luck.31 別世界の女帝
「聞いているのか! 弓張月!」
職員室の角に設置されている個室――生徒指導室。
隔離されている部屋に木霊するのは、駈狐中学の担任教師。
ラック部の顧問でもある彼は、大きな声を発声すればするほど、こちらが気圧されると思っているようだった。
壁のすぐ外にいる先生たちにも聞こえていることだろう。
夏休みに突入している時期なので、他の生徒達はそこまでいない。いるのは夏の大会の練習を行っている部活動の生徒。もしくは補修で強制的に学校へ連行されてい方々だろう。
ふあぁああ、と弓張月は欠伸をすると、
「聞いてまーす」
徹夜でラックに関する資料をまとめていたから眠いのだ。さっきからお前の生活態度がどうたら、もっとラック部の部長としての自覚とかだとか、要領の得ない抽象的な問題指摘しかしないので、更に睡眠欲が強まる。
しかも同じ説教を繰り返すものだから、先生の記憶力を疑う。この人は頭が悪すぎる。結局何が言いたのか、何を直して欲しいのか、要点だけ紙にまとめて提出して欲しい。口頭でまともに会話できないんだったら、それが一番なのだ。
放課後はラック部の監督をしなきゃいけないというのに。
「いいか。さっきから言っているが、ラック部はどうなってるんだ。お前が部長なんだからもっとしっかりやってもらわないと困るんだ。分かるよな?」
「俺はちゃんと練習メニューを考えてます。それより生徒の指導は先生の仕事なんですよね。先生がちゃんと部活を見に来ないから、後輩達もたるんでると思います。先生、サボらないでくださいよ」
「ふっ、ふざけるな! 私だって忙しいんだ! だいたいなんだその口の利き方は! それが年上に対する態度か! もっと敬う言葉がでないのか! 私が学生の頃はなあ、そんな粗暴な口ぶりで話す奴なんていなかったぞ」
図星を突かれて、責任逃れするためのボキャブラリーのこの低さ。国語教師とは思えない彼を、尊敬出来る人間なんているのだろうか。こっちだって本当は敬語なんて使いたくないのに、我慢してあげてるんだけどな。最低限の譲歩はしているつもりだ。
先生だって、せめて一言でもいいからすまん、だとかワンクッション置いて、だがお前にも問題あるよな、と言葉を継いでくれれば、こっちも少しは本腰入れて話に耳を傾けるのに。
弓張月の人生の先輩なはずなのに、どうしてそんなことも分からないんだろう。どれだけ無駄な寿命の浪費の仕方をしたのか。
「天光がこのままでもいいのか!?」
「……忍? どういうことですか?」
「あいつが……シングルスで大会に出ようとしない件についてだ」
忍の戦闘スタイルは、シングルスでもダブルスのどちらでも遺憾なく発揮できるはず。だが、何故か彼女は断固としてシングルスをやりたがらなかった。
彼女自身は負けたことがない。
だが、団体戦しか出場しない忍と弓張月だけが勝利を収めても、他のメンバーが敗北してしまえばトーナメントを勝ち進めることはできない。弱小中学として名を馳せている我がラック部。万年一回戦負けがお決まり。
夏の大会でも聖堂華中学に敗退したばかりだ。
あまりにも弱すぎて。
だからこそ、天光忍という逸材の名は全国でも轟いているのだろう。一部のラック関係者の中では『無冠の女帝』とまで称せられている彼女には、二年生の時点で既に高校推薦の話が飛び込んでいるらしい。
だから他の中学のラック部から引き抜きの話があるのも当然。それほどまでに忍は引く手あまたの人気者。中学からラックを始めているのに、無敗という戦績と、驚異的な戦闘を見せられれば、誰もが虜になるだろう。
「なあ、弓張月。お前からも説得してくれないか? あいつがシングルスに出てさえしてくれれば、我がラック部も安泰だ。もっと部活動生も入部してくれるだろう。もしもこのまま廃部なんてなったら、赤っ恥もいいところだ」
「俺だって何回か言いましたよ。だけど、シングルスはやらないの一点張りで、取り付く島がないんです」
なるほど。
なんでこんなにも先生が意固地になっているか、なんとなく察しはついた。
恐らく、圧力をかけられている。
もっと上の、教頭だとか校長とかに、『どうして天光忍という生徒は、大会でもっといい記録を出さないのか』と、問いただされたりしたのだろう。
取ってつけたように、部活動存続の件を引き合いに出している。だが、本音は、『恥をかきたくない』という部分。どうやら随分、上からの評価を気にしているようだ。
「いい加減、下手な嘘はやめたらどうだ」
ふー、と先生はわざとらしく嘆息をつくと、
「弓張月、そろそろ腹を割って話そうじゃないか。そうするために、私はこうして二人きりになれる場所を設けたんだぞ」
「……すいません、言っている意味があまり分かりません」
「お前なんだろ? お前が天光にダブルスをやるように頼み込んでいるんだろ?」
顎をしゃくって、腕組みしながら、足を大幅に外開き。
そんな風にちょっと高圧的な態度をとっていた弓張月は、一瞬素にもどって、は? と先生の頭の中にまともな脳みそが詰まっているのかどうか不安になる。
「少し考えれば分かる。あの天光がダブルスをやる意味なんてない。とすれば、部の中で一番仲のいいお前が、天光にダブルスを強要している……そう結論づけてしまうだろ、周りから見たらそうだ。……もちろん、私は弓張月がそんなことをしないと信じている。だがな、周りはそうは思ってくれてない……かもしれないな」
その歯切れの悪さは、保険。
この場での話を弓張月が口外してしまった場合、自分はそんなこと思ってませんと言うための処世術。流石は教師。責任逃れする術を、一瞬にして思いつくなんて、とてもじゃないが弓張月程度じゃ真似できない。
「お前の高い目標は、あの場にいた私も知っている。生徒の夢を全力で応援するのが教師の仕事だ。だがな、現実を教えてあげるのも、また教師の責務なんだよ」
先生は半笑いしている。
あれは、そうだ。
弓張月はラック部に入部したその日。
先生は、部室に新入部員を集めて自己紹介をさせた。その中達には今もう卒業してしまった先輩たちもいて、端から順番に名前とクラスと、それから趣味や好きなもの、特技……そして目標や夢を語っていった。
各々が初々しい態度で、慎ましく。
抽象的に、頑張ります! とぐらいしか言わない簡易的な自己紹介だった。だが、
ほんわかしていた空気は、弓張月のたった一言で破砕された。
――俺の目標は、全国大会に出場することです!
