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光のもとでⅠ 第十章 なくした宝物  作者: 葉野りるは
本編
30/58

30話

 やっぱり夕飯を食べることはできなかった。口に入れて何度咀嚼しても飲み下せないのだ。

 それでも身体のことを思えば食べないわけにもいかず、口に入れたものと悪戦苦闘をしていると、

「しゃぁねぇな……。ちょっと待ってろ」

 そう言って相馬先生が病室を出ていった。

 戻ってきたときには、手に小さな器を持っていた。

「白いものはあんま食わせたくねぇんだがな……」

 目の前に出されたのは、乳白色をした塊。その上に鰹節と生姜が乗っていて、少量のお醤油がかけてあった。

「豆腐だ、豆腐。ゼリーとかその手のもののほうが食いやすいんだろうが、甘いものは身体を冷やす。ついでに白っぽい食い物全般が陰の食べ物って覚えとけ」

 そんなことを言われると食べていいのか悩む。

「飯が食えねぇなら仕方ないだろ? 気休めだがあたためてきた。冷奴じゃないから冷めないうちに食え」

 スプーンを手に取ると、

「こんなものばかりに頼るな。人間の臓器ってやつは使わなければ使わないだけ怠慢になる」

 先生は高カロリー輸液を睨みつけているように見えた。

「八時からトリガーポイントブロックの治療を始める」

 あ、さっき昇さんが言ってくれていた治療……。

「本当はそんな薬も使いたかないんだがな……。不本意だが、帰国前に他科依頼の打診をしておいて正解だった。素の状態を診たいとは思っていたが……。悪かったな、つらい思いさせて」

 言いながら先生は口元を歪める。

「今も痛ぇんだろ?」

 大きな背中を丸めているからか、私よりも身長の高い人に私よりも低い位置から見上げられている。

 普段姿勢がいい人なだけに奇妙な光景だ。

「少しだけだから、だから大丈夫」

「その痛み……身体から一掃するからな」

 相馬先生は痛みが引き起こす悪循環を教えてくれた。

「まず痛みがストレスになる。ストレスは交感神経を優位にする。そうして起こるのが血管収縮、抹消循環障害。それらから組織の酵素欠乏が起こり、発痛物質が産生されると知覚神経が興奮する。知覚神経が興奮すると痛みというシグナルに変わる。それらがストレスに変わって延々ループだ。このループから出るためには痛みを止めるしかねぇ。知覚神経に痛み事体を忘れてもらう」

