勇者を捨てた女
なんとなく思いつき。
異世界転生に憧れていた男がついに、異世界に転生した。
男が気付いた時にはすでに、男は異世界としか思えない世界で、美しい母親に抱かれている赤子になっていた。美しく優しい母親、母親似の可愛い姉、逞しい美丈夫な父親。家を訪れる人訪れる人も整った顔立ちが多く、男の目を特に惹いたのは隣人の豊満な胸元の美女。
もう少し年が近ければ幼馴染みポジだったのになぁと考えながら、男は異世界の楽しみでもある魔法を練習し、思い描いていた冒険譚やNAISEIを夢見て野望に燃える。
だが、そんな男は六歳になろうかという時に突然、ただ一人荒野に捨て去られた。
耳に残っているのは、「悪魔め」と自分を罵る声。
普通の子供らしく完璧に振る舞っていた筈なのに。
どうして、こうなった?
後に勇者と言われるようになる青年が、家族から引き離されて孤独となった経緯とは。
怖い。
怖い、怖い、怖い。
フレイアは酷く怯えていた。
彼女の感情から生まれてくる身勝手ともいえるような恐怖ではなく、彼女の本能から訴えてくる彼女自身ではどうしようもない恐怖に、フレイアはこの数年の間、苛まれていた。
フレイアはどうしようもなく怯えていた。
それがどうしてかは、何によってなのかも分かっている。
分かっているが、フレイアにはどうしようも無かった。
フレイアが怖くて怖くて、本能から嫌悪という言葉では表しきれない程に恐れているもの。それは、フレイアの家の隣に住む家族の、三年前に生まれた息子だった。
『カイン、明日みんなと一緒に森に行くのよ?一緒に行く?』
『本当?いく、ぼく行きたい!』
『こら、アリス!カインにはまだ森は早いわ!!カインはまだニ歳なのよ!』
『えぇ』
『おかあさん…ぼくもお姉ちゃんと行きたいよ…』
家と家の間に隙間は殆ど無い。薄い壁は声を潜めて耳を澄ませていれば、容易くその向こう側の音をフレイアへと伝えてくる。
「なんで?なんで!?どうして、あれをそんな普通の子供だと思えるの?」
聞こえてきたのは、幸せな家族の団欒の声。
甘い声を出して母や姉に甘えている男の子の声。それに対する母と姉のどちらの声にも、息子、弟に対する祝福と喜び、愛していることを疑わせない優しさが溢れている。
それがフレイアには信じられない。
そんな事が出来てしまう彼女達にも気持ち悪さが、いやそれ以上の恐怖を感じる。
フレイアがそれに気づいたのは、あの子供が生まれた数日後のことだった。
近所づきあいは大切だと考え、近所の住人達と連れ立ったフレイアは、子供が生まれた歓びに湧いている隣の家に見舞った。お疲れ様、よく頑張ったね、と親しい人々が、産後の肥立ちは悪くないのだと微笑む隣家の妻へと話し掛けた。そして、隣家の夫の腕に抱かれている、赤ん坊の顔を順番に覗き込んでいったのだ。
父親と母親でいうなら母親似の男の子。
不思議なことに、その赤ん坊はあまり泣かなかった。これには見舞った人々も不思議ねと言っていたが、きっと母親思いの子なのよとフレイアには理解しがたい感想を赤ん坊の両親へと告げ、にこにこと笑う。
この時はまだ、フレイアは不思議な子だと思う程度だった。
だが、フレイアは見てしまったのだ。
