秘密
闇に包まれた室内で、衣擦れの音だけが静かに響く。上体を起こしたユリシアが、枕元のランプに火を灯す様子を、ナサニエルはぼんやりと見つめていた。
ランプを灯し、振り返ったユリシアと目が合う。ユリシアは目を細め、蠱惑的に微笑むと、ナサニエルに覆い被さるように唇同士を重ね合わせた。
「……ナサニエル様って、もしかして本当は男の方が好きとか?」
「なっ!?」
鼻先が触れあう距離で告げられた突拍子もない台詞に、ナサニエルの顔は真っ赤になって固まった。
「な、な、な……」
「何でって? 最初から最後まで私がリードしてたじゃない。あんたの美貌で慣れてないってのはかなりの朴念仁か、女嫌いでしょ」
「そ、それ、は……」
動揺する胸に、幼い日の記憶が浮かぶ。
十歳の頃、父が男爵位を賜ったことで家は貴族の列に加わったが、ナサニエルたち一家は由緒ある貴族たちから『平民出の成り上がり』と蔑まれる。
だがこれは、歴史があるだけで功績のない、頭の固い貴族たちのやっかみだ。その証拠に、事業に投資してくれている貴族や、同じような過去を持つ貴族たちからは父やナサニエルは好意的に受け入れられていた。
――だが、母は、違った。
ナサニエルの母は、金髪碧眼の美しい人だった。
その美貌は社交界に出た途端に注目され、一躍時の人となる。平民出とは思えない美貌、知識、洗練された礼儀作法に男たちはナサニエルの母の虜となった。
それが、夫人たちの怒りを買った。
夫たちが他人の妻の美しさを褒めそやす――平民上がりの女を、だ。自分たちが一番美しいと思い込んでいる女たちは嫉妬し、ナサニエルの母を攻撃した。
ナサニエルの母は、外見が美しいだけで、中身は至って普通の家族思い女だった。
夫人たちの陰湿で冷酷な嫌がらせに耐え切れず、体調を崩して衰弱……そのまま、命を失った。ナサニエルが十四歳の頃だった。
そんな絶世の美女の血を色濃く受け継ぐナサニエルをまた、美しい少年だった。
美貌を有し、金も名誉もある。周りにはそれを狙って近づく令嬢が殆どが多かった
令嬢同士が、互いに蹴落とし合い、派閥を作り、嘘を流して、彼を巡って争う醜さは、母を追い詰めた女たちと重なる。
ナサニエルにとって、貴族の女は母を殺した敵だった。
――過ぎた日々を思い出し、静かに瞼を閉じる。
「……別に、女が嫌いって訳じゃない。貴族の女が嫌いなだけだ」
「……ふぅん。でも、アリシアだっけ? 奥さんは貴族令嬢だったんでしょ? よく結婚したわね」
「――それは」
その時だった。部屋の扉が叩かれる。
「ユリシア、ユリシア……!」と小さいが必死に呼び掛ける声とノック音。ユリシアは訝しげな顔をしながら壁に掛けていたローブを羽織り、部屋の扉を少し開けた。
「何よ、どうし」
「ユリシア、大変よ! シルビナが……」
「……えっ!?」
ヒソヒソと小さな声で話していたユリシアが一際大きな声を上げた。扉を閉めると、すぐさまローブを脱ぎ捨て、着ていたドレスに着替え始める。
「ユリシア嬢?」
「悪いけど、今日はこれでおしまい。お金は半額でいいわ」
「ま、待て、どうしたんだ? シルビナと聞こえたが、妹君に何かあったのか?」
「……そうなの。だから、行かなきゃ」
「ま、待ってくれ。一人じゃ危ない、僕も行こう」
ベッドから下り、ナサニエルも服を身に付ける。振り返ったユリシアの瞳が一瞬だけ揺れた。
「……好きにすれば」
普段の軽やかな笑みは消え、妹への心配と焦りが刻まれていた。
外套を羽織り、二人で外に出る。知らない間に雨が降っていたようで、湿った空気が穏やかな風に乗って頬を撫でた。
ユリシアを待っていた警邏の人間と共に、足早に詰所に向かう。ユリシアは真っ直ぐ建物の中に入って行った。
ナサニエルも後を追おうとしたが、拘束され、連行されていく男の姿を見つけて立ち止まる。
見間違いでなければそれは、つい数時間前、酒場でユリシアを殴りかかろうとしていた男のように見えた。
道中では聞くに聞けない空気だった為、事態の確認も兼ねて手近にいた警邏に声を掛ける。
「何が起きたんだ?」