「そんなこと、できるんですか?」

「……まずは食え」

「あ、ごめんなさい……」

 どうも、話を聞こうとすると手が留守になる。難しいことを理解しようと思えば、目の前にお豆腐が置かれていることすら忘れてしまいそうになるのだ。

 そんな私を見るに見かねて、食事を先に、と先生は言ったのだろう。そして、先生は私に用意したご飯を美味しそうに食べ始めた。

 先生は純和風なご飯を作る人だった。

 唯兄は麺類の料理が得意だったな、と思い出す。

「時間をかければ鍼とカイロだけでもなんとかなるが、スイハは学校に間に合わせたいんだろ? それなら薬を使うのが手っ取り早い」

 それがトリガーポイントブロックなのだろう。

 この治療は神経ブロックよりもはるかに楽で、自分で点滴スタンドを押して歩けるくらいには楽になれる治療だった。

「先生、その治療は嫌じゃないです。それに二学期には間に合わせなくちゃ。約束したから――」

 誰と……? ――ツカサだ。

 ツカサが家まで説得しに来てくれたとき、それが条件だったと先日教えてもらったばかりだ。

 どうしても、聞いた話をすんなりとは思い出せない。

 聞いたこととしてしか認知していないからなのか、パズルのピースは合っているはずなのに、違和感を覚える。

「毎日チクチク刺されんだぞ?」

 顔を覗きこまれてびっくりした。

 考えごとをするとき、下を向いてしまうのは私の癖なのだろうか。

 そんなことを考えながら先生の言葉に返事する。

「神経ブロックじゃなければ大丈夫です。あんな注射、蚊に刺されるのと変わりません」

「蚊に刺されるのと変わらない、か。スイハは強ぇな? ま、あれだけの痛みに耐えてきたんだ。あんな注射、どうってことないんだろうな」

 そう言って笑いだす。

「先生は痛いの嫌い?」

 いや、誰も痛いのが好きな人はいないだろう。でも、それとは別次元で苦手なのかな、と思った。

「痛いのは治療を受けるのも治療をするのも嫌いだ。それに、人が死ぬのも嫌いだ。だから、そういう現場の医者にはならなかった」

 少し拗ねたように、けれども俺様口調のまま口にする。

「先生だったら、どんな太い注射が出てきてもしれっとしていそうなのに」

「冗談じゃねぇ。俺の専門はカイロプラクティック。鍼は仕方なくやってるだけだ」

 先生は実家が鍼灸院であることと、その鍼灸院の跡取りであることを教えてくれた。

「カイロは俺様がいればそれでいいんだ。場所も選ばなければ道具は俺の身体ひとつあれが事足りる。患者に痛い思いをさせることもなければ死に目に遭うこともない」

 そう口にした目が、とても悲しそうに見えた。

 本当に痛いものが嫌いで、痛い思いをしている人を見るのもつらいんじゃないか、と思うような顔をする。

 こんな顔をする人が、昨夜からの発作にずっと付き合ってくれていたのか、と思うと申し訳ない気がした。

「先生は不思議な人ですね。痛いのが大嫌いで、きっと痛がっている人を見るのも好きではないのでしょう? でも、こうやって癒す側に立ってる。なんだかとっても矛盾している人みたい」

「うるせぇ……」

 先生は悪態をつきながら、食器トレイを持って病室を出ていった。


 治療時間までは休んでいろ、と言われた。

 今、私の手には白い分厚い封筒がある。

 今すぐ見たい気持ちと、ここではなく携帯ゾーンで開けたい気持ちが交錯する。

「どうしようかな……」

 そんなことを考えていると、昇さんがカートを押しながら入ってきた。

 その後ろからは嫌そうな顔をした相馬先生が入ってくるわけで、本当に痛いものが嫌なんだなぁ……。

 私は採血も筋肉注射も静脈注射も慣れっ子で、点滴につながれるのも慣れっ子で……。でも、そういうのも相馬先生は嫌なんだろうな。私が嫌なのは、注射のたびに内出血が増えることくらい。

「ブロックは補助がいたほうが楽だからな」

「てめぇひとりでやりやがれ」

 そんなふたりのやりとりに疑問が浮かぶ。

「昇さんと相馬先生は同い年ですか……?」

 さっきご飯を食べているとき、相馬先生の学生時代の話を少し聞いたけれど、相馬先生の年は聞いていない。

 昇さんの年も知らないけれど、栞さんたちと高校が同じで先輩後輩だった、ということだから、栞さんたちよりもひとつかふたつ年上なくらいだろう。

「翠葉ちゃん、こいつと俺を一緒にすんなよ? 俺のが若い」

 相馬先生を指差し答えたのは昇さん。

「あ……そういえば、藤原さんと同期って――」

 ふと思い出したことだったけれど、肝心の藤原さんの年までは知らない。

「そうそう、清良女史と同い年だよ。三十七だろ?」

「いや、俺十一月生まれだからまだ三十六」

「三十六も七も、十七歳の翠葉ちゃんからしてみたら変わらねぇって」

 言って、昇さんはケラケラと笑う。

「昇さんは?」

「俺? 俺は三十二だよ。若いだろ? 俺はアラサーで相馬はアラフォーだ」

 イヒヒ、と笑う昇さんに、「てめぇ、図々しすぎんだろ」と相馬先生が軽く蹴りを入れる。

 大変申し訳ないと思いつつ、私からしてみたらどっちもどっちだった。

 少し困って引きつり笑いをしている中、治療が始まった。


 治療が終わったのは八時半過ぎ。

 消灯時間まで三十分を切っていた。

「先生、携帯ゾーンに――」

「「ダメだ」」

 ふたりに揃ってだめと言われた。

 確かに治療直後だし、了承してもらえるとはあまり思っていなかったけれど……。

「今日はおとなしくしてろや」

「司からの手紙でも読めばいいだろ?」

 昇さんに枕元にある封筒を指差される。

 それを読むために携帯ゾーンへ行きたかったのだけど、聞き届けてはもらえそうにない。

 別に電話がしたいわけではなかった。ただ、なんとなくあの場所へ行きたかっただけ。

「相馬、今日は俺がついているからおまえは寝てこいよ」

「あ゛? おまえ明日は?」

「オペもカンファレンスも入ってねぇから言ってんだ」

「栞姫は?」

「さっき連絡入れた。そしたら翠葉ちゃんについててやってくれって」

「なら遠慮なく」

 相馬先生はカートを押して病室を出ていった。

「ほれ、俺はあっちに行っててやるから、気になる中身を確認したらだどうだ?」

 昇さんがソファに寝転がるのを確認してから封筒を開けた。

 人から手紙をもらうのはどのくらい久しぶりだろうか。しかも、男子から、というのは初めてのように思う。

 あ、でも、学校を休んだとき、授業ノートに一言メモみたいなお手紙はもらったことがある。

 海斗くんや佐野くん、飛鳥ちゃんや桃華さんはどんな夏休みを過ごしているのかな。

 少なくとも、病院で過ごしているのは私だけだろう。

 落ち込みそうな気持ちを抑え、封筒の中身を取り出した。

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