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後編

   第五譚     困り事


 夢月がある程度なら祓えるということで、蓮華は今までよりいくらか遅くまで外出できるようになった。と言っても、小学生レベルだった帰宅時間が普通の高校生レベルになった程度である。

境也に断りを入れ、入梅のバイトが休みの放課後に行ったカラオケは楽しかった。夢月も連れて行ったが、大きな音は苦手らしくずっと本体の扇子に籠ったままだった。歌自体は嫌いではないらしい。童謡を入れた時だけは出てきて、興味深そうに画面を見ていた。


昼休み。入梅と次の現代文の漢字テストの勉強をしていると、机の上の蓮華の携帯電話が震えた。

「蓮華、ケータイ鳴ってるよ」

「境也からめーるなのです」

 携帯電話の外画面の表示を見て、夢月が教えてくれた。

「境さんからメール?珍しい」

 境也には何度かメールの打ち方を教えているが、未だに時間がかかり誤字脱字も多い。当人もそれを気にしていて、連絡はほとんど電話だというのにどうしたのだろう。書き取りをしていたシャーペンを置き、蓮華はメール画面を開いた。

『放火後 御隈利神社 待つ』

「……果たし状か!誤変換も怖いし!」

 メールの本文を見て、思わず突っ込んだ。どうせ、よく確認せずに送信したのだろう。少なくとも用件は分かったので、良しとする。

「何、どうしたの?」

「メールが誤字ってて……。放課後に、御隈利神社に来いだって」

 きょとんとする入梅に、蓮華は携帯電話の画面を見せた。

「御隈利神社か……。仕事なのかな?」

「この内容だけじゃ分かんないけどね。でも、わざわざメールよこしたってことは、そうなんだろうなぁ」

「お仕事なのですか!」

 夢月もわくわくと顔を上げる。蓮華は学校が終わったらすぐ行く旨の返信をし、教科書に向き直った。


*   *   *   *


 御隈利神社は、この辺りで一番大きく立派な神社だ。祭りもそれなりに大々的に行われ、行事が多いことで有名だ。蓮華自身は、家と正反対なので来たのは初めてだったりする。木々に囲まれた石造りの鳥居を抜けて境内に入ると、清涼な空気に蓮華は深呼吸した。大きな池があるせいか、涼しくて気持ちがいい。池は水晶のように透き通っていて、水底までよく見えた。

「境さんは……まだ来てないのかな」

 辺りを見回してから、蓮華はもう着いたと境也にメールを送った。仕事内容は分からないが、一応手水舎で手と口を清める。カバンからタオルを出して拭いていると、小学生の男の子達が蓮華の後ろを走り抜けていった。鬼ごっこをしているらしい。中学に入ってからそういうことはしていないな、と懐かしい気持ちになった。

 男の子達は走り回って疲れたのか、本殿の前でおしゃべりを始めた。距離があるので聞き取れないが、時々オーバーリアクションで何か叫んでいる。しかし、次の瞬間にはゲラゲラ笑い出した。どこまでも楽しそうだ。

しばらく観察していると、瑠璃色の袴の人が本殿から出てきた。神主だろうか。男の子達に注意でもするのかと思いきや、横を素通りした。しかしその後ろで、とうとう一人の子が笑い過ぎで尻餅をついた。慌てて神主が戻って助け起こしたが、尻餅をついた子も周りも神主を無視するように話を続けている。

いくらなんでも失礼だろう。むすりと蓮華がそう思っていると、神主は何故か真っ直ぐこちらに向かってきた。そこで蓮華も異変を察する。神社の空気に紛れていた気配に、《良し悪しセンサー》が急に全力で働いたのだ。神々しさと多少の威圧感、滝の近くにいるような清廉な感覚。そもそも近付いてきて分かったが、相手は人の姿ではなかった。正確には、体は人だが──頭は昔話に出てくる竜だった。

「娘、もしや我が視えているのか?」

「えっ、あっ、はい!」

 低く滑らかな声で話しかけられ、蓮華は背筋をピンと伸ばした。青緑色の鱗に覆われた頭部、大きな琥珀色の目、鋭い歯に長いヒゲ、黄金色の角。身長はかなり大きく、二メートルは優にある。蓮華が緊張でガチガチになっていると、ばしんばしん腕を叩かれた。

「おお、声も聴こえているな!やったぞ!ひゃっほう!」

 ……何かイメージと違っていらっしゃる。異常事態に気付いたのか、夢月も焦った表情で出てきた。

「れっ蓮華、近くにとても強い神気が……!」

「ほう、何か入り込んだと思ったら付喪神だったか」

「りゅ、竜神様なのです!?」

 目を白黒させる夢月の頭を撫で回し、

「我はこの神社と土地を司る土地神である。名は……あー、長いので真澄でいい」

 実に適当に自己紹介した。神主どころか、まさかの神社の神様本人である。絶対に怒らせてはいけない、とセンサーが告げている。

「どうだ二人とも、喉は渇いていないか?せっかくだ、茶くらい出そう」

「い、いえ、とんでもないです!」

「そう遠慮するな」

 豪快に笑い、真澄は言った。蓮華の思考回路は、既にパンク寸前である。隣では、夢月も縮こまっていた。真澄に背中をぐいぐい押され、このままではどこにかは分からないが連行されてしまう。

「いやあの、人を待っていますので……」

 強引な神様にどうにか話を聞いてもらおうとすると、背後から足音が近付いてきた。

「お社様!こちらにいらっしゃられたのですか!」

 振り返ると、紫色の袴をはいた四十代くらいの男性が走ってくるところだった。顔中に汗を浮かべ、細い銀のフレームの眼鏡が斜めっている。今度は間違いなく人間だ。

「あっ、お嬢さん、こんなところでどうされました?えっと、その、すみません、人違いをしたようで!」

 肩で大きく息をするこの男性は、真澄が視えているようだ。大柄な神様の影になっていて見えていなかったらしい蓮華を目に止め、わたわたと弁解した。

視えていることを告げようとすると、真澄に肩を軽く叩かれた。真澄は黙ったまま自身を指差し、次に蓮華を指差した。謎のジェスチャーを茫然と眺めていると、男性は何か思い至ったのか雷に打たれたような顔をした。

「もしかして、お社様が視えてらっしゃるのですか……!?」

「あっ、はい……」

 本日二度目の反応に、蓮華はとりあえず頷く。男性はズレた眼鏡を直すと、にこりと笑みを浮かべた。

「僕は、宮司の水口実彦と申します」

「あれ、神主さん……じゃないんですか?」

 つい蓮華が疑問をこぼすと、水口は苦笑した。

「神主、は神社で働く者の総称なんです。宮司はその中の長、一番偉い役職なんですが――この神社には僕しかいないので、必然的に僕が宮司なんですよ」

 一応神主でも間違いではないらしい。

「おや、そちらの着物のお嬢さんは?」

 水口は蓮華の後ろに隠れていた夢月にも気付き、腰をかがめて夢月と視線を合わせた。

「その子は付喪神の夢月です」

「付喪神ですか!お恥ずかしながら、初めて視ました」

「よろしくなのです」

 夢月が挨拶をすると、水口は何故か困ったような顔をした。すぐさま、真澄が代わりに口を開く。

「実彦は我らが視えても、声は聴き取れないのだ。悪いが娘よ、言葉を伝えてやってくれないか?」

「えっ、そうなんですか?」

 蓮華は驚いて真澄を見上げた。さっきのジェスチャーは、言葉が届かない故のコミュニケーションだったらしい。

「えっと、夢月はよろしくって言ってます」

「あなたは声も聴こえるのですね。お遭いできて光栄です、夢月さん」

 にっこり笑って、水口は改めて夢月に挨拶をした。そのまま膝を伸ばし、蓮華とも向き合う。

「お嬢さんのお名前も、伺ってもよろしいですか?」

「は、はい。私は……」

 蓮華が言いかけたところで、

「水口さん、真澄様いらっしゃいましたか?……おや、蓮華さんもご一緒でしたか」

 さらに声をかけられた。聞き慣れた声にそちらを向けば。

「境さん!」

「七枝さん!」

 羽織姿の境也が、のほほんとこちらに手を振っていた。


*   *   *   *


「お呼び立てしたのに、すみません……」

「いえ、お気になさらないで下さい。真澄様もご機嫌のようですし」

 深々と頭を下げる水口に、境也は穏やかに言った。

蓮華達は社務所の奥に通され、真澄が言ったように茶を出された。緑茶だが、いつも店で飲んでいるものよりずっと香りが良く美味しい。真澄も飲んでいるので、神様相手に下手なものを出すわけにはいかないのだろう。

「ほれ、美味いぞ!」

「真澄様、夢月は自分で飲めるのです!」

 真澄本人は夢月を膝に乗せ、ぐいぐい茶を飲ませようとしている。水口は会話が聴こえなくとも、概ね理解しているらしかった。

「それにしても、蓮華さんが七枝さんのところのアルバイトというのには驚きました」

「まだ、入ったばっかりなんですけどね……。私も、境さんとお知り合いとは思いませんでした」

 二人を交互に見て、蓮華は言った。

「七枝さんには、度々真澄様の通訳でお世話になりまして」

「ああ、なるほど。筆談とかはできないんですか?」

「それが、達筆すぎて読めなかったんです……」

 試したことはあるらしく、水口は弱々しく言った。何となく想像できてしまう。

「声が聴こえんくらい気にするな」

 湯呑みを掴み、中身を一気に口に放り込んでから真澄が会話に入って来た。境也が茶を置き、伝える。

「声が聴こえないくらい気にするな、とおっしゃられてますよ」

「お気持ちは嬉しいのですが、やはり一度くらいはお声を聴いてみたいものです」

 水口はため息交じりに呟いた。蓮華自身、自分の霊感を中途半端だと思ってきたので気持ちはよく分かる。真澄も何でもないように言ったが、蓮華が聴こえていると分かった時ひどく嬉しそうにしていた。会話ができたら、と思っているのは恐らく水口だけではないのだろう。水口のような霊感は初めて知ったが、中々ままならないものである。

「それじゃ、今回も通訳の仕事なんですか?」

「いえ、今回は困ったことが起こりまして……」

 蓮華が尋ねると、水口は再びため息をついた。

「実は……その、ですね」

「昨夜、頒布用のお守りが盗まれたのだ」

 言いよどむ水口に痺れを切らしたのか、真澄が切り出した。蓮華と境也が揃って真澄の方を向いたので、水口は察したらしく口を閉じた。

「はんぷ?」

「お守りやお札は売る、とは言わないんです。授ける、頒布すると言うんですよ」

 蓮華が呟くと、境也がそっと耳打ちして教えてくれた。今日は初めて知ることが多い。

「しかも、ダンボール一箱丸ごとでな」

 苦虫を噛み潰したような声色で、真澄が続けた。竜の顔は表情が分かりにくいが、イライラしているらしく長いヒゲが揺れている。

「お守りをそんなにたくさん?何のために?」

「売りさばくのが目的……でしょうね。ここのお守りは真澄様の鱗が入っていて、加護が強く込められているんです。水難除けと災禍除けで、一部では有名なんですよ」

 少し考えて境也が答えた。

「真澄様の鱗……ですか」

「一年に数回、少しだけ剥がれ落ちる物を入れているので、たくさんは作れないんです。竜神の鱗というだけでも珍しいですから、場合によってはかなりの値になるかもしれません」

 蓮華はちらりと真澄に視線を戻した。あの青緑色の鱗が、一枚一枚お守りに入っているのだろうか。場違いにも、すごく綺麗だろうな、と思った。

「ただなぁ。我の鱗が入っていることを知っている者は、今は多くないのだ。少し前はそれで客寄せをやったこともあったが、最近は流行らんしな」

「むしろ、よく流行りましたね!?それって、どれくらい前の話なんですか?」

 傍から聞けば怪しさ爆発どころか限界突破なものが、よく客寄せになったものである。

「そうだな、百年ちょっと前だったか」

「ひゃ、ひゃく……?」

 蓮華の問いに、真澄はあっけらかんと答えた。普通、百年を少しとは言わない。少なくとも人間の尺度では。どうにも、根本的に感覚が違うようだ。

「お社様が侵入者に気付かなかったということは、犯人は恐らく人間だと思います」

「はぁ……」

 犯人が人間以外である可能性も考慮している辺り、蓮華の常識の範疇を越えてしまっている。そもそも、ただの窃盗事件であれば境也ではなく警察に相談していることに思い至った。

