luck.08 守りたくない、この笑顔
苅宿推薦のカフェ。
下校時間ということもあって、かなり混雑していた。
会社帰りなのか、背広を着たサラリーマン。席は若い女性客で埋め尽くされ、それ以外はカップルとしか思えない男女の組み合わせの客層。
息が詰まりそうだ。
オシャレな内装で、客も煌びやかな空気を醸し出している。どいつもこいつも幸福オーラを発していて近寄りがたい。
パッとしない弓張月は、場違いとしか思えない。
喫茶店に入るのも初めてだった。
食費がかかるから、大抵は男子寮で自炊。仮に外食するならば、牛丼やハンバーガーのチェーン店ぐらいのもの。しかもそれはお一人様での来店。
まさか、戸籍上は一応女子に分類する人間と、こんなリア充空気の充満している場所に来るなんて。そんなこと予想だにしなかったこと。せめて一人でこの喫茶店に来て、下見ぐらいはしたかった。
弓張月がおのぼりさんの如く、キョロキョロと落ち着き無く店の様子を見渡していると、
「何やってるん? さっさと注文済まそーや」
「あ……ああ」
専門外。
そして慣れない場所、シチュエーション。
自分とって不利な状況になればなるほど、弓張月は途端に口数が少なくなってしまう。他人の悪口を言っている時は饒舌になれるのだが。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
「えっ――と――」
女性店員に、苅宿がウキウキとした様子で注文をする。だが、専門用語が多すぎてまるで聞き取れない。ここは日本か。とりあえず横文字が多すぎる。
単純に飲み物を頼むのではなく、バニラシロップやら、豆乳やらを投入してくれ、という要望らしいのだが、何故そこまでする必要があるのか分からない。
例えば、コーヒーを頼むのだったら、砂糖とシロップの二択しか思いつかないのだが、何やら無限のバリエーションがあるように思える。ついていける気がしない。
「弓張月くん」
苅宿に呼ばれてハッとする。
訝しげな顔で女性店員が弓張月の注文を待っていた。しかも弓張月の後ろには、お客さんが2組ほど並んでいた。
やばい――正直飲み物なんてどうでもいい。なんでたかだか飲み物ごときに、そこまでこだわりを持っているのやら。
メニュー表を見ても、どう応えればいいのかさっぱりだ。
だったら無難に、苅宿と同様のメニューを選ぶしかない。このムードにとけこむのだ。まるで常連ですよ。こんなの試練なんかじゃないですよ感を出すために、考え込んでいた振りをひとしきり終えると、
「それじゃあ、苅宿と同じ、このフラペペロンチーノください」
ぶっ、と後ろに控えていたカップルが噴き出す。
ペ、ペペロンチーノって、パスタ!? ちょ、笑っちゃ悪いって。……ぷっ……だってぇ……、と小馬鹿にした口調がうなじのあたりにビシビシと突き刺さってるくる。びっしょりと訳も分からず冷や汗をかく。どうやら何か間違ったらしい。
営業スマイルではない笑いで店員が、
「お、お客様、フラペチーノですね。お会計は――」
おふっ、と思わず口を窄めて吐息を零す。
ああああああああ。
フラペチーノね、フラペチーノ。なんでペペロンチーノなんて口走ってしまったのだろうか。無難に、かっこけつけず、ただ『一緒のメニューで』と注文すれば良かった。ちょっとした欲のぜい肉。一生の恥だ。
おずおずとお金を財布から出す。
羞恥心のため、顔の表面が燃えるように熱い。
「どんと、まいんどや」
ポン、とドヤ顔をした苅宿に肩を叩かれる。
「うるさい! 余計なお世話だ!」
八つ当たりっぽく怒鳴り散らすと、カップルやお客の視線を掻い潜るようにして、空いている席にドスンと座る。
