luck.33 裏切り者は夢をみない
東校舎と西校舎を繋ぐ渡り廊下付近。
影が交錯するそこは、特に何かがあるわけではなく。あまり生徒が行き来しないからこそ、話し合いをするには格好の場所だった。
部室に後輩を残して、弓張月は忍と二人きり。
情緒不安定な弓張月の精神を落ち着かせるために連れ出した、ということになっている。そう、おかしいのは、間違っているのは弓張月なのだ。少なくとも忍の認識では。
「弓張月、どうしてあんなことを……」
気遣うような瞳。
咀嚼するみたいに口をもごもごさせているのは、言葉を選んでいるから。さっきみたいに癇癪を起こされた堪らない。だから精一杯配慮している。
どうして、こうなったんだろう。
忍とは目標が同じだった。
ペラペラ喋りたがらないタイプの忍と、会話をポンポン応酬したことはあまりない。だけど、言葉を介さなくてもただそこにいるだけで、きっと弓張月の全部を分かってくれると思った。
以心伝心。
それができてるって確信していた。
だけど、結局怖かっただけだったんだ。
心象を言語化して齟齬が発生したりなんかしてしまったら、互いのズレに気づいてしまうから。そしたら昔のような仲が瓦解してしまう。そう思考してしまうと、一歩を踏み出すことに躊躇してしまっていた。
もっと早く相談すればよかった。
部活の内情を忍に詳しく話せば。
そして協力を仰ぐことをしていれば、あんな風に忍が激情することもなかったんだろう。一人で抱え込まずに全てを暴露していれば、こんなことには……。
「弓張月、全部話して」
何もかも諦めようとしていたのに。
あんなことをしでかしてしまった直後なのに。
それでも忍は柔和な口調で、
「どんなことだって、弓張月の言う言葉だったら私は信じるよ」
弓張月が今最も欲していた言葉をくれた。
……そうだ。
今までがどうであったかなんて関係ない。どんなことだってやり直せることができる。今度は失敗しないように、何もかもぶっちゃけてしまえばいい。そうしなきゃ、きっと忍には自分のことを分かってもらえない。
そんな当たり前だけど、誰もができないこと。
それを忍が自らかってでてくれた。
衝突して傷ついてしまうかもしれないのに。
弓張月との関係の修復を望んでくれたのだ。
そんな……。
そんな忍だからこそ、弓張月は――
「くっだらねぇーよな。ラックなんて」
一切の加減なく、彼女の心を踏みにじることができる。
「え?」
「だ・か・ら! くっだらねぇーって言ってんだよ。だいたいさあ、苦労してるのって俺だけだろ? 顧問はろくに部活に来ないし、後輩はラック弱い割には練習しないし。そういうクズをまとめる俺の気持ちも考えろよなあ」
悪いのは全部後輩達。
そう主張すれば、弓張月の濡れ衣は晴らせるだろう。だが、そうなったら後輩達に白羽の矢が突き刺さる。
そしたら堪え性のない後輩達は部をやめてしまうだろう。
彼らは面白おかしく話せる部室ならば、別にラックじゃなくてもいいのだ。
そうなったら、廃部してしまう。
忍の夢の扉が固く閉ざされてしまう。
「俺一人が頑張ったってどうにもならないじゃん。足でまといの部員は言うことは聴かない。だったらさ、これ以上ラック部に居続ける理由なんてないだろ」
弓張月道影は、ラック部にとって『敵』なんだ。
今こうして忍を突っぱねることができれば、理想的なチームができあがるだろう。弓張月さえいなければ、もっとみんな伸び伸びラックができる。
そして、忍もシングルスで大会登録してくれるだろう。
チャンスはあと一年以上もある。
弓張月のような足でまといさえいなければ、忍にようやくスポットライトが浴びせられることができる。
「ああ、そうそう。馬鹿と違って俺推薦とかもらえるぐらい成績はいいからさ。推薦ももらえそうなんだよねぇ! はっ、大体ラック部に入ったのも、内申書目的だしさ。全国大会? どうでもいいよ、そんなもの? 出場したところで、何か意味なんてあるの?」
ここで『努力すれば夢は叶うよ! だからさ、それまで待っててくれないかな』とか、図太く懇願することなど弓張月にはできない。
中学の、餓鬼である弓張月ですら、今の時期がどれだけ重要なのかぐらい分かる。今棒に振れば、忍のラックの道が閉ざされるやもしれない。いくら才能があっても実績を残さなければ、有名高に推薦をもらうことは難しくなる。
実力もなく口先だけで夢を語るような、そんな救いようのない初心者である弓張月。そんな奴にだってできることがある。忍の道を切り開いてやることが、そんな大層なことを成し遂げることができるのだ。
どちらの将来に価値があるか。
天秤にかけるまでもなく。
質問した100人中100人が、忍の才覚を評価するだろう。
だから、きっと弓張月の歩む方向は間違っちゃいない。
夢の理解者と敵対することになったとしても。
学校で唯一のしゃべり相手と、これから一生口を聴けなくなったとしても。
同じ道を選んだ人間を裏切ることになったとしても。
それでも、守りたいものがある。
たった――それだけのことなんだ。
「ずっと……信じてたのに。それが……あなたの本性なんだね……」
冷たく突き放すような声音は、望んだこと。
それなのに、胸を抉るみたいに突き刺さって。
トゲが刺さったかのように、ジワジワといつまでも痛かった。
「さようなら」
忍の表情を――中学で見納めになるであろう彼女の顔を直視することができなかった。激怒していたのか、悲嘆していたのか、それともようやく厄介者を葬り去ることができて清々していたのか。
ともかくそんなものはどうでもいい。
弓張月はもう、ラックなんてくだらない競技一生やらない。誰かの夢を犠牲にする夢なんて、そんな最低の競技なんて――
「忍!」
附せいていた顔をバッ、と持ち上げる。
だけど、そこにはもう誰もいなくて。
弓張月が独りぼっちで叫ぶだけ。
彼女はなんの未練もなく立ち去ったというのに、今、弓張月は何を思って何を言おうとしたのか。
なんて。
なんて……嫌な人間なんだ。
この期に及んでもまだ、忍の強さに、温情に、縋りつこうというのか。恥知らずにもほどがあった。有終の美ぐらい飾り立てなければならないのに。
もう、彼女は一生届かない存在になったというのに。
それなのに、まだ弓張月には――ふと、手に持っているものに気がついた。今の今まで、まだラックの資料を握りつぶしていることを思い出した。
ラックの能力は人それぞれ。
例えば、顕現化する能力ならば、まず想像を働かすことが重要になる。どんな形状で、どんな速度で敵に攻撃するのか。それを頭の中でより具体的に考え、それを反復させる。カメラで顕現化している時の映像を見せ、脳内との誤差をその都度修正する。
それによって、よりスムーズに能力を駆使できる……みたいに。それぞれの特性を生かした練習方法があるのだ。
部員一人一人の独自の練習メニューを記載したその紙を、弓張月は滅茶苦茶に破り捨てる。こんなものもう必要ないものだから。
一陣の風によって紙くずたちは、校舎の間を舞い上がる。夢の欠片は空の彼方へ、散り散りになって飛んでいった。