「けれど、人間にしてはやたら手際が良くて」

「まず、どうやって売るの?」

「最近はインターネットのオークションで、何でも売れるようだぞ」

「いんたーねっと、とは何なのですか?」

 真澄の言葉に、今度は夢月が首を傾げた。ネットオークションをご存じとは、随分現代的である。

「パソコンは分かるか?あれで、世界中の情報を見ることができるのだ」

「世界中!それはすごいのです!」

 真澄が答えてやると、夢月は感心したように手を打った。蓮華の家にもパソコンはあるが、蓮華自身はたまにしか使わないので夢月が分かっているかは怪しい。

「真澄様、お詳しいんですね」

「暇な時は、パソコンでオンラインゲームをしているからな。最近は色んな娯楽があるものだ」

「お社様は僕なんかよりずっとパソコンが使えて、最近は画面に文章を打って伝えてくれることもあるんですよ」

 とんでもない返答に、蓮華の思考回路は一時停止した。

「え、はい?」

「まだローマ字入力ができなくて、かな入力だがな。いつか、タッチタイピングもできるようになりたいと思っている」

 何だこのハイスペック神様。

「ひ、暇を持て余した神の遊び……」

 思わず蓮華は小さく呟いた。スマートフォンの入力だけでいいから、境也に見習ってもらいたい。

「何にせよ、お守りをとんでもない値段で売られて誤解されても、悪用されても困る。悪いが境也、探してはくれんか」

「分かりました。手を尽くしましょう」

 真澄に重々しく言われ、境也は頷いた。

「すみません、よろしくお願いします。僕は僕で、目撃情報がないか聞いて回ってみますね」

 水口は蓮華と境也に深く頭を下げた。

 社務所を出ると、日の入りと曇ってきたせいで辺りはすっかり暗くなっていた。さっきは涼しいと思ったのが、今は少し肌寒い。境内にはあまり街灯がなく、足元が辛うじて見える程度だ。こんな中犯人はよく盗みに入ったものだ。バチが当たるとは考えなかったのか。

「しっかし、神様からも仕事来るんだね」

 蓮華は歩きながら、暗闇に沈む境内を振り返った。

「『どなた様でも』がうちのモットーですからね。妖怪もたまに来ますよ」

「そうなの!?」

 確かに、名刺にあったように普通ではない困り事ではある。妖怪の困り事とは何だろう、と蓮華は梅雨の近い空を見上げた。


*   *   *   *


 結局、境也はどうやってお守りを探すつもりなのだろう。妖怪が犯人なら蓮華も《良し悪しセンサー》を頼りに探すことができるが、人間相手ではそうもいかない。

 翌日の放課後。作戦があるのなら聞こうと店を訪れたところ、妙な気配にセンサーが反応し蓮華は玄関で一時停止した。

「……何か来てるね」

「何か来ているのです」

 夢月と顔を見合わせる。客間ではなく、居間にいるようだ。玄関にも、見慣れない黒い漆塗りの下駄がある。来客であるならば、相手が何であっても失礼な態度をとるわけにはいかないだろう。お客様は神様なのだ、例え妖怪であっても。ただ、蓮華はこの気配を知っているような気がした。花のような匂いもする。

「こ、こんにちは」

 蓮華は襖を開けて──すぐ閉めたくなったのを営業スマイルで耐えた。

「えっと、お客さん……でしょうか?」

 部屋の中では、淡い菫色の着物を着た美女が境也にしな垂れかかっていた。豊満な胸を境也の腕に押しつけて。金と茶の間の色をした、長くボリュームのある髪が畳に広がっている。少しはだけた着物の裾から覗く右足には、お札のようなものが見えた。夢月の視線が蓮華の胸の辺りに向いている気がしたが、無視だ。境也は腕を離してほしそうに、困り顔でそわそわしている。

「あらぁ、境也が雇った人間ってアナタだったの。出会いって、このことだったのね」

 艶っぽい声で、美女はやたら親しげに話しかけてきた。高速で脳内ファイルを漁るが、蓮華にこんな知り合いがいた覚えはない。こんなダイナマイト級、一度見れば忘れたりしない。

「おや、お知り合いでしたか?」

「いや、こんな知り合いいないし、いて欲しくない」

 境也の問いに蓮華はきっぱりと断言した。

「失礼ね、もう忘れちゃった?アナタを占ってあげたじゃない」

「……………………………………は?」

 女性の言葉に、蓮華は立ち尽くした。気配に覚えがあるのは確かだし、声も髪色もどこかで見たような気がする。だが、その相手は目の前の美女と姿形が一致しない。そもそも、人間の姿ですらなかった。

「……まさか、コックリさんで来た狐?」

 蓮華が半信半疑で言うと、

「正解!覚えててくれて嬉しいわ」

 美女もとい狐は楽しげに笑った。ついでに、胸も揺れる。

「アタシは藤葛よ、お藤でいいわ。アナタは?」

「……天野蓮華」

 今までで一番苦々しい顔で、蓮華は答えた。意味合いは違うが、二度も化かされるとは。

「そっちのおチビさんは?」

「付喪神の夢月なのです」

 おチビと言われ顔をしかめながら、夢月も名乗った。ふらふらと席に着いた蓮華に、ちゃぶ台の上のフクが近寄って来る。

「何じゃ、蓮華がお藤をコックリで喚んだのか?」

「私じゃないよ……。友達が喚んじゃったの」

「珍しいのぅ、お藤が喚びかけに応じるとは」

「たまたま近くを通ったのよ、フクさん。最近は喚ばれることなんて滅多になかったから、暇つぶしに様子を見に行ったの」

 お藤にとって暇つぶしでも、蓮華はあの時相当肝を冷やしたのだ。クッキーも食べられてしまったし。恨みを込めてお藤をじっとり睨むと、笑みを返された。

「えっと、お藤さん、お茶を淹れに行きたいので離して頂けませんか……?」

「あらぁ、ごめんなさいね」

 境也の訴えに、お藤はわざとらしく大げさに退いた。それを視界に入れないようにして、蓮華はフクに尋ねる。

「で、この化け狐は客?」

「半分そうで、半分違うと言ったところじゃな」

「半分、なのですか?」

「アタシは助っ人で来たのよ。境也に時々頼まれるの。ね、フクさん」

 お藤はやたら甘い声で、フクに笑いかけた。時々、と言う割にはやけに馴れ馴れしい。

「まぁな、今回の真澄の依頼は情報が少なくて難しいからのぅ。あやつは昔から無茶ぶりが多くて困るわい」

「フクさん、真澄様と仲良いの?」

「昔馴染みというやつじゃな」

「へぇ……」

 ちゃぶ台につっぷして蓮華が尋ねると、フクがのんびり答えた。

福の神だった頃の知り合いなのだろうか。思い返せば、豪快さは近いものがあるような。

「それにしても、お守りが盗まれるなんて世も末ねぇ。お社様にはしっかりしてほしいけど」

「真澄の奴も衰えたからな。昔は賽銭泥棒の体中に、鱗模様を浮かべたりしておったが」

「お、おぅ……」

 それは祟りなのでは。やっぱり神様を怒らせちゃいけない、と蓮華は再確認した。

「んで、お藤はどう手伝うの?また占い?」

 蓮華は顔だけ動かして、お藤を見上げた。

「それもあるけど、アタシは人間と違って鼻が利くから。アナタ達が来る前に占ったけど、御隈利市内にあるのは間違いないみたいよ」

 お藤はいつぞやと同じ水晶を胸元から出し、宙に翳した。夢月が身を乗り出して、水晶を覗き込む。キラキラと光が反射して綺麗だが、そんなところにしまうのはどうかと思う。決して、僻みではなく。そこへ、

「皆さん、お茶が入りましたよ」

「ちょうだい、境さん」

 境也がお盆を抱えて戻って来たので、蓮華は湯呑みを奪うように受け取って一気に飲み干した。


*   *   *   *


「あーあ、境也と来たかったわ」

「しょうがないじゃん、出がけに水口さんから電話きちゃったんだから」

 不満を漏らすお藤に、蓮華はぴしゃりと言った。早速お守りを探しに行こうとしたところで、玄関の黒電話が鳴ったのだ。境也に先に行くよう言われたので、蓮華も不本意ながらお藤と店を出た。

「っていうか、何で着替えたわけ?」

「あらぁ、似合うでしょ?足のお札のせいで、丈が短いのは着れないけどね」

 今のお藤はさっきまでの着物ではなく、白のレースブラウスにデニムのスキニー、ヒールのサンダルという今時ファッションだ。すらりとした足が憎たらしい。出る前にお手洗いに行く、と言って戻ってきたらこの格好だ。

 本人の言い方からして、人の姿のお藤の右足にもお札は何枚も張られているのだろう。

「……後さ」

 蓮華はさらに疑問を口にした。

「何かしら?」

「他の人にも、あんたが視えてるの?」

 すれ違う人、すれ違う人が皆こちらをチラチラ見ている。制服姿の蓮華が珍しい、ということはないだろう。視線はどれも、隣のダイナマイト金髪に向いている。

「力の強いモノであれば、普通の人間にも視えるわよ。でなきゃ、怪談話も都市伝説も生まれないわ。狐に化かされた話なんて、昔からあるでしょう?」

「そりゃ、そうだけど……。今までは、何かいると思ったら近付かないようにしてきたから」

 言い訳がましいが、事実を話す。自分のことでいっぱいいっぱいで、周りの人の反応なんて気にしたことなかった。もしや、そのために着替えたのだろうか。着物姿だったら、もっと悪目立ちしていたかもしれない。狐にも融通を利かせる柔軟さはあるようだ。

「ふぅん。じゃあ、アタシの占いは当たった?境也達とは『いい出会い』になったかしら?」

「……そこそこ」

「そこは自信を持って言ってほしいのです!」

蓮華がぶっきらぼうに答えると、カバンの中から夢月が声を出した。境也やフクといると仰天することも多いが楽しいし、夢月は妹のようで可愛い。真澄は蓮華が視聴きできると知った時、とても嬉しそうだった。これまで遠ざけてきたモノの中にも、何かしら関係が築けたものがいたかもしれない。

 お藤が進路を駅とは逆に取ったので、二人は閑静な住宅地に入った。この辺りは水恵町ギリギリの端だ。この住宅地を抜けると、田んぼと小学校しかない。人通りも減り、好機の視線を向けられることも少なくなったのでほっとする。散歩をしていた犬にしつこく吠えられた時はドッキリしたが、それ以上にお藤がキョドっていたので動物の勘は侮れない。

「んもう、犬は野蛮で嫌い!」

「チワワだったじゃん。可愛いのに」

 一緒に驚いたことは棚に上げて、蓮華は笑う。お藤は柳眉をひそめて、尻の辺りに手をやった。

「びっくりして、尻尾が出そうになったわ」

「……大騒ぎになりかねないから、気を付けてよ」

 あの大量の尻尾が出てきたら、どう誤魔化したらいいのか見当もつかない。他人のフリをすることも視野に入れる。

「大分、神社の匂いが近くなってきたわね」

「神社と同じような匂いなんだ?」

 真澄の鱗が入っているのだから、真澄の匂いがしそうなものだが違うらしい。

「そう。ほんの少しのお社様の神気と加護と、水の匂いが混ざった感じね。低級な妖怪だと嫌がる匂いなんだから」

「へぇ、アンタは大丈夫なんだ?」

「当然よ、アタシくらい妖力が強くなれば……あら。ちょっと蓮華、あれ見て」

「は?」

 突然、蓮華は頭をお藤に両手で掴まれ、ガッと無理やり左斜め上を向かされた。首からグキッと嫌な音が聞こえる。

「痛い、痛い、痛い!何すんの!?」

「ほら、あの建物の二階」

 お藤が指したのは、古くガタのきていそうなアパートの二階だった。四つある部屋の奥から一つ手前のベランダに、ダンボール箱が置かれている。箱の側面に書かれている『御隈利神社』という文字が丸見えだが、いいのだろうか。

「え、あれ……だよね?」

「神社の銘があるし、間違いないわ」

 大真面目にお藤が頷く。いくらなんでも、堂々と置きすぎだ。仮にも盗んだものなのだから、室内に隠せばいいのに。

「説得して返してくれるかしら」

「えっ、境さんを待った方が……」

「あんなところに住んでるような奴に、境也を煩わせるまでもないわ」

 ひどい言われようだ。お藤が息まいてアパートに突進したので、蓮華も急いで後を追いかける。《良し悪しセンサー》の反応か、嫌な予感がした。最悪の場合、この狐を昏倒させるべきなのかもしれない。

 カツカツと錆びた階段を昇り、真っ直ぐダンボール箱を置いていた部屋に向かう。インターホンは一応ついていたが、変色していて音が鳴るかは微妙だ。お藤もそう思ったのか、インターホンは鳴らさず表面の剥げかけたドアを直接叩いた。

「ごめんなさい、いらっしゃるかしら」

 数回叩いて、声をかけても返答はなかった。

「留守なんじゃない?」

「それはそれで好都合だわ、さっさとお守りを持って帰りましょ」

「いやいや、ちょっと待ちなさい!」

 そういう問題ではない。不法侵入で、こちらが捕まったらどうしてくれるのだ。今にもドアを蹴破りそうなお藤の腕を掴んで止める。傍から見たら、蓮華達の方が泥棒だ。二人で押し問答をしていると、蓮華の携帯電話が鳴った。

「とにかくちょっと待ちなさい、多分境さんからの連絡だから!」

「えー?」

 面倒臭そうなお藤を押し留め、携帯電話を開くとメールだった。着信履歴も三件ほど来ていて、歩いていて気付かなかったようだ。

『現在地 求む 相手 複数の 可能性 ありがとう』

「もしかして、句読点の打ち方分かってないのかなコレ……」

 最後の『ありがとう』は『可能性あり』のつもりが、予測変換で打ってしまったのだろう。文面だけだと、犯人が複数いることを喜んでいるようになってしまっている。

「ここって水恵町五丁目だっけ。お藤、このアパートの名前って分かる?」

「壁に《ウォーターブリージングハイツ》ってあったわ」

 名前だけ無駄にお洒落である。焦る手でどうにか場所とアパート名だけ打って返信すると、ガチャリとドアノブが回る音がした。

「何スか、バイト夜勤なんで静かにしてほしいんスけど」

 目の前の部屋から顔を出したのは、大学生くらいの男だった。今まで寝ていたのか、大あくびをしている。しかしお藤を見て、途端にビシッとシャキッと背筋を伸ばした。恐らく、蓮華は眼中に入っていないだろう。

