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あの顔この顔

作者: くまごろー

     一


 十年もいっしょに暮すと夫婦は互いに似てくるという。歳月の流れに好ましい資質が()ぎ出されて、ほどよく影響しあうならいいが、うかうかと()れあって流れついた先が溜息の淀みというのはかなわない。どちらにしても時というものには不思議に人間を同化させる力があるようで、長く生活すれば程度の差は別として、似た者夫婦になるのは止むを得ないことらしい。

 洋一郎は新聞販売店に勤める五十五才。若い頃とちがって朝夕二回の配達は少々身にこたえる。同居人の絵美は弁当会社でパートをしている四十四才。二人はアパートの一室に貧しい同棲を続けて十五年、そこそこいい(とし)なのに、お互いを絵美ちゃん、洋ちゃんと呼び合う仲良しだ。


 洋一郎は画家を夢見て若い頃を過ごした。自信もあったし、美大出の連中と肩を並べたいという気負いもあった。しかしいつの世もそうであるように、時代は貧乏人には味方しなかった。

 画家を目指していた彼も、カラオケのなかった時代のギター流しのように、盛り場の酔客を相手に似顔絵を描いてはその日暮らしを続けていた。八十年代後半は銀座のクラブでも飛び込みで稼げた。美人ママを一段と美人に描くとその一枚が営業許可証になって、店で商売をさせてもらうことができた。いい時代だった。それが、バブルがはじけてしまうと、銀座を流して歩いても、客がほとんどいなくなった。

「……銀座がこれじゃ景気がいいわけない。どっか南の島にでも逃げ出したいもんだ。せめてあの頃に()()を心配するだけの頭があったなら。それを、稼いだだけ使っちまって、いい気なもんだった。イソップのキリギリスが自分だとは思わなかった……」

 彼には貯金というものがなかったから、夢に見る南の国への渡航費用もなかった。

「……十年前の目立たない()がママになって店を切り盛りしてるんだから、時代は変わったのさな。僕が変われなかっただけだ……」

 洋一郎には古くからのママが頑張っている店だけが頼りだった。昔を覚えていて、知らない仲でもないからと入れてくれる店もあるにはある。しかし似顔絵を描かせてくれる酔狂な客はもういない。

「……野垂れ死にするわけにもいかないしな……」


 彼は三十五才になって定収入を得るために新聞配達になった。家賃の安い所、安い所へと引越しをくり返して、電車が通るたびに振動で木枠のガラス窓がガタガタと鳴り出す、総武線・亀戸の古アパートに住みついて、朝夕の新聞を配った。そして配達の合間に絵を描いた。人の集まる所に出かけて行って似顔絵で稼ぐのも、人のいない荒川や工場跡地にできた公園や街並を描くのでも夢中になれた。もはや趣味でしかなかったが、絵を描いていれば自分が自分でいられた。生活は貧しいが絵は描きつづけていたかった。(さむらい)月代(さかやき)のように禿げ残った長髪を後ろに輪ゴムで束ねていたのも、画家願望の名残でもあったろう。彼の一風変わった長髪でも、容姿をとやかく言われない新聞配達はつとまった。


     二


 絵美は洋一郎の夢を理解するというよりは夢を壊さないだけだが、(ひと)(まわ)り年下の彼女と再会できたのは、まったくの偶然だった。

 彼が四十才の冬のある日、スケッチブックを小脇に亀戸の駅前に佇って、何時にない人波をぼんやり眺めていると、小さな顔には不釣合な大きいサングラスをかけた女が、脇から彼の顔をのぞきこんだ。

