幸福な日常
三人家族が暮らしているは、港町ゾーイ。
ここは古くから貨物船の停泊地として重宝されていた町だったのだが、二年前に開通した蒸気機関車のお陰で、人や貨物の行き来が一気に増加。
人口もそれに比例するように増え、今や港町ゾーイは国の流通の要となって繁栄の一途を辿っている。
「じゃあ、出発するよ。忘れ物はない?」
「はーい!」
「はぁ~い……」
「……シア、大丈夫?」
「大丈夫……太陽の光が目に痛いだけ……」
「だいじょーぶぅ?」
「大丈夫……さ、時間勿体ないから早く行こう……」
二日酔いだろう、顔色が悪いユリシアを気遣いながら三人は家を出る。
シルビナは姉の様子を気にしながら、クロードと手を繋いで大通りに向かった。
徐々に街の喧騒が大きくなっていき、建物の角を曲がり、大通りに足を一歩踏み入れる。
途端に、街の喧騒が押し寄せてきた。
馬車の車輪が石畳を叩く音、客を呼ぶ商人の掛け声、人々の足音が絶え間なく響く中、子どもたちが駆け抜け、叫び声が路地の奥からもこだまする。行き交う人々のざわめきが混ざり合い、空気は活気に満ちていた。
ここはシルビナの生活圏でもあり、働いている店がある通りでもある。その為、顔見知りの住人たちが自然に声を掛けてくる。
「おや、おはよう三人とも!」「シルビナ! 前に言ってたお花、入荷したよ! 暇があったら取りに来てね!」「きゃー! 今日もクロードちゃんは可愛いー!」「ユリシアは二日酔いかい? 酒も程々にしなよ」
――といった気さくな挨拶が掛けられ、三人はそれぞれ笑顔で返事を返しながら進んでいく。
人々の穏やかな視線と日常の喧騒の中に漂う温かさが、三人を包み込んでいた。
そんな中、とある一角に来るとシルビナはピタリと足を止め、ユリシアの腕を掴む。
「ね、ねえ、シア。私、顔に何か付いてない? 髪も乱れてない? 服も似合ってる?」
「え? あー、付いてない、乱れてない、似合ってる、私の妹はレブリラン王国で一番可愛い」
「もう、シア! 適当に言わないで! ちゃんと見……」
「あー! エヴァンおじちゃんだー!!」
適当に返すユリシアに、眉間に皺を寄せながら抗議しようとしたシルビナ。だが、クロードの元気な声が響いた瞬間、シルビナはガチン! と固まった。その顔はみるみる赤くなっていく。
固まったシルビナの代わりにユリシアが視線を送ると、パン屋の立て看板を立てている大柄な男と、その男の元に駆けていくクロードの姿。
エヴァンはクロードの頭を撫で、二言、三言言葉を交わしたかと思うと、クロードがシルビナを指差した。
途端にバネのように姿勢を伸ばし、特に乱れてもいない髪と衣服を正すエヴァン。
「うわぁ、同じ事してる……ほら、行くよ、ルビー」
「あ、ちょ、待っ……う、うん……」
ユリシアに引きずられるようにエヴァンの前に立つシルビナ。
大柄で武骨な見た目のエヴァンと、小柄で愛らしい見た目のシルビナ――正に美女と野獣のような組み合わせだ。
「お、おはようございます、シルビナさん!」
「お、おはようございます、エヴァンさん……」
「おーい、あたしもいるぞー」
「きょ、今日はいい天気ですね!」
「聞いちゃいねぇ……」
「そ、そうですね! きょ、今日はミッチェルちゃんは?……」
「み、ミチェはまだ上で寝てます。昨日は楽しかったみたいでなかなか寝なかったもので……」
「そ、そうなんですね! ロディも同じで、なかなか寝なかったんですよ」
「お、同じですね! まるで兄妹みた――あ!」
その瞬間、恥ずかしそうに俯いたシルビナの顔も、自身の発言に気付いたエヴァンの顔も赤に染め上がる。いや、顔どころか全身から熱を吹いているように真っ赤で、二人の頭部からボンッと湯気が上がっているようだった。
ミッチェルとは、エヴァンの四歳になる一人娘だ。シルビナの頭には小さな人形のような彼女の姿が浮かぶ。エヴァンに似ず、柔らかく愛らしい瞳と笑顔が可愛らしく、クロードとは本当の兄妹のように仲が良い。
――いつか、本当に兄妹になったらいいな、とは考えていたシルビナには、エヴァンの言葉は嬉しい誤算だった。
「……なんなのこれ……これでまだ付き合ってないの……?」