「あらぁ、ごめんなさい。ちょっとアナタに用があって」

「えっ?なななななななんスか!?」

「御隈利神社から盗んだもの、返して頂きたいの」

 お藤が冷たく言うと、赤くなっていた男の顔色がさっと青く変わった。人間、こんな一瞬で顔色がここまで変わるものなのか。

「は、え、何のことッスか?」

「外に隠しもせずに置いて、しらばっくれないで頂戴。そっちがその気なら、無理にでも返してもらうわ」

 しどろもどろになりながらもとぼける男に、お藤が詰め寄る。おかしなことをするのなら止めなければ、と蓮華が構えると、部屋の中からお藤に向かって何か飛んできた。それが視認できないまま、お藤のブラウスの左袖がぱさりと床に落ちた。

「え、なに……」

「蓮華、下がりなさい!」

 長い髪を振り乱してお藤が激昂した。蓮華だけでなく、男も訳が分からないという顔で玄関から飛び退く。お藤の肩越しに見えたのは、短髪の細長い男だった。獣臭さを感じて、蓮華は顔をしかめた。センサーが反応するので、短髪の男は人間ではない。アパートに駆け寄った時に感じた《良し悪しセンサー》の嫌な感じは、この男のものだったようだ。

「危ないのです!」

 今まで蓮華のカバンの中で待機していた、夢月も出てきた。扇子を手に、蓮華を庇うように立つ。

「ゲッ、狐かよ!せっかく匂いを我慢してたのに、ツイてねぇな」

「お守りのことをその人間に教えたのはアンタね、泥棒イタチ!」

 お藤はそう叫ぶが早いか、右手を短髪男──イタチの妖怪らしい──に繰り出した。イタチ男はすぐ後ろに下がったが、壁には獣の大きなツメの跡がついていた。イタチ男は舌打ちし、両腕を大きく振りかぶる。さっきと同じように見えない何かが風のように飛んできた。お藤は俊敏に飛んで避けたが、床にはパックリと刃物で切られたような傷が二ヵ所できていた。

「鎌鼬なんて面倒臭いわね……!」

 眉間に皺を寄せ目を吊り上げ、殺気立ったお藤は凄まじい迫力をしていた。両手の爪も鋭く長く伸びている。キレた美人の何と恐ろしいことか。半透明の尻尾達が視え隠れしているが、言わないでおくことにする。

 イタチ男の両腕は、いつの間にか暗褐色の毛で覆われていた。元の体毛の色なのだろう。ただ複数犯ならまだよかったが、片方はまさかの妖怪である。

「お、お前一体どうしたんだよ?イタチとか狐って何だ?」

 最初に出てきた男──こちらは人間──は腰を抜かして、突然の攻防戦に泣きそうになりながらもイタチ男に声をかけた。相方が物の怪であることは知らないようだ。

「や、やっぱり神社から盗むなんてマズかったんじゃ……」

「テメェは大人しく俺に従ってりゃいいんだよ!」

 イタチ男は相方の頭スレスレにも風──鎌鼬を飛ばした。男はヒィィと情けない声を上げ、しゃがんで震え出してしまった。

「ひどい、お仲間だったのではないのですか!」

「うるせぇ、チビ!結局人間なんて役に立たねぇんだよ!お前らこそ、何だって人間なんかとツルんでんだ?」

 夢月の非難を、イタチ男は鼻で笑った。

「貴方なんかには、きっと分からないのです!」

 キッとイタチ男を睨んで、小さな付喪神は言い返した。

お守りを持ち逃げする気なのか、イタチ男は部屋の中に後退しようとする。すると、お藤は右手で円を描くような動作をした。さらに、その円の中心を押すと――そこからゴゥと炎が吹き出した。夢月と蓮華は味方にもかかわらず仰け反る。

「お藤!夢月は火に弱いので、気を付けてほしいのです!」

「火事にでもなったらどうすんの!」

 ぎゃいぎゃいと文句を言うと、狐は面倒臭そうな顔をした。

「それくらいの加減、するわよ」

 お藤が指を鳴らすと、燃え上がった炎は五つの人魂のような形になった。ふよふよと宙を漂い、暗くなってきた辺りを照らす。思った以上にアパートは傷だらけの惨状だった。イタチ男の相方は、とっくに白目を向いている。

「火傷したくなきゃ、返しなさい」

「ハッ、下手すりゃダンボールごと燃えちまうんじゃねぇの」

「っていうか、これ以上荒らしちゃマズイって!」

 通報されたらどうする!

 蓮華としては、お藤もイタチ男も止めたい。こんな大騒ぎをしているのだから、いつ他の部屋の住人が顔を出してもおかしくないだろう。そうなったら、この状況をどう説明しろというのだ、無茶振りにも程がある。一人失神しているし。

「人間社会ってのはタイヘンだなぁ。ま、俺の知ったこっちゃねぇが」

 蓮華達を嘲るような笑みを浮かべると、イタチ男は上半身を低くし、ベランダへ四足歩行のように跳躍した。その動きは確かにイタチのようだ。

「お待ち!」

 炎を周りに漂わせたまま、お藤も土足で部屋の中に駆け込んだ。

蓮華と夢月も玄関の中までは追ったが、一応そこで立ち止る。部屋の中は雑誌や空き缶、ゴミが散らばっていて決して綺麗ではなかった。だからといって、土足で室内を踏み荒らすのは憚られる。

 イタチ男は窓を割りそうな勢いで開け、右手でダンボール箱を抱え左手で鼻を押さえた。やはり妖怪にはキツイ匂いがするらしい。《良し悪しセンサー》が僅かに真澄と同じ気配を感知したので、間違いない。

お藤が炎の一つをイタチ男目がけて飛ばしたところで──ベランダの手すりに人影が飛び乗った。イタチ男は人影に気付いたものの、両手がふさがっていて反応が遅れる。その一瞬をついて、人影はイタチ男の右腕に手刀を入れた。抱えられていたダンボールが落ちて、中のお守りがいくつかベランダに散らばった。

「きょ、境さん!?」

 人影の正体は、険しい顔をした境也だった。お藤も慌てて炎を止める。

 イタチ男はまだ諦められないようで、境也に向かって左腕を振り上げた。しかし境也はいつものふわふわした雰囲気はどこへやら、鎌鼬を即座にかわし袂から小刀を出してイタチ男の左肩口に斬りかかった。

「クッソ!今はもう碌に信仰もされてねぇクセに、何であの土地神にこんな人脈があんだよ!」

 イタチ男は忌々しげに吐き捨て、ベランダから人間ではありえないような柔軟さで飛び降り逃げて行った。

誰も何も言わず、一瞬の静寂が部屋の中を支配する。

 蓮華は何度か瞬きをしてから、ゆっくり口を開いた。

「……えっと、壁とかどうしよう?」




   第六譚     狭霧山


「そんな大捕物だったんですか!本当にご苦労様でした。犯人が複数だと、もっと早く分かれば良かったんですが……」

「いえ、情報を頂けただけでも助かりました。それより、犯人を取り逃がしてしまって申し訳ありません」

 騒動の翌日、社務所でダンボール箱を水口に渡し、境也が謝った。

「随分と愉快なことになっていたのだな。我も見学くらいしたかった」

「真澄様……」

 完全にこの土地神は面白がっている。

 結局、残された男はイタチ男が妖怪だったことも、真澄の鱗のことも知らなかった。イタチ男とはゲームセンターで仲良くなり、儲け話があると持ち掛けられ乗ってしまったらしい。

イタチ男は神社の外で待機していて、実際に持ち出したのは男だったという。二人組の男がコソコソしているのを目撃した人がいた、と水口が言った。ダンボールを堂々とベランダに出していたのも、部屋の中に置くのをひどく嫌がったせいらしい。

「罰としてアパートの修理費を自分で払うことで、人間の男の方はお許しかぁ」

 つまらなそうに、お藤は出されたお茶に口を付けた。それでも彼は十分痛い目を見たはずだ。大家と業者にどう説明したのだろう。

「あの人は、イタチに騙されただけなのです!」

 夢月はそう言うと、一気にお茶を飲み干した。まだあのイタチ男にご立腹のようである。

「まぁ、あのアパートに他に住人がいなかったのが救いだよね」

 お藤が貶すほどだっただけあり、あのオンボロアパートには騙された男しか住人がいなかったのである。イタチ男も、それが狙いだったのかもしれない。ともかく、乱闘を見られたり通報されたりしなくてよかった。

「境さんがもっと早く来てくれれば、ちょっとは被害が少なかったかもしれないのに」

「面目ないです……。あのメールを打つだけで、大分時間を食ってしまって」

 しょんぼりと境也が項垂れた。容易に想像できてしまうのが悲しい。

「でも、新しく買った自転車のおかげで、思ったより早く着けたんですよ」

 そう、境也は蓮華からの現在地メールを見て自転車を全力でこいで来たのだった。着流し姿の若い男性が猛スピードで自転車を走らせている姿は、さぞ奇妙だっただろう。

「いきなり境也がベランダに飛び乗って来た時は、アタシもビックリしたわ」

「お藤さんの狐火が視えたので、ただ事ではないと思いまして。自転車の荷台を踏み台にしたら、どうにか届いたんです」

 自転車大活躍である。だが、境也の身体能力も十分おかしい。フクが運動神経は悪くないとは言っていたが、自宅の庭で転んでいたのと同一人物とは思えなかった。

「しかし協力者が妖怪だったとはな。全く我も舐められたものだ、今後はもっと気を付けよう」

「そうしてよね、お社様」

 ヒゲを揺らし腕を組む真澄に、お藤がたしなめるように言った。


 水口はダンボール箱をしまいに、境也はもう根城に帰るというお藤の見送りに連れて行かれてしまった。あれだけ境也にベッタリだったので、もっと居座るつもりなのかと思っていたので意外だ。夢月はおなかがいっぱいになったせいか、うとうとしている。

 蓮華達以外誰もいない境内を窓から見て、ぽつりと言った。

「……真澄様、昔はもっと人が来ていたんですか?」

「何だ蓮華、藪から棒に?」

 脈絡もなく言った蓮華に、真澄は琥珀色の双眸を向けた。

「その……気を悪くしたらすみません。イタチの妖怪が、『今はもう碌に信仰もされてないのに』って言ってたので……」

「まぁ、どうしたって昔とは色々と違うからな。稲の病気を治してほしいと祈られることも、久方ぶりに降った雨を讃えられることもない。ただ、雑多な願い事はされるが」

 長いヒゲを撫でながら、落ち込んだ様子もなく土地神は答えた。

「それに我は恵まれている方だぞ。行事があればそれなりに人も来る。信仰以前に、忘れられてしまったモノも多い」

 神様はお茶をガパッと流し込んで、あっけらかんと言った。

「我が視える宮司も、五代ぶりなのだ」


*   *   *   *


 とうとう梅雨入りし、連日雨が降り続いている。纏わりつくような湿気も鬱陶しい。

 一番面倒なのは、徒歩で学校と《ことほぎ屋》に行かねばならないことだ。特に登校時間はバスを利用しても二十分は追加されてしまうので、その分早く起きなければならない。小雨であれば、蓮華はレインコートを着て自転車を選ぶくらいだ。

 今日は午後になってから雨が止んだので、レインコートを自転車のカゴに突っ込んで店まで来た。

「こんにちはー」

「こんにちは、なのです」

 居間には紐が張られ、そこにタオルやら靴下が洗濯ばさみで干されていた。それらを暖簾をくぐるようにして、蓮華と夢月は挨拶をした。流石に下着は別のところに干しているのか、見当たらない。ちゃんと洗濯ばさみを使っているのはいいが、どうにも部屋が狭く感じられる。

「おお、二人共来たか」

 ちゃぶ台の上でテレビを見ていたフクが、ヒョコヒョコと蓮華達の方へ寄ってくる。それを見て、蓮華は思わず呟いた。

「フクさんはこの季節、本当にカビみたいだよね」

「お前はワシを何だと思っとるんじゃ……」

 福の神だったと知っても、大食いカビ大福の印象は未だに抜けていない。

「何も知らずに、台所にフクがいたらカビの塊にしか見えないのです」

 夢月もバッサリ切り捨てる。やっぱりそうだよね、と苦笑しながら蓮華は座布団に腰を下ろした。

「ところで、境さんは?また買い物?」

 蓮華は台所にも視線をやり、姿の見えない境也について尋ねた。そういえば、玄関に境也の藍色の鼻緒の下駄がなかったような。

「いや、仕事じゃ」

「え!」

 慌てて制服のスカートのポケットから携帯電話を出すが、電話もメールも来ていない。

「私に連絡来てないんだけど。もしかして、危ない仕事なの?」

「大したことはないじゃろうて。ただ、急ぎだと言うのでな」

「大したことではないのに、急ぎなのですか……?」

 夢月は納得のいかない顔で、コテンと首を傾げた。もしかしたら、フクにとって大したことではなくても、世間一般にとっては大したことなのかもしれない。疑惑の眼差しを向けていると、

「境也は陽が暮れるまでには戻るはずじゃ。それより、さっきてれびでこの辺りのけーき屋が出ておったぞ!」

毛玉は一切気にした様子もなく、ホワホワと毛を揺らした。悲しいかな、境也より食べ物に意識が向いているらしい。しかし、蓮華も地元がテレビに出たとなれば気になる。ごめんね、境さん!