「洋ちゃん、じゃない?」

 洋一郎は地味なオバさんに見覚えがなかった。

「どなた、でしたっけ?」

「やあだァ、あたしよ、洋ちゃん。絵美よ」

「絵美ちゃんって、『アマゾネス』にいた絵美ちゃんかい?」

 女はチラチラッと左右を(うかが)ってサングラスを外した。

 彼は〈変わったね〉とも〈変わらないね〉とも言えなかった。女の顔は眼の周りが見苦しく変形していたからだ。


「五年ぶり。()(メイ)だけは何とかつないでるわ、ははは」

 絵美は醜く傷ついた(まぶた)をしばたたかせて懐かしそうに笑うと、またすぐにサングラスを顔にもどした。

「今日はなんで亀戸にまで?」

「一月二十四日は天神様の鷽替(うそかえ)じゃないの。こんなに人出があるのに気づかなかったの? ほら、可愛いでしょう、これ?」

 絵美は円筒形の(ひのき)を一刀彫した十センチばかりのウソという鳥を見せた。

「今までの()しきもうそとなり(きち)に(鳥)かえて開運・出世・幸福を願う、って大っきな看板があるわ。人混みは苦手だけど毎年来てるから覚えちゃった」

「絵美ちゃんにそんな信心があったのか、へえ」

「こんな愛らしい鳥に、悪いことをぜんぶいいことに代えてくれるなんて言われたら信じたくなるわよ。ホステス時代はウソばっかりついて悪いことしかしなかったからね、あはは」


 彼女は洋一郎が盛り場で似顔絵を描いていたころ、錦糸町、新宿と渡り歩いて銀座にやって来たホステスだった。取り立てて美人でも腕利きでもなかったが、しがない似顔絵描きに較べれば、彼女の金回りの良さは月とスッポンだった。

「才能があるのに世に出られない芸術家って、つらいんだよね……」

 知った風なことを言って、絵美は余り物の高級洋酒や外国タバコを洋一郎に支援してくれたのだった。

「アタシも這い上がってここ(銀座)まで来たから、洋ちゃんの気持ちは分かるよ」

 その絵美の向上心が原因で不幸の坂を転げ落ちようとは、彼女自身も思っていなかった。

 銀座に秋風が立ち始めたのは、日銀による金融引き締めがあった八十九年で、それまでバブルで高騰していた株価・地価が大暴落した。急激な不景気のあおりを最初に喰らったのが水商売で、客の来なくなった店でホステスも生き残りを考えなければならなかった。女たちはやっと昇った階段を、自信のない者から順に降りるはめになった。地方に流れていく娘も風俗に堕ちる者も出たなかで、絵美は自分に投資するのが一番だと考えて整形手術を受けたのだった。十人並みの彼女が、居残った美女たちに()してゆくためだったが、その手術が失敗した。失敗した顔は厚化粧の甲斐もなく、客のつかないホステスは(たちま)ち店を首になった。昨日までの同僚たちは店を去る絵美に眉ひとつ動かさなかった。

 絵美は病院を相手取っての裁判も考えたのだが、手術の結果については苦情を申し立てないと一筆とられていたし、周囲からは裁判は弁護士しだい、弁護士は金しだいだと言われた。貯金を手術に()ぎ込んでしまった彼女は泣き寝入るしかなかった。何とも運の悪い女だった。


 洋一郎は絵美を縄のれんの安居酒屋に誘った。

「いやあ、絵美ちゃんには色々と世話になったしね。恩返しの真似ごとのつもりだけど、こんな所で申し訳ないねえ」

「誘ってもらえただけで感激。もう、だぁれも振り向いちゃくれないからね。こんな化け物じゃ客商売はだめ。フーゾクだって……」

 絵美はサングラスだけが頼りのようで、女としてのほとんどをあきらめてしまったらしい。絵美が二度も自殺未遂をやったと聞かされても、洋一郎は駅前での素顔を思い出すと、そんなこともあったのかもしれないと思ったが、同じ口から、来年は()()()だと言われたときは正直なところ驚いた。(なり)()りかまわなくなると女は急に老け込むが、化粧っ気のない顔と地味な服装で、彼はいつの間にか絵美を自分と同年輩と錯覚していたらしい。

