熊の恩返し
むかし、昔のお話です。
冬には雪深くなる山の中に、一人の娘が住んでおりました。
髪を無造作にひっつめ、様々な薬草の匂いが染みついた着物を身につけたその娘。名を蜜といいました。
名の由来は彼女の髪と瞳が黒ではなく茶色をしていたからですが、本人はこしがなく結いにくい髪は、枯れ葉色と言うのが正しいだろと冷めたものです。
名付けてくれたおばばは数年前に黄泉へと渡り、蜜は一人でありました。
ですが受け継いだ薬の調合の腕は確かなもので、時折麓の村々へと売り歩くことで、日々を過ごしておりました。
数えで16となる蜜はそろそろ嫁ぐ頃合いですが、一人で山に住む変わり者どころか狐狸妖怪の類いと思われる娘など、もらい手もなかろうと本人は早々にあきらめております。
なにせこの娘、三度の飯よりも薬草の相手が好きなもので。
というわけで、彼女は気ままに山を歩いては、のびのびと薬草毒草と戯れる日々をそれなりに楽しんでおりました。
ですが、冬が近づけば、山と共に生きるものの定め、それなりの準備をしなければなりません。
蜜も小さな田畑を耕しておりましたが、大半が薬草で埋まっており、とうてい冬を越すには足りません。
そのため、冬に必要になりそうな飲み薬や傷薬を方々の里で売り歩き、野菜や米と変えてゆくのが毎年の慣習となっておりました。
「お蜜、冬の間くらい村に降りてきちゃどうだい」
いつも腰痛の薬を買ってくれる村長さんにそう言われましたが、蜜は首を振って断りました。
だって村へ降りてくれば、楽しい調合ができないからです。
「私なんかか居たら、村の評判が悪くなるよ。だって私は妖怪の子だからね。ほら、また村に旅人が迷い込んでこないとも限らないからいないほうが良い」
「仕様のない子だねえ。今年はいつにも増して熊がうろついているようだ。気をつけなよ」
村長さんのあきらめのため息に見送られ、山へと帰った蜜は、なんとか冬越しの準備を終えたのでした。
それは冬ごもりを始めて数日ほど。しんと空気が冴え渡る、初雪の夜でした。
「ああめんどくさい、なぜ冬ごもりなぞしなければならないのだろう。人でも冬眠できる仮死の薬を早く作り上げなければ」
篭ること自体は嫌いではない蜜ですが、こもってばかりでは居られないのが憂鬱なのです。ぶつぶつとつぶやく蜜は、明らかに危ない人ですが問題ありません。
だって誰も居ないのですから。
いない、はずでした。
蜜が小さな家に忍び込む冷気に身を縮め、綿入れ半纏にくるまっていれば、ぱちんっといろりにともされた炎がはぜます。
とんとん、と戸を叩く音がいたしました。
気のせいか、と思った蜜ですが、もう一度とんとんと叩かれ、続けて声がしました。
「申し、どなたかいらっしゃいませぬか」
低く獣がうなるような太い声は、男のものでありました。
「自分は山から山へ旅をしている者ですが、急な雪に降られて難儀をしております、どうか一晩だけでも……さぶい」
ついでにもの凄く震えておりました。
がちがちがちと、声だけで分かる歯の根も合わされぬ凍えっぷりです。
この家は、山を越えて村へ行く道の途中にあるため、漏れる明かりを頼りにたどり着く旅人も稀に居ます。
女一人の住まいに不用心だと思いますが、蜜は途中で凍死しても目覚めが悪いと、戸を開けてやることにしました。
つっかえ棒を外し、引き戸を開ければ、そこにあったのは雪まみれの壁でした。
いえ、戸口を埋め尽すような大男でありました。
なにせ、頭が入り口から見えないのですから。
鎧こそ身につけていないものの、黒染めの立派な衣を身に纏った男は、年の功は三十ほどでしょうか。
精悍な面立ちは、百戦錬磨の武士にも劣らぬ迫力があります。
ですが、この寒空には少々薄着過ぎますし、何よりどう見ても旅装束ではありませんでした。
あえて言うのなら、遙か遠くにある都の宮廷に出仕するような身なりです。
足元も、山歩きにはそぐわない軽装でした。
なんだこのちぐはぐっぷりはと下から上へと眺めたを蜜は、首が痛くなるほど上を向いたところで、目を点にいたしました。
「どうか、したか」
不思議そうな大男が首をかしげたおかげで、楽に見ることができます。
人の丸耳のほかに頭頂近くにあったのは、丸い2つの耳でありました。