「ケーキ屋さん?駅前のかな?」

「それがな、狭霧山の近くらしい。そこの、ちーずけーきが絶品だとやっておった!」

「狭霧山の方?」

 狭霧山は、御隈利高校から駅とは反対方向にある。標高三百メートルほどで広い公園があるが、霧が多く注意しないと大人でも迷子になると言われている。蓮華は近隣にゴルフ場と川しかないと思っていたので、そんなところにケーキ屋とは初耳だ。

「あの辺って、何にもないと思ってたけど……」

「てれびでは美崎川沿いの道を一本入った所にある、穴場じゃとやっておったぞ」

 美崎川は、御隈利市の隣村から流れてきている小さな川だ。狭霧山のすぐ脇を流れており、下流に御隈利高校がある。逆に言えば、狭霧山から御隈利高校までほとんど何もない。

「そりゃ、穴場だろうけどさ……」

蓮華は半信半疑のまま携帯電話を取り出し、インターネットで検索してみた。すると、それらしき店のホームページが一件ヒットする。

「ん、《ケーキショップ・ネーブル》……ここのこと?」

「おお、ここじゃ!」

 携帯電話の画面をフクに見せると、毛玉はピョコンと跳ねた。ホームページによると、十年ほど前から営業しているらしい。辺鄙な場所でも長くやっているということは、きっと味がいいのだろう。

「よし、ちーずけーきを頼んだぞ!」

「……そんな気がしたのです」

「だよねー」

 夢月が半目でフクを見下ろす。蓮華も、食べ物の話が出た時点でそんな気がしていた。

「ワシと境也の分はちーずけーきで、お主達は好きなけーきで構わんからの」

「はーい!」

 使いっ走りも案外悪くはない。ただ、蓮華は最近体重が心配だ。なぜ脂肪は胸にいかず腹や足にいくのか。あれだけ食べるフクのカロリーはどこへ消えているのか。永遠の命題である。


*   *   *   *


「蓮華、まだ着かないのですか?」

 カバンの中から、夢月が心配そうに声をかけてきた。

「もうすぐ、だと思うんだけど……」

 蓮華は自転車を走らせながら辺りを見回した。美崎川沿いの道を狭霧山に向かって来たが、いつまでたってもそれらしい店がない。それどころか、道は舗装されたアスファルトから細い砂利道に変わり、山の中へ突き進んでいる気がする。ぬかるみに自転車のタイヤを取られないようにしていると、夢月が「そういえば」と呟いた。

「前に、狭霧山の怪談を聞いたことがあるのです」

「……何で今、思い出しちゃったかなぁ」

蓮華は鬱蒼と生い茂る木々を見上げながら、ため息をついた。付喪神に怪談を聞かされることになろうとは。

「そんなに怖い話ではないのですよ。山奥で昔子供がいなくなったとか、人魂が飛ぶのを視たとか、誰もいないのに笛や太鼓の音がする、という話なのです」

「ふぅん、怖いって言うよりは不思議系の話だね。霧が多いとこだから、そういう話があるのかも」

 今のところ、蓮華の《良し悪しセンサー》に反応はない。とは言え、雨は止んだものの曇り空と木々で薄暗い中では何か出そうな雰囲気はある。ここに霧が加わったなら、勘違いや見間違いでも怪談は生まれそうだ。

 しかし、そんなことよりも重大なことがある。蓮華は水溜りをよけつつ、

「ごめん、道を間違えたっぽい」

 正直に告白した。

「え!なら、早く引き返すのです!」

「いや、でも、もしかしたら合ってるかも?」

「どっちなのですか!」

 夢月に怒られながら、蓮華は目の前に続く道に視線を落とした。

「だって、バイクのタイヤの跡がたくさんあるんだよ。ケーキ屋さんに行ったバイクの跡かもしれないじゃん?」

 砂利道に残るタイヤの跡は、雨で消えかかったものから真新しいものまでいくつもある。少なくとも、今日だけでついたものではないはずだ。

「全然関係ない場所だったら、どうするのです!」

「その時はその時かな……」

 人がいるなら道を聞けばいいや、と蓮華が刹那的なことを考えていると、道端にバイクが数台停めてあるのが見えてきた。しかし、ケーキ屋もコンビニも見当たらない。

「ありゃ、やっぱり間違いだったか」

 蓮華も一度自転車を止め、ぽつりと零した。それを聞いて、夢月が眉を釣り上げたまま出てくる。

「だから、引き返そうと言ったのですよ!」

「ごめんごめん。けど、このバイクの人達は何しに来たんだろうね?」

 蓮華達と同じように、道を間違えたのだろうか。ならば、バイクを置いてどこへ行ったのだろう。

「フクも待っているし、早く戻るのです」

「入る道を一本間違えたかな……」

 携帯電話を開き、ケーキ屋のホームページから道を確認する。スマートフォンと違って、地図が小さくしか表示されないのがもどかしい。とにかく一度戻ろうと携帯電話をポケットにしまうと、どこからか数人の悲鳴が聞こえてきた。

「なっ何!?」

 ぎょっとして蓮華が辺りを見回すと、ガサガサと草を踏み分ける音と悲鳴が近付いてくる。突然のことに、蓮華は体を強張らせた。道を間違えただけで、何故こんな目に合わなければならないのか。もしかしたら、フクが今日の福を多めに食べたのかもしれない。夢月も険しい顔で懐から扇子を取り出し、蓮華のすぐ隣に立つ。

 蓮華が動くこともできずにいると、すぐに悲鳴の主である若い男性達が青い顔で砂利道に飛び出してきた。

「ヤッベーって!あれはマジでヤバイ!」

「だからオレは止めようって言ったんだ!」

「どうなってんだよ、クソッ!」

 金髪の男性達は蓮華には目もくれず、停めてあったバイクにまたがり乱暴にキーを回した。途端に、エンジン音で騒がしくなる。蓮華は慌てて、バイクの邪魔にならないよう道の端に移動した。

「おい、待ってくれ!置いて行くなよ……!」

 少し遅れて、もう一人男性がヨロヨロと繁みから出てきた。先に出てきた男性達より顔色が悪く、足元もおぼつかない。蓮華が危ないと思う間もなく、ぬかるみに足を取られて盛大に転んでしまった。

「あ、あの、大丈夫で……」

 ガサッ。

 思わず蓮華が声をかけると、さらに繁みから音がした。音がした方へ顔を向ければ、白装束を着た人物が長い黒髪を振り乱し立っていた。髪のせいで、相手の顔は見えない。薄暗い中、白装束だけがやけにはっきりと見えた。

「うわぁぁぁぁ!!」

「追いつかれた!」

「逃げろ!!」

 先に出てきた男性達は絶叫すると、転んだ仲間を置いてバイクを発進させた。茫然としている内に、エンジンの音が遠ざかっていく。

「待ってくれよぉ……みんなぁ!」

 残された男性が這うように自分のバイクへ近付くと、白装束の人物も距離を詰めてきた。それを見た男性は小さく「ヒィッ!」と悲鳴を上げた後、ガクリと地面に倒れ伏した。どうやら、気絶したらしい。

 白装束の人物は男性への興味を無くしたのか、今度は蓮華の方へ一歩踏み出してきた。ざり、と藍色の鼻緒の下駄が砂利を踏みつける音だけが聞こえる。

「な、な、な、な……」

 蓮華の口からは、無意識の内に意味をなさない音が零れ落ちた。夢月を見ると、同じように眉根を寄せてこちらを見上げていた。二人で顔を見合わせ、強く頷く。

「ななな……何やってるの、境さん!」

「おや、バレてしまいましたか」

 白装束の人物──もとい境也は振り乱した髪を整え、気恥ずかしそうに笑った。

「それにしても、よく私だと分かりましたね。あの方々の驚き様からして、それなりに自信があったのですが」

「だって、センサーに反応がないから人間だって分かってたし。背格好にも見覚えあったしね」

「何より、下駄がいつも境也が履いているものだったのです」

 蓮華と夢月で「ねー」と声を揃える。怪談を聞いた直後だったのもあり、最初こそ何事かと驚いたが、人間だというのはすぐに気付いたのだ。それでも、状況は中々飲み込めなかったが。

「むしろ、初めは人間の変質者かと思ったよ……」

「それはそれで嫌なのです」

 微妙な表情で、夢月は気絶した男性の背中を見やった。

「で、その幽霊みたいな格好といい、この人達といい、何なの?急ぎの仕事が入ったっていうのは、フクさんから聞いたけど」

「これはですね、話すと長くなるのですが……」

 境也は話すのを渋ると、何かを確認するように背後を振り返った。ガサゴソと繁みの随分下の方が揺れるのと同時に、《良し悪しセンサー》が反応して首の辺りが一瞬ゾワリとする。出てきたのは二尾の猫に狸、蓮華のカバンほどある大きい亀だった。

「境也、この娘っ子は?」

「アイツらはもう行ったけ?」

「付喪神もおるねー」

 三匹の妖怪は、蓮華達を見上げると口々に言った。

「えっと……?」

「実は、今回の依頼主はこのお三方でして」

 つまり、急ぎの仕事の依頼はこの妖怪達からだったらしい。

「ここで立ち話も難ですし、この方が目を覚ましても困ります。奥に私の荷物を置いてあるので、そちらに移動しましょう」

「えっ、この人このままでいいの?」

「まだ明るいですし、今日はもう雨は降らないと天気予報でやっていたので大丈夫でしょう」

 境也はあっさりばっさり言った。未だにピクリとも動かない男性が、どこまでも不憫である。


「ああ、嬢ちゃんがお藤姐さんが言ってた肝の据わってる娘さんかー」

「名前は何だったか、菫だったかや」

「いや、椿じゃなかった?」

「……蓮華です」

 椅子代わりの岩に座り、蓮華は脱力しながら訂正を入れた。お藤とも知り合いのようだし、境也もいるので名前を教えても平気だろう。花の名前だということだけは覚えていたらしい。それにしても、一体どう話を聞かされたのだろう。

「そっちは……えーと、小袖の付喪神だっけか?」

「扇子なのです!」

 ポコポコと憤慨しながら、夢月も足元の狸に扇子を突きつけた。

 白装束からいつもの着物に着替えるため、境也が離れた木陰に行ってしまったので話が中々進まない。

「急ぎの仕事って、さっきの人達を脅かすことだったの?」

「脅かすって言うか、追い払いたかったんだ」

 猫が言うと、亀も首を伸ばしてゆっくり頷いた。

「できれば、アイツらが二度と来ないようにしたくてなー」

 随分な言われようである。

「何でまた……」

「アイツら、オイラ達を退治するつもりだったんだぁよ」

 バサリと大きく尻尾を振って、狸が不快そうに答えた。

「退治って……あの人達は、皆のこと知ってたってこと?」

「そうじゃないよ。狭霧山の怪談って、嬢ちゃんは聞いたことある?」

 蓮華のすぐ隣の岩に飛び乗って、猫が言った。聞いたことがあるも何も、さっき知ったばかりである。

「子供がいなくなる、人魂が飛ぶ、笛や太鼓の音が聞こえる、という話のことなのですか?」

「それそれ。他にも色々あるけどね。その内の大半は人間の勘違いで、ほんの少しは僕らが犯人なんだ」

「えええ……」

 一部だけとはいえ、怪談は本当だったようだ。

「悪戯でやってたわけじゃないぞー。霧で道を間違えたり、儂らの棲み処に近付いて来たら誘導してただけさねー」

「ちょっと化かしてやることもあるけど、やりすぎるとお社様に怒られるからね」

 冗談めかして猫が笑う。こんなところで、真澄の権威を知ることになるとは思わなかった。やはり怒らせるのはアウトのようだ。イタチ男は意外と度胸があったのかもしれない。

「そんな噂を、アイツらは確かめに来たらしくてな。んで、もし本当なら『退治してやろう』って考えたらしいんだぁよ」

「心霊スポットに行きたがるヤンキーか……」

 そういえば、さっきの男性達はみな金髪でガラの悪そうな顔をしていた……ような気がする。彼らが恐慌状態だったから見向きもされなかったものの、本来なら蓮華は絡まれていたかもしれない。今更《良し悪しセンサー》とは関係なく、冷汗が背中を流れた。

