luck.04 我々の業界ではご褒美です
「ほ、ほーっ、ホアアーッ!! ホアーッ!!」
弓張月は吃驚仰天し過ぎて、喉から変な声が迸る。
放課後の、付け加えるならば普通科生徒専用の靴箱だということで、人の気配がなくて良かった。もしも人がいたならば、学校中で変態としての認識がより濃いものになってしまっただろうから。
だが、奇声が出たのにも、正当な理由がある。
その説明のためには、数十分前に遡らなければならない。
弓張月はいつの間にやら独りになっていることに気づいた。そんなはずはない。あの気まずい空気のまま苅宿達からさよならバイバイした直後、フト誰かが忽然と隣から消えていたことに気がついたのだ。
そう。
同行者たるうさぎがいなかった。
どうやら厄介事に巻き込まれると踏んだ奴は、どさくさに紛れて脱兎の如く逃げやがったらしい。なんたる薄情者だ。
問い詰めてやろうと、生徒会室へ向かったが、そこにはうさぎはいなかった。
窓越しに見えたのは面識のない生徒会メンバー。
だが彼らにうさぎの居場所を訊く度胸がなかった弓張月は、教室や廊下を何度も行き来した。そして、結局は見つけることできなかった。
探し出すことを諦めて、靴箱をパカッと開けた。
そこにあったのは、うさぎからの贈り物であろう一枚の映像ディスクだった。
どうやら行き違いがあったらしい。明日教室で会ったなら、どうして置いてけぼりにしたのか絶対に問い詰めてやる。そう覚悟してプラスチックのケースを手に取ったら、その下にあった封筒がヒラリと舞った。
なんだ。
うさぎの謝罪文か。
そう思って手に取って封筒の中にあった紙に目を通してみた。だが、その予想は全くもって的外れだった。
紙を持つ手は小刻みに震える。
瞳孔が限界までオープン。信じられないことだが……これは、
「………………ラ、ラブレター?」
リンゴーン、リンゴーン、と透き通る鐘の音。
ラップを吹くのは、白い服を身に纏った子どもの天使。
そんな幻視が見えてしまうほどに、衝撃が総身を突き抜ける。うぅ、と幸福過ぎるイベントに蹈鞴を踏んでしまう。
世界そのものが、その瞬間生まれ変わる。
黄金色に発光する紙が眩しすぎて眩暈さえする。
弓張月道影という男がこの世に生を受けて、最高潮のビックウェーブが押し寄せてきている。そんなことさえ思った。
な、なんてことだ。
噂が立つということは悪印象を与えるばかりだと思っていが、どうやらチョイ悪な弓張月に魅力を感じる奇特な女子がいたらしい。何もアクションを起こさななかったら、それこそ誰にも見向きされなかっただろう。
だが、悪評判が立ったからこそ、白羽の矢が立った。
あの引ったくりを拿捕したのは、決して間違いじゃなかったんだ。やっぱり善行を積めば、その分の報酬が返ってくる。観ている人はいる。認めてくれる人間は存在したのだ。
ラブレターには一文。
――男子寮にある桜の木の下で、今夜の9時にあなたを待つ。
としか書かれていなかったが、奥ゆかしい女性のようで名前を記載していなかった。その紙というのが、どう見てもノートの切れ端にしか見えない。しかも、入っていた封筒というのが、なんとも色気のない茶封筒だった。
なんて古風な人なのだろうか。
あえて、あえて、気取らなかったのだろう。
化粧が濃ゆければ濃ゆいほどいいみたいなギャルっぽい女子は苦手なので、こういう飾り気のない、大人びたことをやる女性の方が断然いい。
本音を言えば、ピンクの可愛い封筒で、小洒落ている紙、愛の詰まった長文が望ましかった。
『あなたのことを思うと夜も眠れません。あまりにも眠れないので、手編みのセーターを編んで、あなたが着ているところを想像して匂いを嗅いでいます。あなたが着ていないのに……これっておかしな話ですよね』
