必然性について
最近、運命とか必然とかについて考える機会がありました。
人の運命って元々決まってるの?
そんなはずないってずっと思ってました。
いや……まぁ、今でも思ってるわけですが。
だいたい運命って聞いてもピンとこない。
最初から決まっていたなんて言われても、ああそうですかとしか答えようがない。
自分の運命は自分で切り開くものだし、それが最初から決まっていたなんて信じたくない。
しかし、世の中にはどうしてもそうとしか思えない出来事があるわけで、ただの偶然で片付けるのはちょっと難しいような事例もある。
例えば、聖歌隊のメンバー全員が助かった爆発事故。
当日、メンバーのそれぞれが全員別々の理由で遅刻したおかげで、教会の爆発に巻き込まれなくて済んだという事例があります。
アンビリバボーでも紹介されていたので、ご存じの人も多いかと。
確かに偶然が重なった結果ではありますが、それにしたってできすぎている。
必然はこの世に存在するのではと思ってしまうような事件です。
しかしながら、あくまでこれは偶然が重なった結果。
超越的な第三者によってもたらされた奇跡ではないと考えています。
確率的にはかなり低い数字にはなると思うのですが、それでもこれがもともと運命づけられていたことかと言うと、首をかしげたくなるのが正直なところです。
まぁ、偶然の話はこれくらいにして。
必然の話をしましょうか。
必然と言っても、結局は小さな積み重ねの結果だと思うのですよ。
例えば、毎日のように大量に飲酒をしていた人が、のちにそれが原因で体調を崩すのは、必然と言えるではないでしょうか。
また、交通法規を無視して運転を行うドライバーが事故を起こして命を失うのも、これまた必然と言えなくもない。
普段からの行いが大きな事件や重い病に繋がるのはよくあること。
積み重ねによる必然はあると思うのですよ。
もちろん、これは悪いことだけとは限りません。
成功を収めた人は必ず努力しているというように、コツコツと毎日のように努力を続けて結果が実を結ぶのは、ある意味必然と言えなくもない。
大成功を収めるにはまず努力して、少しずつ実績を積み重ねる他ないのだと、多くの人が思っていることでしょう。
必然性を呼び寄せるには、やはり積み重ねが大切だと思うのです。
私が学生の頃に受けたキリスト教の授業で、講師の方がカルヴァンの「予定説」を取り上げました。
これは運命が予め決まっているという意味ではなく、一つのことをずっと続けているだけで救われるとの主張だと、その人は話していました。
カルヴァンは営利活動と蓄財を肯定しているので、一つの職業にずっと打ち込むことで救済につながるとの見方を示したらしいのです。
私は詳しく分からないので話半分に聞いていたのですが、筋の通った主張だと思いました。
一つの仕事をずっと続けて行けば成功につながる確率が上がるわけですから、必然性を呼び寄せるのでしょう。
その人が現世に置いて救われる可能性も生まれます。
そういう意味での主張であれば、私は素直に受け入れられると思いました。
世の中には様々な価値観を持つ人がいますが、幸福になるか、あるいは不幸になるか、その人の普段からの行いによって決まるのだと思います。
普段からの行いが良い人は、良い運命に恵まれることでしょう。
何故ならその行いを多くの人が目にしているからです。
そして、善い行いをする人は、同じように善い行いをする人を呼び寄せます。
お互いに助け合い、どちらかが苦しんでいたら、もう片方が救いの手を伸ばす。
そんな関係が自然と築かれていくのではないでしょうか。
これはごく自然な事かと思います。
善い人を呼び寄せる力は、その人の普段の行いによって養われるのです。
善行を積めば積むほど、正しい人がより親しく接してくれるわけですね。
ですが、これと真逆の行動。
つまり悪行を重ねれば、悪人ばかりが周りに集うことでしょう。
人を騙し、欺き、時には力づくで奪おうとする輩に囲まれたら、破滅するのも時間の問題かと思います。
その人が悪人の手によって命を落としてしまったとしても、それは必然と言えるのではないでしょうか。
運命を切り開いて必然性を呼び寄せるには積み重ねが必要なのだと思います。
成功するにせよ、失敗するにせよ、何事も小さな積み重ねの連続が大切なのです。
だから……。
今日もさぼらずに連載作品の更新をしましょう。
継続は何よりの力です。