luck.06 急に歌うよ
男子寮2階の、弓張月の自室。
100均の店で購入したカーテンを締め切った、四畳半の独り部屋。
一週間に一度は小型の掃除機をかけているので、埃も少なくそこそこ綺麗だ。
テレビや冷蔵庫、それからクローゼット等、生活に必要最低限の物は備えつけだった。敷金礼金は必要なかったので、一番金が必要だったのは引越し費用ぐらいだ。
持ち込んだ本棚には、少年漫画や分厚い教科書が無造作につっこまれている。
ベッドには女が眠っている。
そしてベッドの横には、今日自分に向かって飛来してきた野球部のボール。なんだかんだで野球部に返却するタイミングを見失ってしまって、適当に転がしている。
テレビに接続されている家庭用ゲーム機は機動していて、映像が流れている。画面はゲームではなく、うさぎから借りたビデオの映像が流れている。
専用のコントローラーの近くには、パッカリと御開帳しているポテトチップスの袋。
コンビニで貰った無料の割り箸で、さっきまでバリバリ食べていた。手掴みだとコントローラーが汚れてしまうので、割り箸は意外に必需品なのだ。常にストックがある。
そして今。
弓張月は、その割り箸をマイク代わりに握って、
「あんなことっいいなあっ、でぇきたらいいなぁ~」
ノリッノリッで歌っている。
かなり薄い壁。
こんな夜中にお隣さんに聴こえてしまったら、かなりのご近所迷惑。大声で歌うことはできない。だが、それを補うかのように感情を込めて、声帯を震わせる。椅子に片足を乗せながら、両目を瞑っている。
その方がより情景豊かな想像を膨らませれる。
思い浮かべるのは、仮想カラオケボックスだ。
うさぎのおまけとして、カラオケにお呼ばれした際に歌う曲の練習といったところか。力強く握った拳をリズムに乗せて振るう。
「あんな夢、こんな夢叶えてくれ――」
不意に視線を感じて横向く。
そこには得体の知れないものを見てしまったと、総身を震わせている苅宿がいた。ベッドのシーツを身に寄せながら、アワアワと当惑している。
大熱唱。
それを他人に見られた弓張月は苅宿と視線がカチ合った瞬間、ビクッと猫のように身を強ばらせた。だが、その後の行動は至ってスムーズ。
シャッ、とカーテンを開ける。
ガラガラと無言で窓を開放すると、心地よい夜風が部屋を換気してくれる。窓枠に足を乗っけて、
「そーらを自由にぃ、飛びたいなっ!」
ガシッ、と大空を飛翔しようした弓張月の服の裾を、苅宿が必死の形相で引っ張る。
「ちょっと! なに飛び降り自殺しようとしてるんや!」
「止めてくれるなよ! 俺の頭にはタケ○プターがついている! 夢いっぱいのタケ○プターがな!」
「そんなの見えへんけど!?」
「あれだから! 馬鹿には見えないタケ○プターだから! だから、いっそ死なせて!」
「やっぱり、死のうとしてるやん!!」
このっ、と弓張月の腕に、苅宿は自分の腕を絡ませて思いっきり引く。
「うおっ!」
そのまま反動がついて、ドテンと苅宿の身体の上に尻餅をつく。ついでに狙ってもいない肘打ちが、苅宿の胸部を強打する。
ごほっ! とおよそ女の子らしからぬ呻き声。慌てて怪我を負ってしまった苅宿に、献身的な態度で寄り添う。
「……おい! 大丈夫か?」
「全然……大丈夫やない。樹の下敷きになったせいもあって身体のあちこちが痛いんやけど」
「なんだって! 一体誰にやられたんだ!?」
くそっ、と弓張月はわざとらしく悪態をつく。
「アナンタや、アンタ。全部あんたにやられたんや」
あくまで冷淡に言ってのける苅宿に、プイッと目線を外す。勢いでなんとかエアカラオケを誤魔化せないものか。
勝手知ったる冷蔵庫を開ける。
そこには、明日の朝飯用の卵とベーコンとか納豆とかが並んでいる。
それから煮出しの麦茶の入った、プラスチックの容器も入っていた。
198円で売っていたので、ついつい購入してしまったのだが、52パック同じ味の麦茶を独りで飲み続けるのは中々の苦行ということを最近になって気づいた。
「麦茶いる? 来客用のコップなんて買ってないから、紙コップしかないけど」
「…………いる」
「ほいよ」
ガガガ、と中央に卵型の木製テーブルを持ってくると、そこに麦茶とお菓子の類を無造作に置く。麦茶入りの紙コップを手渡してやると、苅宿が警戒心丸出しに、
「それで、ここは一体どこなんや?」
「見ての通り、俺の部屋だけど。男子寮の」
木が倒壊したり、苅宿との仲を男子寮の全員に誤解されたりで、苅宿が呑気に気絶している間に大騒ぎになってしまった。
ぐったりとしていた苅宿をそのまま放置できるわけもなく、ここまで担いで運んできてやったのは他ならぬ弓張月なのだ。本来ならば感謝の言葉の一つや二つ要求してやってもいいところだが、別にいい。
