luck.39 俺たちの戦いはこれからだ
弓張月はラック科に転入届けを志願した。
それがいくら書類上整ったとしても、二日、三日で転入できるはずがない。それは校長先生を脅し――校長先生が可愛い生徒のために快く協力してくれたので万事解決した。
いくら権力を持つ校長先生であっても独力ではどうにもならなかったらしいが、そこはうさぎがどうにかこうにか方々に掛け合ったらしい。そうして弓張月は新しい靴箱を手に入れた。
ラック科の生徒が行き交う校舎。
新たな気持ちにふさわしくまだ綺麗な自分の靴箱。
全てが新鮮で。
清涼な空気を吸い込んで晴れやかな気持ちになれていた――のに。それなのに、グシャッと何もかもを台無しにするような破滅的な音が聴こえる。それは間違いなく弓張月の靴先が音源。
聞き間違いであって欲しい。
本当ならば知らぬ存ぜぬを貫き、新たなクラスへと優雅に登場するべきだ。おいおい、君はどこのクラスの奴だ。間違えて入ってるぞ、とか痛い奴を見るような視線を頂戴しても。
余裕を持って、『今日からこのクラスに転入することになりました。弓張月道影です。よろしく。フッ』と、ドアのところあたりに体重を預けながら、かっこよく自己紹介するはずだった。
せっかくの門出の日。
それをぶち壊してくれたのは、ただの一切れの紙だった。
薄っぺらなそれは花柄のデザインで。あまりにも可愛らしく。ちょっと前までの弓張月がもらったのならば、文字通り飛び上がって喜んでいたであろう代物だ。靴のせいでクシャクシャになってしまった皺の一つ一つを、丁寧に丁寧に直していたであろう。
だが、それは不幸を呼び寄せる最悪の手紙だ。
「うおおおおおおおおおおおお!!」
腕を振り抜きながら走る。
本格的な、スピードを出すためのマラソン選手のような走法。それは見るものが奇怪に思えてしまって、体育大会でやってしまえば笑われるような走り方。おいおい。真面目にやってるよ、体育大会如きでと、からかわれる程度の走り方。
だが、今はそんなどんちゃん騒ぎが許される時ではない。
平常時。
ただの平日の授業日。
それなのにそいつは、弓張月は本気で走っていて。
誰もが慄きながら廊下の端へと引っ込む。ただでさえ変態性に定評のある弓張月の印象は、ここにきて極まる。やっぱりほんとだったんだよ、とかささやきが聴こえてくる。
自分の手で自分の首を締める行為をしている自覚はある。
だが、立ち止まれない。
立ち止まるわけにはいかない。
手紙の持ち主に。
再び弓張月の純真無垢な心を踏みつけようとする心無き者に。
たった一言の文句を叩きつけてやるために。
「苅宿!!」
猛烈な勢いでドアをスライドさせたその先に立っていたのは、苅宿渡真理。瞳孔を開きながらこっちを見つめるそいつは、めでたく弓張月と同じクラスメイトになった奴。
「どういうつもりだ!? この悪意のこもったラブレターは!?」
「え、どうしたん? いきなりそのハイテンションは。停学中になにか変なものでも食べたん?」
「お前にぶつけられたチョコレートケーキは残さず食べた! 床に落ちたやつも含めてな! そうじゃなくて! これはなんだ!?」
犯人に詰め寄るが、まるで知らないとばかりに怪訝な顔をする。
「え? そんなんウチ書いてへんよ? 宛先ちゃんと見た?」
「なに?」
シラを切るつもりか。
花柄の封筒の表裏を視認するが、どこにも文字は記載されていない。何ある手紙を取り出してみて、初めて文字が瞳に写る。
『生まれて初めてこんな手紙を書いて、とてもドキドキしています。私はあなたのことを昔から知っています。けれど、あなたは私のことなんて知らないでしょう。だから今後のために、私はあなたのことをもっと知りたいと思います。今日の放課後、二人きりで会えないでしょうか?』
これは……。
そうだ。
弓張月なら即座で分かってしまう。とても熱い想いを書き綴った手紙だった。文字の一文字たりとも気が抜いていなくて。高校の面接官が履歴書の文字で、どれだけ真面目に生徒が志望しているのか一目瞭然で分かるみたいに。
