luck.30 最後の拳
壁に激突した忍は、起き上がる素振りを見せずに倒れこんだ。幾何学模様の罅と罅の間から、パラパラと壁の欠片が落下する。
「がっ……」
弓張月はガクンと膝を折ると、両手を地面につく。フルマラソンでもやった後かのような全身の倦怠感。同じ態勢でいることに耐え切れずに、ゴロンと横に転がる。
眼蓋を伝うナメクジみたいな汗のせいで、開眼することができない。
もう、一歩も動けないぐらいに消耗した。
ハァ、ハァ、と酸素を求めて顎を上げる。能力の応用についての構想は前々からあったのだが、他人に対して実践したのは初めてだった。一種の賭けだったのだが、うまくいって本当に良かっ――
ドォオン!! と、地面をハンマーで叩くような音が鳴る。
首だけを動かして、眼蓋の上の朝露みたいな汗を下に落とす。眇めながら正視すると、咳き込みながらも二足歩行してくる忍の姿がそこにはあった。
超速度で壁にぶつかったはずなのに、あそこまで動けるはずがない。まさか――圧縮した空気を、壁に激突する直前に背中に貼り付けたのか。そうすれば、衝撃を完全に殺すことはできないが、ある程度は遮断できる。
瞬時に判断できることじゃない。
やはり、付き合いが長いせいでこちらの手の内を読まれていたのか。
腹筋を使って忍に相対しようとするが、どうしても力が入らない。能力を使いすぎた。ラックの練習を一年間以上もサボっていたから、言い訳のしようもない。
対して、忍はバキバキと拳に圧縮した空気を纏わせる。
どうやら、あちらは戦闘続行できるだけの余力を持ち合わせているようだ。おぼつかない歩き方だが、悠然と近づいてくる。
もう戦う気力もない弓張月は、見下ろしてくる忍が繰り出される拳を避けることもできない。
ハッ、と諦観に満ちた笑いを漏らすと、乾坤一擲の拳を振り下ろされる。
だが――地面を裂くほどの威力のそれは、弓張月の顔面を掠らせただけだった。目測を誤ったのか。それともわざと外したのか分からない。
忍は弓張月に馬乗りになったまま、今度こそ胸部に拳を叩き込む。圧縮した空気を纏わせていないとはいえ、かなり強め。
がはっ、と唾の飛沫をピピッと横の地面に散らす。
「なんで……私を置いていっちゃたの?」
忍はか細い声を響かせる。
照明が少なく薄暗い『グレイヴ』の、暗澹たる雰囲気に似合った語調だが、忍のそんな声はあまり聴きたくなかった。
「私たち……友達じゃなかったの?」
中学時代。
最も仲良かった人間は誰かと問われれば、一瞬の躊躇もなく弓張月はこう答えるだろう。
――天光忍、だったと。
「友達?」
カーテンみたいに垂れる髪が睫毛にかかっていて、表情からは感情が悟りにくい。
だが、震える彼女の声音。
どう答えるかなんて決まっている。不安がっている彼女のことを、心から安心させてあげたい。だから、嘘偽りなんてひとかけらもなく、ただただ純粋に。中学時代から感じていることを正直に話そう。
もう、過去の罪に縛られる意味もなくなった。
だって――忍に手が届いたのだから。
「そんなわけねぇーだろ」