「儂らにとっちゃ、いい迷惑さー。何度も来ては煩く騒いで、ゴミばっかし置いていきよるー。人魂飛ばしてみても、狸囃子聴かせても面白がるだけでなー」

「今までは騒いで荒らすだけだったけど、今回はね」

 猫が低く言うと、三匹は揃って蓮華の座る岩の後ろを見た。蓮華も振り向けば、そこには冬によく見る赤いポリタンクが置かれていた。

「……中身、は」

「入ってるだぁよ。油の種類までは分かんねぇが」

「あの油をあちこち撒いて、火を点ければ儂らを退治できると考えたらしいさー」

「ハァ!?何それ!」

「そんなことをしたら、山火事になってしまうのです!」

 火が苦手だという夢月が、悲痛な声を上げる。

「急ぎの仕事って、そういう……」

「アイツらの話を聞いて、大急ぎで僕が境也を呼んで来たんだ」

 いくら雨の多い季節とは言え、燃え広がれば公園やケーキ屋まで被害に遭うかもしれない。もちろん、人ではない沢山のもの達にも。しかし、意外にも妖怪達の反応は軽い。

「まぁ、あの人間達も人間達で、憎めないところがあるしなー」

「アイツら、オイラ達がそばで聞いてることも知らずに、ここで作戦ぜーんぶ語ってくれただぁよ。油を撒くのは陽が落ちてからとか、全員で一斉に火を点けようとか言うとったね」

「逃げ道も考えてなかったみたいだし、下手するとアイツら自分達も丸焼けになるって気付かなかったのかなぁ。おかげで先手が打てたんだけどさ」

「……おバカさんだったのですね」

「人間って、バカでごめん……」

 蓮華は力なく謝った。この中で、蓮華だけが彼らと同じ人間であるということが非常にいたたまれない。境也が気絶した男性に冷たかった理由が分かった気がした。

「でも、皆も化かしたりできるんでしょ。境さんに頼まなくても、皆で幽霊に化ければよかったんじゃない?」

「そうできればよかったんだけどね。僕らはお藤姐さんみたいに霊力が強くないから、人に化けたりできないんだ」

 猫はしゅん、と二本の尻尾を下げた。

「化けられたとしても、せいぜい腕か足の一本くらいさぁね」

「普通に怖いよ、それ」

 思わず蓮華は真顔で返してしまった。だが、場合によっては事件と勘違いされて通報されるかもしれない。怪談がサスペンスになってしまうよりは、これでよかったのだろう。

「お藤には頼まなかったのですか?もっと盛大にやったと思うのです」

「……お藤姐さんはなー」

「せっかく減ったお札を、増やさせたくないだぁよ」

「お札って、お藤の右脚の?」

 初めて遭った時に勲章のようなもの、と言っていたが、減るものだったらしい。

「お藤姐さんのお札は、昔は全身に貼られて力を封印されていたんよー。今はだいぶお札も減って、霊力も戻ってきたさねー」

「全身!?何だってそんなことに」

「動きにくそうなのです」

 夢月が微妙な顔をしたが、着眼すべきははそこではない。狸はトテトテと蓮華の足元に来ると、不思議そうに見上げてきた。

「嬢ちゃん、《ことほぎ屋》で手伝いしてるのに知らねぇだか?」

「お藤がお札貼られた理由は知らないよ」

「フクさんが福の神だった、っていうのは?」

「それは本人から聞いたけど……」

 お藤の話をしていたのに、なぜ急にフクが出てきたのだろう。

「んだばさ、フクさんが人間のために福を使い切って、あんな毛玉になっちまったってのは聞いたかや?」

「福を使い切った?」

 初耳である。フクの話では、福を分けてくれた村がなくなり力が弱まって今に至る、というものだった。

「村がなくなって、福をもらえなくなったんじゃないの?」

「その、村がなくなるきっかけの話さー。ちょいと昔、この辺りをとんでもない嵐が襲ったことがあってなー。今じゃ台風って言うんだっけかー」

「その時、美崎川が氾濫してね。村も畑も田んぼも、ほとんどダメになってしまったんだ。あの頃は、美崎川も大河だったんだよ。その分、被害も甚大だったんだけどね。フクさんのおかげか、全滅は免れたけど」

 蓮華のよく知る土地の、知らない時代を妖怪達は語る。

「住む場所も、食う物も無くなっちまった人間は、被害の少なかった森や山に目をつけたんだぁよ。でも、山を切り拓いて食い物みんな持ってかれちまったら、オイラ達が生きていけねぇだ。いんや、オイラ達妖怪はいい。でも、動物達はどうしようもねぇ」

「その時も化かしたりして、人間を追い返したんだ。けど、人間達も必死でね。多くの棲み処と動物が狩られてしまったんだ」

「ごめん……その、人間が」

 うまく言葉にならないまま、さっきとは違う意味で蓮華は三匹に謝った。

「誰が悪いわけでもなかったさー。儂らもずいぶん仲間が減ってなー。とうとう、いくら何でも身勝手だ、ってお藤姐さんが怒っちまったんよー」

 それはお藤が怒るのも仕方がない。けれど、どちらが正しいのかと聞かれれば、蓮華は答えが分からなかった。生きていくためには、何かを食べなければならない。人も、動物も、どうやら妖怪も。ただひたすらに、やるせなさが込み上げる。

「お藤姐さんも人間を崖に誘導して落としたり、残った畑をダメにしたり、流石にやりすぎたんだぁな。人間に乞われたお社様に、お札で封印されちまったんさ」

「真澄様に……」

 お藤の脚のお札に、そんな理由があったとは。この間のお守り盗難騒動でお藤と真澄は顔を合わせていたが、そんな様子は微塵もなかった。

「だけど、人間の生活が良くなるわけじゃない」

「お社様も、土地が荒れたせいで弱ってしまわれてなー。お藤姐さんの封印で一杯一杯だったんよー」

「このままじゃ、お藤姐さんだってあんまりにも報われねぇだ」

 こういう時、人は神に祈るのだろう。もしくは仏に。実際には真澄も弱っていたようだし、万能の力があるわけではない。それでも何かに縋り、助けを求め──

「そこで立ち上がったのが、フクだったのですね」

 夢月が静かに言った。

「フクさんは人間にとっても、僕達にとっても事態が好転するようにしようとしてくれたんだ。だけどそのためには、フクさんの貯めた福をほとんど使うしかなかったみたいでね……」

「人間は同じように嵐の被害が出た他の村々から声がかかって、とんとん拍子で山から離れたところに大きな町ができたんだぁよ」

「畑も山も豊作続きになったさー。棲み処や荒れた土地も回復が早くてなー」

 全てが元通りになったわけではない。戻らないものも多かったはずだ。それでも、最低限奪い合わずに生きていける状況になった、ということだろうか。

「フクさんはあわや消える寸前、だったみたいだがなぁ」

「え、けっこうヤバかったんじゃん!」

「福を完全に使い切るってことは、フクさんの存在そのものを使い切ることだからね」

 むしろ、毛玉としてでも残ったのは僥倖だったのではないだろうか。

「お藤のお札は、どうして減ったのです?自分で剥がしたのですか?」

「いんや、フクさんと真澄様の話し合いの末に、お藤姐さんが『人間にとって善い行い』を一つしたら一枚剥がす、ということになったんさー。同時に、『人間にとって悪い行い』を一つしたら一枚増えるって約束もあるんよー」

「だから、今回はお藤さんに声をかけなかったんですよ」

 ガサガサと、ようやく着替えを終えた境也が戻ってきた。荷物の多さからか、風呂敷包みではなくボストンバッグを抱えている。

「そだね、どっちかって言うとキレたお藤が火を点けそうだしね……」

今回の依頼は『人間を追い払うこと』で、状況は三匹が語った過去にも似ている。怒り狂って、ガソリンか灯油か分からないが、狐火が引火しては洒落にならない。

「お藤が《ことほぎ屋》のお手伝いをしているのは、お札を剥がす『善い行い』のためだったのですね」

「それもありますが、お藤さんはフクさんにベタ惚れですから」

「はっ?」

 境也の爆弾発言に、蓮華は今までの話の内容が吹っ飛んだ。

「えっ?お藤が?フクさんに?」

「あれ、気付きませんでしたか?」

「境さんに、じゃなくて?」

「私は、お藤さんにとって弟分みたいなものですよ」

 全く気付かなかった。境也にはやたらベタベタしていたが、フクへの態度は普通だったように思う。いや、フクに話しかける声はやたら甘かったような。

「お藤姐さんは、フクさんの気を引きたくて、わざと境也に引っ付いたりするんだぁよ」

「嫉妬してほしい、ってやつだね。女心は複雑だよ」

「肝心のフクさんは、ちっとも気付いてないけどなー」

「フクは、色気よりも食い気すぎるのです……」

 夢月の言葉に、蓮華は激しく頷いた。今の蓮華には、残念ながら女心も狐心も理解できない。お藤は毛玉が相手でいいのだろうか。そもそも、あの大食いカビ大福がそんな偉大なことをしたというのが想像できない。

「ところで、蓮華さんはなぜここへ?」

「あっ、忘れてた!この辺にある、ケーキ屋さんのチーズケーキをフクさんに頼まれたんだけど、道を間違えたみたいで……」

「嬢ちゃん、それはもう一本前の道だよ」

「道は分かりにくいが、看板は出とるぞー」

 猫と亀に言われ、蓮華は分かっていてもガックリ項垂れた。どこで見落としたのだろう。とんだ遠回りの大回りをした気分である。やっぱり、フクに福を多めに食べられたのかもしれない。けれど、それでフクが今日をのんびり過ごせるなら、それはきっと厄ではない。何となく、そんな気がした。


 数日後の休み時間、蓮華は入梅に小声で話しかけられた。

「さっき、狭霧山の怪談を聞いたんだけど知ってる?」

「……どしたの、急に」

「狭霧山って学校から近いし、蓮華なら何か分かるかなって。狭霧山に面白半分で入った大学生のグループが、白装束の女の霊に追いかけられた、って話なんだけど。何でも、その女性は恋人に捨てられて自殺したらしくて、恋人憎さに彷徨ってるんだって。狭霧山に行ったグループの一人は、呪われちゃって大変らしいよ」

 ものすごく聞き覚えのある話に、蓮華は額に手を当てた。しかも微妙に間違っている上に、尾ひれ背びれがいくつもついている。何がどう伝わってそうなったのか。事情を知らない入梅は、絶句する蓮華を見て深刻そうな顔をした。

「何、マジでヤバイ話だった?」

「……それ、そもそも女の人じゃないし、自殺者なんていないし、呪われてもいないから」

 蓮華が呻くように言うと、入梅はきょとんとした。

 一部の本物の怪談を除き、多くの都市伝説はこうして生まれるのかもしれない。




   第七譚     潜入調査


 今日も今日とて、雨が降り続いている。店に着くまでにローファーも靴下も濡れてしまい、蓮華は玄関で靴下を脱いだ。

「せめて、小降りにならないかなぁ」

「お天道様に文句を言っても仕方ないのですよ」

 ため息をついて靴下を絞ると、夢月がカバンから出てきて空を見上げた。予報では一日降り続けると言っていたので、帰りも濡れそうだ。

「境さーん、私の靴下も干していい?」

 居間に顔を出せば、洗濯物がぶら下がる中境也が苦笑する。

「かまいませんよ。すみません、中々洗濯物が減らなくて」

「ワシの洗濯物はなくてよかったのぅ」

「フクさんは洗濯も何も、毛しかないじゃん……」

 冗談のつもりなのか、ころころ笑うフクに蓮華はツッコミを入れた。フクの毛の下がどうなっているのかは非常に気になるが、知ってはいけないような気がした。

「次の晴れは週末だとテレビで言っていたのです」

「では、まとめて干すようですね」

 蓮華の靴下には、帰るまでになるべく乾いて欲しい。洗濯ばさみを借りようとすると、

「ごめんください」

 玄関から声がした。


 訪れたのは、スーツをピシリと着こなした厳格そうな年配の男性だった。スーツとオーラからして、かなりのお偉いさんだと蓮華は予想する。

「えと、粗茶ですが……」

「どうも」

 蓮華はどうにか、営業スマイルでお茶を出した。視えるどうかは分からないが、フクと夢月に居間から出ないよう言ってある。

 男性は値踏みするように、蓮華と境也を見ている。威圧するような空気に、蓮華は首をすくめた。この人は幽霊や怪異を信じていないタイプだな、と直感する。

 空気に気圧されることなく、境也は真っ直ぐ男性と向き合って口を開いた。

「それで、本日はどういったご用件でしょうか」

「非常に不本意ながら、私の勤務する会社で困ったことが起きていまして。数年前から社員が、『幽霊を見た』と言って聞かないんです」

 馬鹿馬鹿しい、と言いたげな表情で男性は話し始めた。

「確実に何か見た、という者は少ないんですが、うめき声がするだの誰もいないはずなのに気配がするだのと言うんですよ。会社でも噂が広がってしまいましてね。中にはとうとうノイローゼになって辞める者も出てきてしまって、困っているんです」

 困っているのは事実らしく、男性は肩をすくめた。

「なので、こちらで是非幽霊退治をしていただけませんかね」

「なるほど……」

「無事解決して頂けましたら、百万円お支払しましょう」

「!?」

 蓮華は声は上げなかったものの、飛び上がりそうになった。今、百万円と言ったのだろうか。一万円札百枚の、あの百万円?日本円の?