赤ん坊を揺り篭の中へと寝かせ、隣家の夫婦はフレイアを含む近所の住人達の相手を始めた。子供の服のお下がりが必要になったら言ってね、とか、旦那が頼りな時期なんだから、とか。赤ん坊に絡めた話から、どうでもいい話まで。それらの話を何とはなしに聞いていたフレイアは、ふとした瞬間、両親の目が離れ揺り篭の中で相変わらず泣き声を上げずにいた赤ん坊を見てしまったのだ。
泣く様子も見せず、意味の無い動きを見せることなく虚空を見つめる赤ん坊の目がまるで、世間を知っている大人の、それも何か策を弄している最中のような鈍い輝くを放っていたそれを。
始めは勘違いだと思った、思おうとした。
だって、ありえないだろう。生まれたばかりの赤ん坊が、そんな目をするなんて。ただの勘違い、ただの実間違い、それはただの赤ん坊なのだと、フレイアは必死に思い込もうとした。
だが、気づいてしまうのだ。
それが勘違い、見間違いなどではないと。
隣の家に一人で住むフレイアに、この夫婦は何かと親身になっていた。それは赤ん坊が生まれて忙しくなっても変わらず、必然的にフレイアが夫婦達家族に、あの赤ん坊の近くに寄る機会も多かった。
親の目がそれた瞬間、あの赤ん坊はフレイアを意味のある目で追っていた。見ていないようで、意識をそれとなく向けていたフレイアだからこそ気づいたことだったが、フレイアの動く様をつぶさにじっと、赤ん坊は見ていた。大人のような、何かを考えていることが明白な目で、フレイアをじぃっと。
それだけではない。自分で言うのは何だが、フレイアの胸は同じ年頃の同性達と比べても大きな方だった。胸元は服でしっかりと覆い、はしたないなんて町の女達の反感を買うような姿はしたことは無いが、そういった男達の視線を胸に受けることは少なくはない。勿論、それは勘違いなどではないと言い切れる。何度となく、胸が大きくなり始めた頃から、直接フレイアにそれを指摘し、汚らわしく揶揄する下劣にも遭遇してきたのだ。
その男達と同じ目を、赤ん坊はしていた。
そんな目を、フレイアの胸に、自分が母親の乳を吸っている最中に母の胸に、家を訪れる女達の胸にまで注いでいた。
-あらまぁお腹が空いたの?でもね、お乳は出ないのよ?ママにお願いしなさいね?
すでに子供を持っている女達はそんな風に、平然とした様子で自分の胸を見る赤ん坊に笑いかけていたが、フレイアにはそれが気持ち悪く、怖くて仕方なかった。
そして今も、それは勘違いでは無かったのだと言いきれる。
だって、今はもう意味のある言葉を紡ぐことが出来るようになった子供から、あの時のような目を分かりやすくは無いが感じる事が多々あるのだ。
何より、フレイアは何故かよく、子供の不気味を示す光景を目撃してしまうのだ。家族も誰も気づいていないそれを、何故かフレイアだけが。
隣家とフレイアの家には小さいが裏庭というものがある。
二歳、もうすぐ三歳になる子供は時々、その裏庭で一人遊んでいることがある。その光景をフレイアは、自宅の二階の窓から見てしまう。
『子供の姿は考えていたよりも不便だな』
『魔法が使えるなんてばれたら厄介だし…』
それは決して、子供が使うような言葉でも、声音でも無かった。
その表情も目も、決して子供が浮かべていいものではない。
怖い。
怖い、怖い、怖い。
あれは何?
子供じゃない。あんなものが子供であるものか。いや、人なの?
