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もう安全だろうと、夕方ハンナがベルの部屋を変えるため迎えに来た。
この前ハンナが担当から離れた時、ベルが部屋を移ってしまったので改めて挨拶する目的もあった。
「またお世話をさせていただきますよ」
「ハンナさん」
ベルがハンナを見て泣きそうな顔をした。
「あらあら」
ハンナがベルを懐に抱いた。
「お部屋のお引っ越しをしましょうね」
ベルは小さく嫌々をした。
「何故です?」
ハンナが優しく聞いた。
「…また、変わるかもしれないから」
ベルはハンナを見ないで言った。
「大丈夫ですよ。マーズさまも侍女の話を聞いて怒ってましたから。ベルさまがこの城にいる間はこのハンナがお世話を勤めさせていただきますよ」
ベルがキュッとハンナにしがみついて泣き出した。
余程寂しかったのだろう、ベルが泣き止むまでかなり掛かった。
「ハンナ」
遅いのでマーズとハロルドが様子を見に来た。
「あらあら」
ベルをなだめて、4人で城に戻る。
まるで幼い子供のようにハンナに手を引かれて城に戻るベルの姿を、後ろを守って歩くマーズとハロルドは哀れだと思った。
話せばベルに聞こえるから、ただ目を見合わせた。
途中で別れるつもりだったマーズとハロルドを、ハンナが男手がいるかもしれないと引き留めた。
ハンナの中には、今のベルの部屋を2人に見せたい気持ちもあった。
結果それが幸を奏した。
侍女たちの部屋がある城の裏に回るハンナたちに、マーズとハロルドが不審な顔で付いていく。
「ベルさまのお部屋はここですか?」
侍女たちの部屋の1つの前で確かめるハンナに、ベルがコクンと頷いた。
「え?」
ハロルドが驚いて声を上げた。
「ご存じでは無かったんですか?」
ハンナが責める気持ちを隠して聞いた。
「知らなかった」
それはマーズも同じで、3人は顔を見合わせた。
ベルは3人を見て気まずそうに下を向いた。
「話は後だ」
そう言うマーズに頷いてハンナがドアを開けた。
「え?…」
ハンナがドアノブを掴んで固まった。
「どうしたの?」
ハロルドも覗き込んで動かない。
マーズが不審に思い2人を横に退けた。
見えた部屋の様子に息を飲む。
「マリアだな」
部屋にある物全部をナイフで切り裂いて、それでも足りなくてベットを切り裂いた。
そうとしか見えない部屋に、マリアの憎悪が見えた。
自分が窮地に立っているのに、城の何処かで安穏に暮らしているベルが許せなかったのだろう。
もし襲撃が成功していたら、と思うとゾッとした。
「カインさまの奥さまのドレスをお返ししていて、よろしゅうございました」
怒りからハンナの声も低い。
ハンナが舞踏会に用意したドレスは、切り裂かれ床で踏みにじられていた。
「ベルさま。お部屋を移りますよ。足りない物はマーズさまにご請求申します」
立ち直ったハンナがベルに向きを変えた。
「ああ」
この部屋を見ては、否とは言えない空気だった。
「…部屋に…大切な物があるの」
ベルがハンナに懇願するような声を出した。
3人が前に立ち塞がっていて部屋の中が見えてなかったベルを、ハンナが宥めるように止めた。
「欲しい物はマーズさまが買ってくださいますよ」
そう言ってもベルは聞かなかった。
ハンナがいくら宥めても、ベルは泣きながらお願いを繰り返すばかりだった。
「…お願い、…1つだけ箱を…」
ベルの必死な懇願に、最後はハンナが折れた。
「分かりました。ではハンナが取ってきますよ。どちらに有るんですか?」
「…引き出しの中」
マーズとハロルドの目が、引き出され床に投げられた引き出しの残骸に向いた。
「白くて…小さい箱なの」
