luck.26 敗北者のハッピーエンド
――おやすみなさい。
そのありきたりの挨拶に畏怖を感じるようになったのは、いつ頃のころからだったのか。当の本人である苅宿ですら記憶にないほどに、ずっと昔からのことなんだろう。
苅宿渡真理の両親は既に離婚している。
それはきっと他の人間からすれば、へー、そうなんだ、お気の毒だね、とすぐさま流される事柄なのだろう。だが、一度は愛し合った仲の二人が、袂を分かつというのは、相当なものだ。
スッパリ、離婚しましょう! という風にはいかず。
苅宿が物心ついた時から、両親は不仲だった。
いつもいつも揉めていて。時には箸の持ち方が悪い、テレビの音量がうるさいなど、そんな些細なことで喧嘩するほどだった。修復するのは不可能で、まるで生き地獄だった。毎日毎日、二人は紙切れ一枚の関係に支配されていた。
でも――それでも苅宿はとても幸せだった。
だって、二人のことを愛していたから。
育ててくれたことは本当に心の底から感謝していた。
誕生日は欠かさず祝った。
母親の家事は積極的に手伝ったし。
仕事終わりの父親には肩もみをしたりもした。
そうやって楽しい時間を過ごしていたけれど、苅宿は夜中が怖かった。世界の全てが真っ黒に染まる夜がとても怖くて。両親から別々のタイミングで、おやすみなさいと言うのが怖かった。
何故なら両親は、苅宿が寝静まった頃を見計らって口喧嘩を始めるからだ。だが、皿を割る音や怒号が飛び交えば、子どもだろうが目が冴えてしまう。
高校入学した直後ですら、夜寝るのが怖かった。
目を閉じると、両親の呪いのような残響が聴こえてくるようで。何度も寝返りをうっていた。眠れるとしたら、それはイヤホンを付けている時。好きな音楽を聴いている時だけ、少しはその残響をかき消すことができた。
だが、完全に耳障りなノイズが霧消したのは、弓張月に邂逅してから。
彼と一緒にクタクタになるまでラックの練習をした後、筋肉疲労を抱えたままぐっすりと俯せになることができた。それがとても嬉しかった。けど――
ドゴォオオン、の岩が破壊された音が反響する。
その轟音によって、長い眠りから覚めたように苅宿は刮目する。どうやら、一瞬気絶していたらしく、景色が煙る。
全身が風邪で発熱しているかのように熱い。きっと、痛さのあまり痛覚がおかしくなっていた。
首から腕にかけて、何かが触れていた。
綿あめのように柔らかくて、だけどどこかゴツゴツと硬くて。でもその綿あめみたいなものの隆起している部分がちょうど、苅宿の凸凹している箇所に妙にフィットしていた。
うつ伏せに倒れ込んだはず。
だけど今は何故か仰向けになっていて、眼蓋には長い影が落ちていた。ぼけていた輪郭がクッキリハッキリしていくと……。
苅宿の身体を抱えていた人物が誰なのか分かって、
「弓……張月さん?」
首の後ろ辺りに腕を回して、半ば起こしている状態。心配そうに覗き込んでいる彼の顔があまりにも近くて、声が裏返る。
「……ウチ……どうなって……?」
「もういい……。もう……終わったんだ……」
そっ――か。
終わったのだ。
弓張月にそう宣言されてしまうと、否応なく認めなくてはならない。何もできなかったことを。満足に足掻くこともできずに、負けてしまったことを。
なんて自分は弱いんだろ――
「頑張ったな、苅宿」
強烈なフラッシュが網膜を刺激したみたいに、一瞬視界が真っ白になる。そんなことをあの弓張月に言われる日が来るなんて思ってなかった。
しかも、まるで苅宿のことを安心させるために、とびっきりの笑顔を見せながら激励してくるなんて。そんなこと、誰が予想できるっていうんだろうか。
「……ウチには憧れている人がいるんや」
言わなくてはいけない。
今だからこそ、弓張月に告げなくてはいけない。
「その人と出会ったのはウチにとって最悪の日やったんや……」
その日も毎日の日課みたいに、両親は言い争いをしていた。
だが、まるで慣れなかった。
休日だったのだが、これいといって友人もいなかった中学時代の苅宿は耳を閉じていた。それでも漏れ聞こえるつんざく声が嫌で、パッと耳に当てていた手を放した。イヤホンを取ろうと思ったのだ。いつもみたいに、音楽に逃げ込みたかった。
だが、手を放してしまったのは間違いだった。
『あなたは、どうしていつもいつもそんなに無責任なの? もっとあの子の将来のことを考えてよ! だったら、離婚なんてできないでしょ!?』
『ふざけるなよ! お前が俺の部下とあんなことにならなきゃ、ここまでおおごとにはなってないんだよ! そのぐらい分かれよッ!!』
いつも通り両親の怒号が聴こえてしまった。
雑巾を絞るみたいに胃が捻れているのではないか、というぐらいキリキリと痛み出した。うっ、とその場に座りこんでしまう。過度なストレスが堆積すると、まるで貧血したみたいに動けなくなってしまうのだ。
大丈夫、ウチはまだ大丈夫。
親を気遣い、聴こえないよう小声で。