髪と同じ、見事な黒のふさりとした獣の毛で覆われたそれは、明らかに人ではありません。
そういえば、若干獣の匂いもいたします。
男の精悍な顔にはずいぶんかわいらしいそれに、獣化けか、と蜜は得心いたしました。
時折、蜜の下には、狐狸妖怪の類いも薬を買いに来るからです。
狸にしては少々丸い気がするし、熊であろうかと考えつつ、蜜はどうしたものかと思案しました。
熊であればすでに冬眠するために穴蔵へ収まっているはずですから、この寒いなかに訪ねてくるとはよほどのことなのでしょう。
まさか冬を越す栄養が足りないから自分を食べに来たのだろうか、とも考えましたが、それにしては痩せたところはありません。
なにより、
「(絶対、化け損ねているのに気付いていないんだろうなあ……)」
蜜は、指摘するのは後でもできると、とりあえず熊化けの男を中に入れてやることにしました。
男は、足踏みをして寒さを紛らわしているにもかかわらず、こちらが口を開くのを待っている律儀さは悪くありませんでしたので。
まあ、一番の理由は深々と降る雪はすでに地面へ積もり始めており、開いた戸から忍び寄る冷気が苦痛だったことが大半でした。
「この初雪の晩に難儀だったでしょう。あばら屋でよければ上がってください」
「かたじけ……うぐっ」
身体を半身にして招き入れれば、男は礼を言いつつくぐろうとしたのですが、見事に頭を戸の枠にぶつけておりました。
ずいぶん間抜けです。
涙目で額を押さえる男を、そっと見ないふりをしてやって戸を閉めた蜜は、手ぬぐいを差しだしてやりました。
「どうぞ火の近くへ、こちらの手ぬぐいで頭をぬぐわれてはいかがでしょう。ぬれたままにしておけば、風邪をひいてしまいます」
「助かっ……たっ!?」
こっそりと盗み見てみれば、男は頭に手をやったとたん慌てておりました。
ようやく気付いたのでしょう。
不安そうにこちらを伺う男がおかしくて、蜜は笑いをこらえて素知らぬふりをするのが大変でした。
まあでも、この熊化けがやって来た理由を探らねばならないと、蜜は水を向けてみます。
「旅人様は、お武家様でいらっしゃいますか」
「まあ、そのようなものだ」
「恐れながらお名前を伺っても?」
案の定、男は焦ったように目を泳がせていましたが、ぽんっと手を打つ音が聞こえるような雰囲気で名乗りました。
「皆黒という。娘さんの名前は」
「蜜、と申します」
ちょうど夕餉時だったので、汁物をごちそうしてやれば、男――皆黒は戸惑いつつも不器用な仕草で箸を使っておりました。
なるほど、人に化けるようになったのはごく最近のことらしいと密かに思っていれば、男は一口にします。
とたん、溢れんばかりの喜色に彩られました。
「うまい、これほどうまいものがこの世にはあったのか!」
「ただあり合わせの菜物を味付けしただけですが」
「だがうまい! 人というのはまっことすごいなあ!」
皆黒さん、地が出てますよ、思いっきり。
と蜜はあきれ果てておりましたが、褒められて悪い気はいたしません。
「では、酒もいかがでしょう。身体が温まりますよ」
「これは、不思議な味のものだな。胃の腑が熱くて楽しくなってきた」
蜜が酒を勧めてみれば、皆黒は上機嫌で一杯二杯と傾けます。
顔はかっかとほてりだし、また熊耳が出ていましたが皆黒は気付かないふうで、勝手に話し始めました。
「せっかく恩返しに来たというのに、俺ばかりが良い思いをして申し訳ないなあ」
「恩返し? ですか」
「この飯を毎日食えるのであれば、何でもしたいなあ」
要領を得ない皆黒の言葉は酔っ払いそのものです。
皆黒はがつがつと不器用ながらも箸を進めながら酒を呑みます。
その横で、蜜が曖昧に相づちをうちながら椀の物を口に運んでおりますと、彼は2杯目を食べ終えようとする頃に、ふらりふらりと頭を揺らめかせはじめました。
「う、む……?」
重たそうなまぶたを開けようとするも、あらがえず。
ばたんっ!と大きな音を響かせて巨体が板の間に転がります。
たちまち大いびきをかきはじめた皆黒に、蜜は息をつきました。
そう、面倒くさいので、蜜は眠り薬を一服盛ったのです。
蜜が見知らぬ旅人を泊めるときに、自衛のために使っている手でありました。