ベルが両手で形を作る。
「同じ物をマーズさまに買っていただきましょう」
「あれじゃなきゃ駄目なの…」
ハンナが嫌がるベルを宥めて連れ去ろうとした。
マーズとハロルドもその様子を見ながら、警戒もせず体の向きを変えた。
出来た隙間から部屋の中を見たベルが悲鳴を上げる。
痩せ細った少女のどこにそんな力があったのかと思うほどの強さでハンナの手を振りほどき部屋に戻ったベルを、ハンナが顔色を変えて急いで追った。
マーズとハロルドはベルとハンナを呆然と見送った。
次の瞬間に飛び込んできたベルの狂ったような叫び声とハンナの宥める声。
部屋の異様さにマーズとハロルドは動けなかった。
「ベルさま。同じ物を買いましょう、ね?」
ハンナの声も届かないのか、ベルは胸に抱いていた何かを叫びながら床に投げ付ける。
発作のように叫び続けるベルが床の何かを拾って口に含もうとして、思わずマーズがベルを抱き上げた。
「食うんじゃない」
ベルの手からもぎ取り遠くへ投げ捨てる。
遅れたようにふわっと匂う甘さに、マーズの中で箱と砂糖菓子が繋がった。
「ハンナ。砂糖菓子を持ってこい」
「はい」
反射的に立ち上がったハンナが急いで出ていった。
「ベル。砂糖菓子は今くる」
仰け反って降りようとするベルとマーズの攻防はハンナが砂糖菓子を持ってきても終わらなかった。
「ベルっ!」
「いらない!いらない!壊れる物はもういらない…」
ベルの叫びが哀れだった。
暴れるベルを抱き上げながら、フロルから聞いた砂糖菓子の話が脳裏に甦った。
フィアに連れて来られてからのベルを思えば、辛かっただけだっただろうと改めて思う。
その不安な気持ちを支えたのが1箱の砂糖菓子だったのかと思えば、それを気遣ってやれなかった自分をマーズは責めた。
「すまなかった」
頭を撫で、背中を撫で、ベルと名前を呼び続けた。
「マーズ、代わるよ」
出されたハロルドの手からベルは必死に逃げて、離されないようマーズにしがみつく。
それはまるで子供が本能で親を求める姿にも似て、ハンナが哀れさに目元を拭った。
「私に」
「嫌っ!嫌、嫌ぁーっ!」
ハンナの手も、ベルは泣いて受け入れなかった。
「落ち着くまで抱いているさ」
疲れから抵抗が弱まったベルを抱き直して、マーズが穏やかな口調で言った。
無防備に自分の手を求められ、マーズは自分の中に生まれる不思議な感情を持て余していた。
長く軍神としての自分だけを求められてきた。
敗けは許されず勝ちのみを求められ、答えてきた。
不器用な自分にはそれしか進む道は見えなかった。
それを近しい者が危ぶんでいるのも知っていたが、変えられない自分がいる。
うとうとし始めたベルが離されないようなのか必死に上着を握りしめて、眠り掛けてはハッとして握り直すを何度も繰り返した。
「本能だろうね。ベルは群の長が誰か知ってる」
ハロルドがベルの顔を覗き込んで言った。
「山の修道院で育ったと報告にあった」
起こさないよう声を落としてマーズが答えた。
手が離れ掛けて、ビクンとしてまた掴まりにくる。
「暫くシド老人に託すしかないな」
「小まめに見に行かないと駄目だよ」
「俺は戦に行く」
マーズは現実を口にする。
ベルを抱いていたいと思う気持ちも、現実を前にすれば消すしかなかった。
「僕も行くよ。奥さんを残してカインも行くでしょ」
当たり前の顔でハロルドが言った。
「マーズを止めるのは何?」
ハロルドの問い掛けに、マーズは口を閉じた。
自分の中にある思いは誰にも言わない。
頑固に口を閉ざすマーズに、ハロルドも諦めた。
ベルの泣き寝入りの寝顔を見ながら、マーズは小さい頃を思い出していた。
自分も何度泣いた事だろう。