「ね、洋ちゃんとこ、お邪魔していい? 独身(ひとり)なんでしょう?」

「…………」

 きまり悪そうな絵美の小声は、媚びの他にある種の切迫感のようなものを含んでいた。

 昔の顔見知りに出遇()って、自分ではどうにもならない寂寥感に突然にとらわれたのだろう。背負わされた運命とはいえ、男が寄りつかなくなった女、昨日と同じで楽しみ一つない今日しかない女、それでも女。洋一郎に遇いさえしなければ、そんな気も起こさなかったろうし、無傷だった彼女の顔を知っている男とこのまますれ違ってしまうわけに行かなかったのかもしれない。普通の女には何度も訪れる機会が、彼女にはこの一度だったのだろう。洋一郎が黙っていたのは、絵美が顔を苦にして()()になってのことなら、うれしい申し出だとは思えなかったからだ。

 絵美の声は明るさを取り戻していた。

「あははは、そうだよねえ、いくら何でも図々しすぎるよねえ。ごめんね、変なこと言っちゃって。今のことは忘れて」

「別に、謝ることじゃないさ」 

 洋一郎は整形手術をやり直せばいいと思ったが、絵美はそうする余裕のある身なりには見えなかった。薄暗い居酒屋で絵美は時おり思い出したようにサングラスに手をやったが、外すことはなかった。

 絵美は弁当屋のオバちゃんをやっているのだと言った。

「弁当のおかずの色のこともあってさ、仕事場じゃ濃いサングラスはかけさせてもらえないの。これが限度なのよ」

「ふうん」

 二十九才だという絵美に〈オバちゃん〉という言葉はすでに哀しく似合ってしまっている。

 絵美が隣りの錦糸町に住んでいるとわかって、二人は何度か行き来した。同棲は自然の成り行きだった。家財道具もない者どうしが寄合っただけのことで、二人の貧しい生活には少しの変化もなかった。ただ、独り身の淋しさだけは癒された。


     三


 電車が通って部屋が揺れた。

 洋一郎は新聞の写真を見ながら、鼻の穴を極端に誇張してスケッチブックに北島二郎を描いた。デフォルメが過ぎてマンガっぽい似顔絵だった。

「……ワンステージで一体いくら稼ぐんだろうなァ……」

 彼は(ちや)()(だい)の上にスケッチブックをほうり出して、絵美が持ち込んだテレビのモーニングショーを見るでもなくうとうとしていたが、突然の大きな笑い声にハッと目を覚ました。仕事から戻った絵美が両腕を突っぱってスケッチブックの似顔絵に見入っていた。

「洋ちゃん、さすがに衰えてないわねえ。すごい才能だわ……」

「メシの種にならない才能じゃ生きちゃいけないよ。才能なんかより金がほしい」

 若い頃を遊び暮したので年金の入るあてもない。それは蚊の涙ほどの貯金にしがみついている絵美も同じことだった。二人の老後が貧しくないわけがない。洋一郎はため息をついた。

「飢え死にする前にさァ、一つくらいはいい思いをしたいよなァ。ドーンと一発、宝くじを当てるとかさ」

「宝くじって、買わなきゃ当たらないのよ、あははは」

「なら、景気よく銀行の一つもブチ破るかァ、あっはっは」

 二人は笑いながら貧乏が切ない。

「変な気を起こしちゃいやだよ、洋ちゃん。そのため息だけは止めようね。ため息をついた分、シアワセが逃げるって言うじゃない?」

「じゃ、絵美ちゃんはこの生活がシアワセかい?」

「洋ちゃんがいてくれるもの、不幸ではないでしょ。お金があれば洋ちゃんは浮気してアタシを棄てるでしょうにィ。貧乏神が洋ちゃんの浮気封じをしてくれてるんだもの、人からは嫌われてもアタシには有難い神さまよ、あははは」

「ふうん、考えようだね」

「洋ちゃん、髪、伸びたわ、切ったげよか?」

「そうか? じゃ、たのもうかな」

「昔はさ、かっこいい長髪だったのにね。鷽替(うそかえ)の日の洋ちゃんったら、額からてっぺんまで髪がなくなっててさ、まるで落武者。何度も人違いだろうって思ったわよ、あははは」