なにせ、暗がりですと蜜はただの娘に見えますから、不埒な行為に及ぼうとする男もいますので。
「一応、熊用の調合をしたのだが、まさか2杯目まで完食するとは……うむ?」
これからどうするかと考えておりますと、皆黒の身体が煙に覆われ、ぽんっと間抜けな音と共に、一匹の大熊に変わりました。
いえ、戻った、と言うべきでしょう。
人の姿よりもよほど大きい体長は六尺ほどはありましょうか。
蜜はその見事な黒の毛並みに感嘆のため息を漏らしました。
普通は胸元にある白い毛までが黒なのです。
なるほど皆黒は、猟師に呼ばれた名だったか、と得心した蜜でした。
「胆のうを売ったらどれだけ良い値段で売れるだろう……」
熊の胆のうは、乾燥させると消化を助ける良き薬となります。
薬で身を助けている蜜には大変魅力的ではありましたが、思いとどまりました。
皆黒の言葉の端々から、蜜に危害を加えるつもりはないと分かっていたからです。
それはおろか、どうやら蜜に恩義がある様子。
はて、熊に恩を売ったことがあっただろうかと首をかしげる蜜は、そう言えば、と思い出しました。
今から五年前、まだおばばが生きていた頃、傷ついた小熊を助けた覚えがありました。
薬の煎じ方を習始めた頃で、ちょうど新しい傷薬の効能を試したいと思っていたところでしたか、おばばに隠れてかくまったのでした。
母熊らしき熊が別の村で殺されているのを知っていたから、傷が治っても生きられないかも、というのには目をつぶって。
結局おばばに見つかってめいっぱいしかられて、逃がしたのでした。
そういえば、あの熊も胸に白い月形の毛はなかったと思いつつ、蜜は改めて目の前に横たわる熊を見ましたが。
「いや、変わりすぎだろう」
なにせ、体格は優に当時の三倍はありました。
成体になったとはいえあまりの変容に驚きます。
とりあえずそれしか心当たりがない蜜は、どうしたものかと悩みました。
こういうあやかし者は、正体を看破してしまえば、逃げて行くのが相場です。
ですが、この律儀そうな熊は、その後も恩を返さない限りは熊の姿でもつきまとおうとするかもしれません。
好きで村八分にされている蜜ですが、さすがに熊に憑かれていると言われるのはごめんでした。
冬ごもりも面倒なのに、とてもとても面倒だ。
そこまで考えた蜜は、ふと思いつきます。
この男、人の時でもずいぶん力持ちそうだ。
雪下ろしに冬の仕事は男手がそれなりに居る。
どうせ、蜜の評判など良いものではないから、今更男を引っ張ってきたと言われても驚かれまい。
冬に訪ねてくる村人なぞほとんど居ないし、その時は納戸にでも隠れてもらえば良いだろう。
恩を返したいと言うのであれば、一冬くらい手伝ってもらうのも良いのではないか。
「まあ、幸いにも、今年はそれなりに蓄えがあるし」
なかなか良い案のように思えた蜜は、にんまりと笑ったのでした。
*
その翌朝、敷いた布団の上で小袖にくるまって眠っていた蜜は、ドタッと慌てる音で目を覚ましました。
一瞬混乱した蜜でしたが、熊が熊のままで目覚めて慌てる音だろうと得心して、そっと気付かれないように目を開けました。
「お、俺はいつから……それよりも、早く人にならなければっ」
皆黒が、ぶるりと身を震わせれば、ぽんっと煙に包まれて、昨夜の大男に変わります。
そこまで見届けた蜜は、わざとらしくあくびをしながら、起き上がってやりました。
「おはようございます、皆黒さん。どうか、ましたか?」
「あ、いや、昨晩は大変失礼した。途中で眠ってしまうとは」
あからさまにほっとする皆黒に、笑ってしまいそうになるのをこらえつつ、蜜は素知らぬ顔で話を合わせてやります。
「きっと旅の疲れが出たのでしょう。女の細腕では布団に移すこともできず、小袖だけ掛けましたが」
「身体だけは丈夫だから、大丈夫だ」
蜜が朝餉の準備を始めていると、皆黒は不思議そうに室内を見回しました。
「どうかなさいましたか」
「沢山の草が垂れ下がっているなあと」
「私は薬師のまねごとをして身を立てておりますので。それらは全部薬の材料ですよ」
明かりを採るために窓を少し開けたから、室内がよく見えたようです。
