いつもの日常
遠くから響いてくる蒸気の重低音で、シルビナは眠りから覚めた。
ゆっくりと瞼を持ち上げると、まず飛び込んできたのは亜麻色の髪。少し視線を下にずらせば、天使のような愛らしい幼子の寝顔がそこにあった。シルビナの息子、クロードだ。
(……クロードはぐっすりさんね)
昨夜は少しばかり寝るのが遅かったせいで、シルビナが動いても目を覚まさない。その安らかな寝顔にこの上ない恩愛の情が湧き上がり、緩やかに微笑む。シルビナは息子を起こさないように顔に掛かる一房の髪を整え、その柔らかな髪に軽く口づけをして静かにベッドから下りた。
大きな音を立てないように気を付けながら着替え、廊下に出る。シルビナの家は平屋の一軒家だが、間取りはリビング、ダイニング、キッチンが一部屋に纏まり、奥に個室が二部屋しかない小さな借家だ。部屋はシルビナとクロードで一部屋。その部屋の向かいにあるもう一部屋には別の人物が暮らしているのだが、室内に気配を感じない。
(……シアったら。またかしら?)
苦笑しながらリビングに向かう。リビングとは称しているが、実際はソファーと小さなテーブルが置いてあるだけで、大部分はキッチンとダイニングに割かれている。玄関の横にどんと置かれた古いソファーの上に横たわる背中を見たシルビナはやはり、と忍び笑いを漏らした。
ソファーで気持ちよさそうな寝息を立てている彼女の名前はユリシア。向かいの部屋の住人であり、シルビナの一つ年上の姉だ。
地元民が立ち寄る食堂で日中だけ働いているシルビナとは対象的に、港近くの酒場で働いているユリシアは、夜遅くに帰ってくる。酒を飲んでくることもままあり、そうした時は自室まで辿り着くことが出来ず、こうしてリビングで力尽きるのだ。
風邪を引かないか心配で、何度か部屋までもう少しなんだから頑張ろうと説得を試みたが、聞き届けられたことはない。それどころかソファーに毛布が準備されるようになった。残り十数歩なのに、何故……と疑問に思わないでもないが、頑張って仕事をしている彼女に強く言えないまま今に至る。
ユリシアを起こさないようにキッチンに向かう。朝食の準備に取り掛かる為、エプロンを身に着けようとしたところで、エプロンの近くに布の包みがあることに気づく。結び目を解くと、そこには家の物ではない大きな鍋。開けてみると、中には美味しそうなスープが入っていた。
(あら、クラムチャウダーじゃない! クロードが好きなのよね。……あ!)
そう喜んだのも束の間。蓋を持つ手が滑る。さ、と血の気が引くのと同時に両耳を手で覆う。木製の床に叩き落された蓋は大きな音を立てた。
「うわ!? 何!?」
耳を塞いで遮ってもなお届いた騒音。
故に、無防備な状態のユリシアが起きないわけもなく。毛布を跳ね除けながら飛び起きたユリシアは、キョロキョロと辺りを見回していた。キッチンから恥ずかしそうに顔を出す。
「お、おはよう、シア……」
「あ、おはよう、ルビィ! 今すっごい音したんだけど聞こえた?!」
「ごめんなさい、シア……私なの……お鍋の蓋を落としちゃって……」
「あ、なーんだ。びっくりしたぁ。あ! クラムチャウダーは無事?!」
「そ、それは大丈夫。お鍋の方はちゃんと置いていたから……」
「良かったぁ。それ、うちの店の女将がルビーとロディにもどうぞって言ってお裾分けしてくれたやつなの」
「あら、そうなの? 実は私の方も昨日、オーナーの奥様がご家族でどうぞって、従業員皆にパンを分けてくれたの。二つとも朝ご飯にしましょう」
「わお! ルビーのお店で貰えるパンって美味しいのよね! うちの貧乏酒場のご飯とは大違い!」
「そんなことないわ。私、女将さんの手料理大好きだもの。今度お礼をしに行くわね」
「わかった、女将に伝えとく」
もぞもぞと起き上がったユリシアとキッチンで会話をしながら朝食の準備をしていると、シルビナの部屋の扉が開き、寝ぼけ眼のクロードが顔を出す。
「……ママ……。おはよぉ……」
「ロディ。おはよう。お靴はどうしたの?」
「……わかんない……」
「もう」
寝ぼけ眼を擦りながらトテトテと裸足で歩いてくるクロードを見ると、シルビナはすぐに調理の手を止めてクロードを抱き抱える。クロードは母の肩口に顔を埋め、また夢の世界に旅立ちそうな雰囲気だ。
「こら、ロディ。もうご飯出来るから、寝たら駄目よ。ごめんなさい、シア。ロディを着替えさせてくるわ。すぐ戻るから」
「あと盛り付けだけだし、大丈夫よ」
キッチンから手を振るユリシアに感謝しつつ部屋に戻り、クロードに着替えを渡す。
「ママ、おきがえさせて」
「あらあら、ロディ。あなたもう六歳なんだから、自分で着替えなきゃ」
「……めんどくさい……」
「だーめ。今日はあなたが好きなクラムチャウダーをシアが貰ってきてくれたのよ。早く着替えないと、私とシアで全部食べちゃうからね」
「! やだ! たべる!」
六歳になったばかりのクロードはまだまだ甘え盛り。シルビナも甘やかしたいのは山々だが、ユリシアに『甘やかし過ぎ! 普通物心ついた頃には自分でやらせるものよ!』と叱られて以来、心を鬼にして見守っている。
可愛く唇を尖らせたクロードだったが、朝食が好物だと知ると、目の色を変えて着替え出した。
乱れた金髪を整え、しっかりと靴も履き、手を繋ぎながらダイニングに戻るとユリシアは先にテーブルに着いていた。
「お疲れ、ルビー。ちゃんとロディには自分で着替えさせた?」
「勿論。扉は開けていたし、狭い家だもの、聞こえていたでしょう?」
「はは! まあね。ロディ、あたしにおはようは?」
「おはよ、シアおばちゃん!」
「はい、おはよ。おばちゃんって年じゃないからね、いっつも言ってるけどっ」
「むう〜」
「シアったら。叔母と甥なんだから、おばちゃんで合ってるでしょ」
「そうだけど〜。まだ二十四なのに、その呼び方の響きが嫌なのよ〜」
椅子にうんしょうんしょと登って座るクロードの頬を突くユリシア。ぷるぷるの頬をぷくっ、膨らませてそれに対抗しているクロードを微笑ましく思い、笑いながらシルビナも席に着く。
「それじゃ、頂きますか〜」
「そうね。頂きます」
「いただきまーす!」
こうして、シルビナとクロード、ユリシアの、三人家族のいつもの賑やかな食事が始まったのである。