「ママとおじちゃん、いっつもこんなかんじだよー」
「嘘でしょう? 今時、子供でももっとイチャイチャしてるわよ」
「も、もう、シア! ロディ! な、何を言ってるのよ! エヴァンさんに失礼でしょ! ご、ごめんなさい、エヴァンさん!」
「い、いえ、気にしてません。寧ろ、ユリシアさんの言う通り、情けない男で申し訳ないというかなんというか……」
二人の世界に入っている横で、呆れた様子のユリシアと無邪気に暴露するクロード。
慌てて謝るシルビナだが、エヴァンは気分を害した様子はなく、それどころから照れ臭そうに頬をかいて笑っていた。
見た目に似合わない優しい笑顔に、シルビナの胸は締め付けられたようなときめきを覚える。
「ホラホラ、すぐに二人の世界に入らない。あーあ、あたしも恋人欲しいなぁ~」
「シア! わ、私とエヴァンさんは恋人なんかじゃあ……!!」
「そう思ってるのは二人だけ~。この町のみぃんな、あんたらのこと恋人同士だと思ってるわよ。さ、ロディ。時間勿体ないから先に言っちゃおうね~。じゃあね、エヴァン」
「うん! おじちゃん、またね!」
「え、ちょっと待って、シア! それどういう……!?」
爆弾発言を残し、クロードと共にそそくさと先に進んでしまったユリシア。
追い掛けたくとも、目の前の男に無作法ところは見せたくない。
ユリシアの言葉のフォローをする為に口を開きかけるが、『恋人』という響きが堪らなく嬉しいものであるのは否定できず、またそうでありたいという強い願望があることも否めない。
「ご、ごめんなさい、エヴァンさん。姉が失礼なことばかりで……」
「い、いえ、謝らないでください。ユリシアさんなりに俺に発破をかけてるんだと思ってるんで……。みんなにそう思われてるなら、それはそれで勇気が出るし……」
「え……?」
「ママー! おいてっちゃうよー!」
「あ、あら、大変! 今行くわ! ……そ、それじゃあ、エヴァンさん、また……」
「あ、あの、こ、今度の休みの日、出掛けませんか!? ふ、二人で!」
言葉の真意が気にかかるものの、今日は用事がある。シルビナは別れの言葉を口にしようとした。
だが、エヴァンからの唐突な申し出に言葉は遮られる。エヴァンは真剣な表情で、真っ直ぐシルビナの目を見つめていた。
シルビナの心臓が大きく跳ね上がり、ドクドクと早鐘を打つ。
そんな目で見詰められたら、断れない――いや、元よりシルビナが彼からの申し出を断る理由なんて存在していない。
エヴァンの目を見詰めながら、心の底からの喜びを表した笑顔で答えて見せる。
「はい…! 勿論……!」
「ママー! はやくきてえー!」
二人の甘い空気は、遠くから急かす息子の声に掻き消される。見詰めあっていた二人は、慌てて現実に帰ってきたように動き出した。
「あ、足止めさせてしまってすいません。日にちとかはまた今度、店に行ったときに決めましょう」
「は、はい、ありがとうございます。……お店に来るの、楽しみにしていますね」
そうして、二人は互いに名残惜しさを漂わせながら、ようやく背を向け合った。
そうしたシルビナの視界に、ユリシアに抱っこされながらもバタバタと暴れているクロードの姿が飛び込んできた。
「ままぁー!」
「ルビー! 早く来て! このままじゃあたし誘拐犯に間違えられちゃう!!」
「ま、待って! 今行くから!」
慌てて二人の元に駆け寄り、クロードを受け取る。暴れていたクロードだが、シルビナの腕に抱かれると大人しくなってシルビナの首に腕を回す。素直に甘える息子の愛くるしさに、愛おしさが込み上げたシルビナは、クロードの小さな体を優しく抱き締めた。
「まークロードは甘えん坊さんだこと。クロードも私にもっと甘えなさいよねぇ」
「やだ! ママがいい! ママだいすきだもん!」
「あら、クロードったら。ママもクロード大好きだから嬉しいわ」
「ルビ~あたしはぁ?」
「もう、シアったら。勿論、シアも大好きよ! シアは?」
「私もルビー大好き~! あーあたしの妹世界一可愛い~!!」
クロードの温もりと、シルビナの笑顔に包まれ、シルビナの胸は言葉にできないほど満たされる。
三人の何でもない日常は、かけがえのない幸福に包まれていた。