おかしいのはお前の頭だよ、と優しく突っ込んであげる妄想を、この日のために膨らませてきたのだ。
だが、これでいい。
送り主は、シャイなだけなのだ。恥ずかしがり屋ながら、それでも想いを告げるためにこうやって手紙を書いてくれた。
その気持ちが嬉しいのだ。
そうしてまるで壊れ物でも扱うような丁寧さで、質素な封筒を鞄に詰め込んだ。しわくちゃにならないよう細心の注意を払う。コンビニでお菓子2個セットでゲットしたアニメ系のキャラがデザインされているファイルに入れて、こっそりと靴箱を出る。
未だに部活動生やラック科の人間のほとんどは、活動真っ最中といったところ。
どいつもこいつも幅を利かせていて、グラウンドの端っこに沿って歩かなければならない。どうしていつもこの人たちは偉そうなのか。
運動部の、特に野球部たちの掛け声が、赤く染まってきた空に響く。カーン、とボールを金属バットで打った一際大きい音が聴こえる。その音が徐々に大きくなって、よく飛ぶなあと感心ていた。不意に、なんの気なしに上を見上げると――――放物線を描いたボールが飛んできた。
「え?」
しかも、弓張月目掛けて落下してくる。
気がついた時には遅く、避けられるような態勢ではない。というか、見つけたところで、頭に直撃するしかない速度だ。せめて衝撃を和らげるために、腕を振り上げ――
バシンッ! と不可視の壁に弾かれ、野球ボールはコースを変えて地面に落ちる。
「ま……まさか……?」
見えざる壁を形成できる人間を、弓張月は一人しか知らない。だが、その人間がここにいる訳が無い。志望校はもっとラックが盛んな高校だったはずで、黒春高校へ進路選択するなんて彼女の口から聴いたことなどない。
だが、彼女の能力を見まごうことはずがない。
無様に尻餅をついていた弓張月は、あ、あ、あああ、と指を震わせる。いつの間にやら弓張月を庇うようにして眼前にいたそいつを指差す。
「お前……忍だよ……な?」
天光忍。
こうしてまともに相対するのは、およそ一年ぶりといったところか。
スカートを翻してこちらを睥睨する彼女の顔貌は、確かに記憶の中の忍と一致している。
だが、ここにいる疑問もさることながら、腑に落ちない点がある。
どうして、弓張月は助けられたのか。
彼女は、憎んでいるはずだ。
そうでなければおかしいほどのことを、弓張月は彼女にしでかした。
ボールが顔面に直撃して悶絶している弓張月のことを、高笑いするだけの権利が忍にはある。
たまたま目の前を横切ったら、自分のところにボールが飛んできた。だから偶発的にも弓張月を助けてしまうことになってしまった。そういうことなのだろうか。
「中学以来だねっ! 弓張月くんっ! 元気にしてた?」
「…………は?」
忍は満面の笑みを振りまいて、あまつさえ手を差し伸ばしてきた。
そのまま首を絞められるのかと思いきや、中空で停止している。まさかとは思うが、引き上げてくれるとでも言うつもりなのだろうか。
……誰なんだ、こいつは。
弓張月の知っている忍は年がら年中、石像のように表情が不変。金の針を必要とするぐらい、いつだって仏頂面だったはず。
一体どんな頭のぶつけ方をすれば、ここまで豹変するというのだろうか。
駈狐中学の時はあれだけ長髪に拘っていたというのに、まるで失恋したみたいに髪の毛をバッサリ。
ファッション雑誌すら買ったことのなさそうな野暮ったさだったが、うっすらと化粧までしている。
両脚の素肌を晒だして、限界までスカートを引き上げ、黒ニーソによって見事なまでに絶対領域を形成している。
どこからどう見ても今時の女子高生といった風情。こっちの方が一般的なのだろうが、あまりにも記憶の中にある忍と食い違っている。
目の前のこいつが天光忍という人物の皮を被った、別の何者としか思えない。
悪魔だ。
