8
「…寒い」
ベルは寒さで目を覚ます。
焚き火の方を向くとマーズが枝を足していた。
空は真っ黒から青に変わり始めてる。
もうすぐ夜明けだろう。
マーズと目があった。
ベルは怯えて身をすくめたが、マーズは何も言わずアランの横に戻って行った。
怖かった。
最初マーズに感じた恐怖が忘れられなかった。
マーズが離れたから少し火に近付いた。
「ルディ。マントを貸してやれ」
マーズが声を落として言った。
「マーズが貸しなよ」
ハロルドが言い返す。
「俺とアレンのマントは向こうだ」
マーズが騎士の遺体を指した。
「分かったよ」
ハロルドが嫌々起き上がってベルにマントを掛けた。
「…ありがとう。ルディさん」
ハロルドが冷たく言った。
「愛称で呼ぶな。マーズが貸してやれと言うから貸すけど、君はマーズに足の治療をして貰ったのに一言も礼を言ってない。それなのに、たかがマントを掛けた僕に礼を言うの?ふざけてるよね」
「あ…」
ベルは弾かれたようにマーズの方を見た。
ハロルドに言われて、自分がどれだけ最低な事をしたのか、気付いたら胸が苦しかった。
どう謝ろう。
そう思っても、怖いマーズに話し掛けるのは怖過ぎて無理だと思った。
「やめておけ。他の者が起きる」
マーズがハロルドを嗜める。
ハロルドも言うだけ言って気が済んだのか、素直に従って戻った。
ベルが声を殺して泣いてても誰も声を掛けない。
夜が明けるまでの時間が長かった。
明るくなると、マーズはテントの周りに刺した枝を抜いて焚き火にくべた。
消えそうな焚き火に枝を足して、起きている兵士を連れて水汲みに行く。
ベルはそんなマーズをおずおずと見ていた。
夜中にハロルドに言われた事がぐるぐる頭にあった。
お礼を言えない。
アランが怒っているのもだからだと思った。
勇気を出して追い掛けて行こうか迷っていると、ハロルドがベルに来るよう目で言った。
マーズが向かった方向へハロルドの後ろから歩く。
途中水の袋を持った兵士とすれ違った。
水の音が近くなる。
山奥の修道院を思い出しながら、ベルはハロルドの後を着いていった。
立ち止まったハロルドが前を指差した。
川辺でマーズが水を汲んでいた。
「あ…」
咄嗟に口を手で押さえる。
水を汲むマーズの横には大きな雄鹿がいた。
雄鹿の後ろには小鹿もいる。
知らず涙が出た。
産まれてからずっと山奥の修道院で育ったベルには、自然だけが友達だった。
修道院に預けられた時から居ない者として扱われ、必要な事しか話さない生活の中で、ベルが言葉を覚えたのは奇跡だ。
森の、自然のルールで育ったベルの目にはマーズは森の王さまに見えた。
雄鹿が威嚇もせずマーズを王として受け入れている。
自然で暮らしたベルでさえ信じられない光景だった。
マーズは水を汲むと、離れて待ってる兵士に袋を渡し先に帰れと手で指図した。
マーズが川辺に戻る。
雄鹿はその場を動かない。
待ち兼ねたように小鹿がマーズに近付いて、鼻をぐいぐい押し付けていた。
「少しだけだぞ」
マーズは笑いながら小鹿の頭を撫で、押し付けてくる鼻の頭を撫でた。
ベルはマーズの笑顔を初めて見ていた。
自分が誰を恐れていたのか知って、身震いが出た。
「あれがお前が怯えるマーズ。アランの主人だ」
「え…」
だからアランが冷たかったのかとベルも気が付いた。
暫く遊んでから、マーズは懐から何かを出した。
手のひらに乗せて、小鹿に食べさせる。
もう1つを持って雄鹿に近付き口元に手を近付けた。
雄鹿は大人しく撫でられて、マーズの手から何かを食べてから小鹿を連れて森の奥に消えた。
ハロルドの後からテントに戻るベルの中で、恐怖が王への憧れに変わっていた。
遅れて出てきたマーズにお礼を言った。
「…ありがとうございました」
「気にするな」
マーズはあっさりアレンの方へ行ってしまった。
兵士に指図するマーズをベルが目で追う。
それを見たハロルドが睨むアランに苦笑いした。
「薬が効き過ぎたかな」
「私の事言えないですよ」
みんなが朝食も終わって時間をもて余す頃になって、やっとマリアが起きてきた。
横を通ったマリアに、ハロルドが険しい顔になった。
朝食はいらない、とだるそうに言うマリアを放置してテントを畳む。
出発の前に町から使いの馬が来て賊を乗せて行った。
ハロルドの馬は町らしい。
なのでマーズの後ろにハロルドが乗った。
アランの指示で移動が始まる。
歩き出してから、ベルが不自然に後方のマーズを見て来るようになった。
さっきまでこっちの気分が悪くなるほど怖がってたのに、手のひらを返すように態度を変える。
思わず、さすがマリアと姉妹だと痛感していた。
それで思い出した。
「マーズ。酒臭い」
「マリアか?」
「あれじゃ朝起きられないはずだよ」
