめていた。
「ルビー!!」
「! シアっ!!」
警邏の詰所。毛布に包まれ、ホットミルクで体を温めていたシルビナとエヴァン。そこに、仕事に行っていた筈のユリシアが駆け込んで来る。
まるで着の身着のままといった乱れたユリシアの姿を見た瞬間、落ち着いていた涙がまた溢れ出し、ユリシアの胸に飛び込んだ。
「一体どうしたの!? 大丈夫!? 何が起きたの!?」
「うちからの帰り道に、三人組の男に襲われまして……すぐに助けれたので、怪我はありません。だけど、すみません、俺が一人で帰したばっかりに……」
申し訳なさそうに頭を下げるエヴァンに、ぎっ! と睨むユリシア。
「そんな……夜に女の子を一人で帰すなんて信じられない!! 体に怪我はなくても、心に傷つかない訳ないんだからね?!」
「ち、違うのシア! 私が勝手に飛び出したから、エヴァンは悪くないの!」
「でも、ルビー……」
「エヴァンのお陰で、ホントに大丈夫だから……」
今にもエヴァンに掴みかかりそうなユリシアだったが、エヴァンを庇うシルビナを見て気持ちを落ち着かせた。
「……それで? 襲ってきた奴らはどんな奴らだったの?」
「襲った奴の一人は俺が捕まえて、警邏に引き渡してます。……ただ、その襲ってきた奴の格好なんですが……」
「格好……?」
「……黒い仮面を被っていました……」
「黒い仮面……!?」
「黒い仮面だと……!?」
ユリシアに続き、第三者の声が上がる。扉の前に立っていたのはナサニエルだった――次の瞬間、エヴァンがナサニエルに掴み掛かる。突然のことに、ナサニエルはエヴァンに胸ぐらを掴まれたが、振りかぶられた拳は受け止めた。
「っ、なんだ、貴様……」
「あんたがシュタイン伯爵だろ!? あんたの所為でシルビナが襲われたんだぞ!!」
「はあっ……!?」
「ちょ、エヴァン! 落ち着いて! 八つ当たりは止しなよ!」
「八つ当たりじゃない! 『黒い仮面』の暴漢と、こいつがこの町いることを考えるとそうとしか思えません!!」
ユリシア、ナサニエル、エヴァンの三人の間に
張り積めた沈黙が落ちる。それぞれ表情に浮かぶのは、驚きと困惑、そして押し殺した苛立ち。部屋の空気は一気に冷え、次の一言を発せられずにいた。
「……ね、ねえ、シア……黒い仮面と伯爵様の関係って何……? どういうこと……?」
何も知らないシルビナがおずおずと声を漏らした。戸惑いと恐れを含んだその問い掛けは、重苦しい雰囲気を払うに至らず、気まずさだけが残されていた。
「ルビー……。……後で説明するから、今日は帰って休みな」
「で、でも……」
「いいから!」
滅多に声を荒げないユリシアの大声に、ビクッ! と体が跳ねる。ユリシアはすぐに後悔したような顔でシルビナを見るが、やはり何も言わず、ただ視線を落とした。
「……エヴァン、ルビーのこと、宜しくね。……あんたにも、後で説明するから……」
「……わかりました。ルビー、帰ろう」
促されるが、何もわからないまま帰っていいものか――でも、自分がここにいても何にもならないことはシルビナもわかっている。何よりユリシアの思い詰めたような横顔を見ると何も言えなくなり、素直に頷いた。
「送ります」という警邏の言葉に甘え、後ろ髪を引かれる思いをしながら、エヴァンとと共に詰所を後にした。
――だが、詰所を後にしたその夜を境に、ユリシアは姿を見せなくなる。
翌日、代わりにシルビナの元へ届いたのは、『暫くシュタイン伯爵家の別荘で世話になるから心配しないで』という短い手紙だけ。
勤めていた酒場は辞めているし、伯爵家別荘を訪ねても門前で断られるばかりでユリシア本人に会うことは叶わない。手紙のやりとりをすることは出来たので、ユリシアからの便りやお土産を嬉しく思う一方でら心配と不安が募るばかり。
そんな日々の中、支えてくれたのは恋人・エヴァンの存在だった。彼の薦めでパン屋に引っ越し、共に暮らすことになる。
――ユリシアと再会出来たのは、事件から一ヶ月後のことだった。