「落武者ねぇ。(さら)し首のザンバラ髪でも、本人はちょっと自慢だったんだけどな。あっはっは」

 絵美は手際よく髪を切り終えて言った。

「あ、ちょっとこのまま待ってて」

 絵美は何を思ったか、何年も使っていないヴァニティケースを押入れから引っ張り出してきた。

「ね、面白いことして遊ぼっ」

 絵美は洋一郎に悪戯っ子のように笑いかけた。

「眼をつぶってぢっとしててよ、いい?」

「…………?」

 彼は温和(おとな)しく言われるままにした。顔に微かにいい匂いの何かが、ひんやり、ベタッと塗り付けられた。

「僕に化粧するのか? ……いいさ、やってくれ。僕たち笑わないことには生きていけないもんな……」

 絵美は一人でクスクス笑いながら忙しく手を動かした。

「できたわ。眼をあけていいわよ」

 洋一郎の前の絵美が鏡を向けて笑っていた。

「ぶわッはッはッはッ。ケッサクだァ、絵美ちゃん」

 洋一郎がのぞいた鏡のなかで似顔絵マンガの北島二郎が鼻の穴をひろげ、大口をあけて笑っていた。

「洋ちゃんの似顔絵どおりに仕上げたのよ。うまいもんでしょう?」

 絵美は洋一郎の顔を指差して笑いこけた。

「ああ、おかしいッ。似顔絵が動いてるッ! お腹の皮が(よじ)れるッ、あーっはっはっ」

 整形に失敗した目から涙を流してはしゃぐのを見て、洋一郎の気持ちは複雑だった。何てさびしい遊びだろう。

「鏡を見るなんて銭湯でヒゲを剃るときくらいだもんなァ。しかし、北島二郎が僕ってのが()()しいや、あーっはっは」

 洋一郎は自分が自分でなくなる化粧の不思議を体験した。

「……ん? ひょっとして、これがなんとかならないかな?」

 その自問をきっかけに、洋一郎の想像は先へ先へとふくらんで、ついにコンビニ強盗を思いついていた。


     四


「……強盗は素顔じゃできない。覆面が要る。襲われたほうは何とか犯人の特徴を探そうとする。モンタージュは目撃者の証言をもとに作られる。モンタージュが出来てしまえば捕まるのは時間の問題だ。しかし……。僕が北島二郎なら、どうだ? それでも正体がばれるか? 似顔絵は特徴を大袈裟に描く。人間の目は誇張された特徴に釘づけになって他を忘れる。僕の特徴は北島二郎にすっぽり隠れて、だれにも気づかれない……」

 洋一郎はさらに妄想した。

「……店員から金を奪ったあと一瞬だけ目出し帽を脱いでやるってのはどうだ? 無意識のうちに犯人の特徴を探しだして記憶しようとしているところへ、チラッと北島二郎を見せて、すぐにまた目出し帽で隠す。一瞬目撃した顔が気になって、思い出そうとすればするほど店員の脳みその中で、それまで記憶してきた北島二郎と結びついてしまう。店員は脳みその命ずるまま〈犯人は北島二郎だ〉と主張して曲げないだろう。目撃者証言が証言にならない。僕は犯人ではなくなる……。警察は犯人を特定する特徴を得られない。つまり、跡を追えない……」


「絵美ちゃん、これを見てくれ」

 洋一郎が絵美に見せたのは石原勇二郎を描いた似顔絵だった。

「これを、この間のように僕にやってみてくれ」

「洋ちゃんもやっぱり自分をハンサムにしたいわけ? いいわよ、あははは」

 絵美は洋一郎に特殊メークを施し始めた。洋一郎は化粧品の種類と分量と塗り順を頭にたたきこんだ。そして翌々日には美空すずめの似顔絵を差し出した。特徴をつかんだ似顔絵はまたしても絵美をよろこばせた。

「やあだ、今度は女になるの? 変な趣味に首を突っ込んだりしないでよぉ、はっはっは」

 絵美は()()として美空すずめを仕上げた。ここでも洋一郎はさまざまな化粧品とその使い方を覚えた。

「ちょいとォ、お姐さァん。おひとつどうぞぉ」

 洋一郎は冷めたおでんを前に横座りになり、ワンカップで酌のまねをして、美空すずめの『べらんめえ芸者』だと言った。

「なんだ、笑わないのかい?」

「なあに、べらんめえ芸者って? アタシ、洋ちゃんより一周り若いんだから」

「子供のころ、近所のオジさんたちが『温泉芸者』は六月みどりで、美空すずめは『べらんめえ芸者』だって言うのを聞いただけさ、僕だって美空すずめの芸者を知ってる(とし)じゃない、見栄を張ってしまったな、あっはっは」


