luck.37 またお前か
急停止させた電車から這い出てきた苅宿。
薄氷のようなガラスを割って歩いてきた彼女は、何から話せばいいのか分からないようだった。安心させるためにも、弓張月から切り出す。
「間に合ってよかった。お前の荷物のも実家に送る前にちゃんと止めておいたから、後は安心して帰るだけだな」
「そんな……学校に帰ってもなにもできへんし……」
「ラック、やるんだろ?」
「でも……」
辟易するような彼女の瞳からは涙の跡が見えた。
一瞬硬直してしまった弓張月の視線に目敏く気づくと、ゴシゴシと柔らかそうな肌から透明な筋をぬぐい去る。
涙を流してしまうぐらい辛い思いをしたっていうのに、弓張月はなにをやっているのか。慰めの言葉一つも満足にかけられない不器用さが腹ただしい。
なんていうか。
意地悪をしたくなるのは、苅宿が一言の別れもなしに黒春高校を去ろうとしたせいだ。残された人間がどれだけ辛いのか。自分が忍に対してやってしまったことが、どれだけ最悪なのか身をもって味わってしまった。
だけどきっと、苅宿も自分に心配かけないようにしてくれたんだよな。
「これ以上もったいぶるのも性格悪いよな……。なあ、簡単なことなんだよ。お前の退学処分を無効にするなんてことは。考えるまでもなく、小学生ですら一瞬で解ってしまう解決法があるんだ」
「え?」
「そもそも、なんでお前が退学になったんだよ。『ラック科の人間が普通科の人間と、無断で野試合したから』だろ? だったら、『ラック科の人間同士が野試合』したことにすれば、お前は退学せずに済むだろ?」
「そんなことできるわけ――」
「そんなことが、できたんだからしょうがないだろ。まあ始業式でサボった時に、校長先生とは顔見知りになったからなあ。あの時から骨のある奴だって言われて、俺は気に入られたみたいだから、交渉はそれほど難しくなかったよ」
校長先生はこの件をいかに大事にせずに処理しようか、頭を抱えていた。
映像が校内外に知れ渡った今、事の発端である苅宿を排除することで事態を収集するのが一番手っ取り早い。
だが、そんなことをすれば、こっちは黙っていない! と弓張月は校長室の机を叩いた。学校運営資金の私的流用の件を、世間に暴露するぞ、と言葉の端々に仄めかしたらあちらは素直に折れてくれた。
美少女フィギュアが机の引き出しからゴロゴロ出てきた時は目を剥いたが、うさぎの情報通りだった。
「苅宿や忍とのラック試合は、俺がラック科に転科する為の試合ってことで片がついたみたいだしな。あの動画が生徒間だけじゃなくて、保護者にまで出回ったせいで色々火消しが大変だったみたいけど、最終的には丸く収まったみたいで良かった、良かった」
「完全に人ごとみたいな言い方やな……校長先生が可愛そうやわ」
校長先生の正体について苅宿にも話してやろうか。
いや、情報を握る人間は少ない方がいい。特に苅宿は口が固くとも、表情に出やすいからな。悪気がなくとも秘匿すべき情報を漏らしてしまう危険性が高い。
「情報戦とか、保護者会で発言権の強い人間への根回しだとか、そういう感じの駆け引きのいろはが、高校生の俺にあるわけないしな。っていうかやったとしても絶対舐められるし。適材適所ってやつだろ。まあ、そのせいで俺は半ば校長先生の命令には絶対遵守の奴隷みたいな存在になったんだけど、そんなもんは些細なことだ」
全部虚言で、実は校長先生を傀儡にできるだけの脅し材料は手持ちにあるけどな。
「全然些細やないんやけど……。重いんやけど。ウチのせいでこんなことになって……」
「ああ、そうだな。ぶっちゃけ、全部お前のせいだな」
そもそも苅宿が弓張月のことを襲わなかったら、危ない橋を何度も渡らずに済んでいた。平穏に満ちた、何の変哲もない学校生活を送れたはずだったんだ。
「そして――全部お前のおかげだ」
本当に弓張月がラックに関わり合いたくなかったのなら、黒春高校になど入学していない。ラック科が存在しない高校だって当然存在している。それなのに過去の実績がある黒春高校に入学したのは――未練があったからだ。
「きっと苅宿に会えてなかったら、またラックをやりはじめようだなんて決意できなかったよ。だから……ありがとな……」
「……なんか……らしくないやん。そんな言い方されると……なんて言ったらいいか……」
苅宿は逡巡したように間を作ると、
「…………なあ、ウチはラックをやっていいんやろうか?」
「いっ――いいに決まってるだろ。っていうか俺が誰のために――」