だが、苅宿は何やらカウンターでもたもたとしていて遅い。
特にやることもなく、手持ち無沙汰になってプラスチックのカップを凹ませたりして暇を潰す。
それにしても、物凄く高かったな。
どこのカフェもこんなものなのだろうか。
ラーメン店だったらチャーハンぐらい頼めそうな値段で、飲み物一杯分ぐらいだ。ここに居座っている連中は、一体どういう金銭感覚をしているのだろうか。金持ちか。
苅宿はカウンターの脇に置いてあったストローを弓張月の分までとって、はい、と手渡してきた。
そうか。
今気づいたが、ストローはセリフサービスだったのか。お礼を言って飲もうとするが、苅宿のトレイを見て手の動きが止まる。
遅かったと思ったら、飲み物以外にもティラミスを注文していたらしい。
フラペチーノといい、割とカロリー高めだと思うのだが、苅宿は気にしていない。太りにくい体質なのだろうか。女性ってこういうのには敏感だと思うのだが。メニューには、わざわざカロリーが掲載されてるぐらいだったし。
「そんなもの喰ってる余裕があるなら、もっと走れただろ」
「そんなことない。ティラミスは別腹や」
「……それ意味違うだろ」
何だかすっかり意気消沈してしまった。
なんだか出会った頃から苅宿には泰然とした態度で話しているせいで、今や立つ瀬がない。
偉そうにしているからこそ、ちょっとした失敗も露呈させたくなかった。
もっと店員に逆ギレして、そうですよ、間違えましたよ! それであなたに迷惑かけたんですか? 笑いやがってふざけんな! お前じゃ話にならない。店長を呼べ! 店長を! とか、クラーマー張りの大音声を反響させれば好転したか。
そんな風に営業妨害まがいの行為で、傷ついた自尊心を取り戻せるのなら簡単。だが、余計に後悔の念の密度が増すだけ。自分でもなんて面倒な性格をしているんだろうと思う。
嘆息をつくと、ようやくストローを啜る。
ズズズ、と豪快に音を立てる。
「なにこれ!? めっちゃ、うまっ!」
飲み物といえば、単調な味。
どれだけ飲んでもずっと同じ味という感じなのだが、このなんとかフラペチーノとやらは複雑な味わいがする。
様々な種類の材料……クリームやらコーヒーやらを攪拌しているためか、今まで飲んできた飲み物と一線を画すオリジナリティ。
どうせコーヒーの亜種でしょ? と飲む前は舐めていたのだが、予想以上の完成度に舌も喜んでいる。
なるほど。
これならば流行る理由にも説明がつく。
『今まで走っていて、喉が渇いていたから』という前提条件も舌鼓を打つ理由に挙がるが、それを差し引いても凄まじい。弓張月はこの店のリピーターになるだろう。
苅宿は、微笑ましいものでも観ているかのように目尻を緩めると、
「美味しいやろ、ここのペペロンチーノ」
「それはもういいっ!」
苅宿はペロリとスプーンに乗ったティラミスを舐めると、んー、と実に美味しそうに唸る。
「この店のティラミスは舌触りが良くて、けっこー来るんや。クリームたっぷりのムース生地とココア生地とのコントラスとが絶妙で、甘すぎずも苦すぎでもなくて……ホンマこれ食べると幸せになれるわ」
「グルメリポーターみたいなコメントだな……」
笑いながら冗談を飛ばすが、苅宿は笑い返さなかった。
ああ、と苅宿はひと呼吸置くと、
「ウチ、京都でケーキ屋さんやってるから。それで……変な言い方になったみたいやな」
さらっとした物言いだったが、苅宿のことを何も知らない弓張月にとっては衝撃的。思わず聞き返す。
「ケーキって、あの……ケーキ?」
「そうそう、食べ物のケーキな。厳密にはケーキ以外にも紅茶とか出しとるけど、あくまでケーキ専門やけどな。店はちょっと狭くて、最近始めたばっかやけどお客さんは来てくれてはる」
