顕影
遅くなってすみませんでした。
体調を崩してました。申し訳ないですが、以降も遅いです。
それから数日間、ナサニエルはトゥルク伯爵領領主町にて【無貌の黒面衆】討伐完了の報告書と尋問に追われた。
港町ゾーイの別荘に戻れたのは、二週間後のことだった。
その日、二人は庭園の奥にある四阿で向かい合っていた。
手入れをされ季節の花々が咲き誇り、木々の隙間から差す光が、二人の間を柔らかく揺れている。
「帰路の襲撃は、討伐した襲撃者たちとアジトに残っていた人数の確認漏れ、情報伝達の遅れ故の不幸な事件だった。
万が一を考えて護衛騎士を付けていなかったら、僕達の命は危なかっただろうね」
「そう……」
「尋問から得た情報と密偵から得ていた情報を合わせ、今度こそ【無貌の黒面衆】の完全消滅が確定された。だからリシー、もう、安心していいんだよ」
「……そう、ね。もう、何もかも、本当に終わったのよね」
話している間、ずっと心ここに非ずだったユリシア。その声は淡々としていた。けれども、その顔には安堵の色が浮かんでいた。
「ちゃんと、片を付けられたんだもの。ありがとう、エル。これでもう、私たちに恐れるものはないわ」
そう言って微笑むユリシアの顔は、久しぶりに晴れやかだった。
曇りの切れ間から差す光のようなその笑顔を見た瞬間、ナサニエルの胸に熱が広がる。
(い、今だ。今しかない……!!)
彼女の強い瞳に心奪われた時からずっと夢を見続けて、この時のために密かにずっと準備していたこと。領主町を出てからずっとそのことだけを考え続け、今こうして顛末を語る間も実は心臓が口から飛び出しそうだった。
「……今回の件を機に、僕とクリストフは王都に呼ばれることなった。
流石にもう陞爵されることはないけど、報奨や勲章を得る。
そして、そのまま領地に戻ることになるだろう。
――……だから、リシー」
言いながら、ナサニエルはユリシアの前に膝を突く。見開かれた大粒の黒真珠のような瞳の前に、ポケットから取り出した指輪ケースを差し出す。
「僕と、結婚して欲しい」
蓋を開くと、陽光を受けて小さなダイヤが煌めいた。
ナサニエルの手は小刻みに震え、鼓動が痛いほどに胸を打つ。
だが――ユリシアは黙ったままだった。
長い沈黙が落ちる。風の音さえ、遠く感じるほどに。
極度の緊張と恥ずかしさから顔を上げられず、ユリシアがどんな顔をしてどんな思考を巡らせているかわからなかった。
「……あたしでいいの? 平民だし、酒場の女よ?」
「! 構わない! 僕だって元は平民だ! それに――恥ずかしい話だけど、初恋に固執して相手を蔑ろにしていた僕と結婚したがる相手はいないんだ」
暫くして、ようやく口にしたユリシアの口調はとても静かで落ち着いていた。返答する為に顔を上げるが、今だ視線はユリシアの足元から上げれない。
「そ、それに、パーティーでも君は人々の注目の的で、称賛の嵐だったと聞いている。
リシーなら、貴族社会に溶け込めると信じている。
いや、そもそも僕はそこまでパーティーが好きじゃないから、僕を理由にして無理に人付き合いをしなくてもいい。
リシーに無理はさせないし、リシー願いならなんでも叶えると誓うよ。だっ、だから……!!」
勢い良く顔を上げる。
ようやくユリシアの顔を見る――瞳を潤ませ、頬を染め、唇は微かに震えていた。
「今度は絶対に失敗しないと誓う! 君と幸せな家庭を築きたい! だから――どうか、僕と結婚してください!!」
ユリシアの瞳から、ポロ、と涙が溢れ頬を伝い落ちた。
綺麗な涙を眼にして、ナサニエルの胸の奥が更に熱くなる。
彼女の答えが、今後の自身の人生を大きく左右する。だからこそナサニエルは『はい』以外の言葉を聞くつもりはなかった。
「……………………はい」
「! リシー!!」
小さく、それでも確かに頷いたその声と、包まれる手。
その温もりに触れた瞬間、胸の奥から溢れるほどの幸福が広がって――ナサニエルは、溢れ出る衝動のままに細く小さな体を大きな体で包み込む。
「ありがとう、リシー!」
これほど幸福な瞬間は、もう二度訪れないだろう。ナサニエルはようやく幸福のスタートラインに立ったのだと、心の中で強く感じていた。
