luck.32 弱者は強者に寄生する
弓張月は部室の前で棒立ちになっていた。
野外に設置されている部室棟。
手に持っているのは、ラックの資料。
廃部してしまうことを危惧するぐらい、うちのラック部は切迫している。資料はその問題を打開するためのものだ。
主な原因は、部員の少なさと向上心の低さだろう。
ラック部の公式試合での戦績は散々なもの。だから運動神経があるものは、他の部活動に取られてしまう。部員が少なく顧問の先生もラックにあまり詳しくないので、指導するための指揮がとれない。
指導教員の足は自然とラック部から遠ざかり、部室は無法地帯と化す。ギャハハ、と笑い声が部室の外にまで響く。隣の部室を使っているサッカー部が怪訝な顔をしながら、道具を持ち出していた。
「すいません」
と、サッカー部員に聴こえないだろう小言で謝罪する。
弓張月には、猿みたいに騒ぐ彼らをまとめることができない。この騒々しさを保ち続ける彼らがいれば、もしラックに興味があって入部を視野に入れてくれる子も足早に立ち去ってしまうだろう。
どうにかしたい。
先輩たちがいる時はそうでもなかった。
だが、威厳のある彼らはもういない。
ラック部に三年生はいない。不作だったとかなんとかで、少し部員がいたらしいが、全員退部したらしい。同級生が少なければ、筐が狭くて部活動はやりづらかったのだろう。
弓張月だってそうだ。
一応、部長を任されてはいる。
だがそれは消去法で。
二年生は弓張月と、副部長を務める忍しかいない。他の部員は有象無象の一年生で、お菓子や飲み物を部室に毎日散らかす。それを掃除するのは弓張月の仕事で、彼らがラックの練習をやることはほとんどない。
だが、一年生たちの意欲を引き出す方法はある……はず。
その為に徹夜で要点をまとめた資料だった――なのに、その紙の束をバサリと落としてしまう。
「部長ってさ、超ラック弱くね!? なんであれで部長務めてんの? マジ、ラック舐めすぎだわー」
「ちょ、お前が言うなってぇーの、ブハハハハハハハハ」
部室と野外を隔てた壁から、隠そうともしない大声が響く。
落ちた紙の音であちらに気配を悟られないか動揺するが、どうやら自分達の話に夢中なのか。全然気が付かずに愚痴を続ける。
「俺らは俺らで楽しくやってるのにぃ、ああいう熱血バカがいると萎えるわぁ~。『俺は全国大会に出場する』『その為に、みんな頑張ろうよ!』……糞笑える。何真顔で言ってんの? ヤクでもきめてんじゃねぇーの?」
「そうだよなあ、ほんとうぜーよな。中学でラック始めて勝てるわけねぇーじゃん。ドリーマ過ぎてやべぇええ。こえぇーつーの」
ラックの資料を拾わなきゃ。
これは彼らの為に制作したもの。自作なのだ。他のどこにもない資料で、部員たち専用のもの。
顧問の先生にあれほどの啖呵を切って、守りきったものだ。大切に扱わなくちゃいけない。それなのに、手に持った瞬間、ぐちゃぐちゃにしてしまう。力が、勝手に入る。
拳を握ってしまう。
怒ってはだめだ。
ここで沸点を越えて自分のやりたいようにやっても、なにもいい結果なんて残せない。我慢しなきゃ。彼らの言い分だって一理ある。そうだ。弓張月が聴かなかったことにすれば、まだどうとでもなる。
だって発散してしまったら、それこそみんな本当にバラバラになってしまう。嫌われてしまうのは仕方ない。弓張月は部長だ。顧問の先生がしっかりしないから、最も指示を出すのは弓張月。槍玉に挙げられるのは必至。
「そんなにラックやりてぇーんだったら、うちみたいな弱小中学じゃなくて、もっと強豪校に行けば――あっ、弱いから他の中学行ってもレギュラーなれないか。ああ、だからうちみたいなところで偉そうにふんぞり返ってんだ。わりぃわりぃ。核心ついちゃったわー、俺。マジ頭良すぎだわー」
逃げなきゃ。