 弁当会社は朝食用の弁当をつくる深夜の時間帯がいちばん時給がいい。そのために絵美は夜中の一時にはアパートを出て、昼食用まで作り終えてから、朝の十時すぎに帰ってくる。一方の洋一郎は、早朝の三時半と午後の三時には新聞店に入らなければならない。

「……コンビニ強盗をするとなれば、深夜一時から三時までの二時間。そのうちの一時間近くは慣れない化粧にかかってしまうだろう。正味一時間ちょっとか。計画の歯車はどんなに小さい一つも狂わせられない……」

 絵美はいつものように、午前三時に目覚ましで起きる洋一郎を起こさないようにそっと布団をぬけ出し、サングラスをかけてアパートを出ていった。

 洋一郎はヴァニティケースを開けると、鏡をのぞき込んで自分に言い聞かせた。

「……インパクトを与えるには似顔絵でないとな……」

 彼は基本を忠実に守って自分に化粧をした。何日も前から、白バイ警官になりすました三億円強盗を思い浮かべてイメージトレーニングをしてきた。凶器の日本刀も準備できている。切れはしないがよくできた模造刀だ。相手を脅すにも自分を守るにもチャチなモデルガンより迫力があるし実用的だ。


     五


 決行の日になった──。

 洋一郎は北島二郎になって目出し帽をかぶり、佐々木小次郎のように長い刀を背中にくくりつけてバイクに股がった。

「……なせば成る。なり切れれば成功する……」

 自己暗示をかけて出発した。

 ブイッ・ブイイイィーーン・ブインッ───


 深夜の客のないコンビニに五十代と(おぼ)しき女性店員が一人だ。洋一郎は逃げる方向に向けて、アイドリングさせたままバイクを停めた。店員は目出し帽を見ただけで震え上がった。洋一郎が模造刀を(さや)から抜ききらないうちに、レジの一万円札を(つか)んで洋一郎に差し出していた。

「こ、これしかありませんッ」

 初回は六万円が手に入った。

「……欲をかいちゃだめだ。僕はバレないんだから細かく着実に稼げはいい。さ、引き揚げだ……」

 あまり簡単だったので洋一郎はうっかり忘れるところだった。木登りは降りるとき、強盗は引き揚げるときだ。彼は女性店員の記憶を定着させるために目出し帽をめくり上げた。そして悠々とバイクに乗ってアクセルをふかした。

 ブイッ・ブイイイィーーン・ブインッ───


 刑事がパート主婦から事情聴取した。

「どんな男でした?」

「北島二郎ですッ」

「なにッ? 警察をからかうんじゃないよッ」

「本当ですってば」

 刑事は呆れた。

「公演のたびに大金が転がり込む大スターが、ケチなコンビニ強盗をやったって言うのかね?」

 それでもパートのオバちゃんは犯人は北島二郎だと言い張った。

 ホンモノは犯行当時、新宿コマの歌謡ショー『新・次郎長伝』の千秋楽を打ち上げて、弟子や関係者たちと飲んでいたのだから、文句なしのアリバイだった。

「オバちゃん、警察に嘘をつくと罪になるんだよ」

 キッと唇を噛んだ主婦の目に涙が(にじ)んでいた。


 それから一週間もしないで、今度は別のコンビニが被害にあった。通報を受けて警察が現場検証と事情聴取に駈けつけた。

「どんな男でした?」

「織田雄司です」

「あの『キターッ!』とかいう俳優? まさかァ」

「そうですよ。間違いないです」

 アルバイトの大学生はきっぱりと言った。

 刑事はその場で警視庁・城東署に電話を入れて、織田の所属事務所に連絡をとってもらった。ほどなくして刑事の携帯の着信音が鳴った。織田はこの日、新作映画の北海道ロケで東京にはいないということだった。撮影スタッフといっしょだからアリバイに間違いはなかろうとの連絡だった。