「ああ、シルビナさんが一人で歩いていた所を、三人組の男に襲われたみたいでね。一人はああして捕まえたんだが、二人には逃げられてしまってな、今捜索中なんだ。あんた、あの姉妹の知り合いかい? なんか知ってるか?」
「夜道を一人で? なんと危険な……」
警邏に酒場の出来事を話し、覚えてる限りの特徴を伝えてからようやくユリシアを追う。
詰所の一室。扉を開けた途端、耳に飛び込んできたのは――
「黒い仮面……!?」
「黒い仮面だと……!?」
思わず声に出る。
その場にいたユリシア、シルビナ、そしてシルビナを支えるように肩を抱くブロンドヘアの男の視線がナサニエルに注がれた。
かと思えば、ブロンドヘアの男に掴み掛かられ、拳を振り上げられる。突然のことだったが、すぐに体勢を整え直し、拳を寸前で受け止める。
「っ、なんだ、貴様……」
「あんたがシュタイン伯爵だろ!? あんたの所為でシルビナが襲われたんだぞ!!」
「はあっ……!?」
男を振り払いながら、ナサニエルは睨み返す。
「ちょ、エヴァン! 落ち着いて! 八つ当たりは止しなよ!」
「八つ当たりじゃない! 『黒い仮面』の暴漢と、こいつがこの町いることを考えるとそうとしか思えません!!」
黒い仮面――それは四年前、シュタイン家が伯爵に陞爵するに至った事件に深く関わっていた。
かつて、王国貴族を長い間騒がせていた【無貌の黒面衆】という盗賊団がいた。名前の通り黒い仮面を被って犯行を行い、痕跡一つ残さず消える彼らに、貴族たちは頭を悩まされていた。
そんな盗賊団のアジトがシュタイン領にあることを知ったナサニエルは、都から派遣された騎士団を率いて、盗賊団を見事討伐したのである。
しかし残念ながら取り逃がした残党もいて、目下捜索中だったのだが……。
(……まさか、あの三人組が残党だったとは……)
「……ね、ねえ、シア……黒い仮面と伯爵様の関係って何……? どういうこと……?」
「ルビー……。……後で説明するから、今日は帰って休みな」
「で、でも……」
「いいから!」
ユリシアを見る。強い口調でシルビナを突き放したにも関わらず、その顔色は悪く、冷や汗を掻いていた。
「……エヴァン、ルビーのこと、宜しくね。……あんたにも、後で説明するから……」
「……わかりました。ルビー、帰ろう」
ブロンドヘアの男――エヴァンは、シルビナを支えながら、静かに部屋を出ていった。
その背中をナサニエルは、無意識に見送る。
先程まで自分に掴み掛かってきたほど激情的な男が、シルビナに向ける一挙一動は驚くほど優しく、愛情に満ちていた。
それは妹を案じるユリシアの姿と何故か重なり、エヴァンという男にとってシルビナがどのような立場であるかは明確だった。
視線を戻す。ユリシアはこちらに背を向け、小刻みに震えている。
あまりにも頼りなく憐れな姿で――ナサニエルは静かに歩み寄り、そっと抱き締めた。
ユリシアはびくんと体を大きく震わせたが、逃げることはしなかった。
(ユリシア嬢……何をこんなに怯えているんだ……?)
妹が危険な目に遭ったというなら一緒に帰って側で慰めるのが姉の役目だろう。それをせず、ここに残る理由がわからない。
まさか『自分と共にいたい』等という思い上がりは、流石のナサニエルでもしない。
彼女には、まだやることがあるのだろう。
(ユリシア嬢が何を考えているのか知りたい。知って、彼女の力になりたい)
芽生えたその決意は、微かに愛情の形を取り始めていたが、当のナサニエルはまだ気付いていなかった。
「……ナサニエル様」
震える声で、ユリシアは口を開く。
「なんだ?」
「お願いがあるの……捕らえた男に、尋問してほしい。本当に、【無貌の黒面衆】なのか。あの子を狙った理由がなんなのか……知りたいの」
「……それを聞いてどうする?」
ユリシアは言葉を詰まらせ、ごくりと唾を飲み込み乾いた喉を潤す。
「……今は……まだ、言えない……」
彼女が震えているのは、妹を思う気持ちだけではない――直感的に思う。
だが、今はまだ、無理に口を割らせるようなことをしたくない。
「……わかった」
黒髪に優しく唇を落とし、ユリシアから身を離すと、それ以上追求することなく、静かに部屋を出た。