そして、笑顔でみんなにラックをやろう! と誘えばいい。全部、弓張月の指導方法が悪かったんだ。だから――
「でもさ、天光先輩もウザくね?」
ガクン、と膝から崩れ落ちる。
「あっ、わかるぅ。部長ほどじぇねぇけどさー。『私はあなた達なんかと違います』みたいな顔しててマジうぜぇー。大体ラックなんか強くたって将来なんの役にも立たねぇーし」
「そもそもあの人ほんとに強いの? 弓張月とダブルス組んでて実欲良く分からないし。なんでシングルス出ないの?」
「やっぱあれじゃねぇ? 化けの皮が剥がれるのが嫌だから、弓張月と一緒にいるんじゃねぇ。あの人みたいに弱い人と一緒にいれば、自分の強さが際立つじゃん」
「うわ、それすげー卑怯じゃん。じゃあ、俺も弓張月とダブルス組みてぇーわ。って、頼まれたってあんな奴と組みたくねぇーけど。ギャハハハハハハ」
空気を切り裂いたのは悲鳴。
部室の中にいる女子生徒が叫んだものだと気がついたのは、弓張月が部員の一人をぶん殴ってしばらくしてから。
他の部員からいつの間にか羽交い締めにされていた。
記憶が飛んでいる。
荒い気息を撒き散らしている弓張月は、全身が痛い。肌が熱いのは引っかき傷とか、殴られた箇所。部室のドアや椅子やロッカー窓など、あらゆるものが破損している。そのほとんどは弓張月がやったもの。……らしい。
頭の片隅に、自分がやったものだという記憶の残滓が残っている。
ざっけんな――クソ――だとか倒された男子部員は喚きながら、抵抗できそうもない弓張月に拳を振り上げ――
「何を……?」
パキン、とガラスを踏み割る音がする。
そこには、天光忍が蒼然とした表情で立っていた。
すると、多勢に無勢で弓張月をボコ殴りにしようとしていた奴が、
「た、助けてください! 天光先輩!! 聖堂華中学に負けたばっかりだからって、弓張月先輩が腹いせに僕たちのことを……!!」
弓張月に殴られた頬に手を当てながら、そんな戯言を訴える。
視界が怒りでブラックアウトしそうになる。
「ふざけ――」
パァン、とクラッカーが鳴るみたいな音を響かせる。
それは――忍が弓張月の頬を叩いた音だった。信じられなくて、ヨロヨロと蹈鞴を踏んでしまう。
「なんでそんなことを……確かに私たちは惨敗したけど、それを部員にあたるなんて。どうしてそんなひどいことができるの? どんな高いハードルが合ったって、みんなで手をつないで乗り越えようよ……」
副部長である忍は、ラック部ではお手本になるべき先輩。だからこそ、秩序を乱す人間は許せなかいのだろう。
たとえ、それが弓張月であっても。
それはとてもとても正しいことだ。
「私たち、仲間じゃなかったの!?」
ば・あ・か、と声に出さず、口の動きだけで部員が馬鹿にする。忍からは死角で、絶対に見えないところから話すそいつは得意気。他の部員たちも必死になって笑うのを我慢している。
部の異常さに気がつかないのは忍だけで。
ここでまた部員たちに殴りかかってしまったら、あいつらの思う壺。だから手を出すことがない。なんて素晴らしいチームワークなんだろう。試合では決して見られない最高の共同戦線。息の合った攻撃だ。
だけど――『仲間』って、『チームメイト』ってどんな意味だったけ? 日本語の単語の定義すら満足に思い出せないほど、今の自分は混乱しているのか。
「ハハハハハハハハハハハハ」
誰かが笑っている。
きっと、部員の誰かで。
思惑通りに事が運んで心底嬉しんだろうなって胸中で毒づいていたら、それは――自分だった。二度と、もう二度と同じ形には復元できないガラスの破片に写りこんだのは、高笑いする弓張月の顔貌。
景色が――歪む。
ああ。
そうか。
心に許容範囲以上の負荷がかかると、人間は笑うことしかできない。そんな時があるんだなって、まるで他人事のように思った。そう思うことしか、今の弓張月にはできなかった。