弓張月だって正しく理解した。
こいつは、手紙の主は弓張月に強い関心を抱いている。名前は、どこだろう。探すまでもなく。そいつが誰なのかは検討がついている。苅宿でないとするならば、それはたった一人しかいない。
『――八ツ橋杏』
バッ、と首を新たなクラスメイトに向ける。
だけど八ツ橋は顔全体を紅潮させると、フイッと冷たくそっぽを向いてしまう。つれないその態度から確信を得る。
この手紙こそ――
果 た し 状 だ。
間違いない。
奴はずっと復讐の剣を磨いて機会を狙っていた。だが、敵が不透明であった。だからうさぎという情報提供者から、勝てるだけの材料を得たのだ。
『あなたは私のことなんて知らないでしょう』という文面からも、それを察することができる。軽く挑発めいている。こちらが有利であると、わざわざ主張してくるあたりに、確固たる自信が垣間見える。
なんてことだ。
八ツ橋のことはそこまで警戒していないから、完全に後手に回ってしまった。一体どんな罠を仕掛けているのやら。
『生まれて初めてこんな手紙を書いて、とてもドキドキしています』も、武者震いをしている。これから始まるであろう戦いに精神が高揚しているということだろう。
『今日の放課後、二人きりで会えないでしょうか?』は、邪魔者がいない場所で、決闘しましょうということだ。
苅宿と全く手口が一緒。
だが八ツ橋は経験値がまるで違う。今度は前回のようにうまくいくとは考えにくい。一体だろうすれば――。廊下に見知った顔の、頼れる元相棒の顔が見える。
「忍! 助けてくれ! 今日の放課後空いているか? 俺とずっと一緒にいてくれ!」
飛び跳ねるみたいに距離を詰めた弓張月の顎を、正確無比なアッパーカットで忍は突き上げる。腰の入ったいいパンチだ。不意打ちの一撃であっても、空気を纏わせた一撃の容赦のなさは忍らしい。
「な……いきなりこんなところで……。もっと人がいないところだったら……私だって……」
「誤解だ……。こ、これを見て……くれ……」
意識が混濁する中。
震える手を掲げてなんとか手紙を忍に渡す。苅宿よりかは忍の方が強い。ならば最初に声をかけるべきだろう。用心棒として、なんとか弓張月の背中を守ってほしい。
「なに……これ……?」
高校時代に培ったであろう、忍の仮面が剥がれかかっている。底冷えするような音程で呟くのを拾ったのは弓張月だけでなく。いつの間にやら横にいて手紙を盗み見していた苅宿も同様だったようだ。
「ラブ……レター……やね。どう見ても」
「ああ。そうだ。これはラブレターという名の果たし状だ。だから二人とも俺と一緒に戦って欲しい。そうしてくれると心強い」
ん? とまるで状況を掴みきれていない忍の手を取る苅宿。彼女は、ちょっと待っててや。女子だけで作戦タイム、とか言ってこそこそと何か囁き始めた。
え、どういうこと? ……つまり……弓張月さんはこれを果たし状だと……そうね。だとしたら好都合……共同戦線をはりましょう……今だけは……。
断片的な会話しか聴こえてこないが、なにやら二人共乗り気のようで安心した。
「大丈夫や! 弓張月さんの周りは、ウチがしっかりガードしとくわ。忍さんと一緒に」
「……そうね。苅宿さんにはひどいことをしてしまったけど、これからは仲良くしましょう」
何だかバチバチと両者の間に火花みたいなものが幻視できるが、それはきっと目の錯覚。滾っているのだろう。やはり古今東西、昔敵どうしであった者たちが手を取りあうのに手っ取り早いのは、共通の敵を見つけることなのだろうか。
とてもやる気に満ち満ちている。
弓張月はよし! と腕組みしながら満足げに唸る。それを正視している忍と苅宿の複雑そうな表情をよそに、予鈴のチャイムが始まりを告げる。
弓張月道影の――黒春高校ラック科生徒としての初めての一日が。
完
 