「君、『キターッ!』は北海道だってよ」

「そんな。たしかに織田雄司でしたよ、あれは」

「そうだ、そうだよな。日本刀を持った織田雄司、うん、椿三十郎だったな」

「刑事さん、ボク、嘘なんか言ってませんよッ」

 大学生はふて腐れた。


 それからも立て続けに城東署管内で同様の事件が相次いだが、目撃証言がまったくアテにならず、刑事は手を焼いた。今回襲われたコンビニの店主は六十過ぎの男だった。

「どんな男でした?」

「いえ、女ですよ」

「女? 目出し帽を被ってなかったですか?」

「毛糸の帽子を脱いだときにゃ(たま)()たねえ。美空すずめなんだから」

 またしても思いがけない名前を聞かされて刑事は白髪頭を左右に振った。

「ご主人、冗談は止してください。美空すずめは故人でしょうが。なんで死んだ人間が?」

「そんなこと知りゃしませんよ。幽霊だろうが何だろうが、たしかに美空すずめだった。色っぽい眼してこっちを見たんだから。思わずゾクゾクッと来たねえ。さすがにいい女だったな……」

「で、被害のほうは?」

「三万円とポンズ・クレンジングクリーム徳用サイズ一個」

「…………?」

「ウチは前にも強盗にやられてるんです。警察官立寄所の()れ幕を出しても、実際にお巡りさんが立寄りゃしないくらい小学生でも知ってますよ」

 店主は警察を皮肉った。

「ご主人、ワシらも精一杯やっとるんです。金がかかるんで人員を増やせんのです。ご理解ください。で、クレンジングクリームというのは?」

「あれだけの化粧ですから落とすのも大変でしょう、行きがけの駄賃ですかな」

「なるほど」

「あたしは昔っから美空すずめのファンでしてね、思わず見とれちまいましたよ。ま、難を言えば、少々老けてましたかな。(とし)のころは五十の半ば……」

「よくご覧になってましたね。も少し詳しく」

「若くて何をするかわからない乱暴な男ではないと踏んで、あたしゃ説教の一つもしてやろうかと思ったんですがね、こっちも命は惜しいですし、まァ強盗のほうだって長話されても困るでしょうしねえ、あっはっは」

「そうですね。さ、ご主人、話の先を……」

「こんなご時世で金が要るのはわからんじゃないが、ウチは盆も正月もなく夫婦して働きっぱなしでカツカツだ。雇いたくてもアルバイト一人雇えやしないんだ」

「そうでしょう。話の先を……」

「バカっ高いロイヤリティの支払いでロクな儲けはない、そう言ってやりました」

「ふむ、それで?」

「狙うコンビニを間違えたと思って、これで我慢してくれ、と三万円だけ渡したんです。するとですね、ヤツは身につまされでもしたかのように『そうだよな』とポツリと言って帰って行きました」

「ふむ」

「そう言えば……」

「そう言えば、何です?」

「どことなく、何となくですが生活に疲れているって感じでしたね。被害者のあたしがこんなことを言っちゃ何ですが、強盗にもノッピキならない事情というか、どうも悪いやつでもない気がするんですけどねえ……」

「これは強盗事件ですよッ。どうでもいい印象じゃなくてもっと具体的なことを言ってくださいよッ」

 刑事はおしゃべりな店主にイライラして語気を強めた。それが主人の機嫌をそこねた。せっかく警察に協力して事情聴取に応じているのに、自分の情報にケチをつける刑事が面白くないとでもいいたげだ。