この光景を、初めて見ると、怪しげな術や呪いをしているのではと怖がられるのだが、皆黒はひたすら感心するばかりでした。
「そうか、それで俺のことも治せたのか……」
ぽそとつぶやく皆黒へ、蜜は麦と大根を混ぜた飯を差し出しました。
また漬け物と糧飯だけの朝食に感激する皆黒でしたが、次第にそわりそわりと落ち着かない様子になって行きました。
まあ当然です。恩返しに来たのに、したことと言えば、ご飯を食べて寝ただけですから。
こちらから切り出してやるべきか、と蜜が思い始めた頃、皆黒はがばりと頭を下げたのです。
「蜜どの。もうしばらくこちらに滞在させてもらえないだろうか」
「それは、ご飯が食べたいからでしょうか」
やたらとご飯を気に入っていたので問い返せば、皆黒はうぐっと、意気を飲み込みます。
そんなに素直で大丈夫かと蜜は逆に心配になりましたが、皆黒は直ぐさますっくと姿勢を正して言い募りました。
「それもなくはないが。仔細は言えぬがこの一宿一飯の恩義を返したいのだ。俺にできることは何でもしよう。この冬だけでもそばに置いてくれないか」
なんて馬鹿正直な熊だと、蜜は少々呆れましたが、ここまで来るとなんだか可愛く思えてくるのが不思議です。
ですが、言質はとれました。
蜜はこほんと咳払いをして身体を縮める皆黒に向かい合いました。
「ならば、私はあなたをお客様と扱いません。何があってもこの家の主である私に従ってもらいます。それでもよろしければ、どうぞ春まで居てください」
「ありがとう、蜜どの! よろしくたのむっ」
みるみるうちに表情を輝かせる皆黒に、蜜はにっこりと微笑んで見せます。
なぜか顔を赤らめる皆黒が不思議でしたが、ここからは遠慮はいりません。
「というわけで、皆黒、雪かきをよろしく。それが終わったら薪割りだ。はー助かるぅ」
「は……」
言葉遣いをがらっと元に戻した蜜が、部屋の隅に立てかけてある木製の雪かきを差し出せば、皆黒は目を点にしていたのでした。
*
さて、こうして蜜は、熊化けだと気付かぬふりをして、皆黒と暮らし始めたのですが。
この皆黒、たいへんなポンコツでありました。
雪かきを任せれば、腰を痛め、薪割りをさせれば台まで真っ二つ。
仕方ないので内職に縄をなわせれば、まったく以てぶきっちょそのもの。
さらには雪に埋もれかけるというていたらく。
そもそも、熊は冬には眠るもの。
雪の中での、しかも人の働き方なぞ知るわけがないわけでして、少々想像力を働かせれば良かったと、蜜は布団で横たわる巨体を前にため息をつきました。
「すまぬ、蜜どの。……あいだっ!?」
しょげかえる皆黒の剥き出しになった腰に、ぺしっと練り上げたばかりの湿布薬を貼ってやれば、涙目でうなります。
「とりあえず、身体を痛めてるんなら早く言え。我慢強いのは長所じゃない」
「わ、わかった。次からは言おう」
素直さと、真摯な態度だけは認めてやれる、と蜜は息を吐きました。
家の中でも、吐いた息は白に染まります。
雪は溶けるはしから降り積もり、森の木々も白く色づいておりました。
指は勝手にかじかみ、囲炉裏の炎に手をかざせば、じんわりとしびれに似たぬくもりが通います。
時折、大きな雪の塊が落ちる音と、いろりで火がはぜる音以外、しんと静まっておりました。
ついでに肩にも湿布薬を貼ってやりますと、皆黒は申し訳なさそうに身を起こしました。
衣は、村でも目立たない温かそうなものに変わっております。
見ているだけで寒そうだからと、蜜が病人に着せるための衣を仕立て直してやったのでした。
それでもつんつるてんなのですが。
なんだか、仕事を押しつけて楽をする予定だったのに、色々仕事が増えてるぞ、と蜜が憮然としていると、皆黒がすんすんと鼻をならしました。
「この匂いは落ち着くなあ」
「薬の匂いがか?」
熊はとても鼻が良い生き物です。
薬草には匂いの強いものが多いので、嫌がりそうなものなのに、蜜は意外に思っていますと、皆黒はなんてことなく言いました。
「蜜どのが纏う匂いと同じだからかもしれない」
それは私がくさいと言いたいのか、と冷静に考えた蜜ですが妙な気分になって文句は言えませんでした。
彼のあたたかい眼差しが理由でしょうか。よく分からなかった蜜は、とりあえず薬研や乳鉢を片付けますと、皆黒が腕を組んで言いました。
