幻影
ナサニエル編はシルビナ編を元にするので、台詞が被ります。が、展開はポンポン進む予定です。
鋭い一閃で風を切る。柄から手に伝わる震動が収まるまで待ち、一息吐くとナサニエルは腰の鞘に剣を収めた。
騎士団を辞めて四年。毎日の鍛錬だけは欠かしたことがない。その積み重ねが、彼の体を未だ衰えさせてはいなかった。
「おーい、ネイト。素振りは終わったかー?」
屋敷から響いてきた声に振り返る。
背の高い細身の青年――クリストフ・エーベルが、畳まれた外套を片手にゆったりと歩いてくるところだった。
「……ああ、調度今終わったところだ。どうした、クリス。今日は奥方と息子と出掛けないのか?」
「ああ、もう……また忘れてるな? 今日は駅に新作が到着するから、様子を見に行こうって話をしてただろう。二人は別用で留守番」
「新作……ああ、お前が考案した、寝れる蒸気機関車か……」
「移動しながら寝泊まりできる蒸気機関車だ」
「同じだろ」
「違う」
タオルで汗を拭いながら面倒くさそうに答えると、クリストフは友人の返答に呆れながら外套を投げて寄越す。
「お前の家の事業なのに、どうしてお前はそう無関心なんだ……勿体無い……」
「家業なだけであって、僕自身は興味はないんだ。仕方がないだろう」
元々、ナサニエルの一族は商人として成功しており、シュタイン領に山と土地を持っていた。
高祖父の代で所有の山から鉄が発見されたことにより、高祖父は海の向こうで見た鉄道を自国にも普及しようと計画。
学んだ知識を息子たちに受け継がせ、成功したのはナサニエルの父親の代。
その功績により、ナサニエルが十歳の頃に父親が男爵位を賜り、シュタイン領を割譲されている。
クリストフは共同経営者の一人の息子であり、ナサニエルとは幼馴染みの関係だ。
「そんなこと言ってると、蒸気機関車の権利奪うぞ?」
「持ってけ。僕はお前の補佐をする方がいい」
「もー……」
軽口を叩きながら、ナサニエルは甘い顔立ちからは想像できないほど鍛え上げられている上半身を隠すように上着を羽織る。
「おい、ネイト。一旦水浴びか、せめて濡れたタオルで体を拭けって」
「人と待ち合わせをしてるわけじゃないんだからいいだろ」
「なんでそう大雑把なんだ……色々勿体なさ過ぎるぞお前は……」
そんなことを言われたが気にも止めず、クリストフが持っていた外套も羽織る。
そうして二人は、別荘から歩いて駅に向かうのだった。
港町ゾーイは、シュタイン伯爵領から遥か南に位置するトゥルク伯爵領にある交易の町だ。
昔は船のみ。鉄道を敷かれてからは蒸気機関車も合わせての交易が行われている為、港町ゾーイは昔以上の賑わいを見せている。
駅から伸びる大通りに入ると、ひしめき合う人々の壁が待っている。だが、ナサニエルが歩くとまるで王者の道を作るように人が横に逸れて行った。それは元軍人たる風格だけが理由ではない、圧倒的な美貌が彼の前から人を遠ざけていた。
人々の視線はナサニエルに吸い寄せられ、黄色い囁きが後ろに尾を引く。だが、その声が耳に届いていても、彼の胸の奥に広がっているのは無、だった。
やがて、大きな四つ角に到達するところで、左から右に流れる荷馬車の一団が通り過ぎているのが目に入る。
荷馬車の間を通り抜けることが出来るだろうか? 等と無意識に考えながら、ぼんやり空虚な瞳を、真っ直ぐ前に向けていた。
押し合う人波の荷馬車の狭間、一瞬だけ視界が開ける。
――その瞬間、賑わう大通りの光景が、一瞬、遠のいた。
懐かしく、けれど決して忘れられない、面影。
見間違えるはずがない。
小さく、か細く、愛らしい横顔――。
「アリシア!」
思わず、駆け出した。
「アリシア! アリシア!!」
群衆に呑まれて姿はすぐに掻き消えたが、確かに彼女だった――そう思えた。
「おい、ネイト! どうしたんだ? アリシアって……」
荷馬車の列にぶつかりそうになる寸前で追い付いたクリストフに止められる。荒い息を繰り返しながら荷馬車の向こうを見つめるが、すでにそれらしき姿は何処にも見当たらない。
「……アリシア嬢はもういない。お前も納得しただろう」
痛ましげにクリストフがそう口にすると、四年前に忽然と姿を消したナサニエルの妻の名が、途端に重みを持って響いていた。