人である筈が無い。
だが、そんな事を口に出して言える訳がない。
フレイアはこの町では新参者だ。この家に住み出したのは、あの子供が生まれる一年程前でしかなかった。そんなフレイアが誰も気づいていない子供について訴えても、誰も信じてはくれないだろう。町の全員が、生まれも育ちもこの町だという夫婦の味方となって、フレイアを非難するだろう。
誰も分かってはくれない恐怖、誰にも理解を求められない現実。
長年、恐怖に苛まれて怯える日々を一人もんもんと送り続けたフレイアは、その状況から抜け出すことを決意を、ようやく決めた。
この世界には多くの神が居る。
戦いの神、火の神、風の神など、人のすぐ傍に神は居て、人々の暮らしを守ってくれているという神々が。
だが、フレイアは神なんて信じていない。
居るのだということは理解しているが、人々が有り難がって崇めて縋る価値が神にあるとは思っていない。
何故なら、神が本当に人を優しく護ってくれているのなら、世界はもっと優しさで満ちている筈だからだ。不幸が降り注いでくるばかりだったフレイアの人生なんて、ありえない筈だからだ。
フレイアは不幸だった。
そもそも、フレイアは貴族の、それも王族に近い血筋の高位貴族の内に長女として生まれた。だというのに今は、家を追われて平民としての暮らしを送っている。
フレイアの人生は不幸ばかりだった。
忙しさに家へと帰ってこない父親、社交界にばかり夢中な母親、跡継ぎとしての教育に忙しい兄、そしてフレイアの二つ下に生まれた三つ子達。
この三つ子がフレイアの不幸を加速させた。三つ子の各々が目を見張るような魔術の才能を幼いながらに発揮したせいで、そもそも三つ子という姦しさが、家中の注目をフレイアから失わせ、フレイアに寂しい子供時代を敷いた。
それでもフレイアには初恋の幼馴染が居て、彼と一緒なら寂しさなんて感じなかった。でも、その彼はフレイアの知らない内に美しい少女と出会い、フレイアなんて顧みずにさっさと騎士の誓いを立ててしまった。
フレイアの婚約者は政略ではあったものの、フレイアは大好きだった。二回目の恋だった。でも、婚約者は平民の女と恋に落ち、フレイアの反対など歯牙にもかけず家族や周囲の貴族達の理解まで得て結婚してしまった。
三つ子の一人である妹は王太子と婚約し、三つ子の残り二人の弟達も力ある貴族や他国の王族への婿入りを決め、兄も妻を得て子供が出来て。
フレイアを置き去りにして家族全員が幸せになった。
フレイアは酷い誤解を受けて、両親に責められて、家名を奪われたというのに。そう、あれは冤罪だった。王太子妃となる妹を苛めたなんて、フレイアには見に覚えの無い事なのだから。
フレイアは不幸だ。
フレイアだけが不幸だ。
そんな不公平な世界の神々が、優しい人々の庇護者である筈が無いのだ。
だけど、誰にも理解を得られぬ恐怖にうち震える今のフレイアには、その神にすがるしか道は無かった。
「神、あれは何なのですか?」
フレイアは神殿を詣でた。
フレイアが足を向けたのは、世界で最も人々に信仰されている、人々の運命を司っている神の神殿だった。心に抱えた全てを吐き出したフレイアに、神の声を伝えるという神官はただ一言を告げただけだった。
『世界の運命である』と。
フレイアはそれを理解する事が出来なかった。答えにもなっていないし、解決方法にもならない。
次にフレイアが足を踏み入れたのは、愛を司り、その愛によって生まれる子供を見守る女神の神殿。
『力と才能、そして運命を持つ子供なのです。愛しなさい、そうすれば世界は明るく導かれるでしょう』
これもフレイアには理解出来なかった。
あんな得たいの知れない気持ち悪さ、恐怖を放つ存在が、そんな崇高なものとは絶対に思えなかったからだ。
フレイアは神を信じていない。
何故なら神はフレイアを幸せにしてくれる存在ではないからだ。
だから、運命の神の言葉でも、愛の女神の言葉にも、答えと恐怖を打ち消す方法を得られなかったフレイアはある妙案を思いついた。
神は多く存在している。自分を幸せに導いてくれる言葉を与えてくれる神が何処かに一人くらいは居るだろう、と。フレイアが納得出来るまで、理解出来るまで、神を訪ねようと。
フレイアは詣で続けた。数々の神の神殿を。人が滅多に訪れない、小さな神の神殿にだって足を向けた。
そして三年。