酒の事で、ハロルドは本気で怒っていた。
不安からマリアが酒に逃げて飲まれてるのは分かる。
でもそれは最悪の現実逃避だ。
町までの道でもマリアは煩かったけど、頭にきてるハロルドが黙らせた。
その夜の夜営で、マリアに追い出されたベルが緊張から洋服を掴んで焚き火の近くに来た。
話し掛けて貰うのを待っているのは分かるが、そこまで来たなら勝手にあたれとハロルドは思っていた。
都合のいいベルの態度を見てからは、助けようと思う気持ちが湧かなかった。
最後の町にはカインからの連絡と荷物が着ていた。
ハロルドの馬は貸した騎士が世話をしてくれていた。
マリアもハロルドから離れて顔が晴々していた。
ここから国境まで2日。
上手くすれば明後日の夜にはフィアの地に戻れる。
「あと2日。長いなぁ」
「3日と思えば腹も立たない」
ハロルドのぼやきをアランが訂正した。
「明日の朝も遅いから、2日は無いでしょ」
「はぁ」
ハロルドがうんざりして脱力していた。
アランが手紙を片手に部屋へ戻るのを見て、ハロルドが止めた。
「もしかして、それシルビアから?」
「そうだよ」
「僕には?」
「あるわけ無いよね」
アランの止めの一言にハロルドが力尽きた。
翌日、やはりマリアの寝起きは遅かった。
朝食も食べずに出発する。
国境が近付いたからか、マリアの機嫌は次第に悪くなっていった。
「不安なんだろうね。1国の運命がマリアの肩に掛かってると言って過言じゃないからね」
ハロルドが真面目に言った。
「考え過ぎですよ」
「僕と似てるんでしょ?開き直るまで僕もあれに近かったんじゃない?」
ハロルドが思い出すように笑った。
物心着く頃から、ハロルドの目標はマーズだった。
追い越せなくても並びたい、と本気で思っていた。
それはアランもだと言わなくても感じている。
ラルフみたいに医師として自信を持てたら、きっとこんな愚かな考えは持たなかった。
父上でも長男のロナルドでもなく、追うと決めた背中の大きさに潰されたのは15の初陣だった。
圧倒的な力の差。
剣の腕も、不利な時の判断力も、マーズに勝る物を僕は1つも持たない。
ロナルドがマーズと自分を比べて自信を無くしたのが、自分も同じだから良く分かった。
同じ絶望を知っても、僕とロナルドは違う。
末っ子の開き直りって言われるけど、自分に足りないなら出来る人を集める。
剣も頭脳も、僕を支えてくれる人を集めた。
人材じゃない、人だ。
僕に仕えてくれる聖騎士も僕が見出だして育てた。
聖騎士は僕たち兄弟4人と後6人で10人。
聖騎士の人数は昔から6人にプラス王子の数。
フィアには代々男しか産まれないから、王子が全員聖騎士になる。
ある占い師がそれを血の呪いとか言って、昔追放された記録があるらしい。
聖騎士は皇太子のロナルドに2人、次男のマーズに2人で3男のカインに1人、4男の僕に1人付く。
もちろん兄弟2人なら3人づつになる。
時々、ロナルドも開き直れば良いって思う。
そしたら僕みたいに軽くなる。
アランの予測した通り、イファとフィアの国境に着くのは3日目になった。
3日目の朝は前日より更に遅かった。
マリアの機嫌も悪い。
誰もマリアに気を使って無言だった。
昼過ぎに国境警備の騎士が偵察に来た。
「お待ちしてました」
チラチラ騎士の視線がマリアに向いている。
ハロルドも気付いて怒らないよう息を吸い込んだ。
ここで怒っても何にもなら無い。
「カインは?」
「奥さまの体調が優れず、城でお待ちすると」
騎士はハッとしてマーズに向き直った。
騎士は自分の失敗に気付いて青くなったが、ハロルドはちろりと見るだけで何も言わなかった。
「カインらしいな」
アランが気付かない振りで言った。
まあ予想通りの答えに3人で笑う。
イファ側の国境警備を受け持ってる3男のカインは、最愛の妻の事しか本気にならない。
4兄弟で1番クールだ。
いやクールより冷淡だ。
「国境の詰め所にマサラを待機させております」
「ホント?」
ハロルドが嫌な顔をした。
マサラは長男のロナルドと3男のカインの乳母だ。
規則一辺倒でハロルドが1番苦手とする人だった。
マサラが育てたから、ロナルドもカインも性格が真面目過ぎるとハロルドは前から思っていた。
「マリアに太刀打ち出来るのはマサラだけだと思ってカインが寄越したんだろう」
「確かにそうだけどね」
ハロルドが心底嫌な顔をした。
「お伝えする事は?」
「特に無い。あえて言えば」
マーズは言葉を止めてマリアを見た。
「振り回されないようにしろ」
無駄だと思うが、言うだけは言った。
騎士は青い顔で戻って行った。
「国境の詰め所が思いやられるますね」
アランも面倒だと顔に書いてあった。
「まず着いてからだな」
マーズが締めくくった。