純真な心を弄ぶ小悪魔なんて形容詞は生ぬるい。
そりゃあ、中学時代を知っている弓張月からしたら、忍の激変っぷりには動揺を隠せない。背が伸びたおかげで、スタイルも良くなって。きっと大人っぽい服を着こなせるぐらいに成長したと思う。
元々の素材は良かったのだ。
だが、弓張月はあの頃の素朴な忍の方が好きだった。
今や、全くの別人。
もしや、安産型っぽいお尻の、その短いスカートの何は黒い尻尾が生えているのではないか。
そんな奴の手どころか身体に触れるのは気色悪過ぎて、弓張月はさっさと自力で立ち上がる。
「……お前、この高校に入学してたのか? ぜ……全然知らなかったぞ」
「そうだよー。だって、弓張月くんは中学三年の時、誰とも関わろうとしていなかったよね。だったら、私の進路なんて知るよしもなかったでしょ」
しゅん、と拗ねたみたいに手を引っ込める。
まるで雨で濡れた子犬みたいな瞳。
だが、そんなものに騙されるわけがない。吐き気の予兆すらこみあげる。どんな逆襲を企ているのか知るよしもないが、確かにこの忍はかなりダメージがでかい。腹の底がしれない奴に、心を開くことはできない。
「……なんでここにいるんだよ、お前は」
忍が黒春高校に進学する。
もしもその情報を中学時代小耳に挟んだところで、一笑に付しただろう。確かにラック科もあり、実績もある黒春高校。だが、あくまでも古豪。忘れられた伝説。無冠の帝王だ。
そんな黒春高校に憧憬を抱いて入学する者もいるだろう。
だが、本気で全国大会を目指すのならば、もっと実績のある高校を選ぶはずだ。真に実力の伴った者ならば、他の高校からスポーツ推薦をもらってもおかしくない。
少なくとも忍は、他の高校のラック科の推薦をもらってもおかしくないぐらいの才能に溢れていた。
「そっちこそ……どうしてここにいるの? しかも、ラック科じゃなく、普通科なんて」
「ご親切な担任の先生が、この高校を紹介してくれたんだよ。大学進学率も高いみたいだし、俺は普通科だろうがなんだろうが、ラック科なんて将来が不安にならないところだったらどこだって良かったさ」
ラック科に入ったからといって、そのまま将来職業に直結するわけじゃない。
ラック競技で、プロとして活躍する選手は大勢いる。
だが、それ以上に辛酸を舐めて、いつまでも燻っている連中が溢れている。プロになることを諦めて、指導者としての道を歩むものも少なくない。
そんなシビアな世界に、わざわざ足を突っ込む神経が分からない。
特に将来のビジョンがあるわけではない。
やりたいことは特にない。
だから、弓張月は普通科に入学した。いずれ何か人生の指針の目処が立つ。そんな時、自由にどんな方向にだって歩むことができるからだ。
「担任の先生……ラック部の顧問の先生でもあったあの人、弓張月のこと本気で心配してたよ……」
あいつが……心配か。
担任とは進路について揉めたことがある。
あの時は大人とは思えないほど、取り乱していたのは覚えている。だけどあれは弓張月の心配というより、教師という立場が揺らがないかどうか危惧していただけな気がしたが。
そんな皮肉めいたことを口にしてしまったら、どうせ何も知らない忍には不快な顔をされてしまうに違いないので、
「それは光栄だな」
ふふん、と不遜な態度で胸を反らしてみせる。
「…………」
だが、忍は言葉も出ないようで、プルプルとゼリーのような唇を震わせたまま押し黙った。
弓張月の皮肉っぽい語調に怒っているようにも、呆れたように見えた。
それから苦しげに、胸中の想いをそのままぶつけようかと何度か口を開く。だが、そんな負の感情を全部呑み込むみたいに、ゴクリと喉を動かす。
それから眼を逸らして、
「ラック部はね、廃部になったんだよ」
とんでもないことを言ってのけた。
廃部……?
