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領地に戻ったのは翌日の夜だった。
溜まっていた書類をアランと片付ける。
久し振りなみんなとの食事は楽しかった。
数日前からマーズの帰りを待って集まっていたので、アランがこれからの予定を細かく話した。
隣国など動きのあるところは随時監視してる話もしてから、この先の話もした。
ここに集まるのは各々の隊の責任者ばかりで、無駄な質問も無く続けられた。
長が自分の隊をまとめ、マーズの指示で事に当たる。
「秋の収穫と戦争が重なれば、半数は収穫にあて残り半数で事に当たる」
「兵の割り振りはいつもと変わり無しと伝えます」
兵士の1人が言う。
「そうしてくれ。手が空いた者から応援に着てくれ」
マーズが締めくくった。
「グリフィアか」
兵士の1人が平然と言った。
どの顔にも気負った様子は無い。
そこからは日々の暮らしの話になる。
外貨を稼ぐ当てや自国に無い物を安く仕入れる道の確保など、出てくる話は細かい。
フロルは来年が豊作ならと言っていたが、今年が豊作ならグリフィアに並ぶ。
それも兵士の余裕に繋がっていた。
マーズが開戦を視野に入れて動いてる間、グリフィアの王子アレスはフィアの周りの国を歩いていた。
あの後数日して、アレスはやっとベルに会う事が出来て謝った。
ベルとサロンで会う事は叶わず、シド老人の計らいでシド老人の家での再会になった。
ハンナと交代した者が事のあらましをベルに教えていたので、ベルは最初アレスに会うのを嫌がった。
それでも会ったのは、会わなければ誰もベルの世話をしないと脅されたからだ。
ハンナからの暇の挨拶で、マーズが居なくなると知って怖かったのに、次の人からアレスに会わないと誰も世話もしないし相手もしないと脅かされた。
自分の何が悪かったのか分からなかったベルは、新しい侍女の言葉に泣くしかなかった。
アレスに言われ、シド老人にも言われ、最後に悪かったのはアレスだけじゃないと言われ、ベルは怯えた。
アレスはそれで事は終わると思っていた。
なのに話は別の方へ流れていた。
数日経ってもベルが姿を表さない事でアレスを責める声が上がっているから、アレスは頼み込むようにベルをサロンに連れ出した。
サロンには悪い事にマリアもいた。
マリアとベルが姉妹だと周りは知っていて、マリアのヒステリーな性格も知っているのに警戒しなかった。
ベルを伴ったアレスにみんなの意志が向いていた。
「ベルベット姫だ」
みんなの目がベルからアレスに流れる。
言いたい事はこれじゃないと目が言っていた。
「ベルベット姫との婚礼はどうするんです?決めないで連れてきた、とかないですよね」
冷たい問い掛けにアレスは自分の失敗に気付いた。
「もしベルベット姫に候補が居なければ私が娶る」
アレスの苦し紛れの言い訳にがっかりする顔が半分以上で、ため息が漏れた。
その時つかつかとマリアがやって来て、ベルに向かってカップごと熱いお茶を掛けた。
周りから悲鳴が上がる。
「泥棒猫のくせに良く出てきたものね」
それはあっという間の出来事で、取り巻きの何人かになだめられたマリアはサロンを出て行った。
幸い火傷にならず済んだがその事が違う噂を呼んだ。
アレスがマリアをその気にさせて捨てたとか、だからアレスとベルを見て逆上したとか、ベルがマリアからアレスを略奪したとか、酷い内容だった。
げんなりしてるところに、シド老人がベルに付けてる侍女から、日々痩せていくベルの話まで出てきた。
「元々痩せすぎだったが、今は青白くさえ見える」
シド老人までそう言って目でアレスを責めた。
「僕はどうすれば良いんです?」
開き直ったアレスがシド老人に聞いた。
「ベルに聞いてみろ」
それでまたベルとの話し合いになった。
「周りがベルが痩せて心配してる。どうすれば治る」
気遣う気持ちもないアレスが責めるように聞いた。
「会いたい人は居ないの?」
アレスの中にはその人に金を出してでも押し付けたい気持ちが生まれていた。
ベルは下を向いて何も言わない。