「それにしても俺は本当に役立たずだ。狩りだったら、得意なんだがなあ」
「なら魚釣りでもしてみるか。そうすると食べ物に気を遣わなくてすむ」
「大変に申し訳ない……」
皮肉にだいぶ気落ちしている皆黒ですが、蜜は口で言うほど責めてはいません。
なにせ、一月経った今では、へっぴり腰でやっていた雪かきもそこそこになっていたし、雪での歩き方も様になっていました。
まあ、あくまでそこそこなのですが。
「ところで、私は明日村へ出かけるから、留守を頼む」
蜜が作った薬を薬包紙に包みながら言えば、皆黒ががばりと身を乗り出してきました。
急に動いたせいで痛みを伴ったようで少々固まって降りましたが、勢いは衰えませんでした。
「もしや俺が食い過ぎたせいか!?」
「それもあるが、いつものことだ」
この時期になると晩秋に売り歩いた薬がなくなってくるため、もう一度村々を歩いて売り歩くのです。
「向こうで一日泊まる。食い物は教えたところにあるから、なんとかしてくれ」
「いや、だが……」
「大丈夫だ、ついでに餅でも買ってくるよ」
「もち?」
「祝い事には欠かせないものだろう?」
そろそろ年の瀬でありますから、正月の支度をしなければならないのです。
独り身の蜜の家でも、すす払いを済ませ、薬草の整理までして、門松代わりの松飾りを入り口にくくりつけておりました。
さすがに一人で餅をつくには大変ですから、村でついたものを分けてもらっているのが通例でした。
とはいえ、熊化けである皆黒にはわからないだろうとそれとなく説明すれば、彼は少々焦りながらもうなずきます。
「わかった。水くみも雪かきもきちんとしておこう」
「あさってには帰ってくるから。心配するな」
心配そうにする皆黒に何でもないように応えた蜜は、翌朝早く、雪道を下っていったのでした。
*
ひと仕事終えた村からの帰り道、しくじった、と蜜は重い足を引きずって、吹雪く山道を登っておりました。
薬はうまく売れました。餅もきちんと確保しております。
いつもより多めに包んでもらったことを不思議がられましたが、些細なことでした。
ですが身体がひどく熱いのに、身体の芯は凍えるような寒さに身体が勝手に震えます。
かぶっていた頭巾と蓑をかきあわせてもなお、吹きすさぶ寒風がいつもより身に沁みました。
雪降る寒さだけではありません。
頭が重だるい感覚は、明らかに体調を崩す前兆でありました。
理由はいくつか心当たりがあります。
村に居る間にまた気温が下がったのも一つ、そして少し重い冬の病の看病で一夜を明かしたのが一つ。
そして、久々に村に外からやって来た人間がいたからでした。
蜜は茶の髪を隠すため、里へ下りるときは頭巾をきっちりかぶっているのですが、たまたま脱いでしまっているところを見られてしまったのです。
村の者たちは小さい頃からの付き合いで安心しておりましたが、蜜は外の者から見れば忌避されるものであることを久々に思い出しました。
その外の者は村人達が懲らしめてくれましたが、はやく自分の家に戻りたくて、体調が悪いのを無視して雪道を歩いているのでした。
忌避のまなざし、振り払われる手が脳裏にちらつき、蜜の視界がぐらりと揺れます。
熱がまた上がったのでしょう。
かき分ける空気は氷のようであるのに、身体の芯は熱をもっておりました。
ここで倒れてしまえば、翌朝には冷たくなっているのは蜜です。
ですが、もう一歩も歩けそうにありません。
何かが雪を踏みしめる音が聞こえました。
のろりと顔を上げれば、のし、のしと歩いてくるのは、焦げ茶色の獣でありました。
蜜に気付くと、2本足で立ち上がり、その胸には真白い月型の毛が生えています。
それは冬眠に失敗した熊でした。
「は、は。私も年貢の納め時か」
なぜ熊が冬に眠るか。それは冬に食べ物が少なくなるからです。
目の前にいる熊は、ひどく腹を空かせているようで、たちまち蜜のほうへ走って参ります。
体格は蜜と同じくらい。
ですが、熊は人なぞよりもずっと力も強ければ速く走りますし、そもそも蜜に走る元気はありません。
思い浮かぶのは、家に残してきた熊化けの男で。
「蜜どの!!」
