対面
――翌日。
ナサニエルは期待に胸を高鳴らせ、背筋をピンと伸ばした状態で扉の前に立っていた。
そこは、昨日の出来事の後すぐに人を使って突き止めた『アリシア』の家だった。
(落ち着け、落ち着け……)
昨日の運命的な再会を思い出し、沸き上がる高揚感に頬が緩むのを抑えられない。
それも仕方がない。この扉一枚向こうに、四年間――いや、あしかけ十一年もの間、恋い焦がれた愛しの君がいる筈なのだ。
興奮と緊張が代わる代わるナサニエルの心臓を打ち鳴らしている。
髪の乱れや服装の乱れを出来る限り整えて、深呼吸を一つ。
(――よしっ!!)
覚悟を決めて、震える拳を扉に打ち付けた。
――だが、応答はない。もう一度、今度はさっきより強めに叩く。
やはり、反応はなかった。
(……聞こえなかったか?)
首を傾げつつ、三度扉を叩こうと拳を振り上げる。だが、その拳は寸前で掴んで止められた。
「!? く、クリス!?」
驚いて横を見ると、そこにいたのはクリストフだった。
彼は肩を大きく上下させ、ぜーはーと荒い呼吸を繰り返している。髪も大いに乱れ、その様子から、かなり急いで来たことが分かる。
暫く呼吸を整えていたかと思うと、ギンッ! と効果音が飛んできそうな勢いでナサニエルを睨んできた。
「……ネイト、お前なぁ……! 一人で屋敷を出るなといつも言ってるだろう!?」
怒声は周辺の空気を震わせる。その迫力に押され、ナサニエルは思わず二、三歩後退った。
「そ、そうだったか? いや、でも……」
「でもじゃない! しかもお前、私に隠れて昨日の女性を調べたな!? 人違いだと言われてたろ!?」
「あ、アリシアが、彼女が嘘を吐いてるかもしれないだろ!? だから僕は確かめに……!!」
「……ったく、何度言ったらわかるんだよ……!」
クリストフはナサニエルと扉の間に割り込み、肩を押して距離を取らせる。更に何か言い募ろうとしたようだが、すぐに我に返ったような顔をし、舌打ちをして髪を掻き上げ、大きく息を吐いた。
「……兎に角、帰るぞ。幾らなんでも前触れも無しの来訪は無礼が過ぎる。それに、今の時間なら場合によっては仕事か何かで留守にしているかもしれないし……」
「あ、そ、そうか、仕事か……。どうりでノックしても反応がないのか……」
「お前、もうノック済みだったのか……」
頭を抱えて天を仰ぐクリストフに対し、何か言おうとするも鋭い視線に口を閉ざす。
(な、何もそこまで怒ることないだろう。子供じゃあるまいし……)
今年二十五歳を迎える大人に対しての扱いではないことに不満はある。
が、クリストフの言う通り、幾ら相手が平民と言えど、予告無しの訪問は貴族として大きな非礼だ。
幸か不幸か相手は不在。後ろ髪引かれる気持ちもあるが、今日の所は帰るしかないかとナサニエルも帰る気持ちになっていた。
(……そういえば、アリシアに会うのに何も持ってきていなかったな。次の来訪時には、アリシアの好きな花でも……)
「帰ってください!」
甲高く、耳障りな声と共に、扉の前に小さな人影が立った。
頭を揺さぶられるような声色に頭がクラっと来たが、すぐに立て直して声の主を見下ろす。
それは昨日、野次馬の中から飛び出してきた灰色の髪の女だった。
「何をしに来たんです!? また姉に酷いことをなさるつもりですか!?」
黒い大きな眼をつり上がらせ、一所懸命声を張っているが、声も身体も小刻みに震えている。それはどこか、威嚇する野生の猫を思わせた。
(ひ、酷いこととはなんだ、酷いこととは! 僕がアリシアにそんなことをするわけないだろう!)
身に覚えのない非難に怒りを覚え、反論しかけたナサニエル。だが、二人の間にクリストフが慌てて割って入る。
「ちょ、違う違う、誤解ですから! 昨日のお詫びと説明をしに来ただけですから、落ち着いてください! ね?」
「……お詫び?」
人好きな笑みで下手に話し掛けるクリストフ。彼が昨日、自分たちを逃がすのに手を貸した相手と気づいたか、女は少しだけ警戒を緩めたように思える。
「そう。えっと、シルビナさんで間違いないですよね。お姉さんのユリシアさんはご在宅ですか? 職場の方はまだ開いてなかったし、家もノックしたけど反応がなかったのですが……」
つらつらと女――シルビナの名前や『アリシア』の仕事のことを尋ねるクリストフを不思議に思うナサニエル。
それが、自身が調べさせた『アリシア』の身辺調査報告書に記載された情報の一つであったのだが、『アリシア』の居場所以外に興味の無かったナサニエルにはどうでもいい些末な情報だった為記憶に残っていない。
「……今、息子と出掛けております」
「息子……!?」
「ナサニエル! ……その息子とは、ユリシアさんの子供ですか? それともシルビナさんの子供で?」
「私の子供です。それが何か?」
「いや、関係ないですが、この人を落ち着かせる為に……ご気分を害してしまい、申し訳ありませ
ん」
『息子』という言葉に心臓が一瞬凍りつく。しかしクリストフのお陰で安堵の息が漏れる。
(良かった……アリシアの子じゃないのか……。僕とアリシアの子がいたらきっと愛らしい子だろうな……)
「それでは、日を改めてたいのですが」
「結構です! 大事な姉に怪我を負わせた極悪人なんかに、姉を合わせたくありません!」
「!? アリシアが怪我をしたのか!?」
ナサニエルの頭に瞬時に血が昇った。詰め寄ろうと踏み出すが、間にいたクリストフに止められる。
昨日別れた後に、彼女の身に一体何があったのか?
追い掛けるのを諦めた自分を、今更ながら悔いる。
「っ、だから! 姉はアリシアなんて名前じゃありません! あなたが傷つけたんです! もういい加減にしてください!」
悲鳴にも似た女の甲高い怒声が耳を打ち、頭痛を覚える。
次の瞬間、ナサニエルは背後から冷たい液体を掛けられた。
(なっ……!? なんだ……!?)
予想外の出来事に、血の昇った頭が混乱しながらも痛みも共に冷めていく。
自分の身に何が起きたかわからず、濡れそぼった髪から垂れる雫を呆然と見送っていた。
「――よくもまあ、ここに顔を出せたねぇ……?」
「っ、アリ――がっ!」
この声は――!! ナサニエルの顔に子供のような笑みが浮かぶ。
『アリシア』を抱き締めようと、勢い良く振り返り――目の前が古ぼけた桶で埋まった。
「な、ナサニエル!」
顔に当たる激しい衝撃。ナサニエルの身体は後ろに弾かれ、臀部を強かに地面に打ちつけた。
側にきたクリストフの手を取り、立ち上がろうとするも頭がグラグラしてうまくいかない。
涙目になりながら、愛しい『アリシア』を見ようと顔を上げる。
だが、視界に入ったのは、シルビナを守るように仁王立ち、敵意を込めて睨み付けてくる『アリシア』の姿だった。
その眼差しに宿るものは、想像していた月夜の晩のような柔らかな光ではない。
鋭く、冷たく、底無し沼のような恐ろしさ――胸の奥がざわつく。
(あ……アリシアは……そんな顔、しない……)
ナサニエルの中で、アリシア像に入った小さなヒビが、大きな亀裂へと変化していた。




