luck.03 小市民はいつも笑う
ラック科の校舎前。
ここまで間近で視たのは初めてだ。普通科とラック科の校舎は肉眼で確認できる距離以上の距離を、普段から感じていた。普通科の生徒は、ラック科に用事がなければ入ることはない。逆もまた然りで。だから、ラック科の生徒と顔合わせする機会はあまりない。
本来ならば始業式に顔を見ることぐらいはあっただろうが、生憎とサボってしまった。なので、弓張月がラック科の生徒を視る機会があるのは、男子寮から登下校する時と昼休みの間くらいなものだ。
ラック。
それは、『能力』を使用して他者と競うスポーツ競技を指す。
能力格闘技と解釈してもいい。オリンピック競技にも数えられるラックは、ここ日本でも超国民的スポーツとして楽しまれている。
黒春高校以外にも、ラック科のある高校は無数にあり、中学ではラックの部活がある学校は無数に存在している。そしてラック科のある高校は、毎年数度全国大会が開催されることとなっている。そこでいい結果を残すのが、ラック科の生徒の使命。だからこそ、その時期になるお否応なしに盛り上がる。
県予選はともかくとして、全国大会ともなると、テレビ中継もされる。そのぐらい人気のあるスポーツだ。特に新入生の入ったこの時期は、レギュラー争い等でドタバタしちえて何かと忙しいだろう。尤も、弓張月やうさぎといった普通科の生徒には全く関係のない話なのだが。
「ほんとうに、ここまでくる必要あったのか?」
「そうだよ。弓張月がどうしてもビデオを見たいって言うからこっちだっていつも協力してるんだから……。たまには危ない橋のお一つぐらい一緒に渡ってよ」
「いいけど、生徒会の人たちはいないんだよな」
「いないいない。今日は野外の清掃活動の打ち合わせを職員室でしてるから、生徒会室は無人だよ」
放課後。
登下校を始めた生徒たちの騒がしい声。吹奏楽部のちょっと外れた音程。陸上部の掛け声。野球部の金属バットで硬球を捉えた音などが鼓膜に響く。
ビデオを保管している場所は、ラック科校舎の一階にある生徒会室。
ということで、こうして生徒会役員であるうさぎの案内の元、とうとうラック校舎内へ足を踏み入れた。生徒会室からビデオを持ち出すのは、原則として禁止されている。だからこそのこの緊張感。見つかってしまったらどんな処分に処せられるか解らない。ダンボール箱に入りながら、隠密行動をとりたいぐらいだ。
――と、道案内してくれているうさぎが足を止める。
「ちょっと……やめてくれます? 苅宿さん」
階段横の影となってひと目のつかないところに、1人の女子生徒が倒れていた。
それを取り掛込むようにして、女子達が5、6人で立ち塞がっている。まるで逃げ場所を確保させまいとしているよう。そんな女子達の中でも一際目立つのは、リーダー格であろう女性。
彼女は息が詰まってしまうほどの――美女だった。
広げられた長い睫毛は、まるで蝶のよう。
氷点下の瞳は、どこまでも深い色をしていて底が見えない。
艶美な薄い唇をへの字に歪めているが、それもまた絵になってしまう。きっと、どんな表情をしていても、この心臓の早鐘を止めることはできないだろう。
感じるのは、圧倒的カリスマ性。
頂点に立つ人間として、生まれるべくして生まれたような容貌をしている。視線を引き剥がそうと思っても、うまく身体がいう事を聞いてくれない。後ろに従者のように控えている女子生徒は胡乱な瞳をしていて、彼女に仕えるのを至上の喜びと感じているようだった。まるで盲信する信者といった様子。
彼女を例えるなら、姫。
それも花や蝶よと育てられて調子に乗ってしまい、我が儘言い放題の悪女である姫といったところか。逆らおうと思っても、何故か命令を遵守してしまいそう。
彼女は腰にまで届く髪の毛先をくるくると丸めながら、
「私がちょっとバケツに蹴躓いただけで、そんなわざとらしく倒れて同情を引こうなんて……ほんとっ性格悪いですよね。そんな態度をとられたら、誰だって傷つきますよね」
「ウ、ウチは……そんなつもりや……」
「え? なに? 聞こえないんですけど。どうしたんですか? そんなに私と話したくないんですか?」
「ウチは――」
そう言ったきり、囲まれている女の子は押し黙ってしまう。あんな言い方をされたら、もう何も言えないだろう。取り巻き連中も、そうよ、八ツ橋さんに謝りなさいよ、といじるのに加勢している。
それにしても、あの性悪な美人は――
「八ツ橋杏。ラック科新入生の中でも、頭ひとつ飛び抜けた実力を持ってるらしいね」