白にゆがむ視界の中、駆け寄ってくる真っ黒くて大きな影が、一回り小さな熊へ襲いかかりました。
月明かりに照らされて、前足を振りかぶる皆黒は、恐ろしく猛々しく。
「みな、ぐろ……」
ああ、ほんとうに、狩りはうまいのだな、と場違いなことを考えて、蜜はぱったりと、雪の上へ倒れたのでした。
蜜がふと目を覚ますとあたりは真っ暗でした。
ほんのりと囲炉裏に灯る燃えかすが、わずかにあたりを照らす中、懇願の声が聞こえます。
「蜜どの、蜜どの逝かないでくれ。俺はまだ恩を返し切れていない」
雪に埋もれているような寒さと、頭が煮えたぎっているかのような熱にもうろうとしながら、蜜がぼうっと声のほうへ首を巡らせれば、皆黒が腰を浮かしました。
「蜜どの! 道で倒れていたから心配したぞ。やっと目を覚ましてくれたか。何かできることはないか?」
やはり皆黒が迎えに来てくれたのか、となぜか安堵する心と共に、暗闇へ放り込まれたような不安が襲いかかってきます。
「みなぐろ……」
「なんだ」
「私の目は、こわく、ないか」
面食らう皆黒に、蜜はすがるように問いかけておりました。
「私の髪は、気味悪くないか」
村の人々はみな黒髪で黒い瞳なのに、蜜は生まれつき色が薄く、茶色の髪と瞳でした。
おばばは、黒髪がただ薄く生まれただけだと、黒髪を日に透かして教えてくれましたが、蜜はこの薄い色だったために、本当の親に捨てられたことを知っています。
村に住まないのは、一人が好き、と言うのももちろんありますが、忌避されるのがおそろしいからでありました。
自分らしくないと、ぼんやりと自覚しておりました。
こんなことを言ってしまうのは、全部熱のせいだ。忘れてしまおう。
けれど、皆黒は不思議そうに言うのです。
「なぜだ、蜜の目も髪も、おいしそうな蜂蜜色ではないか。俺の一番好きな色だ」
なんてことはなく、ごくごく当たり前のようにむしろなぜそのようなことを訊くのだろうと言わんばかりのその言葉に。
蜜は涙をこぼしました。
「蜜どの、どこかつらいのか、苦しいのか!?」
「ちがう、みなぐろ、違うんだ」
嬉しいんだ。
最後はかすれて声にはなりませんでしたが、たちまち慌て出す皆黒におっくうながらも否定して、蜜は笑いました。
これだけ家路を急いだのも、餅を喰わせてやりたくて多く持って帰ったのも、この熊化けがいたからでした。
一人ではない時間が、どれほど嬉しかったか。
声を出せば言葉が返ってくることがどれほど楽しかったか。
こみ上げる想いを、ほどけて行く心をぼんやりと自覚する中、蜜は身体の芯から震えを感じました。
「さむい、な……」
「さむい!? どうしたものか、着物は全部かけてしまっている、ほかには……」
皆黒がおろおろあわあわとするのが気配で分かります。
ですが、それもほんの少しの間で、皆黒は覚悟を決めたように言いました。
「蜜どの、良い湯たんぽを見つけたのでな、目をつぶってはくれぬか」
理由を聞くのもおっくうでその通りにすれば、ぽんっと間抜けな音が響き、顔の周りになにやらごわりとした毛皮が寄り添うのを感じました。
皆黒が、元に戻って寄り添ってくれているのだとすぐに気付きました。
「蜜どのがいないあいだに獣を一匹仕留めてな、皮をなめしておいたのだ」
蜜は獣の匂いに包まれましたが、むしろ心地よく。蜜は満たされました。
皆黒の考え抜いた末の優しさが、身体はもちろん、心までぬくもりを与えてくれました。
だから蜜は、目をつぶったまま、皆黒へとすり寄りました。
毛皮の下の筋肉が驚いたように動きましたが、すぐにほぐれます。
「やはり俺は蜜どのがいないと寂しい。早く良くなってくれ」
「ああ、皆黒はあったかいなあ……」
「!?」
自分が何を口走ったのか、気付かぬまま、蜜はまた闇へと滑り落ちたのでした。
*
蜜が床を払ったのは、それから二日後のことでした。
寝込んでいたのは丸三日で、正月はもの見事に過ぎております。
しかしなにもしないのもつまらないので、蜜の快気祝いとして、雪に埋めて保存していた菜っ葉とだいこんで雑煮をこしらえました。
向き合って座って食べますがが、お互いに大変気まずい沈黙が流れておりました。
なにせ蜜は、熱に浮かされている間に己の取った言動を、すべて覚えておりますので。