「ならね、()()っから市民の財産と安全をしっかり守ってくださいよ。ウチがやられたのは二度目なんですよッ。あんたらのお給金は国民の……」

「わ、わかりました」

 老刑事はぐうの()もでなかった。コンビニの主人が警察の手を借りず、自力で被害を最小限に食い止めたのは間違いないのだ。

 老刑事は防犯ビデオを署に持ち帰って見た。目出し帽がカメラを(のぞ)きこんでこちらをバカにしたように笑っている。

「お、帽子をとりやがった。大胆なやつだ。あッ。ふうむ、たしかに美空すずめだ。しっかし、自分でなきゃそれですむものを、何で化粧までする? ありふれた顔で構わんはずなのに、なぜだ? 被害も一件あたりせいぜい十万そこそこの()()だ。段平(だんびら)チラつかせても傷一つ負わせるわけじゃない……。()()はパフォーマンスを楽しんでいるのか、メーキャップの腕を誇示したいのか? なんでマンガ顔だ? そうか、わざとニセモノを印象づけて素顔をわからなくする、そういうことか。凝ったまねをしてくれるじゃねえか……」

 目撃証人たちが口々に、北島二郎だ、織田雄司だ、美空すずめだとバラバラなことを言いはるので、警察はモンタージュ写真が作れない。老刑事は頭を悩ませた。

「……いったいどこをどう探しゃいいんだ。美容関係をシラミ(つぶ)しに聞き込みして廻れとでもいうのか、冗談じゃない。今どき女子高生だって化粧する。世の中、素顔の知れない化粧人間ばかりじゃないか。こんな雲をつかむような話では足で稼ぐわけにも行かない。たいしたヤマでないだけにシャクにさわる……」

 老刑事はこれからの苦労を思って長嘆息した。


     六


 洋一郎は貯金が増えるのが楽しみになった。通帳を握りしめると、彼の心はマニラの街角やチェンマイの田園に飛んでいった。

「……絵美ちゃん、すぐにシアワセになれるからな……」

 メーキャップも上達して、二十分そこそこで映画俳優から大物政治家、やたらと元気なニューハーフまで、彼は特徴のある顔なら完璧に仕上げられるようになっていった。

 同一犯だという証拠を押さえられない警察は(いら)立った。新聞・テレビもこの強盗事件に関しては、名誉毀損を恐れて有名人の名前を公表するわけに行かず、事件は負傷者の一人もない平凡なコンビニ強盗の報道で、一般の関心をひくこともなかった。一本刀の有名人強盗は、警察の目をかいくぐって丸二年、神出鬼没をくり返した。

 洋一郎の貯金目標額、一千七百九十五万円が目前に迫っていた。

「……千七百九十五万。それ以上は一円だって要らない。インフレが心配だな。移住したら、当座の生活費の他は不動産に換えておこう。美大も出ていないし展覧会の入選経験もないが、地域に溶け込んで子供たちを集め、念願だった絵画教室を開く。こんなささやかな夢が日本では実現できない……」

 洋一郎は住宅の一戸一戸が分かるゼンリンの地図に見入っていた。

 もともと他人の金なのに貸し渋る銀行や信用金庫を襲撃するイチかバチかの仕事も考えなくはなかったが、警備の厳重さには太刀打ち出来なかった。それで洋一郎は心苦しく思いながらも、やむを得ずコンビニや個人商店を襲ってきたのだ。被害者のダメージが不公平にならないようにと税務署も真似のできない細心の配慮をしながらの〈仕事〉だった。

「……ようし、これが最後だ。そろそろ渡航準備に取りかからなきゃなるまい。これできれいさっぱり手を退()く……」

 しかし見慣れた配達区域の地図の上には最後の一件が見つからなかった。仕方なしに洋一郎は、この計画を始めた頃〈美空すずめ〉で押し入ったコンビニに再度ねらいをつけた。初めての二度目だった。下見をすると、女子大生らしいバイトがいた。

「……あのオヤジ、バイトも雇えないと言ったくせに。あと少しだから構わないな。夜間はあのオヤジかカミさんだけになる、あと二万円だッ」

 洋一郎は泉ポンポ子に化けた。例によって背中に日本刀をくくりつけてコンビニにバイクを走らせた。

 ブイッ・ブイイイィーーン・ブインッ───


「……あッ、あのときの……」

 目出し帽に日本刀という(いで)立ちから、店主は帽子をとって現れる色っぽい美空すずめとの再会を期待した。

 最初からの綿密な計画で、この店の上限を五万円と決めていたから、洋一郎は差し出された三枚の一万円札から一枚を返した。一瞬、怪訝そうな顔をしたが、待ちきれない店主が言った。