あれが、か。
うさぎのボリュームを抑えた声を聴きながら、彼女の名を頭の中で反芻させる。
八ツ橋杏。
普通科生徒の中でも、噂が飛び交っているラック科の生徒だ。実力云々もあるだろうが、目鼻立ちが整っていて話題性十分なのだろう。
机に突っ伏す狸寝入りをしながら、クラスの連中とエア会話中に飛び交っていた奴だ。
「そして、あそこで倒れながら縮こまっちゃってるのは、苅宿渡真理。あの子はあんまり……というか断トツで下手糞な子だね。言っちゃ悪いけど」
あの哀れな女の子は、苅宿っていうのか。
それにしても、苅宿っていう奴は一体どんな過ちを犯してしまったのだろうか。
苅宿の膝には、ひっくり返ってしまっているバケツの水が滴っている。膝どころかスカートまで濡れてしまっていて、かなり悲惨なことになっている。青白い唇を、凍えるように噛み締めているのは水が冷たいというだけではないだろう。
圧倒的支配者に怯えているのだ。
苅宿は恥ずかしがり屋なのか、切り揃えられている前髪は瞳の半ばまでかかっている。
ウルウルと今にも落涙しそうな彼女は儚く、パチン、と泡が破裂するかのように今にも消え入りそう。
そして全体的にサイズが小さい。
きっと、女子高校生の平均身長をはるかに下回る小柄な身体。中学生どころか、小学生といっても通用しそうだ。文学少女という言葉が似合いそうな顔立ちをしていて、弓張月の庇護欲を誘う。どこまでも弱そうだ。小動物のような彼女が野に放たれとしたならば、一瞬で食物連鎖の餌食になりそう。
それなのに、矮小な彼女はギュッと拳を握った。
まるで――己を鼓舞するように。
膝を震わせながらだ。
何があったのかは知らないが、どう考えても泣き寝入りした方が得策だ。今はのらりくらりと八ツ橋達をかわせばいい。ごめんなさい、ってとにかく謝罪して、この場を切り抜けることだけを考えればいい。だが。脆弱な心の持ち主に見えた苅宿の心が、刈り取られることはなかった。
「そんなに……そんなに、ウチがラック科にいるのが気に食わんの? 八ツ橋さんには何にも迷惑かけてへんやん?」
おとなしくしているだけならば、八ツ橋達も苅宿のことを適度にいじって解散していただろう。でも、ささやかな反抗心は、火に油を注ぐことになった。
「あなたが、何もやっていないからですよ。何もやってこなかったからカンに障るんです。ラックを始めたのは、高校からって……あなたは、ラックを真剣にやっている全ての人間を侮辱しています!」
「初心者がラックを始めるのがそんなにあかんことなの? ウチかて……ラックやりたいんや!」
「あなたみたいに遊び半分で引っ掻き回されるなんていい迷惑なんですよ。さっさと普通科に転科届けを提出するか、自主退学でもしたらどうですか?」
「いやや!」
険悪な空気が充満する。
一色触発で、今にも取っ組み合いの喧嘩さえ発生しそうだ。
クイッと袖を後ろから引っ張られ、
「弓張月。早く行こう」
うさぎに小声でそう促される。
ああ、そっか。
よくよく考えみれば、完全に弓張月たちは部外者だった。わざわざ火の粉を被るために仲裁なんてしなくていい立場だった。どんな風に説得しようか逡巡していた弓張月は、とんだお人好しだ。
だが、それはただの押し付けの善意だった。
苅宿が助けを必要としているか否か。
それはご本人にしか分からない。本当に誰かの手が必要ならば、助けてーとかそれっぽいことを叫ぶだろう。だが、それがないということは、自分一人の力で切り抜けたい。きっとそういうことだろう。
混み合っている電車で、老人に席を譲ってみたら、年寄り扱いするんじゃない! と激高されたことがあった。
きっと、これもそういった類のもの。
そもそも、見ず知らずの他人のために何かするなんて柄じゃない。
魔が差して手をさし伸ばしたところで、どうせ助ける側も助けられる側もお互いに嫌な思いをするだけだ。
それに、女子達の諍いに男子が突っ込んだところでいい結果が生まれたことなど、経験上一度もない。彼女達には彼女達の世界がある。男子と女子には隔たりがあり、その壁をよじ登ったりしてはいけない。
それが暗黙の了解だ。
しかも、人間関係のスペシャリストとも称せられるべきうさぎですら、この件からは手を引いた方がいいと即決したのだ。その考えが間違っているとは思えない。それに、うさぎが言い出したことに弓張月は従うだけでいい。
仮に何か問題が起こったとしても、責任は二人分に分割されることになる。もしも何かってもうさぎに言われたから~とか、言葉を濁せばいい。