人生最大の不覚であったと、蜜は赤らむ顔をうつむけて、火鉢にかけた網に餅をのせていきました。
いつもなら綺麗に言葉で隠してあるものをさらけ出しまい、その場で床にごろごろ転がって叫びたいのをこらえているほどです。
ですがいぶかしいのは、皆黒が珍しく葬式のような深刻な顔をしていることでした。
なにせ、見たこともない餅を焼いているにもかかわらず、まったく興味を示さないのです。
雑煮も餅も熱いうちに食べなければおいしくありませんから、とても困ります。
餅は高いものですから、無駄にして欲しくありません。
蜜がぷっくりふくれた餅を前に思案していますと、皆黒は思い詰めた様子で口を開きました。
「蜜どの。その寝込んでいたときの会話を、覚えているか」
「はっうあちっ!?」
びくんっと肩をふるわせてしまった蜜は、うっかり熱した網に手を引っかけてしました。
「皆黒、雪、ゆきをくれっ」
「あ、ああ!」
たちまち外へと駆けていった皆黒が両手にすくって持ってきた雪に、手を突っ込みます。
けれど、とたんに皆黒が雪を地面に落してしまいました。
「何やってるんだ、床が濡れるだろう」
仕方なく膝をついてかき集め、冷感を取っていれば、皆黒がぽつりと言いました。
「やはり、蜜どのは俺が人ではないと気付いたか」
「は?」
今更も今更なことでしたので、蜜が間抜けな声を出して見上げれば、皆黒が悲しげな顔をしております。
「熱に浮かされながらも、俺は毛皮だと言ったのに、俺の名前を呼んだだろう」
そう言えば、皆黒はあたたかいと、漏らしていた気もします。
まさか、その発言で気付くとは、皆黒にしては冴えていると思いつつ、蜜は皆黒が沈んでいる理由を察しました。
ですが見当違いも良いところです。
「俺は、その昔、蜜どのに助けてもらった小熊だ。成体になって、人に化けられるように修行をして、恩を返しに来たのだが。蜜どのに正体が明るみになってしまったのであれば、俺はここを出て行かねばならないのだ」
「いや、待て、皆黒」
「すまない、俺のわがままを通したばかりに、蜜どのを怖がらせてしまった。せめて蜜どのが元気になったのが幸いだ」
「皆黒、待てと言っている」
世話になった。と頭を下げ、立ち上がる皆黒の衣を、蜜ははっしと捕まえます。
ついでに彼の浮いている足に払いをかければ、巨体はもの見事にすっころびました。
「な、なにをする。みつど、のお!?」
盛大な音を立てて床へ倒れた皆黒は、さらに真っ黒な瞳を丸くします。
皆黒の腹をまたいで馬乗りになった蜜は、むかむかと煮えたぎる怒りのまま胸ぐらをつかみました。
「んなもん、最初から気付いてるに決まっているだろうっ自分の頭をさわってみろ!」
「へっ?」
皆黒が慌てて頭を触れば、そこにあるのは熊の耳です。
「い、いつからっ」
「お前が訪ねてきた時には出ていたぞ」
「なんと」
「しかも驚いたり泣いたりするたびに、ぽんぽん現れたら分からない方がおかしいわっ」
そうなのです。出会いの後も、皆黒の熊耳は、ことあるごとに出現していたのでありました。
ずーんと落ち込む皆黒へ、蜜は容赦なく続けます。
「しかもどんくさいし、腰痛めるし、雪に埋まるし、そんな熊を怖がる要素なんてあるわけないだろ」
「み、蜜どの……」
泣きそうになる皆黒でしたが、かたくなに首を横に振ったものです。
「だが、見つかったからには山へと帰らねばならぬのが、化けの定め。人の姿を保っていられなくなるのだ」
差し出された手を見てみればなるほど、滑らかだった人の手に、だんだんと黒い毛が生えてきておりました。
「はん、あやかし者も融通がきかないなあ。よし、わかった。いったん帰れ」
「はっ?」
「そんでもう一回来い。帰ったあとなら人の姿に戻れるんだろう」
思ってもみなかった、と驚く皆黒はですがおびえた顔をいたします。
「そんなこと、誰も考えたことがなかった。もしかしたら蜜どのの前では人になれないかもしれぬ」
「どうでも良い。人になれなかったら熊のお前に行火がわりになってもらうさ。熊のお前でもできるように水くみでも薪拾いでも工夫してやる、そうだ魚を捕ってきてくれたって良い」