「……分かりました。いつお伺いすればよろしいでしょう?」

「今週末にお願いします。私の名刺をお渡ししておきます、これを受付の者に見せれば入れるよう言っておきますので」

 男性は高そうなケースから名刺を出し、境也に渡した。もちろん手書きではない。

「つかぬことをお伺いしますが」

 男性は名刺ケースをしまうと、もう一度蓮華と境也に視線を向けた。どうにもドギマギする。

「いらっしゃるのは貴方方お二人、ということでいいのでしょうか?」

「そのつもりですが、何か不都合がおありですか?」

 不可思議なことを確認されたので、境也も怪訝な顔をしている。実際には夢月も連れて行くつもりだが、この人に言っても仕方ないだろう。

「いえ、確認したかっただけです。では、よろしくお願いしますね」

 軽く会釈し、男性は去って行った。

「何だったんだろ?」

「さぁ……こちらの技量を知りたかったのかもしれません」

「っていうか、百万円だって!すごいじゃん!」

 テンションが戻ってきた蓮華はバシバシ境也の背中を叩いた。何と言っても百万円なのだ。

「まだ、もらえると決まったわけじゃありませんよ。仕事内容によっては、全額受け取れないこともあります」

「え、そうなの?」

「週末は忙しくなりそうですね」


*   *   *   *


 約束の週末、土曜日。予報通り晴れたが、その分日差しと湿度で蒸し暑い。道行く人々もハンカチで汗をふいたり、手で顔を扇いだりして通り過ぎていく。

「……境さん、ここなの?」

「はい、住所も会社の名前も合っています」

「大きい建物なのです」

 蓮華は駅前でも指折りのビルを見上げた。もちろん十数階建てのビル全てが依頼人の会社ではなく、テナントもいくつか入っている。カバンから出てきた夢月が、窓ガラスに反射した日光に目をすがめた。

御隈利市は駅から離れると田んぼや畑だらけになるが、駅前だけはそこそこ頑張っている。比較的大きな映画館も図書館も文化会館もある。ビルはそんな公共施設にも負けない立派さだ。

「マジか……」

「……天野?」

 暑さ以外のもので蓮華が汗をかいていると、背後から声をかけられた。

「あれ、内藤じゃん」

 声をかけてきたのは、バスケ部の内藤だった。和服姿の境也が気になるのか、チラチラと見ている。境也はいつも通り穏やかに微笑んでいた。視えてはいないだろうが、夢月が境也の後ろにすっと隠れる。

「何やってんの、部活は?」

「今日は休み。お前こそ、こんなとこで何してんだ?」

「バイトだよ」

「……その人は?」

 予想通りの質問だ。若い、それも和服姿の男性なんて物珍しいのだろう。蓮華はそう結論付けて答える。

「この人は、バイト先の店長さん。境さん、コイツは中学三年間同じクラスだった内藤だよ」

「蓮華さんのお友達でしたか、初めまして」

「……ども」

 境也に会釈され、内藤も固い声で小さく返した。蓮華は思わず訂正する。

「友達じゃないよ、ただのクラスメイト」

「そうなんですか?」

 境也にしてみればニュアンスは似たようなものかもしれないが、蓮華は内藤と友人になった覚えはない。クラスメイトだったのも、今となっては過去形だが。

「マネージャーがどうのとか言ってたのは、どうしたの?」

「え。あ、あぁ、友達がどうにかやってくれる子見つけた」

 自分から言い出したことなのに忘れていたのか、内藤の反応はワンテンポ遅れた。

「ふーん。それじゃ」

「待て、天野!」

 蓮華が会話を切ろうとすると、内藤は焦ったように、しかし境也に気を使ってか小声で続けた。

「何?」

「お前のバイトって何なんだよ?」

「……小さい何でも屋さんのお手伝い」

 紗菜達に話してあるのと同じことを、警戒しつつ言う。

「何でも屋?」

 内藤は怪訝な顔をした。怪異関係の仕事です、とは言えないが、あながち嘘はついていないはずだ。骨董品の調査だったり、探し物だったり、細かい仕事内容を言わなければ何でも屋で押し通せるだろう。

「危ないこととかないのか?」

「えっと……まぁ」

 目の前で壁や床が切れたり、炎が吹き出したことはあるが、ケガはしていないし蓮華が戦闘をしたわけではない。今のところは。

「……変なことに首突っ込むなよ」

「ご忠告どーも。それじゃね」

 今度こそ会話を切り、蓮華は内藤に適当に手を振った。何と言っても暑いのだ。アスファルトの照り返しもきつい。

「行こ、境さん。夢月も暑いでしょ」

「でも、いいのですか?」

「いいよ、暑いし、あのおじさん待たせてるかもだし」

 蓮華としては、一刻も早く日陰に入りたい。境也は蓮華と内藤を交互に見てから、もう一度会釈した。

 ビルの自動ドアをくぐると、ぐっと涼しくなる。冷房様々でようやく生き返った。しかし、蓮華は建物に入った瞬間に暗い、と思った。照明や内装の話ではなく、雰囲気が暗い。冷房以外に寒気すら感じる。同じようなことを思ったのか、夢月も「空気が重いのです」と呟いた。

「すみません、こちらでこの名刺を出すようにと言われたんですが……」

 境也が受付の女性に依頼人にもらった名刺を見せると、少々お待ちください、と内線をどこかに繋げた。女性は電話先の相手と二言三言交わし、

「お待たせいたしました、十一階までお上がりください。エレベーターは奥になります」

 と、案内された。

 エレベーターの前に立ち、降りてくるのを待つ。夢月はエレベーターの階数表示のランプ点灯を、じっと目で追っていた。

「やっぱり、ここ何かいるね。おじさんは信じてなかったみたいだけど」

「あの手の方の相手は、中々難しいんですよね」

 経験があるのか、境也は苦笑した。

 到着したエレベーターに乗って十一階に着いたのはいいが、思いの外フロアが広い。どこへ行けばいいのだろう。エレベーターの前で二人してキョロキョロしていると、先日の依頼人が廊下の先から歩いてきた。

「お待ちしておりました、まずこちらへどうぞ」

「はぁ……」

 依頼人に案内され、会議室のような部屋に通された。テーブルの上には、段ボール箱が一つ乗っている。

「申し訳ないんですが、お二人にはこの服に着替えて頂きたいんです」

 そう言って依頼人が段ボールから取り出したのは、青いポロシャツとズボンだった。一緒に『清掃員』という腕章も渡され、目が点になる。

「えっと……?」

「仕事をしている社員に気取られたくないので、清掃員のフリをしてほしいんです。掃除はもちろんフリでいいですし、最上階と地下以外は入って構いませんので」

 見れば、部屋の隅に箒にバケツ、雑巾が置かれている。服のサイズも、ちゃんと女性ものと男性もので別々だ。蓮華のはMサイズで、境也はLサイズと書かれている。

「これはこのビルの見取り図です。この部屋の鍵もお渡ししておきますね、ご自由にお使い下さい。お帰りの際は、受付に渡してもらえればいいです。それでは」

 依頼人は境也に見取り図と鍵を渡すと、さっさとドアの向こうに行ってしまった。敬語ではあったが、やたら高圧的な態度だった。仕方なく仕事をくれてやっている、という感じがしてイラっとする。あの人の役職など知らないが、あんな上司は絶対に嫌だ。

「お掃除するのですか?」

「形だけみたいだけどね。とりあえず、トイレで着替えてくる」

 よく分かっていないらしい夢月を置いて、蓮華は服を掴んだ。


 蓮華が着替えて会議室に戻ると、境也も着替え終わっていた。

「うわ、境さんの洋服姿初めて見た!」

着流し姿を見慣れてしまったせいか、洋服がとてつもなく新鮮だ。後ろでまとめている髪がやぼったいが、いつもより体のラインがスッキリして見える。

着物は綺麗に畳まれて、椅子の上に置かれていた。着て来た服を四つ折りにしただけの蓮華とは大違いだ。女子力とは一体何なのか。

「動きやすいのはいいですが、やっぱり違和感がありますね……」

「最初、境也はシャツの前と後ろを間違えていたので、夢月が教えたのです」

 情けない顔で言う境也に、夢月が暴露した。顔色は変わらないが、境也の耳が赤くなっている。着物よりずっと着替えやすいだろうに、なぜそんなに苦手なのか。

「それじゃ、この階を見てから一階から回る?地下と一番上の階は入っちゃダメって言ってたよね」

 見取り図には、地下は倉庫で最上階の十五階は社長室と書かれていた。それでも一階から十四階まで回らねばならない。

「そうですね、行きましょう」

 掃除用具を持ち、会議室に鍵をかけて調べ始める。夢月の本体である扇子は、ズボンのポケットにギリギリ収まった。

「何かスパイみたいだね」

 休日だからなのか、どのフロアも人は少ない。休日出勤お疲れ様です。

「すぱい、って何なのですか?」

「えーと、敵地にこっそり侵入して情報を探る人だよ」

「忍者みたいなものなのですか?」

「……間違ってはいないかな」

 全く忍んではいないが、意味合いは近いかもしれない。

あちこち覗いて誰かとすれ違ったり、人のいる部屋に入った時だけ掃除をするフリをする。パソコンが並ぶ部屋がほとんどなので、境也にも夢月にも触らないよう注意した。

「パソコンには触らないようにね。精密機械だから、電源入ってなくてもダメだよ」

「携帯電話と違って、ボタンがたくさんありますよね。よく皆さん使いこなせるものです」

 ボタンじゃなくて、それキーボードです。

「真澄様が言っていたものなのですね。どうやって世界に繋がっているのですか……?」

 ディスプレイの裏側を見ようとする夢月の背中を軽くはたき、阻止する。万が一壊したらと思うと、気が気ではない。

境也も境也で、やたら窓を掃除しようとするので、蓮華は何度もキリのよさそうなところで連れ出すはめになった。

「もうその窓はいいよ、境さん!」

「ですが……」

「本物の清掃員さんにまかせればいいってば!」

時折、境也が目を細めて窓の外を眺めているのに蓮華は気付かなかった。必要以上に時間をかけながら異常はないか探したが、別段何も視当たらない。だが、軽いもののずっと寒気がする。何かあるのは間違いないのだが。

結局、成果はあまりなかった。

「今日はここまでにして、また明日にしましょう」

 陽が傾きかけた頃、境也が蓮華に声をかけた。ビルの中は涼しかったとはいえ、中々骨が折れる作業だった。気疲れもあるのか、体が重い。最初は真っ白だった雑巾が、フリとはいえ何度も使ったので黒ずんでしまっている。

「そうだね。境さん掃除に本気になりすぎなんだもん」

「すみません……」

 それぞれ着替え、服と掃除用具、鍵を一階の受付に返してビルを後にした。


*   *   *   *


 翌日曜日、境也は狭霧山の時と同じボストンバッグを抱えていた。

「……境さん、それ掃除用具じゃないよね?」

「違いますよ、そこまで掃除にこだわっていません!」

 蓮華がじっとりカバンを睨むと、境也は慌てて弁解した。清掃員の服を持って帰って洗濯するつもりなのだろうか。それにしてはボストンバッグでは大きすぎる。

蓮華達は昨日受付に預けたものを受け取り、着替えて腕章をつけた。境也も今日はスムーズに着替えられたようだ。

「今日はどこから調べようか。昨日一通り回ったけど、何もなかったし」

「一旦、一階に行きましょう」

 境也はボストンバッグを抱えたまま、エレベーターに乗り込んだ。何に使うつもりなのだろう。エレベーターは一度も他の階で止まることなく、一階に着いてポーンと到着音が鳴る。

「着いた時に、ふわっとするのが苦手なのです」

 夢月が眉をしかめて言う。付喪神にも三半規管はあるらしい。ドアが開くと、境也は一直線に外を目指して歩き出した。

「ちょ、境さんどこ行くの?」

 不思議そうにしている受付嬢に会釈して、速足で後を追う。境也はビルから出ると、すぐ横の路地を通って裏へ回った。狭いがビルの裏にはスペースがあり、積まれた資材か何かの上に水色のビニールシートがかけられている。

 そこで蓮華は、建物の中とは違う気配があることに気付いた。ずっと希薄で、フクよりも弱いかもしれない。境也がスペースの真ん中に立つと、動物の唸り声のようなものが聴こえた。途端、壁から通常の倍はある柴犬が牙をむいて飛び出してきた。蓮華が思わず後退る横で、境也は避けるでもなく犬を見据える。

「境さん!」

「ゼンテツ、やめるんだ!」

 蓮華の叫び声と、幼い少年の声がかぶった。柴犬はすんでのところで噛みつきこそしなかったが、鼻に皺をよせて威嚇してくる。振り向くと、夢月より少し大きいくらいの少年が立っていた。着ている縹色の着物はボロボロで、キッとこちらを睨んでいるが――存在感が薄い。ああ、この子達は生きてはいないんだな、というのがストンと落ちてきた。

「あんたら、昨日もこの建物に来てたよね。おれ達を追い出しに来たの?」

 柴犬――ゼンテツに駆け寄り、少年は敵意を隠さずに言う。昨日の蓮華達を、どこかで見ていたらしい。

「昨日、窓からあなた達が視えたので、話を聴こうと思って来たんです」

 普段の穏やかな空気はどこへやら、境也も淡々と話す。そもそも、気付いたなら教えてくれればよかったのに。

「……おれ達は探し物をしてるだけだ」

「探し物、なのですか?」

 いつの間にか蓮華の前に立っていた夢月が、首を傾げる。

「あんたらには関係ないだろ」

「申し訳ないのですが、私はここの怪異の解決を依頼されているんです」

「やっぱり追い出しに来たのか!」

 少年が怒鳴ると、ゼンテツが低く吠えた。サイズが大きいので、咆哮だけでもグワ、と空気が震える。

「きょ、境さん……?」

 冷たい態度の境也と、一発触発な少年に蓮華はうろたえた。

「では提案なのですが、その探し物の依頼を私にしませんか」

「境さん!?」

 突然営業始めちゃったよ!