だから、心置きなくビデオを拝借に行くとしよう。
「そうだな。さっさと生徒会室に行こうか」
何も見なかったとばかりに、弓張月は心をリセットする。
朝の登校中。道端で転がっていた黒猫の死体を見て、うわー、朝っぱらから汚いものを見たなーと不快に思うだけ。誰もが眼を逸らして忘我する。昼頃にはどうでもいいことだと脳を空っぽにする。放課後にちょっと思い出して、道路にいたら気持ち悪いなー、と顔を歪める。
そんなレベルのお話。
関わる価値もないほどのものだ。
「……ウチは何をやっても上手くいかんくて。今まで何かをやり遂げたことなんてなかった。そんな半端なウチがラックをやって、もしかしたらまた途中で止めてしまうかもしれへん。それはウチが一番不安なことや」
何やらご高説をおっしゃているようだが、弓張月の耳に入ることはない。
胸中の大部分を占めているのは、ビデオの件だ。
暇つぶし程度に鑑賞しているのだが、黒春高校の女子生徒の可愛い子を探すのに役立っている。今日はどんな子が写っているのか楽しみだ。ああ、楽しみだなあ。
「だけど! 今度こそ諦めたくないんや! やっと……生まれてきてやっと……ウチは心の底からやりたいものに出会えた気がする! ……だからっ!」
いい加減、うるさくなってきた。
なんだよ、必死になって。キモイんだよ。
後ろ髪を引かれるものなどなく、次第に足を早める。一刻も早くこんなところからおさらばするために。
これ以上心をかき乱されたくない。
「いつか諦めなきゃあかん時がくるかも知れん。でもそれは……ボロボロになるまでやって、始めて吹っ切れるもんやないの。ましてや、誰かに強制されてラックを止めたくない! 誰に笑われたっていい! どんなことがあってもウチは、最後の最後まで絶対に諦めへん!」
だって、と苅宿は語調をさらに強めると、
「ウチは――全国大会に出場するんやから!」
ピタ、と弓張月の足が止まってしまう。
あ、と呆けるようにして口内を晒す。弓張月を、心配そうにおい! とうさぎが肩を揺すってくる。
だが、言葉を出すどころか、反応すらできない。今、自分はどんな顔をしているのだろうか。何も解らない。呼吸はちゃんとできているか。
何故か一瞬、地面がなくなったみたいに浮き足立つ。
無重力空間に引っ張り出されたかのようだった。
ヒリヒリと唇あたりが熱い。
なんで、今更こんな気持ちにならなければならないのだろうか。
同じように凍りついていた八ツ橋は眉を八の字に寄せる。
「……全国大会って……。よりにもよって、一年で一番弱いあんたがそれを言うんですか? 自分が今どれだけ恥ずかしいこと言ってるか分かってますか? ちょっと、頭おかしいんじゃないんですか?」
弓張月は再び歩き出す。
それは、さっきとは比較にならないほどの歩調の速さで。うさぎは追いつけない。やめとけ、と必死に制止する声が聴こえるが、そんなことはどうだっていい。
さっきとは逆方向へと進む。
苅宿達がいる階段横の方角へと急ぐ。
まったく忍ぶつもりもない足音に、彼女達ははっとなってこちらを注視する。
「く…………」
愉悦のあまり、唇の端が歪む。
口の隙間から抑えきれない声が漏れる。頬が痙攣するみたいにヒクヒクとしていたが、おさまりきれずにとうとう、
「くっ――あっはははははははははははははは!」
哄笑の大音声。
比喩でも誇張でもなく、抱腹絶倒する。
苅宿渡真理。
初見では面白みなどとは無縁の、接してみたら全然喋らなそう。結論からいうと滅茶苦茶つまらない女だと思いきや――とんでもない。
こいつ……とんでもなく、面白い女だ。
売れないお笑い芸人よりもよっぽどセンスがあるギャグを、こうも見事にかましてくれるなんて。
これはもう事態を観劇していた身としては、気持ちよく爆笑するしかない。
「ズブの素人が、全国大会だあ? 何ソレ? 超! 超! 超! カッケーじゃん!! ヒュー、すっげええええ。ドリーマーじゃん。俺、全力でお前のこと応援するよ!」
ビシッと親指を立てて、苅宿を激励する。
だが、当の本人は、何が何やら分からないといった様子で、ポカンとしたまま弓張月を凝視している。
他の、八ツ橋の取り巻きの女子生徒達は、いきなり大声で笑い出した変人に対して、完全にドン引きしているような面持ちだったが、苅宿はどこか違う。
例えるなら、そう。
――こんなことはありえない。
そんな確信を持ったような透明な瞳で、弓張月のことを見やっている。爆笑する闖入者を見て、一体どういう心境なのだろうか。やっぱり、思考が状況に追いついていないという表現が正しそうだ。