役得とばかりに身体の凹凸部分が背中に当たって、ふへへっと頬の筋肉を弛緩させていた。神に誓ってわざとではない。運ぶ際にそうなるのは必然。だから敢えてその部分には、会話で触れないようにしたい。執拗に追求されたらボロが出そうだ。
だが苅宿はなにか感づいたのか、
「まさか……ウチはこんなところに連れ込んで、一体何するつもりやったん? この性犯罪者!!」
「気絶する前に自分のやったことを思い出せ! いきなり夜中に襲ってきたお前の方が犯罪者だろ! ……ったく、俺が100%善意でここまで運んできてやったというのに!」
そう大声で怒鳴ると、苅宿はやり取りを思い出したようで、
「……そうか……ウチ……ごめん……」
どんよりと瞳を翳らせる。
眼に見えて落ち込んだ苅宿に、弓張月は眉をキリリと寄せる。
「もういいよ。過去に囚われたまま生きるのは……良くないことだからな」
そう。
過去のことをほじくり返したところで、誰も幸福にはなれない。寧ろ不幸になってしまうことだってあるのだ。こっちだって不可抗力で色々なところを触ってしまったのを知られたくない。
うんうん、としたり顔で頷いていると、
「えっ……これって……!」
苅宿の視線が、テレビに釘付けになる。
その映像には、ラック科の二年生。
それから、八ツ橋が写っている。
彼女達はお互い死力を尽くして戦っていた。
「まさか……四月にあった、先輩達との壮行会の映像? こんなのがどうしてこんあところで!?」
黒春高校においてラックの練習試合の一部始終は、訓練所に取り付けられているカメラによって映像が収められている。
それを生徒会の人間が保管・管理をしている。
だが、それを持ち出せる人間はラック科の人間の中でも限られている。ましてや普通科の一年が自室で眺められるような代物ではない。
だが、弓張月にはうさぎという協力者がいた。
「……ちょっとしたツテがあってな。そいつに頼んで貸りてるんだよ」
うさぎには今までいくつもの試合のビデオを借りた。
スポーツ観戦が趣味だからとかいう建前で借りているわけだが、本当はこの高校の女子を観て目の保養にしているだけだ。上級生の映像は監視の目が強いようなので、今はまだ新入生のビデオしか観れていない。
「それで……だ。お前に訊きたいことがある。こいつの――八ツ橋の能力はなんだ? はっきり言って、俺じゃ全く予想できない」
苅宿のような一瞥しただけで判別できるような能力ではない。
もしかしたら、八ツ橋は弓張月のような地味な能力に近いのかもしれない。
「八ツ橋さんの能力は――『変身能力』や」
「変身……能力……?」
ありえない、とばかりに弓張月の声は上擦る。
変身能力というならば、姿かたちが変貌して然るべき。なのに、彼女の姿は試合中全く変わってなどいない。
能力を使わずにこの強さだというのは考えづらい。二年生相手に一歩も引いていない姿は圧巻そのものだ。
「せやけど、彼女の能力自体は……なんていうか……かなり使い辛いみたいやな。中学時代もラックをやってたみたいやけど、レギュラー入りもできへんかったみたいやし」
「本当か? そんな風には見えないけどな」
「高校で一気に強くなったタイプやと思う。せやけど、ウチには彼女がどうやって強くなったのか分からへん。そもそも『変身能力』なんて、ラックに向いてへんはず。それでも八ツ橋さんが、今恐らく一年女子の中で二番目に強いのは周知の事実や」
「『変身能力』……『変身能力』か……」
変身していないのに、『変身能力』。
紛れもなく矛盾なのだが、固定概念に囚われているだけではこの圧倒的なまでの強さの真相にたどり着けない。
パッと考えられる変身能力というのは、他の誰かに成り代わるとか、動物や武器の姿に変態することだが……きっとそれはない。
だが、眼に見えないだけで、本当は変身能力を使っているのだとしたら。眼に見えることだけが事実じゃないとするならば。
「なるほど……大体分かってきた」
机上の空論だが、恐らくこの仮説で正しいはず。
まだロジックが不足しているため、勝利への道筋が朧げだ。
問題は八ツ橋の能力だけではない。
彼女の性格や戦い方や癖も分析しなければならない。どれだけ凄まじい実力者であろうとも、必ずどこかに隙があるはずだ
そして苅宿の能力は多様性があるからこそ、まだ底が見えていない。
本人が気づいていないだけだ。
だが、それを活かすだけの経験と知識が圧倒的に不足している。
ならば、弓張月がその弱点を補えばいい。八ツ橋とまともな戦いができるまで、実力を引き上げてやればいい。
「なんやの? さっきからどうして八ツ橋さんのこと訊いてるん? 普通科のあんたが知っても意味ないやろ?」