「……何言ってんだ、あんた」

 少年が至極まともに返した。茫然と境也を見上げていて、流石に怒気も収まっている。

「私も、無理矢理追い出すようなことはしたくありません。依頼された以上は、しっかり探しますよ」

 何だか悪魔の囁きのようだ。少年はしばらく逡巡していたが、

「……本当に探してくれるのか」

 意を決したように言った。まだ唸るゼンテツの背中を撫でてなだめ、幼い容姿に似合わぬ疲労が強い顔をする。

「あんたらと違って、おれ達はずっと探してたから、どこにあるのかは分かってるんだ。だけど、どうしても入れない」

「入れない?」

 霊なのだから、さっきのゼンテツのように壁をすり抜ければいいのでは。少年は蓮華の反応に、フンと鼻を鳴らした。

「おれにだって、何で入れないか分からないんだ。壁に近付くとはじかれるんだよ」

「それで、腹いせにこの会社の人を驚かしたりしてたの?」

「んなことしてねぇよ」

 蓮華を睨んで少年はきっぱり言う。いくらか落ち着いてきたゼンテツにも小さく吠えられたので、蓮華は一歩下がった。

「それはどこなのですか?」

「地下だ。けっこう広い」

 少年は地面を指差した。地下は行くなと言われているので、廊下すら覗いていない。

「地下は行っちゃダメって言われてるけど……。受付のお姉さんに言って、おじさんに聞いてもらおうか」

「いえ、許可は下りないでしょう」

 蓮華の提案に、境也は冷静に答えた。ふと、依頼人のこちらを見下した様子を思い出し、納得する。何より、できるだけ会いたくない。

「なら、どうするのですか?」

「侵入するしかないでしょうね」

「えっ」

 やたら大胆な発言に、蓮華は境也を凝視した。

「私も地下が気になっていたので、好都合です」

「そうだったの?」

「昨日回ったところは何もありませんでしたから、あとは最上階か地下でしょう」

 それもそうだ。だからと言って、侵入が許されるわけではない。少年は蓮華の微妙な表情を見て何か察したのか、うろんげな視線をよこした。

「大丈夫なのかよ」

「たぶん……?」

 自信を持って言えないのが悲しい。

「そうだ、名前聞いてなかったね。犬はゼンテツで、君は?」

「……あんた達に名乗る名前なんてない」

 少年は一瞬、困ったような迷ったような表情をした後、舌を出して言い放った。

「うっわ、可愛くない!」

 蓮華が憤慨すると、ゼンテツに再び唸られたのでそれ以上は口を閉じる。

「探し物が何かは、教えてもらえますか?」

「トンボ玉のついた、青い根付だよ」

 境也の質問には、素直に答える。この扱いの差は何だ。睨み合う蓮華と少年に、夢月がおろおろと見上げてくる。そんな中、

「ともかく、もっと人の少なくなる夕方まで待ちましょう」

 境也は一人重々しい表情をしていた。


*   *   *   *


 境也に言われるまま駅前で時間をつぶし、逢魔が時になる頃。

 受付の女性も帰り、ビルを見上げても電気のついている階はまちまちだ。見られてもいいように清掃員の服装のままだが、警備員が来たらどうするつもりなのだろう。

地下への階段へ足を踏み入れると、時間や冷房と関係なく温度が急に下がった。全身に鳥肌が立ち、ここが原因だというのは間違いない。

「おれ、ここ嫌いだ」

 静かな廊下を進みながら、少年が言った。ゼンテツもずっと唸りっぱなしだ。地下はフロア全体が倉庫になっており、他にあるのはトイレだけだった。すぐに目に入って来た倉庫のドアは黒塗りでそっけない。蓮華がドアノブを回してみたが、当然鍵はかかっている。夢月が手を伸ばすと、バチン!と強烈な静電気のようなものに阻まれてしまった。

「夢月も入れないのです……」

「本当にはじかれるんだね」

 蓮華はショックを受けている夢月の頭を撫でてやった。

「だから、そう言っただろ」

 ぶっきらぼうに少年が言う。どうしてコイツはこんなに可愛げがないのか。

「どうするの、境さん?」

「ちょっと待って下さいね」

 境也は持って来たボストンバッグをゴソゴソ漁ると、針金のようなものを数本取り出した。針金の先端は曲がっていたり、ジグザグになっている。

「境さん、それってピッキング的な……?」

「はい。たまに開かずの間や、開かずの金庫の依頼もあるのでこれくらいはできますよ」

 ちょっと得意げに境也が言う。夢月と少年は何をしているのか理解していないようで、じっと境也の手元を見ている。しかし、この状況は誰がどう見ても泥棒だ。蓮華はもしもの時のために、逃走経路を頭の中でシュミレートした。しばらく境也がカチャカチャと鍵穴と格闘していると、ガチャンとひと際大きな音がした。

「開いたのです!」

「開けちゃってよかったのかな……」

 もう一度ドアノブを回すと、今までの比ではない怖気が蓮華の全身を襲った。ドアの隙間から、澱んだ空気が流れてくる。夢月のようにはじかれたわけでもないのに、ドアから飛び退ってしまった。

「境さん、ここヤバイ!」

「……そのようですね」

 境也はボストンバッグから小豆色の棒状のパーツをいくつか出すと、それを組み立て始めた。

「おい、早く扉を開けろ」

「うええ……」

 少年に凄まれ、蓮華はゆっくりとドアを開けた。生臭いを通り越して、もはや血腥い。ゼンテツも犬である以上鼻が効くのだろう、激しく吠えたてた。もうすでに中に入りたくない。恐る恐る覗くが、真っ暗で何も見えなかった。蓮華は泣く泣く壁に手を這わせながらスイッチを探し、やっとのことで電気を点けた。

「……思ったより普通だね」

 明るくなった倉庫内は棚がいくつも並んでおり、電球やらコードやらの備品が置かれていた。ただならぬ《良し悪しセンサー》の反応に反して、一見ただの倉庫だ。蓮華は動物の死体でもあるのかと思ったくらいだというのに。

「物が多いな」

 少年とゼンテツが率先して中に入り、物色し始める。ほっとして蓮華も入ると、棚の影になって見えにくいところにお札が貼ってあるのが目に入った。一瞬で凍り付きながら視線を滑らせると、潜ませるようにお札が四方の壁に何枚も貼られている。夢月や少年がはじかれたのは、深く考えなくてもこれのせいだろう。絶対にヤバイやつだコレ。

 かと言って少年に好き勝手させるわけにもいかないので、ギクシャクと固い動きになりながら後に続く。夢月が隣で必死に扇いでくれるので、ドアを開けた瞬間よりはマシだ。

「蓮華、大丈夫なのですか?」

「ありがと、まだいける……。こら、チビ助!勝手に進まない!」

 名前を教えてもらえなかったので、嫌味を込めて少年を呼んでやる。

 後を追うと、部屋の奥に場違いなものが飾られていた。漆塗りに金の模様が描かれた、美しい鞘の日本刀だった。飾り紐もガラス玉のついた青い豪奢なものがつけられている。それなのに、蓮華の日本刀に対する第一印象は『醜い』だった。自分でも意味が分からないまま、足が止まる。横で夢月が顔色を変えた。

「あった!」

 急に嬉しそうな声を出して、少年は日本刀に手を伸ばした。正確には、日本刀ではなく飾り紐の方に。

「ダメなのです!」

 夢月が声を張り上げたが、ズォ、と日本刀から大きな影のようなものが飛び出した。少年が止まる間もなく、影が迫る。血の匂いが増した。ゼンテツの吠える声が響く中、長い棒状のものが振り下ろされた。影を一瞬切り裂いて、少年が立ち尽くす。

「刀から離れて下さい!」

 振り下ろされたのは、境也が手にしている鉾だった。柄の色が小豆色なので、さっき組み立てていた物だろう。天井近くまでズズズと広がる影に、境也は鉾を構え直した。

「でも、トンボ玉が……」

「後にしなよ!」

 少年を叱咤して、蓮華も邪魔にならないよう後ろへ下がる。こういう時、役に立てないのがもどかしい。影はだんだん人のような形を取り始め、夢月も扇子を広げて境也の横に並んだ。

「ああ、どうしてこの刀がこんなことに……!」

 何か知っているのか、蓮華から見える境也の横顔は怒りに歪んでいた。影は次々に腕をこちらへ伸ばして襲いかかって来るので、ゼンテツも腕に噛みついて少年を守っている。

「チビ助!そこ危ないってば!私達はここ出よう!」

 蓮華は座り込んだままの少年にもう一度呼びかけた。霊である彼は、体のある蓮華よりも脆い気がしてならない。しかし余所見をしていると、夢月が避けた腕が近くの棚にぶつかった。備品が音を立てていくつも落下し、棚自体も衝撃で傾ぐ。

「おわわわわ!何してくれんの!」

 蓮華は慌てて棚に飛びつき、倒れないよう支えた。落ちた備品に割れ物はないようで、そこだけは安心する。

 境也も蓮華の叫びで棚の存在を思い出したのか、鉾を薙ぐように振るおうとしたのを刺すような動作に変えた。掴みかかってきた腕を鉾で受け止めて押し返し、次の二波を跳躍して避ける。境也は原因である日本刀に近付きたいようだが、隙がないせいで踏み込めないようだった。まとめている髪もほつれてきてしまっている。

「蓮華は自分の心配をしてほしいのです!」

 夢月は境也より小回りが効くのか、影の腕をくるりと回って避け、扇子を振るっていた。舞いのような動きは、こんな事態でなければ優雅なものだった。表情は幼いながらも険しく、のっぴきならない状況であることは蓮華も分かっている。

「おい、どうしたらいいんだ!」

 ほうほうの体で、どうにか蓮華のところまで来た少年が怒鳴った。その背後をゼンテツが威嚇しながら守っている。

「私にも分かんないよ……」

「あの刀の紐についてるトンボ玉が、ずっと探してたやつなんだ。母さんの、形見なんだ……」

 泣きそうな顔で少年は言う。蓮華も吐き気と眩暈、散乱する備品に泣きたい。きっとここが外か広い場所なら、境也達も気兼ねなく影の相手ができたのだろう。蓮華も棚を支える必要はなかったはずだ。

「大事なのは分かったけど……」

 そこまで蓮華が言いかけると、頭上の蛍光灯がパン!と割れた。咄嗟に頭を押さえると、パラパラと破片が降ってくる。顔を上げると、影の腕が鉾で天井に押さえられていた。だがそれも一瞬で、振り払われてしまう。

「すみません、蓮華さん!お怪我はありませんか!」

「どうにか平気!」

 鬼気迫る勢いで声をかけられ、蓮華はガラス片をはらって返事をした。割れたのは蛍光灯一つだけとはいえ、多少視界が悪くなる。

「とにかく、私達は外に出よう」

「だけど……」

 少年は迷いながら、日本刀を見遣った。蓮華もつられてそちらを見る。暗くなったせいで感覚が狂ったのか、境也の鉾が影から少しズレた飾り紐をかすめた。紐が切れて、トンボ玉が落ちる。

「あ!」

「チビ助!?」

 蓮華が止める間もなく、少年は転がったトンボ玉に駆け寄った。驚いた境也と夢月が固まった一瞬に、影の腕が少年に伸びる。たった数秒のことなのに、蓮華にはそれがスローモーションのように見えた。あと数センチで腕が届いてしまう、というところで、ゼンテツが影の体の方に噛みついた。

「ぜ、ゼンテツ!」

 少年の声にはっとすると、ゼンテツは噛みついたまま影の中に取り込まれていた。境也と夢月がそれぞれ近付こうとするが、あっという間に見えなくなってしまった。

「ゼンテツ!ゼンテツ!」

 少年はさらに呼ぶが、もう唸り声も聞こえない。分かってしまったのだろう、少年はトンボ玉を手に項垂れた。

けれど、今は感傷に浸っている場合ではない。ゼンテツを取り込んだせいか、影はさらに大きくなった気がする。再び境也達に腕が伸ばされるのを見て、蓮華は立ち上がった。壁に貼ってあるお札を四、五枚剥がし、日本刀に走り寄った。後ろで何か言われているようだが、頭がガンガンして眩暈がひどく聞き取れない。

「だりゃあ!」

 朦朧とする意識に気合を入れて、蓮華は剥がしたお札を鞘へ一気に叩きつけた。その拍子に、日本刀が床に転がる。これだけ強いと封じられるとは思っていないが、少しは効いたのか気配が揺らいだ。蓮華が崩れ落ちると、