なにせ、皆黒が釣ってきてくれていた魚は、村で良い物に交換ができたので。
それになにより望むのは、蜜をまっすぐに慕ってくれる皆黒でありましたので。
「戻ってきて、良いのか」
呆然とする皆黒に、蜜は呆れた顔をしてみせました。
「おいおい、お前、忘れてないか。お前が今まで役に立ったのなんて微々たるものだぞ。私はお前の命を救ったんだ。まだまだきりきり働いてもらわないと困るんだよ」
実際はあの熊から命を救ってくれたのですから、小熊に薬を塗ってやった程度の恩など返してもらっているとも言えるのですが。
それはそれ、これはこれ。と思う蜜でありました。
「そ、そうか」
「あとな……私が寂しいんだ」
もう、この熊がいない生活に戻れないと思ってしまうくらいには。
ほんの小さな声で漏らした本音に、皆黒の熊耳がひくりと動きました。
すでに顔にも黒い毛並みが生え始めていてもわかる喜びっぷりです。
「蜜どのは俺がいたら寂しくないのか、そうかあ!」
そうでした。熊はとても耳が良いのでした。
たちまち顔を火照らせる蜜が何かを言おうとする前に、皆黒がぐんと身体を起こします。
あわや蜜が転げ落ちかけるところを、たくましい腕に支えられました。
「ならばずっと側にいよう。蜜どのが寂しくないように。だがそれでは恩返しにはならないなあ」
「何でだ」
「俺が嬉しい」
その距離の近さと、柔らかく微笑む皆黒に、蜜は絶句いたしました。
心の臓は病にかかったかのように飛び跳ねます。
皆黒が男子であると否が応にも思い知りましたが、すぐに言い返しました。
「まるで夫婦の約束みたいなことを言うなっ!」
「めおと、とはなんだ、何をするんだ?」
「な、何をするって、一緒に飯を食べたり、側にいたり……」
「なら今と変わらないな、つまり俺たちは夫婦なのか」
「そんなことは……」
ないと言いたかった蜜ですが、否定できる要素がないのが困りものでありました。
ひたすら恥ずかしいにも関わらず、嬉しさがこみ上げてくるのが始末に負えません。
蜜は無性に悔しい気分になりながらも、皆黒の胸に手をついて逃れました。
「し、しるかっ。ともかくこれだけ焼き始めている餅を私が全部食えるわけがないんだ。なるべく早めに帰ってこい!」
「ああ、分かった。ひとっ走り帰ることにするっ」
立ち上がったとたん、皆黒はぽんっと熊に戻ります。
そうして、四つ足で戸口から出て行く皆黒を、火照る頬のまま蜜はふんと鼻をならしてみおくったのでした。
それから時が過ぎ、とんとん、と戸を叩く音が響きました。
「申し、すまぬが……おうっ!?」
皆黒の口上が終わる前に戸を開けた蜜は、顔を思いっきりひん曲げて怒鳴ります。
「お前、早く帰ってこいと言っただろうがー!」
「す、すまん蜜どの。せっかくだから魚でも捕ってこようと思ったのだが思いの外難儀して」
「お前を待っていたせいで、せっかく焼いた餅がすっかり固くなってしまったじゃないかっ!」
「すまぬ……だが、この通りだぞ」
しょんぼりとしながらも手を広げて見せる皆黒は、出会ったときと精悍な面立ちの大男になっておりました。
今回は熊耳もありませんし、手には大量の魚を枯れ蔓で縛って下げております。
もしかしたら帰ってこないかも、と少なからず不安だった蜜は、密かに息を吐きました。
とはいえ、素直に見せるのは癪に障りますので、顔はふてくれさせたまま、そっと身体をずらしてやりました。
「……とっとと入れ、外は寒い。ついでに魚も焼くぞ」
「ああ!」
皆黒がぱっと表情を輝かせて中へ入って行くのに戸を閉めて続こうとした蜜でしたが、その後ろ姿に、吹き出しました。
「どうした、蜜どの」
「なん、でもないっ」
何せ皆黒の尻には、熊の尻尾がぴょこんと出ていたのですから。
ああ、今度はこれに気付かぬふりをせねばいけないのか。
なんとも気の休まらない、と思いつつも、この熊化けを好いてしまった己の負けでしょう。
蜜は笑いをかみ殺しながら、皆黒と共に祝いの雑煮を食べたのでありました。
ともあれ熊の恩返しはこれからも続くこととなりまして。
二人は賑やかに化かし合いながら、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。
おしまい。