いい加減うんざりしたアレスが、シド老人を見た。
「誰か居ないんですか?金なら払いますからベルを引き取らせましょう」
アレスが言った言葉に邪魔物の自分を感じて、ベルはグッと体を固くした。
「アレス。元はお前が軽はずみだったからだ」
「それは十分反省してます」
アレスが言葉だけの反省を口にした。
「お前がダンスさえ踊らなければ、ベルは今もマーズの庇護の下に居られたんだぞ」
アレスがシド老人の言葉にポンと手を打った。
「最初からマーズに戻せば良かったんだ。失礼な奴だったから今まで思い出さなかった」
アレスは平然とシド老人に頼んだ。
「金は僕が出します。マーズにベルを引き取るよう手紙を出してください」
「お前は分かってるのか、その金は国民の税金だそ」
シド老人は顔色が変わるほどきつくアレスを叱った。
そんな事があった後、グリフィアから父と兄からの報せがあった。
どちらにも素直に非を認め、公共の場で婚約の白紙を相手に願い出ろとあったが、もう遅い。
居たたまれなくて、次の予定だったフィア周辺国の視察に出てきてしまった後だった。
フィアの城に取り残されたベルは、ひっそりと息を殺して暮らしていた。
同じ人と2回続けて踊ったから、ハンナさんもマーズさまも居なくなった。
新しい侍女から、ベルはそう言われた。
私が断っていたらこんな事にならなかったって。
修道院に帰りたい。
イファに帰って修道院に帰りたい。
そう侍女に言ったら、無理だって言われた。
マリアンヌさまは怒っていて、イファに連れ帰らないと言ってると聞かされた。
「アレスさまには捨てられないように頑張って」
一日中、部屋の中でマーズさまに貰った砂糖菓子の入った箱を抱いて過ごす。
侍女が食事を部屋に持ってきてくれるけど、食べたくなかった。
毎日1回お爺さんの家に連れて行かれる。
少し話してお茶を飲んで部屋に戻る。
毎日繰り返している。
「何か望みは無いかね」
お爺さんが優しく言った。
首を振った。
欲しい物と思っても何も浮かばない。
ある日お爺さんの家へ行ったら、マーズさまが馬に乗せた綺麗な人と陽気な騎士がいた。
息が苦しくなって戻ろうとしたら、お爺さんから中へ入れと背中を押された。
それで分かった…。
ここもイファの城と同じ。
誰にも気付かれないよう、怒られないようにしなくてはいけない場所なんだと。
泣きそうになるのを懸命に堪えた。
「イファの第3王女か。話は聞いていたけど、こうして目にするとどう言っていいのか分からないな」
ラルフが頬をポリポリ掻いていった。
ラルフがベルの怯えを感じ、わざとおどけて見せていたとは知らない。
「俺はラルフ。よろしくな」
中途半端にハンナから習った、スカートをつまんだお辞儀をベルがした。
「さすが第3王女だな」
ラルフは感心していた。
シド老人は綺麗な人と対面になる位置にお茶を置くと椅子を引いて、ベルにここに座れと目で言ってきた。
「私はルシル。よろしく」
もう一度スカートをつまんで挨拶をした。
「さあ」
逃げたいのに逃げられなくて、ベルは椅子に座った。
ルシルと名乗った少年が、優雅にカップを持って一口お茶を飲んだ。
その動作に、ベルは泣きたくなった。
そんな動作1つ取っても、自分とは違う世界に住んでる人だと感じてしまう。
胸に溜まる黒い感情がベルを押し潰す。
憎悪の後、ベルの中に諦めが生まれて、ルシルを見ても感情が溢れる波が消えていった。
ラルフだけでなくシド老人もベルの変化に気付いた、が何がどうなったのか、目の前で起きている事なのに何も分からなかった。
「ベル。イファから怪我した子供を連れて来ている」
シド老人は簡単に連れて来た経緯を話して、話し相手を頼みたいとベルに言った。
ベルは怯えて揺れる目でシド老人を見た。
自分は怪我をさせたマリアの妹だ、と言いたいのに口から声が出ない。
シド老人が指した部屋へ冷たい手を握って歩いた。
恐怖と緊張で体が小刻みに震える。
シド老人の後から部屋に入ると、7、8歳の子供がベッドに横たわっていた。
「フロル。お前に話し相手を連れて来た」