「……あなた……どこかで?」
軽く握った手を唇に当てて熟考しているのは、八ツ橋。
なんともお嬢様っぽい仕草。
育ちがいいように見えるのは伊達じゃないらしい。
弓張月のことを熱視線で見つめるその姿は、まさに恋を抱いた少女。
擽ったい限りだ。
どうやら登場の仕方があまりにも劇的だったので、とんでもない衝撃を受けたようだった。
モテるっていうのは存外悪くない気分なのだが、なんとも罪深いことなのだろうか。どこかで会ったことあります。ああ、きっとこれは運命の出会いです! そういった記憶の改竄をして、このままラブコメに発展しそうな勢いだ。
とまあ、なんとも幸福な未来予想図を脳裏で描いていると、取り巻き達が弓張月を訝しげな眼で見ながらざわざわと騒ぎ出す。おっと。どうやら彼女達にも惚れられてしまったらしい。こいつは、困ったなあ。
「あ、あの人。私知ってる。噂の痴漢魔よ」
「ああ、どこかで見たことあると思ったら、ラック科にさえ悪名轟いている、弓張月道影ね」
……うん。ですよねー。そんなオチだと思ってました。
弓張月は気を取り直して、
「理想が高いのは大いに結構。夢を見るのは個人の自由。だけどそっちの八ツ橋が言う通り。お前如きがそれを言うのはおかしいんだよなー」
知ったような口で指摘されたご本人は、つぶらな瞳を一瞬翳らせる。
だが、淡い色だった目の色が変わる。
「経験なし。実力なしのお前が、どれだけご大層な夢を語ったところで、それは中身がないスカスカな妄言にしか聞こえないんだよ、ヴァーカ!」
メラメラと、苛立ちの炎が瞳孔に宿る。
どうして部外者にここまで言われなきゃいけないのだと、さぞかし腹わたが煮えくり返っていることだろう。それも普通科の人間にだ。
「分かるか? 分からないだろうなーラック初心者のお前には。……ったくさ、弱い奴ほどよく吠えるっていうけど、お前はまさにその典型例だな」
初めは誰だって威勢がいいものだ。
無知だからこそ、どんな大言壮語だって公言できる。
だが、そんな口もすぐに聞けなくなる。
才能という壁にぶつかり。
どれだけ努力しても実らないという現実に打ちのめされ。
夢破れて後悔することになる。
だが、たったのそれだけで被害が済む訳では無い。
本人は別にいいだろう。
ああ、叶わない夢に挑戦することができた私って、なんて偉いんだろうと、思い出に浸ることができる。苛烈な過去話は話のネタになるから、笑いながら友達に自慢したりできる。
だが、そこでラックに真面目に取り組んでいる人間はどうなる。
団体行動をとる以上、少なからず初心者に、そして無能な人間に歩幅を合わせなければならない。その分自分が成長できるだけの時間が削られる。
どれだけ綺麗事を並べようとも、そんな実力のない身勝手な人間のせいで、多くの人間が被害を受けるという事実は変わらない。
「……実力のない初心者はな。ただそこにいるだけで、経験者に迷惑かけてんだよ」
ラックを高校から始める。
それが許されるのは才能のある人間だけだ。
普通に考えてありえない。
しかも部活じゃない。
こいつがいるのは学科なのだ。
ちょっとした思いつきで入りました! てへっと舌を出して許される愚行などでは決してない。
聞けば、苅宿は一番下手糞らしい。順当とはいえ、それがこれからどんな意味をもたらすのか想像力を働かせて欲しいものだ。
「まっ、俺は部外者だからこれ以上は無関係だろ。後は勝手にしろ。ただお前にはこれから無駄な努力をしてもらって、それから思いっきり挫折して欲しいなー。三度の飯より他人の不幸がうまく。見ているだけで幸福になれる俺としてはなあ」
そう言って、弓張月は今度こそこの場から急ぎ足で立ち去る。ぐちゃぐちゃに状況を好き勝手した。これは、言い逃げだ。苅宿どころか八ツ橋とかからも、横から出しゃばった弓張月に批難めいた瞳を向けられてもおかしくない。
だったら、さっさと逃げるが吉。
これから苅宿はどうなるか。
多分、この場に限ったことならばどうもならないだろう。
ちろり、と気になって少しだけ振り返る。
あれだけいきり立っていた八ツ橋は、すっかり毒気が抜けてしまっている。これから口論がヒートアップしようとした際に、弓張月が横入りしたから今更怒れないのだろう。白けたような面構えをしている。
だが、苅宿の激情の矛先は、完全に変わってしまったらしい。視界に消えるまで弓張月を見据えながら、色が変わるまで強烈に下唇噛み締めていた。