何時しか声を出して泣く事をしなくなった。
あれは何時からだったか。
記憶の底からロナルドの泣いた声が浮き上がる。
『国民の上に立つものは泣いてはなりません』
マサラに叱られて泣き声を必死に堪えるロナルドの濡れた顔が、泣き寝入りしたベルの顔と重なった。
思えばあの時から泣くなと自分に言ってきた。
「熟睡したようですから、下へおろされては?」
ハンナが切り裂かれた布団を器用に纏めて言った。
「いや、いい」
ベルの重みが小さい頃のハロルドを思い出させる。
遠い昔、ロナルドとカインが2人して熱を出して、ハンナが介抱に行ってしまって幼いハロルドと2人、子供部屋へ取り残された。
ハンナが居ないと泣くハロルドを、こうして抱いてあやしたのは何時だっただろうか。
「マーズさま?」
フッと笑っているマーズを見てハンナが聞いてきた。
「昔、ハンナがロディとカインの看病で居なかった時に、こうしてハロルドをあやした事があったな」
「あ、確かありましたね」
「えー、覚えてないよ」
ハンナとハロルドの声にベルが身動きした。
「やべっ」
ハロルドがちょろっと下を出した。
昔と変わらないハロルドに自然笑いが出る。
軍神と呼ばれたマーズにも、こうして守りたいと思う者たちがいる。
この気持ちが自分を支える、と改めて気付いた。
目が覚めたベルに心配した気持ちの揺れは無く、おどおどとマーズにお礼を言った。
部屋を移ってから、マーズが砂糖菓子の箱をベルに渡そうとしたが。
「砂糖菓子だ」
ベルはふわっと笑っていらないと言った。
諦めを隠した笑いは哀れだった。
「壊れたら何度でも買い直してやる」
そう言ってもベルは首を振るばかりだった。
2度もマリアに壊された砂糖菓子が、ベルの心にあった小さな幸せまで壊したのだろう。
深追いしてもこじれるだけと察したマーズが引いた。
翌日、ハンナが気になる話を持ってきた。
「ベルさまは修道院へ行かれるんですか?」
「それが望みらしい。落ち着いたら、イファの修道院は無理だがモルグかフィアで探してやるつもりだ」
「そうなんですか」
ハンナが淋しそうに話す。
「ベルさまの居た修道院では自分の物はこんな小さな箱に1つしか駄目だったそうですよ」
ハンナが手を箱の形にした。
「それなら着替えしか入らないと言ったら、それだけで十分だと言うんですよ」
ハンナは切なそうにベルの服をマーズに見せた。
「着替えは1着で良いって返されたんです」
ハンナが深いため息を着いた。
「小さくなって、誰にも気付かれないよう生きてきたんでしょうね」
聞かされてもマーズにしてやれる事は限られている。
それを言っても、ハンナは止めなそうだった。
「顔を見に行くだけで良いんです。ここにいて良いんだとベルさまに思わせてあげてくださいまし」
それからも、ベルは1日の大半をフロルの元で静かに過ごしていた。
あの日からマーズには作り笑いを浮かべるベルが、フロルには素の笑顔を見せる。
それが不愉快で、次第に苛立ちに変わった。
そんなマーズを身近に見ていたハンナは、理由を付けてはマーズをベルの元へ行かせた。
「私から渡しても受け取って貰えませんから、マーズさまお願いしますね」
髪のリボン、可愛い髪止め、ハンカチなど少女なら1つは持っていたい物を、マーズに託す。
不器用なマーズ、と切なさを隠してお礼を言って受け取るベル、を見ているハンナはもどかしかった。
互いを意識しているのに、何かが2人を止めていた。
グリフィアの第2王子アレスの一方的な婚約白紙宣言は最低だったが、2度も繰り返した事で周りはベルが捨てられたと思っている。
マーズもそれは十分承知していると思う。
なら何が止めているのか。
ハンナはベルから話してみようと思った。