過去
現状、関係性のないナサニエルが牢屋に入ることはできない。だから彼は身分を明かし、金品を握らせる。重々しい鍵が開放されると、ナサニエルは牢へと向かう階段を降りた。
冷たく苔臭い石牢の一つに、その男は入っていた。粗末な寝台で俯いていたが、足音に上げられた顔は、やはり酒場で見掛けたそれだった。
「……テメェ!」
カンテラの明るさに眩しそうに目を細めていたが、そこにいたのがナサニエルと認識すると、勢いよく駆け寄ってくるが、格子に阻まれる。
「くそが! テメーの所為で俺は! 俺達は!!」
「……僕のことを知っているのか?」
「ったりめーだろ! 四年前のこと、俺達は忘れてねぇぞ!!」
「……やはり、【無貌の黒面衆】か」
男の悪人面に、黒い仮面の影を思い起こす。
「自分達の行いの報いだ。僕を恨まれても困る」
「うるせぇ!」
男は格子を蹴り上げたが、頑丈な格子はびくともしない。けたたましい金属音だけが虚しく響き渡った。
「……白い髪の女を襲った理由はなんだ?」
「はっ! アレはついでだ。別の女に用があったんだが、テメェに邪魔されたからな。景気付けに遊ぼうとしただけだ」
「……クズが」
汚いものを見るような目で見るナサニエルに対し、男は全く気にした様子もなく鼻で笑った。
「酒場の女はテメーの女か?」
「……だとしたら、なんだ?」
「へぇ……そりゃあ、都合がいいなぁ」
にたぁと嗤う顔に冷たいものが走る。
自身の軽率な返答に舌打ち、低い声で尋ねた。
「何をするつもりだ?」
「わかんだろ。復讐と、俺達の復活だよ」
「どういうことだ!?」
怒りが一瞬で押し寄せ、ナサニエルは格子を掴み声を張り上げた。男は下卑た笑みを浮かべた顔を近づけたかと思うと、ナサニエルの顔目掛けて唾を飛ばされる。鼻を突く悪臭に顔を歪め、すぐに拭い取る。
「死んでも言わねぇ。あとは兄弟がうまくやってくれるからよ、楽しみに待ってろ、バーカ!!」
そう言うと男はベッドに体を投げ出し、明らかにこれ以上の会話を拒むように背を向ける。ナサニエルは奥歯を噛みしめ、抑えきれない怒りと無力感を感じながら踵を返した。
「――ユリシア嬢?」
階段を昇りきった部屋で、ユリシアは壁に寄り掛かるようにして待っていた。
「……奴との話は」
「聞こえてた」
ユリシアの声は淡々としているが、体は僅かに震えていた。
「……あたしも、手伝うよ」
「手伝うって……何を?」
顔を上げたユリシアは、覚悟を決めた表情でナサニエルを見つめた。
「あいつらは復讐を企んでるでしょ? その手段に、あたしを使おうと思っている。だったら、あたしを囮にすればいい。そうすれば、一網打尽にできる」
「な……何を馬鹿なことを! そんなことできるわけない!!」
ナサニエルは思わず声を荒げた。手の先が震い、言葉に力が籠るのを止められない。ユリシアの言葉を思い切り否定したい、その一心だった。
「どうして? あたしはルビーに酷い目に遭わせた奴らに復讐ができるし、あんたは心残りを断ち切れる。良い機会じゃない」
「それはっ……そうかもしれない……だ、だが、僕は、君を危険な目に遭わせたくないんだ」
ナサニエルは、どうしてもユリシアを引き止めたかった。思い余って、彼は彼女を抱き締める。
彼女の髪が胸に擦れ、体の硬さが伝わってくる――拒絶でもなく、屈服でもなく、ただ静かな覚悟の硬さ。
「……あたしは、アリシアじゃないわよ」
その名を聞いた途端、ナサニエルの胸を鈍い痛みが突き抜けた。
アリシア。
ナサニエルの初恋の人で。
ナサニエルの大きな過ちにより、失われた妻。
十一年前、母の弔いの為に、王都の教会の庭で、偶然目にした少女に一目で恋に落ちた。
白いワンピースに身を包み、ひっそりと花壇にしゃがみ込んでいたその姿は、まるで妖精のように愛らしく、清らかで。花を見て嬉しそうに微笑みながら、不思議な旋律で歌う横顔に、気付けば心を奪われていた。
声を掛けようとしたが、あまりの緊張から一歩も動けず。その内娘は美しい花を求めるように、踊るかのように軽やかな足取りで奥へ奥へと入り込んでしまい、そのまま二度と現れなかった。