へぇーと、なんだか感心してしまう。
周りの人間で、ケーキ屋どころか、自分の家が何かの店を営業している奴なんて一人もいなかったはずだ。
しかも、実家がケーキ屋。
それは女の子にとって、かなり嬉しいことなんじゃないだろうか。処分しなければならない、余ったケーキなんかを好きなだけ食えたりできそうだ。
「最近って? なんでまたケーキ屋なんて……」
特に考えなんてない。
会話の流れで、沈黙が流れるのを嫌った適当な質問だった。そうなんだ。きっとケーキ屋をやるって幸せで夢のある話なんだろうなって、そういう好意的な意味合いな質量を伴った問いかけだったはずだ。
だが、苅宿は逡巡する。
言っていいものかと。
揺れる瞳に写っている人物が、信用するに足るかを悩んでいるようだった。そしてどういう葛藤があったのかは知らないが、苅宿は唇を動かした。
「ウチが中学二年生の時に、父さんが会社から解雇を言い渡されてな。それで、一念発起して、父さんが小さい頃から夢見てたケーキ屋始めてん」
「……………」
想像していたより、よっぽどヘビーな話の内容だったので閉口する。
なんて言えばいいのか。
苅宿は箱入りお嬢様だと思っていた。
育ちがいいとはいえない粗暴さがたまに目立つ。だが、ケーキを崩さずに小さく切って食べる様は、やっぱり親の躾のたまものだろう。
蝶よ花よと、大切に、大切に育てられて、だからこその無鉄砲さ。考えなしに行動して周りを振ります。
そう思っていたのに。
こいつはこいつで、それなりに苦労しているのだろうか。
「ウチかて、最初は反対したんや。せやけど、父さんはやるって聴かへんかった。ウチが多少なりとも頑固な性格なのは、父親譲りかも知れへんな……」
「それじゃあ、ケーキ屋は両親二人で切り盛りしてるのか?」
そう言うと、苅宿は寂しそうにハハッと笑う。
「会社辞めさせらた時に、両親は離婚してん」
お互いに、もう手は動いていなかった。
周囲の雑談の声もすっかり遮断して、いつの間にやらカフェは二人だけの空間になる。
「母親は他の人と結婚して幸せそうにしとるわ。父親の方はもう恋なんてできへんって言って、ケーキ屋に邁進しとる。京都の中じゃ繁盛してるみたいで、雑誌にも小さく載ったことあるんやで。忙しくて、バイトさんを雇ってなんとかしとるみたいや。この高校に来る前はウチも手伝っとたけどな」
離婚して、すぐに母親は他の男と結婚か。
それは、夫を、それから子どもを捨てたってこと。苅宿はどうでもいいゴミ扱いされたってこと。そんな風な穿った解釈もできる。
母親に対して裏切られたとかいう憎しみは感じないのだろうか。
「ああ、気にせんでええで。両親はウチが物心つく頃から仲悪いけど、ウチは父親も母親もどっちも仲いい。それにどっちも好きやし……」
黙ったままでいる弓張月が、引いてると勘違いしたらしい。
「問題は創業100年の老舗和菓子店を実家に持つ八ツ橋さんが、ご近所さんっていうことや」
「八ツ橋さんって……。ああ、だからああいうことになってたのか」
尋常でないほどの剣幕で八ツ橋が、苅宿が揶揄していたのはラックだけのことじゃなかったらしい。
二人が昔からのご近所だったのなら、多少の絡みもあっただろう。もしかしたら、同じ中学出身なのかもしれない。
高校になって、苅宿がラックを始めて。
そして苅宿に対する、八ツ橋の溜まっていた鬱憤が爆発した。
そういうことか、と苅宿に尋ねてみると、
「そうや。ラックだけでなくて、実家のことでも、ウチのケーキ屋は新参者で、だから八ツ橋さんはイライラしてるみたいや。ウチが何事にも真剣にやってなく見えるらしくてな……」