「顔を見せてくれよ」

 洋一郎は目出し帽をめくった。

「な、なんだよ、それはッ。美空すずめはどうしたんだいッ!」

 強盗はどこからどう見ても泉ポンポ子で、店主は美空すずめの倍も口紅を塗った泉ポンポ子に不満だった。

「お前、強盗だけじゃなく詐欺もやるのかッ」

「迷惑をかけたが、もうここへは来ない」

 洋一郎は二万円をポケットにねじ込むと、模造刀の切っ先を店主に向けたまま左手に持ちかえて入口へ後ずさった。店主がカウンターを出て洋一郎との間合いをつめた。

「ち、近寄るなッ。斬るぞッ!」

「止めろ。捕まえようなんて思っちゃいない。見送ってやるよ。今度くるなら美空すずめでたのむぞ」

「…………?」

 ドアを尻で押し開けて、洋一郎はエンジンがかかったままのバイクに股がってアクセルをふかした。

 ブイッ・ブイイイィーーン・ブインッ───


 コンビニの駐車場を突っ切って道路に出ると、とたんに二年間にもわたる目標を達成できたよろこびが込み上げてきた。チラッと店を振り返ると、店の主人が本当に道路まで出て手を振っているのが見えた。洋一郎は少し感動して、左手の日本刀を大きくグルグル回して別れの挨拶をするとヘルメットの中で呟いた。

「……世話になったな。南の国に来ることがあったらウチにも寄ってくれ、あははh。達者でなッ……」

 店主は道路を小さくなっていく洋一郎の後ろ姿をいつまでも眺めていた。


     七


 警視庁・城東警察署の取り調べ室──。

 洋一郎は、犯行動機を訊かれると素直に供述した。

「とにかく日本を脱け出したかったし、ウチのやつに、もう一度手術を受けさせたかったし……」

「ウチのやつだとォ? フンッ。籍も入れてやらねえで亭主気取りするなッ」

「そんなつもりは……。絵美のやつがどうしても首をタテに振らなかったんです。でも、こんなことになっちゃ、それもどうでもいいですけど……。それより、刑事さん。どうして私が犯人だと分かったんです?」

「あそこのオヤジは〈毎朝〉の購読者だ。住居(すまい)は駅前の(じゆう)(さん)(げん)通り裏手。お前が受け持っている区域じゃないかよ。セカンドギアを引っぱって加速する新聞配達のバイクの音に聞き覚えがあったってさ。ブイッ・ブイイイィーーン・ブインッだろ、あっはっは」

 刑事は得意そうに、犯人のドジをあざ笑うようにエンジン音をリアルに再生した。

 洋一郎はうなだれた。


 拘置所に移された洋一郎に、絵美は商売物の弁当を従業員価格で分けてもらっては差入れをつづけた。

「……今まではどうにもならないと思ってきたけど……。だれだって自分だけが可愛いのに、おバカな洋ちゃんは自分の半分もアタシに使ってしまった。〈式を挙げる余裕はないけど、籍だけはちゃんとしよう〉と言ってもらったときは、嬉しくて自分の耳が信じられなかった。それをアタシは、〈後悔するようなことはしちゃだめよ〉なんて痩せ我慢を言って意地を張り通した。だって、いつ(いや)になって()てられても仕方ないと思っていたし、アタシには洋ちゃんが一時の同情で言ったのか本気なのか分からなかったんだもの。強盗は許されはしないけれど、今度で迷いがふっ切れたのはたしかよ。洋ちゃんが戻って来て、そのほうがいいと言うなら、今度こそ籍を入れてもらうわ……」


 一人きりの部屋で絵美は、同居人が罪まで犯した心根が有難くて、懐かしいスケッチを取り出して眺めていた。細いエンピツの線で、切れ長の一重瞼の若い女が描かれていた。女は淡く彩色されていた。

「……筆に水を含ませてパレットの干涸びた絵の具を何度もこすっていたっけ……」

 女の顔の下に、いつも応援ありがとう、と読める





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