世界が停止した。
その後、一斉に、特に先輩たちは大口を開けて爆笑した。腹を抱えて嘲弄する様を見やって、急激に紅潮した。自分はなんて恥さらしなことを口走ってしまったのかと、遅まきながら気がついた。
もう嫌だ。
明日からラック部の扉を開ける勇気さえ持てなくて、もう来ない方がいいんじゃないかって思って。
その場から早く逃げ出したかった。
中学からラックを始めた癖に、とか同級生の奴らからも忍び笑いが聴こえてきて。縮こまって、早く今日という厄日が終わらないかと待望していたら……。
――私の夢『も』、全国大会へ行くことです。
凛とした彼女の声に、誰もが言葉を失った。
あんなにも揶揄していた先輩方も、胸を張って宣言する彼女を唖然と見上げていた。みんなが座っている中、彼女は立ち上がっていて。その威風堂堂とした姿がとても大きく見えた。
自分とは何が違うのだろう。
同じ言葉なのに。
同じ場所で発したのに。
彼女も中学からラックを始めたのに。
それなのに、誰もが彼女に見惚れていた。そして、それが何かの偶然とかではなく、直感がそうさせたのだと知るのに時間はかからなかった。彼女はメキメキと頭角を現してきた。
彼女は強かった。
――自分なんかと違って。
「ところで弓張月、お前一年の頃から素晴らしい成績じゃないか。このまま順調なら指定校推薦も受けられるだろう。……分かるな? お前がもっとちゃんとした態度をとってさえしてくれれば、私も嫌なことをしなくて済むんだ」
指と指をガッチリ組んで、眉を顰める。
痛みを抱えているような眼差しだったが、どうにも胡散臭い。
「……脅しですか?」
内申書を楯にして、自分の言いなりになれと命令しているようにしか聞こえない。嫌なこと……? 本当は楽しんでいるんじゃないのか。自分の掌の中で足掻く生徒たちを見下して。
どうにも迷わずに切り出した言い方からして、この脅し文句に『慣れ』さえ見える。
「何をいきなり飛躍した言ってるんだ、お前は! いいか、私はただお前にとって最善の道を指し示しているだけだ。それを進むかどうかを決めるのは……お前の自由だぞ」
自己陶酔しているかのように宣う先生。いい事言ってあげた、生徒のためを思っている私は素晴らしい教師。ああ、痺れるなあ。……そんなことを考えていそうな、恍惚とした顔をする。
「最善の道。……そうですよね。頭のいい先生の言う通り、それが最高の選択だと思います」
先生は遠まわしに、ラックを辞めるように懇願している。いや、辞めるまではないが、勉強に集中しろと。芽が出るはずもないラックにかまけてないで、高校入学の為の準備を着々と進めろ。
そうしなければ、評価を下げる。
だが逆に、命令を遵守さえしていれば悪いようにはしない。ラック部から弓張月の足が遠ざかれば、忍は自然にシングルス参加に興味を示すだろう。正直、忍は強すぎてラック部から浮いている。
だから弓張月さえいなければ、忍は独りきりになって行動の選択が狭まる。ラックを続けるにはどうなるか、考えるまでもない。
そこまで読んでいるのだ。
「おお。分かってくれたか、弓張月」
先生は、自分の苦労が報われて嬉しそうだった。
出来の悪い生徒を説得するのに、こちらが思う以上に辟易していたのだろう。
忍が大会で結果を出せるようになれば、自分の立場も確固たるものになるから余計に嬉しいだろうな。
「だけど――俺は今まで通り、ラックを続けます。……今まで通りに」
なっ、と声を荒げる先生を横目に、弓張月は椅子から立ち上がる。
「まだ、話は終わってないぞ!」
「俺はもうあんたと話すことないんで。じゃ」
忍がなに考えているのか。
そんなの分からないし、思考する必要もない。
彼女は彼女で。
自分は自分。
ダブルスをやり続ける理由はいつかきっと、言いたい時が来たら教えてくれるだろう。
そして弓張月は、ラックを続けていたい。
それだけは確かなのだ。
たとえどれだけ立ちはだかる敵がいようとも、覚悟が消え入ることはない。
「少しは天光の立場になって考えてみろ! あいつがこんなこと本気で望んでいると思っているのか! お前はあいつの将来が台無しになっても構わないのか!? こんなこと先生だって言いたくなかった。だがな――」
興奮気味に鼻を大きく膨らませ、
「お前と天光じゃ、住んでる世界が違うんだよ!!」
そんな当たり前のことを絶叫する。
出会った時からそんなことぐらい頭で理解している。だけど、この体が動くのだ。意思とは関係なしに、それでも歩んでいきたい。立ち止まっている暇がないと、体が教えてくれるのだ。
胸に燻る炎が消えない限り、弓張月は前だけを見つめ続ける。
「――部活があるので失礼します」