――その後、ユリシアは事件の終息とナサニエルとの婚姻を伝えるために、妹であるシルビナを館に呼び寄せた。
シルビナはユリシアの結婚を聞いて一瞬寂しそうにしていたが、大好きな姉が愛し合って結婚することに喜びを露にしていた。
「シルビナ嬢、近々小さな式を挙げることになったんだって」
庭にいる子供たちと合流したユリシアとシルビナを客室で眺めていたナサニエルに、いつの間にか入室していたクリストフが声を掛けた。
「へえ、そうなのか」
無事何事もなく妹からの結婚の許可が降りて、浮き足立っているナサニエルの返答はそんな軽いものだった。
「そうなのか、じゃない。シルビナ嬢は義妹になるんだり贈り物とか祝辞とか色々考えなきゃいけないぞ」
「ああ、そうか。成程な。わかった、考えておくよ」
子供たちと戯れるユリシアに見惚れていたナサニエルだったが、強い視線を感じて振り返る。クリストフは眉間に皺を寄せ、難しい顔をしていた。
「なんだよ、何か言いたいことがあるのか?」
「……いいや、別に」
「まさか、今更この結婚に反対するなんて言わないだろうな? 言っておくけど、この事はもう父さんに連絡済みだからな、取り消すことはできないし、絶対しないぞ」
「わかってる。うちの親からも祝いの言葉が届いてる。もう何があっても後戻りなんて出来ない。そうだろう?」
「そういうことだ。わかってるなら、幼馴染みの結婚を祝福する雰囲気を出せ」
クリストフの何故か煮え切らない態度に疑問と不快感を覚えた時だった。
――風に乗って、懐かしい旋律が届いた。
なんと言っているかわからない不思議な歌詞。
(この歌……この旋律は……!)
時間が逆流していくようだった。
あの時に嗅いだ花の香りが鼻腔を擽った気がする。
眩しい日差しの下、妖精のような愛らしい姿が脳裏を支配する。
気がつけば、ナサニエルは窓枠を飛び越え、歌声に向かって走り出していた。
走って走って。庭園のベンチに座る灰色の後ろ姿が目に入る。
歌声は、間違いなく、彼女から――。
ナサニエルは、シルビナの肩を掴むと顔を突き合わせた。
記憶にはない色と、苦労の滲んだ垢抜けない野暮ったい容姿。
だが、よくよく見れば、あの時に見掛けた少女の面影を忍ばせる幼い顔立ちをしていることに気付いた。
ひゅっ、と喉が詰まる。
頭の中は真っ白だというのに、自然と口から言葉が溢れる。
「今、歌っていたのは君か?」
「は、は……?」
「今の歌は君が歌っていたのか?」
「な、なにを……いたっ……」
知らず知らず、シルビナの両肩を掴むナサニエルの手に力が入る。だが、小さな小さな抗議の声は衝撃と戸惑いに支配されたナサニエルは届かない。ただ、思うままに声を荒げる。
「答えろ、君なのか!?」
「っそ、そうですっ! 私です!」
「そんな、まさか、じゃあ、君は……!!」
どうして。
どうして気付かなかったのだろう。
ナサニエルの初恋で。
一度は手にして愚かな過ちによって永遠に失われ。
もう二度と会えないと思っていた、笑顔の美しいあの少女。
(こんな、こんな近くに、いや、とっくの昔に再会していたなんて……!!)
体の奥から熱が湧き上がり、頭の中が真っ白になる。
理性も礼節も、もうどこかへ消えていた。
歓喜に震えるナサニエルが、ふっ、と全身の力を抜いた、その時だった。
「ナサニエル!!」
ドンッ! と強い衝撃を上半身に食らう。油断していたナサニエルの体は、その力に圧されるがまま、なんの抵抗も出来ず、噴水の縁を越え、頭から水面に飛び込んだ。
その瞬間は、ナサニエルにはとてもゆっくりに見えていた。
鬼気迫る表情で自分を押したであろうユリシア。
その瞳には、怒りでも悲しみでもなく――
言いようのない恐怖が宿っていた。
ナサニエルが愛した女性で、結婚の約束をして、一緒に故郷に帰る約束を交わした女性。
――だが、ナサニエルが見ていたのは、怯えた表情をしている、灰色の女性で。
(アリ……!!)
彼女の名前を心の中で叫ぼうとしたナサニエルだったが、後頭部に強い衝撃を受け、意識を失った。
お読みいただき、ありがとうございます。
次回からユリシア編です。長くならないように努めます。