「それは……」
どうしようもない事なんじゃないだろうか。
そんなに面倒なことになっているのだったら、八ツ橋と関わらないようにすればいいのに。
と、そう思うのだが、そうもいかないのだろう。
男と違って、女子は仲良しこよしにならなければ、一人と関係が破綻したら雪崩式にみんなからはぶられそうだ。
だが、今の苅宿は既に孤立しているようだ。
少なくとも弓張月が苅宿と会うときに、誰かクラスメイトと仲睦まじげに会話しているのを見たことがない。ずっと独りきりでいる。
だがもう既に独りきりならば八ツ橋のことも無視すればいい。だが、ああやって相手にするってことは、苅宿自身はそこまで嫌っていないのかもしれない。八ツ橋の悪口を言っているのを聴いたことがないし。
それに、何だか寂しそうな瞳で、八ツ橋とかその周りのことを目にしていた。今まで全くといっていいほど八ツ橋となにかしらの関係を築いていないなら、逆にバケツの水をかけられるとか酷いことはされない。
だから、それなりに友情はあったんではないだろうか。
「……本当はウチも自分が真面目にやってるのか自信ないんや。あそこまで八ツ橋さんに言われるとな」
やっぱり、口ぶりからして、八ツ橋のことを認めているのだろう。
その才能も。
覚悟も。
受けた仕打ちも妥当だと思っているのかもしれない。
でも、だからこそ。
認めている人間からああいう罵り方をされている苅宿は、苦しんでいるのではないだろうか。
「八ツ橋さんは、高校で結果を出せなかったら実家を継がなくちゃあかん。プロになる道は閉ざされたっていうことでな。そんな人と比べて……ウチはなんてちっぽけなんやろうなって……」
中学時代と違って。
高校ではお遊びでラックをやる人間は少ない。
部活ではなく、専門学科なのだ。それだけ真剣に入れ込む奴は多く、八ツ橋のような境遇は決して珍しくないはずだ。
だからこそ苅宿のような素人は悪目立ちする。
「……なあ、どうして苅宿はラックをやろうと思ったんだ?」
苅宿には多分理由なんてないんだろうな。
そう思っていたが――
「……憧れてる人がいるんや」
まるで自分の宝物を自慢するみたいに、優しい声色で滔々と語りだす。
「同中だった八ツ橋さんの試合を、正確に言うと試合には出れなかったんやな。あの時はレギュラーとれへんかったみたいやし。とにかく、ウチの中学のラック部の試合を興味本位で覗いてみたら、対戦した高校にある人がいてな。その人が絶対に諦めない姿を見て、ウチもこんな人みたいになれたらいいなって……そう思ったんや」
苅宿の焦点は合っていない。
昔話に没頭して、今弓張月と一緒にいることなど完全に忘れている。その憧れの人とやらに執心しきっている。
「それが、その人の引退試合やったみたいやったから、もうその人の試合は見れへんかったんやけどな。今でもあの人の戦う勇姿は、ウチの瞳にしっかりと灼きついとるわ」
「……それって、いつの話だ?」
「ん? せやな、ウチが中学二年の時やから、約一年前ぐらいやな……」
っていうことは、その時に引退したってことは、自分達よりは一つ上の先輩っていうことになる。
さずかしそいつは格好良かったのだろう。なんとなく、そいつが男なんだろうなって、熱に浮かされたような苅宿から察してしまう。
「だったら、その憧れの人とやらに笑われないように頑張らないとな」
「そうやな! ウチ、頑張るわ!」
皮肉を効かせたつもりだったのだが、意に介さず屈託ない笑顔を振りまく。やる気になってくれて喜ぶところなのだろうが、フラペチーノを飲みすぎたせいか。
苅宿の何の憂いもない笑顔を観ていると、とにかく胃の底がムカムカしてしょうがなかった。