「それや! それが……嫌……なんや……。だって、ウチのせいでまた誰かが傷ついてしまったら……」
苅宿は所在なさげに瞳を揺らす。
「あー、なるほどね。自分のせいで、俺が犠牲になってしまうのが嫌だと。そういうことか。うーん……」
わざとらしく顎に手を当てて考え、
「甘いんだよ、自意識過剰女」
ふん、と鼻で笑う。
「この世に、誰にも迷惑をかけずにも生きている人間がいるか? 他人にしわ寄せがいったとしても、優先しなきゃいけないことだってあるだろ」
苅宿は過剰に周りからの視線を気にしている。
それはきっと、八ツ橋にどのぐらいの間からは知らないが、長期的に初心者であることを詰られたからだろう。両親の離婚のことだって、弓張月は詳細については知らないが、もしかしたら関係あるかもしれない。
「他人からしたらガラクタ同然の気持ちだって、自分にとったら最高の宝物だって思える時だってある。それが……きっと『夢』ってやつなんだ! 誰かや何かに邪魔されたところで、いつまでもごちゃごちゃ考えるなよ。お前がしたいことをすればいいんだ」
人の価値観はそれぞれで。
だから衝突が起こるけれど、結局何が大事なのかは自分自身が決めることだ。他人が横から口出すようなことじゃない。
だから苅宿には自信を持って欲しい。
「……そうやない。ウチが最も嫌なのは弓張月さんに迷惑かけることで……」
苅宿には弓張月の言葉が届かない。
偶像崇拝とまではいかないが、彼女からは憧憬の念を抱かれていたらしい。それなのに、実際邂逅してみればこんなにも情けない人間だったからきっと失望してしまっただろう。
だけどそんなもんじゃない。
弓張月道影という人間は、もっともっと駄目な人間だ。
「俺はさあ。お前を利用していたんだよ。自分より初心者であるお前だったら、全部上から目線でいろいろ言えるだろ。自分優勢で命令できるから、何かと楽だった。『この俺が直々に初心者に教えてやっている』って、そんな優越感に浸れるからな」
自嘲するのは、そうすれば傷が和らぐからだ。
許してもらえるって期待しているからだ。
「でも――教えられていたのは俺の方だったんだ……」
そんなどうしようもない人間に、苅宿はたくさんのことを、言葉や行動で教えてくれた。
「お前が、ラックの面白さを久しぶりに教えてくれたんだ」
男子寮に植えられている桜が散っている中。
呼び出された時に、勢い余ってラックをやってしまった。無我夢中でどうやって勝てるか、必死に策を模索した。
「お前が、初心者だって経験者に勝てることを教えてくれたんだ」
八ツ橋との戦いは、苅宿にっては未体験なことが多かっただろう。それなのに弓張月を信じて戦ってくれた。種子が全く効かない相手にだって怯まずに立ち向かって、勝利をもぎ取った。
「お前が、石につまづいても立ち上がれる強さを教えてくれたんだ」
忍との試合は絶望的だった。勝てる見込みなんてなかった。それなのに、最後の最後まで自分の力で戦った。壁にぶつかっていった。
「お前が、大切なことを全部教えてくれたんだよ」
師匠気取りでいたはずなのに、成長していたのは自分だった。それが恥ずかしいけれど、それ以上に嬉しかった。
「だから一緒に帰ろう。そして、肩を付け合わせるみたいに隣合って、同じ道を歩いていこうよ」
「でも、弓張月さんには忍さんだっているし……」
なんのことを言っているのか分からない。
だが、他の誰かじゃない――
「お前じゃなきゃダメなんだよ!!」
世界が真っ白に染め上がる。
何やらとんでもないことを口走った気がしないでもないが、その迂闊な発言すらも打ち消してしまうような陽光が網膜を刺激する。
「……うん」
コクン、と首肯した苅宿はとびっきりの笑顔だった。だけど翳りがあるようにも見えて、その瞳にはうっすら透明な膜が張っていた。まだ泣いているのか、と覗き込んでいると、その黒い鏡に何やらわらわらと不吉な人影が映る。
「またお前か!」
それらの影は、無駄に仕事熱心な駅員さん達。
屈強そうな方々は、包囲網を敷いていて逃げられるような状況ではない。しかも数人がかりで抑えられて、まるで凶悪犯罪者をとっ捕まえるよう。パシャパシャ、と聞こえるのは誰かのカメラのシャッター音か。
「うおっ! ちょ! 違う! いや、違わないけど、誰か……誰か助けてください!! っていうか苅宿泣いてないで助けろ!」
なにぃ、女の子を泣かせてるだと。電車のガラスを壊すだけでは飽き足らず、そんなことまで! 最低のクズだなっ! とか鼻息荒くして駅員が正義感を更に燃やした。
もう……どうにでもしてくれ……。