その後何度教会に足を運んでも、誰に聞いても娘に会えるに至らず、名前も身分も知らぬままで――ナサニエルは娘に声を掛けなかったことを後悔することになる。
そんなナサニエルが、ロックス男爵家の長女アリシアとの婚約、結婚したのは少女と出会って僅か一月後の出来事だった。
理由は二つ。
ロックス家は爵位は低いが長く続いた名家で、血統とコネが広いこと。
シュタイン家が急速に力を持ったことで、『このままでは新興貴族が暴走する』と古参貴族が警戒したこと。
締結すれば、シュタイン家は子爵家に陞爵させることができて貴族社会での立場を固められ、ロックス家は経済的に救われることとなる。家同士としては決して悪い話ではない。
だが、貴族の女嫌いであり、恋をしている相手がいるナサニエルには、決して受け入れられることではなかった。
それでも、一族の願いである鉄道事業普及と王命には逆らえない。
ナサニエルの意思は全く考慮されないまま、ロックス家の強い希望で婚約と同年に結婚することになる。
式当日は大人しくしていたものの、花嫁の顔も見ず、声も掛けず、誓いのキスもしない、不満ばかりの結婚。
そんな相手だ、ナサニエルはアリシアに関わろうとしなかった。
学園卒業後、騎士として王都に住まい、アリシアはシュタイン伯爵領に放置。手紙も着ていたが放置し、社交界嫌い故にパーティーも出ず、ひたすら騎士職務を全うしていた。
ナサニエルが二度目の恋をしたのは、アリシアと結婚して二年後のことだった。
鮮やかな黒髪が一目惚れの君と酷似していたから。
笑顔がどことなく彼女に似ている気がしたから。
教会に通っていた時期があるかとの問いに、『ある』と答えたから。
歌っていたのは君だったのかという問いに『そう』と答えたから。
それだけの理由で、娘を一目惚れした娘だと結び付けてしまった。
ナサニエルはアリシアとの離婚を決意。三年子無しで離縁するのは貴族社会では正当な理由となる。
ナサニエルはアリシアに初めて手紙を出した。
『僕はこれからも君を愛するつもりはないし、家族になるつもりもない。本当に愛する者と再会できたので、彼女と結婚する。来年、君とは離縁して家を出てもらうから、今の内に準備しておくように』
――それから半年後、結婚の準備の為に訪れた
教会で、声を掛けてきた老齢のシスターがいた。
『貴方様は、アリシアお嬢様の旦那様ですよね?
……ああ、はい、私はアリシアお嬢様の乳母であり、お嬢様が結婚する前まで世話をしていた者でございます。アリシアお嬢様はお元気でしょうか?
アリシアお嬢様はお可哀想な方で、七歳の頃に事故で母上様と赤ん坊だった弟を亡くされてからは心身が弱ってしまって、十年もの間ここで暮らしておりました。
……ええ、ええ。ここ、教会でございます。
……少し、その、心の方も患っておりましたので、それを厭うたお父上様に、ここに預けられたのでございます。
花と歌がお好きな方でして、よくこちらで歌っておりました。懐かしいことです。
……え?
……いえ、そちらの女性は、私は見掛けたことはございませんねぇ……』
娘の嘘と、一目惚れの君の正体が明かされたのである。
アリシアのことを調べ、シスターの言葉の裏付け取り、真実を悟る。
嘘つき娘とは別れ、領地に戻ったが、彼女の姿はもう何処にもなかった。
アリシアはロックス家から付いてきた侍女と共に姿を消していた。
慌ててロックス家に連絡を取った。だが、ロックス家は梨の礫……それどころか探す様子もなかった。シスターの話と合わせると、アリシアがどのような扱いをされていたかは簡単に想像が付く。ならば心当たりを……と思ったが、ナサニエルには彼女の仲の良かった友人のことなど、知るよしもなかった。
そんな最中で起きた【無貌の黒面衆】の本拠地討伐。回収された宝の中にアリシアの物と思われる家紋の刻まれたブローチが発見されたのである。
これにより、アリシア・シュタイン子爵夫人は死んだと公表されたのである。
だが、ナサニエルはアリシアの死体を見るまでは諦められずにいた。
――今の、今までは。