シド老人が優しいが有無を言わせず背中を押した。
「ベルだ」
ギクッとベルがシド老人を見て、ふるふる震えながらフロルを見た。
フロルと目が合う。
緊張で体が硬直した。
「…ベルさま?本当にベルさま」
フロルは満面の笑みでベルを見ていた。
「良かった。マリアンヌさまに苛められてないか心配してたんです。良かった」
フロルはホッとした顔で、胸に手を当てていた。
「…恨ん…でな…いの」
ぎちぎちの緊張から、つい声が出た。
「恨む?何で?ベルさまも被害者でしょ」
フロルはベルににっこり笑い掛けた。
ベルが両手で顔をおおいその場に泣き崩れた。
ベルの元へ這って行こうとするフロルを止め、ラルフがベルを抱き上げフロルのベッドの横に降ろした。
その頃マリアは焦っていた。
舞踏会から1ヶ月も経つと、フィアの城に残っている者は半数も居ない。
手ぶらでは帰れないマリアを、別れを惜しむ光景が更に焦らせた。
救いなのはベルが目の前に現れない事だ。
噂で部屋に閉じ籠って食事も運ばせている。
もっと愉快はのは最初マーズに逃げられ、次はアレスが逃げた事だ。
光は自分に有ると思うと勇気が出た。
負の闇はベルに流れる。
マリアは考える。
美しい自分の夫に相応しいのは、グリフィアの皇太子しか居ない。
幸いアレスは近隣の国を回ってこのフィアに戻ると聞いている。
そのためにこの城に留まってる者も居るくらいだ。
その時に皇太子と会わせるよう外から根回しした。
そんなマリアの焦りも知らず、ベルはフロルと穏やかに暮らしていた。
何気無い今日は暑いとか寒いとかの会話をフロルとする事で、自分がどれだけ人に飢えていたのか知る。
1週間で、フロルの存在がベルの支えになっていた。
「マーズさんは領地に戻ってるそうで残念です」
フロルに返事が出来なかった。
後ろからラルフも来て話に加わった。
初対面の時にはまだ舞踏会のトラブルを知らなくて気楽に話したが、今は意識して距離を空けている。
マーズとアランからの手紙には、そんな話は一行も書かれて無かった。
逆にこっちから聞いたくらいだ。
「ラルフさんは明日マーズさんの所へ戻るんです」
フロルが笑いながらベルに教えた。
「明日、マーズさんへの手紙をラルフさんに頼むつもりなんです。ベルさまも書いてみませんか?」
ベルは泣きそうになって首を振った。
きっと受け取って貰えない。
それに…書きたくても、ベルは字を書けなかった。
「何で?マーズさんも心配してると思うよ」
フロルに正面から見られて、ベルは咄嗟に言った。
「…字が書けない」
「え?…」
ラルフがベルを見て、直ぐに目を反らした。
「僕が代筆するから」
フロルが更に言うとベルの目からポロリと涙が零れ、零れだしたら止まらなかった。
「ベル姫?」
ベルはただ首を振った。
「マーズさんに怒られたの?」
フロルに説明できなくて、ベルは泣きながら自分の部屋に戻った。
泣いてるベルを止められなかったフロルが、真剣な顔でラルフに聞いた。
「何があったんですか?」
ラルフは舞踏会のルールからフロルに話した。
グリフィアのアレスとベルが2度踊った事と、その後の噂の話は教えなかった。
「ベルさまがルールを知らずアレスさまと2度踊ったから、マーズさんが怒って領地に帰った?」
フロルは整理するように言った。
「マーズさんの領地?マーズさんは貴族ですか?」
フロルから今さらの話が出た。
「俺もアランも貴族のはしくれだ。フィアに居る間はマーズにさまを付けろ。マーズは気にしないが、うるさい貴族は五万と居る」
「…はい」
普段は面白いラルフが真面目な顔で言った。
「貴族は面倒な者でな、ベルが知らなかったと言っても、した事は無かった事にはならない」
「…でも」
「マーズも自分が庇える事なら庇っただろう。色んな国の王族たちが見ている前でやられたら庇いきれん」
フロルにもどうしてこうなったのか分かって、悔しそうに唇を噛んだ。
翌日から、フロルはベルに字を教え始めた。
フロル自身ラルフから教えて貰い書けるようになったばかりだから、教えるのもぎこちなかった。