「ああ。俺が聴いても意味がない」
八ツ橋の能力の使い方が予想通りならば、弓張月とは相性が悪い。
もしも弓張月が勝負を挑んだところで、勝てる見込みは1割にも満たないだろう。どれだけ巧妙な策を弄したところで、彼女には歯が立たない。
「だけど――お前には意味がある」
だが、苅宿の能力ならば、勝てるかもしれない。
今の彼女ならばどう足掻いたとこで、相手にもならない。足元すら及んでいない。
だが、もしも苅宿が本気でラックを上手くなりたいという気持ちがあるのならば、勝率を5割ぐらいまで引き上げることぐらいはできるかも知れない。
「言ったはずだ。お前に壁のぶつかり方を教えてやるってな」
「……そんなん無理や」
ハッ、と苅宿は自嘲するように、
「あんたに言われた通りウチは、八ツ橋さんとの戦うのを避けてたんや。そしてそんな現実から目を逸らすために、あんたと戦ったんや」
苦しげに唇を震わせる。
自分のしでかしたことを後悔するように。
「怖かったんや。――負けるのが。何より八ツ橋さんと戦うことで、自分の弱さを見せつけられることが怖かった。だから自分より弱そうな普通科のあんたと勝負して、そして挙句の果てに無様に負けて……」
喋れば喋るほど、声のトーンが下がる。
ゆっくりと絶望の底なしぬ沼にはまっていくように、元気がなくなってくる。
「そんな卑怯なウチが、強くなれるはずがない」
「ああ、そうだな。確かにお前は戦うべき相手を見誤って、あまつさえ格下相手の俺にさえおくれをとった負け犬だ」
「う……うん……」
そこまで言わなくてもいいのでは、と苅宿の声質が湿っぽいものになる。
「だけど――『負けた』ってことは、戦いそのものからは逃げなかったってことだろ」
唖然としている苅宿は、まだ弓張月の言いたいことが分かっていないようだ。
こうなったら、分かりやすく教えてやる。
「考えてもみろ。なんでわざわざ俺と戦ったんだ。俺なんか相手にせず自主退学でも、それが嫌だったら普通科に転科でも、なんでもすればよかったんだ。でもお前は俺と戦った。わざわざ、そんな面倒な道を選択したんだ」
弓張月を襲ったところで、メリットは何一つない。
普通の人間だったならば、そんな選択肢を取らない。本当の意味で負け犬ならば、戦うことすらしない。
だが、苅宿は違った。
つまり――
「それは、お前が『強くなりたい』って心から願ったからじゃないのか?」
苅宿は、他のやつらと違って、ただ真っ直ぐだっただけなんだ。
……例えば、格闘ゲームを誰かとやるとする。
そして、弓張月が連戦連勝するとする。
そんな時、対戦相手の取る行動はいくつかに分けられる。
どうでもいいよ勝敗なんてと言いたげにガチャプレイ。ゲームの電源を切って、所詮こんなのゲームでしょ? 強くたって意味ないじゃんと、せせら笑う。
最初は本気で勝利を狙っていたはずなのに、勝負を放棄する。
どうせ俺このゲーム初心者だし。いやー、実は今日体調悪くてさーだとか、負けたときの言い訳だけは達者。
そういう人間はたくさんいる。
負け続けた奴は、勝負することすら放棄する。
誰もが負けるのは怖いのだ。
傷つくのを恐れている。
これはゲームだから、とか勝負の最中や負けた後に宣う人間に限って、現実でも俺はまだ本気じゃないから! とお決まりの捨て台詞で逃げ出す。
格闘ゲームでも、勉強でも、ラックでも。
負け続けた人間は、本気で勝負することを諦める。負けた時の自己弁護のために手を抜く。それを続けていくと、今度は逃げることに抵抗すらなくなっていく。悩むことを辞めてしまう。
だが、苅宿は今苦しんでいる。
戦う相手を間違えただけで、勝負そのものから逃げたわけじゃない。その証拠に心を痛めている。
だったら、まだ手遅れなんかじゃない。
「勝負から背を向けない奴は、きっと強くなる。お前は戦う相手を間違えたし、勝負の最中にも諦めかけたよな。だけど、土壇場で戦う道を選んだ。戦い続けた」
弱い奴は、負けた奴のことじゃない。
本当に弱い奴は、きっと……勝負すら避けるやつのことだ。
「そんなお前はラックの才能あるよ」
少なくとも弓張月よりはずっとある。
「でも……ウチ独りじゃ……」
だが、勝った経験のなさげな苅宿は、自信がない。
勝負したいという気持ちはあるようだが、それでも一歩踏み出す勇気を振り絞れないでいるようだ。
そうだよな。不安だよな。
ラックを始めて間もないんだったよな。
独りで確かな一歩を踏み出せないのだというのなら、その頼りない背中は弓張月が押してやる。無理やり前へと進ませやろう。
「だれがお前みたいな雑魚一人で八ツ橋に勝てるって言ったんだよ。さっきから言ってるだろ。この超天才である俺様が直々に、お前にラックのコーチしてやるよ」