病床の兄 一
兄へ報告に向う途中、薬湯を持った家人を見つけたので、自分が持っていくと下がらせた。こぼさぬよう、だが冷めぬように、雪乃は注意を払いつつ足早に硝子張りの内縁を歩いていく。
寒露を目前に控えた昨今、急激に冷え始めた大気が寒々しく芯を寒からしめる。とはいえ、南に面した暖かな和室であるから、冷たい空気もいささかの暖を感じることができる。
雪乃が部屋の間近まで差し掛かったとき、部屋の障子が勢いよく開け放たれる。
「おーい、雪乃ちゃーん」
身を乗り出し、青丹色の着物の袖を翻して手を振るバカがいる。雪乃は顔を露骨にしかめてしまった。それでも雪乃は、近くまでしずしずと歩いて、貴之を見据えた。
「声が高いぞ、バカ貴之。兄様の御前だ」
いささかの抗議もこめて少々乱暴に足を止めたために、側髪を残して一つに結った黒髪が、さらりと揺れた。
「十五歳とは思えないくらいお美しくてらっしゃるねえ。紅を差さなくても紅い唇は艶やかで、猩々緋地に愛らしい花をあしらったお着物、黒髪を結う柑子色の結い紐という色鮮やかな組み合わせがよくお映りになるし、妍のこもったお顔も、実にすばらしい」
どこまで本気なのか、貴之はにこやかに美辞麗句を並べ立てる。だが、そこまで言われると、かえって軽薄で信じがたい。
「これ。頭がまだ濡れておるではないか。ちゃんと拭いてから来ぬか」
貴之は青丹の着物に紺縦縞の袴姿である。先ほどとは流石に着物を取り替えているが、いつ見ても着物袴姿がだらしなく映る。衿が時々歪んでいる乱れに腹立ちを覚えるときがあるが、直してやる気にはならない。
「じゃあじゃあ、雪乃ちゃん、代わりに頭を拭いてよ」
「たわけ。両の手が塞がっておる」
「お盆を置いてからでもいいのに……つれないなあ、雪乃ちゃんは」
貴之はぼやくように言ってから、頬をほころばせて、うっとりと呟く。
「ああ、でも、いつか雪乃ちゃんが僕のことを、ぶっ……」
「やかましい!」
頬を張った雪乃は怒鳴る。頬を抑えた貴之は、はうーと涙を浮かべて抗議する。
「ああ、相変わらず激しいね、雪乃ちゃん」
「やかましい!」
先程のような馬鹿馬鹿しいやり取りに据えかねて雪乃が怒鳴ったとき、室内からやんわりとした、か細い声が掛かる。
「雪乃。女の子がそんな風に大声を出して……。外に聞こえて嫁の貰い手が無くなったら、どうする」
布団から身を起こして、女性的なまでに繊細で優美な面差しを翳らせて「嫁の貰い手云々」と切なげに言われて、憤懣が萌した。
だが、雪乃はぐっとこらえて、しれっと言い返す。
「ご心配なく兄様。聞こえて困るような近所は一切おりませぬ」
雪乃の言いように、説得および説教をあきらめたのか、あやすような甘やかな声で傍らを手で軽く叩いて促す。
「おいで、雪乃」
雪乃はお盆で貴之とを隔てて座った。畳んであった松煙染めの墨色の羽織を、泰雪の華奢な肩に掛けてあげる。
子持ち縞の白大島の寝衣に墨色が加わったことで、泰雪の色の白さが一層くっきりと引き立つ。一年前よりさらに華奢となった身体も、一層白くなった肌も、すべて雪乃の咎だと、胸がわずか痛んだ。
「どうした?」
「いえ……何も」
泰雪の言葉に、思わず上ずりそうになった声を抑えることには成功した。だが、口の端が引きつってしまった。
泰雪の視線を避けて、視線は自然と下を向いた。どう誤魔化すか逡巡し、唇が戦慄きそうになった。辛うじて堪えて、雪乃は手をついて頭を下げた。
「兄様、雪乃は無事に本日の務めを果たしてまいりました」
「よく頑張ったね」
褒められて、思うより先に口元をほころばせてしまう。じわじわと嬉しさがこみ上げてきて、噛み締めるように微笑んだ。
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今日も次話を19時投稿します。