フレイアはようやく、彼女を助けてくれる神に辿り着いた。
神は告げた。
『それは人の皮を被り、人の子に成りすました悪魔だ。周囲に多くの災いをもたらす。世界に戦いと欲望をばらまく災厄の目を生み出すだろう』
「あぁ、やっぱり。やっぱり、あれはそんな酷いものでしたのね!」
フレイアは感激した。神を信じてもいいと思う程に。
そして、神はフレイアに助けの言葉までかけてくれたのだ。
『今すぐに遠くにやってしまえば大丈夫』
フレイアはすぐにそれを実行した。
だって、あんなにも気持ちの悪い、邪悪な気配を放つ悪魔なのだ。あれの母や妹、町の住人達はすでに悪魔の術中にあるのだろう。
神はもう一つ、フレイアに助言をくれた。
『父親はまだ無事である』と。
だから、フレイアは慎重に隣家の夫に声をかけ、神のお告げを伝えた。
神はやはり偉大だった。
「・・・そうなのか…、やっぱり。やっぱり、あれは普通では無いのだな」
隣家の夫は自分の息子が普通では無いことに気づき、不安を抱えていたらしい。
自分のお腹を痛めて子供を生み出した母親ほど、父親は子供を絶対視出来ないのだと、フレイアは聞いたことがあった。そのおかげで彼は悪魔につけこまれずに済んだのだろう。
複雑そうな顔をした子供の父親である隣家の夫は、フレイアに「分かった」とだけ告げ、家に帰っていった。
次の日、フレイアが恐れ続けた子供の姿が隣家から消えていた。
半狂乱に街中を探す母と妹、近所の人々の中に混ざりながら、フレイアと子供の父親だけは何処か安堵する顔をしていたのだが、それを大騒ぎの中で目撃出来たものはいなかった。
フレイアは歓喜した。
これで恐ろしいものが消えた、と。助言を与えてくれた唯一の神に感謝を捧げた。
裏庭を見た時に、大人のような声音で魔術の練習をしている子供の姿や、小難しい本を読む様子を見ることも、不気味な視線を寄越してくる子供に遭遇してしまう事も無くなる。こんな嬉しいことはない。
だが、近所から不審な目を向けられては困るから。フレイアは神妙な顔で捜索も手伝うし、隣家へも気遣いを見せる。
信じ得る神を見つけ、恐怖の元がいなくなり。フレイアはこれからきっと訪れる幸せの日々を想像して、人知れず、喜び溢れる笑顔を浮かべたのだった。
「あら、そういえば。ロキ様は一体、何を司る神なのかしら?」
多くの神を詣でた最期の最期に辿り着いた、人気の無い神殿。必死過ぎて我を忘れていたフレイアは神の名を聞いたものの、何を司る方なのかは知らずじまいとなっていた。
「でも、いいわ。私に優しくしてくださったのは、あの方だけ。どのような方であれ、感謝を捧げて、感謝の気持ちをお届けしましょう」
なんの神であろうとフレイアにはもう関係ない。フレイアの役に立ったか、立たなかったということだけが重要なのだから。
神は何がお好きかしら、とフレイアは自宅に戻る。
フレイアは今、とっても幸せだった。
「ロ~~キィ~~」
人気など一切無い、長年の放置を物語る鬱蒼として汚れも、風化の後さえも見受けられる小さな神殿に、怒り狂った女性の声が響く。
「やぁ姉さん、どうしたの?そんなに怒って?」
「怒るに決まっているでしょ!」
宥めようとする男と、怒りを鎮める様子を見せない女。
「折角、地球の神に頭下げて借りてきた勇者を、捨てさせるなんて!何を考えているの!?あの勇者は十年後に起こる災厄を遣り過ごすキーパーソンなのよ?」
「人というのは、苦労があって初めて真の力を得ていくものなんだよ、姉さん。だから、ぬくぬくと温かい家庭の中で育つより、過酷な環境の中で一人で生き抜く方が、力のある勇者になるよ」
「勇者の成長に関する全ては『運命の神』に一任されています。『争いの神』である貴方が口を出すことじゃないでしょ!」
「それは仕方ないよ。僕が放った『種』がそう願ったんだから。随分と争いを生んでくれた娘だからね、少しくらいは報いてあげないとね」
「そう!あの娘!あれもいい加減にしなさい!『愛の女神』も『調停の女神』も『復讐の神』も、他にも色々な神々も、迷惑してるって私に苦情を言いにくるのよ!?」
「いやいや、あれは世界をより豊かにするスパイスだから。争いは必要だよ?」
神々がそんな話をしているなんて露知らず、『争いの神』が人の中に放った『争いの種』の娘であるフレイアは、幸せになれる未来を夢見て心を弾ませていた。
題名、正確には『勇者を捨てさせた女』かも。