「ゼンテツのためにも、一思いに切ってくれ!」

「境也、今の内なのです!」

そんな声がした。かろうじて動く首を傾けると、境也が鉾で影を真っ二つにするのが見える。遠のく意識の中、「ありがとう」と聴こえた気がした。


*   *   *   *


「蓮華さん!」

 影を斬り、終息したのを横目に境也は倒れた蓮華に駆け寄った。抱きかかえて脈と呼吸を確認すると、どちらも正常だったので安堵する。

「……ありがとう」

振り返れば少年がトンボ玉を手に、悲愴な、けれど決意に満ちた表情をしていた。

「もう!夢月が止めたのに、聞かないからこんなことになったのです!蓮華だって、無茶をし過ぎなのですよ……!」

「夢月さん、蓮華さんは大丈夫です。ただ気を失っているだけで、ケガもありませんよ」

 声を震わせる夢月に境也が優しく言えば、付喪神は主の横にしゃがんで、彼女のシャツをギュッと握りしめた。

「悪かったよ。トンボ玉のことしか頭になかったんだ」

 手の平のトンボ玉を見ながら、少年は小さく謝った。それだけ長い間、探し続けていたということなのだろう。透明な中に白と青の水玉が浮かぶ古びたトンボ玉が、無事な蛍光灯に照らされてきらりと反射した。

「ゼンテツにも、その姉ちゃんにも悪いことしちゃったな……」

「ゼンテツは、その……」

「分かってる。本当は一緒に往きたかったけど、完全に取り込まれちまってたから。……そっか、こんな色だったなぁ」

 少年はしばらく懐かしむようにトンボ玉をかざして眺めると、そのまま境也に差し出した。

「ちゃんと見つけてくれるとは思わなかったぜ。これで代金になるか?」

「え、ずっと探していたのに、いいのですか?」

 あわあわと、夢月が境也と少年を見遣る。

「いいんだ。渡せるものはこれしかないし、変な奴が持ってるよりあんた達が持ってる方がいい。それに、ちゃんと思い出せたから。探してた間に、色々忘れてたみたいだ。昔はゼンテツも、おれの膝くらいまでしかなかったんだぜ」

「……ご自分の名前も、思い出せましたか」

 境也の言葉に、夢月は目を瞬かせる。少年はバツが悪そうに頷いた。

「蓮華さんが名前を尋ねた時、答えに困っていたようだったので」

「誰にも呼ばれないと、忘れちまうもんさ。……本当は、おれがゼンで、ゼンテツがテツだったんだ」

「混ざってしまっていたのですか」

「母さんが元気だった頃はまとめて呼ばれてたから、それだけ記憶に残ってたんだろうな」

 その頃を思い返しているのか、少年は目を瞑って静かに言った。

「……そろそろ往くよ。姉ちゃんにもお礼言っといてくれ」

「はい、伝えましょう」

 トンボ玉を受け取り、境也はしっかりと頷いた。

「ずっとずっと付き合わせてごめんな、テツ……。お前がいてくれて、独りじゃなくてよかった」

 少年はそう呟くと、泣き笑いを浮かべて光に溶けていった。部屋にはもう重苦しさはなく、穏やかな静けさがあるだけだ。

「私達も帰りましょうか、夢月さん」

「でも……ここのお掃除はしなくていいのですか?」

「蓮華さんの方が大事ですから」

 境也は床に転がる日本刀を鋭く睨むと、冷たく言い放った。手早く鉾を解体し、刀も一緒にボストンバッグに詰め込むと、蓮華を横抱きにして立ち上がる。幸か不幸か、それを俗にお姫様抱っこ、と言うことを知る者はその場にいなかった。




   終     ことほぎ屋


 目を覚ますと、蓮華は見知らぬ和室で布団の中にいた。慌てて飛び起きると、頭の奥に鈍い痛みが走った。

「いっつつ……」

 頭を押さえて、ゆっくり痛みをやり過ごす。落ち着いてから、自分の名前と今日一日を辿ると、ちゃんと思い出せたので記憶喪失ではない。服も清掃員のもののままだ。ならば、ここはどこなのだろう。混乱していると、

「蓮華!起きたのですね!」

 ふわりと夢月が現れた。見れば、枕元に蓮華の洋服と本体の扇子が置いてある。

「ああ、よかったのです……!」

「えっと、夢月、ここどこ?」

「《ことほぎ屋》なのです。ここは境也の部屋なのですよ」

「境さんの……」

 そういえば、境也の私室に入ったことはなかった。部屋を見回すと、古い箪笥と本棚以外家具が置かれておらず、シンプルにまとまっていて境也らしい。部屋の隅にある、猫用のベッドみたいなものはフクの寝床だろうか。

「…………ん?ちょっと、あれからどうなったの!私どうやって店まで帰って来たの!?」

「ええと、憑いていたモノは境也が斬って、刀は持って帰って来たのです。今はフクが食べているのですよ。蓮華は境也に抱えられて帰って来たのです」

 蓮華が矢継ぎ早に問うと、夢月は軽く引きながら答えた。

「やっぱりか!ごめん境さん、重かっただろうに……」

「体調はどうなのですか?」

「軽く頭痛がするくらいかなー」

 吐き気や眩暈はない。少し落ち着いたところで、蓮華は首を傾げた。

「……フクさんが食べてるって、何を?夕飯?」

「フクはもう夕ご飯を食べたのです。今食べているのは、刀に憑いた呪いなのです」

「は!?」

 呪いを食べるって何だ。いや、福を食べるというのだから、そういうことも可能なのかもしれない。あの毛玉のポテンシャルはどうなっているのか。

「蓮華の夕ご飯も、コンビニでお弁当を買ったのです。居間にあるのですよ」

「そりゃどうも……」

 夢月に言われ、蓮華は急におなかがすいてきた。ひとまず着替えてからのっそり居間に顔を出すと、境也もいつもの着流し姿になっていた。

「おや、蓮華さん。目が覚めましたか」

「色々迷惑かけたみたいで、ごめんね境さん……」

 蓮華が謝ると、ちゃぶ台の上でモゴモゴしていたフクもこちらを見上げた。

「飯をしっかり食っておいた方がいいぞ。まだいくらか顔が白い」

「食べられそうなら、レンジで温めてきますよ」

「それじゃ、いただこうかな」

 境也にも言われ、蓮華は大人しくお願いした。時計を見ると、九時を過ぎている。気を失っていたのは二時間くらいだったようだ。

「あっ、親に連絡しないと!」

「電話なら境也がしたから、安心せい。とりあえず、暑さで体調を崩したと言っておいたからの」

「お母様は、意外とあっさりしていたのです」

「だろうね……」

 フクと夢月の返答に、蓮華は力なく笑った。母のことだから、『じゃあ、先に寝るわね』とでも言ったに違いない。

 ちゃぶ台の上には、つい数時間前に蓮華を気絶に追いやった日本刀が置かれていた。しかし、今は気分が悪くなるどころか、どこか《良いモノ》の気配がする。

「チビ助は?」

「もう往かれました。蓮華さんにありがとう、とおっしゃっていましたよ」

 温まったからあげ弁当を持って、境也が戻ってきた。

「そっか、よかった……。けど、一番頑張ったの境さんじゃん」

「いえ、あの時蓮華さんがお札を張ってくれたからどうにかなったんです。ですが、もうあんな無茶はしないで下さいね」

「蓮華が倒れた時は、どうしようかと思ったのです!」

 頬を膨らませる夢月は可愛らしいが、笑顔で威圧してくる境也が怖いので蓮華はガクガクと頷いた。あの時は、どうにかしなければ、と考えるより先に体が動いてしまったのだ。

そろそろ腹の虫が限界なので、からあげ弁当を開ける。一瞬フクがからあげをチラリと見たが、要求はしてこなかった。

「……夢月が、フクさんが呪いを食べてるって言ってたけど」

「不味いぞ」

「不味いんだ……」

 確かに美味しそうなイメージはない。

「福だけじゃなくて、そんなものまで食べられるんだね……」

「元が貧乏神じゃからのぅ」

「そういうものなの?なら、この刀に憑いてたのは全部フクさんが食べちゃってこと?」

「全部ではないぞ。蓮華が弱めて、境也が斬ったから残っていたのは半分程度じゃな」

「へぇ、いつもそうしたら楽なんじゃない?」

「不味いと言ったじゃろ。それに、ワシが食べることができる呪いや厄の量はそう多くない」

 すこぶる嫌そうにフクは言った。そんなに不味いのだろうか。蓮華がからあげを頬張ると、

「フクさんは貯めた福を使って、呪いを相殺するんです。なので、貯めてある福以上の呪いは食べられないんですよ」

 お茶を淹れながら、境也が言う。蓮華は狭霧山の一件で妖怪達に聞いた話を思い出し、からあげを飲み込んた。

「それって、フクさんは大丈夫なの?フクさんって、福を使い過ぎるとヤバイんじゃ……」

 改めて見れば、フクの毛質はいつもよりパサパサで、体も一回りほど小さくなっている。これ以上福を使えば、本当に消えてしまう気がした。

「この程度、完食したわい。明日は腹いっぱい沢庵が食べたいのぅ」

 本人は全力で通常運転のようだ。だが、ころころ笑う声もどこか弱々しい。

「フクさん、前に福を使い過ぎて今みたいになっちゃったんでしょ。あんまり無理しないでよ」

「何じゃ、知っておったのか」

「狭霧山へ行った時、妖怪達に聞いたのです。人も妖怪も良い方へ、なんて無謀すぎるのです。ましてや、そんなになるまで力を使う必要があったのですか?」

「あれは、ワシの自己満足みたいなものじゃて。後悔はしておらん」

 夢月の問いに、フクは真っ直ぐ答えた。それを聞いた境也は、自分の分のお茶に手を付けてため息をついた。

「全く、自己満足にもほどがありますよ。フクさんが福を使い切ったことは、極一握りの方々しか知らないんですから」

「え、そうなの?」

「知っているのは当事者であるお社様、お藤さん、この地に長くいる少数の妖怪と私くらいですよ。その頃には村でもフクさんの存在は形骸化していて、忘れられかけていたくらいです」

「そんな……」

 箸で掴んだ付け合わせのサラダが、ポトリと落ちる。フクが忘れられたのは、村がなくなった後だと思っていた。

「ワシが視える者は、もうほとんどいなかったからのぅ。握り飯こそ辛うじてたまに供えられたが、話を聞かせてもらうことは無くなっておった」

「……忘れられちゃったのに、何でそこまでしようと思ったの」

 そもそもの約束が破綻しかけていたなら、そこまでする必要はあったのだろうか。怒ってもいいくらいだろう。

「ふむ、言い忘れておったか。昔、まだワシが貧乏神だった頃なんじゃがな。ある日、姉が結婚したという子供が握り飯を持って来たんじゃ」

 突然の昔話に、蓮華は口を挟まず落としたサラダをパクリと食べて耳を傾けた。

「本人も嬉しそうにしておってなぁ。話と一緒に『幸せのおすそ分け』と言って、沢庵を一切れくれたんじゃ」

「沢庵……なのですか」

「祝いの席で出たものだったんじゃろう。あの時食った沢庵ほど、美味いものはないのぅ。まさに、幸せの味じゃった」

 ほわほわと、懐かしそうに、嬉しそうに毛玉は笑う。だから、フクの好物は沢庵なのだろうか。

「その時からずっと、ワシは人にお返しをしたかったんじゃ。『幸せのおすそ分け』をな」

「だから、嵐の時に返そうとしたの」

「そんなところじゃ。妖怪達はワシが人に忘れられてからも、話をしに来てくれたりしておってな。どちらも助けてやりたかったんじゃ。どちらも、ワシにとっては愛すべき隣人じゃからの。視えないから、忘れたからと言って怒ったりはせんよ」

 かつての福の神は、満足げに言った。本人が述べた通り、後悔は一切ないのだろう。例え、助けられたことを人が知らなくとも。お藤がベタ惚れ、というのも少しだけ分かった気がする。

「……ありがとね」

「蓮華が礼を言うことではなかろう。気にするな」

「うーん、でも何となく言いたくなったから」

 蓮華はいくらか冷めたお茶に口を付けて、小さく笑った。

「とりあえず、この刀はもう大丈夫なんだよね?」

「はい、とっても綺麗になったのです」

「ええ、これでお返しすることができそうです」

「あの会社に?だいたい、これ誰の物なんだろうね」

 蓮華がご飯を飲み込んで言うと、境也は首を横に振った。

「いえ、これは盗まれたから探してほしいと何年も前に依頼された、御神刀なんです」

「えっ」

「まさか、何人もの人の手に渡る間に、あんなに禍々しくなってしまったとは思いませんでした……」

「美しい刀じゃからな。皆が欲しがる気持ちが歪んで、呪いになったんじゃろ。意図しない心の歪みが、呪物を生み出すこともある」

「だから『醜い』だったのか」

 今こうして見ると、倉庫で感じた印象はどこにもなかった。

「でも、どう説明したの?荒れた倉庫とか、特に」

「刀に関しては、盗品であることをそのまま説明しました。地下倉庫は……呪いが暴走した、という風にお話ししましたよ」

 にこり、と境也は再び笑顔に怒気を乗せた。お札だらけの地下室を教えなかった依頼人に怒ったのか、御神刀を呪いに変えた人々に怒っているのかは分からない。

「こちらは自業自得じゃからな、相応の痛い目を見るべきじゃろうて」

「少なくとも、あの建物の空気は良くなったのです。お仕事はちゃんとしたのですよ」

「うーん、ならいい……のかな」

 夢月が頬杖をついて言った。蓮華が引っくり返ったのが無駄でないなら、良しとしよう。

「世の中、色々難しいね」

「そうですね……」

 貧乏神を招いた人と、福の神を忘れてしまった人と、罰当たりな人と。

 それでも、どうかそこに幸いがありますよう――境也は刀を手に、そう独り言ちた。


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