まさか。そんなわけがない。
駈狐中学の顧問は一体何をやっていたのか。いや、分かりきったことだ。あいつは何もやらなかったのだ。
崩壊していくラック部をその眼にしながらも、生徒の自主性を重んじるとか建前を立てて一切手出ししなかったのだろう。どいつもこいつも、相変わらず責任転嫁だけはうまい。
「私なんかが部長をやっても、誰もついてこなかった……。ううん、誰がやってもきっと同じだったんだろうね……」
忍は自嘲する。
顧問や他の部員、そして弓張月の誰を責めるのでもなく。
ただ、自分のせいだとでも言いたげに、瞳に翳を落とした。そんな彼女はあまりにもいたたまれなかった。
むしろ、誰かのせいにしてくれれば、その方がいっそこっちの気も楽になれただろうに。
「……そんな……ラック部が……」
忍がどれほどラックに全てを捧げているのか。
そんなこと、弓張月が一番分かっている。
才能だけじゃない。
ラックにかける気持ちでも、誰にも負けないぐらい強い。
それなのに、ラックをやる居場所がなくなっていたなんて。
そんなことも知らずに、弓張月はのうのうと漫然たる日々を過ごしていた。どれだけ忍が苦悩していたのかも知らずに。
「そんな……そんなの……」
ギリギリと奥歯を噛む。
こんなことになるなんて、思いもしなかった。
ラック部が潰れたなんて。
だったら、弓張月があの時やったことは全く意味がなかったということだ。
そんな。
そんなの――
「ざまあ、としか言い様がないな」
あまりにもおかしくて、笑いを殺そうとしていたが無理なようだ。
く、はははははは、と思わず口が歪む。
痛快だ。
笑わずにはいられない。
どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ。
一体、何をやってるんだ。
面白くて、面白くて。
道化師なのは、一体誰なのかと訊かれたのなら、きっとそれは――弓張月のことなんだろう。
「顧問は普段指導しないくせに口出し多いし、部員は実力ないくせに練習しないし。ほんとっ――潰れてくれてせいせいするなあ。何がラックだよ! そんなことやるやつなんてなあ、ロクなやついな――
バシンッ、と頬をぶたれる。
「昔から何一つ変わってないんだね。この――裏切り者」
頬を叩かれたのが。
罵倒されるのが、嬉しかった。
ようやく、忍の心根が顕になった気がしたからだ。だが、それでも弓張月は嘲笑の余韻を頬に残しながら、
「だから何? 謝ればいいの? あー、ハイハイ。ごめんなさい反省していますって? そしたらお前の気が晴れるの? それだったらやるけど、謝罪一つで許せるなんて、お前の沸点の原因ってそんなに安っぽいものなんだ」
怒りを煽るようにして、ヘラヘラとした口調で言ってやる。
忍は、いつも我慢している。
心を圧殺する。
ぐちゃぐちゃに窪んで、もう二度と同じ形に復元できないとしても。
それでも、誰かを傷つけたくがないために、いつだって本心を晒すことをしない。それは昔も今も同じようだ。だから、もっと怒った方がいい。全部吐き出した方が楽な時だってあるはずだから。
だけど――
「もういいよ。だってもう過去のことだもん。そんなもの綺麗さっぱり水に流してぇ、次の反省に活かそうよ」
さっきまでとは打って変わって。
テイク2とばかりに。……さっきの激高を記憶から抹消したみたいに、気色の悪い笑みを貼り付ける。
「……だったらもう話かけてくるなよ」
「そんなこと言わずぅ、もっと仲良くしようよ! 昔と違って、私達ってとってもいい関係になれると思うから」
そして、無理やり手を握ってくる。
仲良しの証とでも言いたいのか。今はそうじゃなくとも形から入れば、いつか嘘も真になる。きっと手と手を取り合う関係になれるのだとそう思っているのだろうか。
残念だが、今の忍とはそんな気にならない。なるわけがない。
「ああ、そうですねー。今度会う時にまでに考えときます」
心にもないことを言って、手を強めに振りほどく。
あはは、いきなり手を握っちゃってごめんねーとそういう反応されることを予想していたようで、忍は全然堪えていないようだった。
客観的に観たら、なんて健気でいい女の子なのかと曇った瞳には写るだろう。
男からぞんざいに扱われても尚、それでも笑っていて、なんて立派なんだって。
だが、弓張月にとっては違う。
とても。
とても。
今の忍は気色悪かった。




