運命
心にどんよりと暗い影が差す中、ナサニエルは寝台蒸気機関車を見学している。開発者であるクリストフは、意気揚々と運転手や車掌に声を掛け、乗り心地や機械の調子を聞いていた。
ナサニエルは少し離れたところでその様子をぼんやり見ている。
今、彼の心を支配しているのは先程見掛けた行方不明の妻によく似た女性。
この四年間で幾多の土地を訪れ、たくさんの女性を見掛けてきた。だが、ここまで心揺さぶられたことは今の今までない。
それなのに、どうして、今なのか?
夢か、幻か。それとも――
(――この町に、彼女に繋がる何かがある……なんて、そんなことあるわけないか……)
不確定要素に夢を見て苦笑いを噛み殺しながら、ナサニエルは小さく息を吐いた。
「クリス。少し見て回ってくる」
「え? ああ……構わないけど、迷うなよ」
気分転換しようと立ち上がり、クリストフに声を掛けると、気のない返事が返ってきた。クリストフの関心はすっかり車両のほうに奪われているようだ。
ナサニエルはゆっくりと歩き出した。
人の波。歓声。足音。笑い声。駅員の怒鳴り声――気付けば、人々の顔を一つひとつ確かめている。
(……どこかに、いるんじゃないか)
理性は『偶然だ』と告げているのに、心は『確かに見た』と訴え続けていた。
その矛盾に胸をかき乱されながら、ナサニエルは構内をさまよい歩き――やがて駅の出入口まで来てしまっていた。
がっくりと力が抜け、胸に鉛を抱えたような虚しさが広がる。
探している訳ではない――と思いながらも、アリシアの影を探し、勝手に落胆さている。これ以上探しても、空虚な幻を追うだけだ。
踵を返して戻ろうとしたその時、輝くような黒髪が、人波の向こうに揺れた。
こんな偶然があるものか。見間違い、見間違いだ――いや、ここで彼女を捕まえなければ、また後悔する。
理性よりも早く、ナサニエルの足は動いていた。
「待ってくれ!」
叫ぶと同時に人混みをかき分け、女の肩を掴んだ。
「アリシア!」
振り向いた女の見開かれた瞳がナサニエルを映し出す。
艶やかな黒い髪、宝石のような瞳、妖精のような愛らしい顔――女の持つそれらは、ナサニエルの思い出の中にあるアリシアの酷似している。
(間違いない、この女はアリシアだ。ようやく会えた……!!)
四年間、ずっと待ち望んだ瞬間――
「……は? あんた誰よ?」
――だった筈なのに、返って来たのは冷たい拒絶だった。
「あ……ぼ、僕だ、ナサニエルだ。君は、アリシアだろ……?」
「いや、僕だって言われても知らないし……っ。ていうか、あたし、アリシアなんて名前じゃないわよ」
きっぱりと否定され、耳を疑う。口調も仕草も、思い描いてきた淑やかなアリシア像とはかけ離れている。
ナサニエルの中で、思い出の中のアリシア像に小さなヒビが入ったような音がした気がした。
だが――だが、それでも、彼女はこの四年間で出会った中のどの女よりもアリシアに近かった。
女はツンとすまし顔でナサニエルの手を払いのけ立ち去ろうとする。慌てて手首を掴み、引き留めた。
「もう、何なの?! 違うって言ってんでしょ!」
「そんな……そんな嘘を吐かないでくれ。君にしたことは謝る。だから……」
「はぁ~? あんた、頭おかしいんじゃないの?」
「間違いない、君はアリシアだ!」
「だーかーら、違うったら違うの! なんなのよあんた!?」
「ユリシア!」
白に近い灰色がかった長い髪の、地味な出で立ちの女が、野次馬の中から飛び出す。途端に安心したように笑う女――その笑顔が自分に向けられないことに苛立ちを覚える。
「あ! ルビーちょっと助けて! 変な奴に絡まれてんの!」
「へ、変な奴とは失礼な! 僕は」
「あんたが誰とか興味ない! あたしはあんたのことなんか知らないって言ってんだから、おとなしく離してよ!」
「嫌だ! どうしたって言うんだ、アリシア! 僕のことを忘れてしまったのか!?」
どこまでも否定する女の言葉に怒りが込み上げ、掴む手に無意識に力を入れてしまう。
「いっ……!」
「姉の手を離してください! 痛がってるじゃないですか!」
「止めるんだナサニエル!」
顔を歪ませた女の顔を見た瞬間、罪悪感が胸を突き、全身に震えが走る。
灰色の髪の女が割って入るのとナサニエルの背後からクリストフが羽交い締めにして引き探すのはほぼ同時だった。
「離せクリストフ!」
「落ち着けって! 人違い、人違いだから!」
「そんな訳ないだろう! 彼女はアリシアだ! ようやく見つけたんだぞ?!」
耳元で、チッ! と舌打ちが聞こえたかと思うと視界が暗くなる。視界が塞がれた。
「離せクリストフ! 邪魔をするな!!」
掌を振り払い、彼女がいた場所を見ると、そこにはもう誰もいなくなっていた。
さっ、と血の気が引く。拘束から逃れようと尚も暴れる。
「離せ、クリストフ! アリシアが、アリシアが居なくなった!」
「っだから! あれは! アリシア嬢じゃ! ない!!」
羽交い締めにされていた体が、胸倉を掴まれ正面に向き直させられる。
次の瞬間、クリストフの拳が頬を張った。衝撃で地面に叩き付けられた。
「何をす……!!」
怒りのまま睨み見上げると、髪を乱れさせた友人の怒りと悲しみの入り交じった表情を見て、ナサニエルは言葉を失った。
「何事だ!」
制服姿の警備兵が数人、ざわめきを掻き分けて駆け寄ってくる。群衆が一斉に後ろへ退き、円形の空間が広がった。
「そこの者! 騒ぎを起こしたのはお前か!」
「違う、誤解だ! 僕はただ――」
「失礼。彼は取り乱しているだけなんです。事情は僕が説明します」
警備兵たちがナサニエルを確保しようと囲むが、クリストフがすかさず声を張って前に出る。
リーダー各はクリストフと共に、ナサニエルから少し離れた位置で小声で言葉を交わす。
ナサニエルは囲まれ警戒されながら尚も人波の中に消えた女の影を探し続けていた。だが、どこにも見当たらない。
やがて警備兵は「……次はお気を付けください」とだけ告げた。それは二人が貴族であることを考慮した精一杯の注意だったのだろう。
警備兵が引き上げ、二人は解放される。
「……ネイト、帰るぞ」
「あ……ああ……」
ナサニエルはクリストフの手を取って立ち上がる。もう一度周囲を見回すが、彼女を見つけることは出来ない。
(アリシア……)
ナサニエルに残されたのは、好奇と不安の入り交じった群衆の視線と、胸を締め付ける焦燥だけだった。