独りぼっちの自室で、そう唱えるみたいに繰り返した。痛みだした胃のあたりを押さえながら呟いていると、いつか親たちの諍いも終わるのだから。だけどその日はいつにも増して口調に刺があった。
『あなたが私のことを愛してくれないから、だから私だって……。本当は私だってあんなことしたくなかった! でも私のことだけを愛してくれるあの人と私は一緒になります! そんな酷い言い方しかできないあなたとは違って!』
『なんでそうなるんだよ……何がそんなに不満なんだ……』
『あなたが私や! 渡真理のことを見てくれないからよ! 娘だってきっと悲しんでるわ! あなたはいいわよねっ! 夢みたいなことばっかり言って』
『夢みたいなことじゃない! 小さい頃からずっと、自分の店を出すのが夢だった。だけど、もうただの夢物語じゃない。ちゃんと資金も用意した。そのせいでお前たちに迷惑はかけた。だけど、もうこれからはもっと家庭に専念できる』
自分の息遣いが妙に大きく聴こえて。
過呼吸を起こしそうだった。
『あら、そう? だったらちゃんと娘の面倒は、今までやらなかった分ちゃんとやりなさいよ!』
『お前っ……渡真理をおいていく気か?』
『そうよ! 私には私の家庭がもうあるの。なに? そんなに子どもと水入らずの生活が嫌なの?』
『なんだよ、その言い方は! 俺だってなあ! お前に騙されなきゃ……あいつがいなきゃ、自分の夢を叶えられたんだ! 身籠ったことを盾に、俺に無理やり結婚を迫ったんだろうが! 本当はお前なんかと――』
それ以上耳に入れたくなかった。
気がつけば、自室を飛び出していた。靴下なんか履く余裕がなくて、左右別々の靴を履いていた。パジャマ同然の格好だったが、他人からの目を晒されても羞恥の感情はなかった。
両親は尋常でない苅宿の様子を見やって、悟ったはずだ。
自分達の会話が筒抜けだったことを。
だから必死になって静止の声を上げた。
だけどそれは、玄関までで。苅宿が外に一歩踏み出すと、追いかけてくる素振りさえ見せなかった。口先だけだった。もしかしたら、近所の噂になるのを嫌ったのかもしれない。だったら仕方ないことだ。
歩くたびに靴擦れして、運動なんてしたことのない柔肌の皮膚は削れていく。赤くなっていって、ズルズルと皮が剥けていく。
痛くて、とても痛くて。
だけど立ち止まることができなかった。
家出なんかできないことは分かっている。最終的には警察に連絡がいって、自分の家に帰らなければならないのだ。金銭的にも、中学生という肩書き的にも独り立ちなどできない。それほどまでに、世界は苅宿が生きていくには優しくない。
とうとう耐え切れなくなって、誰かの家のブロック塀に寄りかかって。そして道の脇に、吐瀉物をブチ撒けてしまう。コンビニまで持たせようと思ったが、堪えきれなかった。嗚咽にも似た吐き出し方で、鼻と口の中が酸っぱくて気持ちが悪かった。自動販売機で水を買って、何度もうがいをしてようやく落ち着いた時。自分がいる場所がどこなのかを知った。
ラックの大会がやっている公共施設だ。
うちの中学がやるということで、クラスでもちょっと話題になっていた。わざわざ予選で応援する人もいないだろうし、ラックなんて興味なかった苅宿はどうでもいいことだと捨て置いていた。
だけど、行くべき場所が思い当たらなくて。
いつもの苅宿だったら、暇つぶしであろうとも立ち寄ることはなかっただろうが、とにもかくにも施設に足を踏み入れた。
思ったよりも施設内は広くて、少し道に迷った。
ラックプレイヤーが戦うフィールドと、それを囲うように設置されている応援席。その応援席に、同じ中学の方々とか、その親たちが来ていた。
誰もが苅宿の姿を正視すると、なんでこんなところにこいつが? みたいな疑問の表情をしていた。しかも、どうやら試合は終盤。団体戦はもう勝ち越していて、ほとんど消化試合らしかった。
勝負の分かっている試合ほどつまらない。
相手の中学はしらけきっていた。勝っても意味がなくて、すぐにでも帰宅したい雰囲気が溢れていた。
それはダブルスの試合で。
タッグを組んでいる相手ですら、動きが鈍っていて、やっぱり負けてしまうのだと覚悟しているようだった。
だが――たった一人だけ眼の輝きを喪っていないものがいた。
敵どころか、仲間内にすら負のオーラが充溢している空間で、そいつだけは勝利への執念を保ち続けていた。最初はばからしかった。無駄な努力を積み重ねれば重ねるほどに、虚しくなるだけだ。
だけど、結局その試合だけは相手が勝利を収めた。
信じられなかった。
聖堂華中学は名門で、こんな予選で一つであろうと勝利の取りこぼしをするなど考えられなかった。しかも、相手は無名中学。
どれだけアウェイであろうとも、自分自身を貫くその姿に憧れた。あんな風に強くなりたいって心に願った。ラックをやっていれば、いつかあの人に出会えると信じて始めた。
「最悪の日と同時に、あの日は最高の日やった。憧れの人に出会ったから、ウチはラックを始めることができた。全てを投げ出すことなく、生きるための希望を、夢を見つけることができたんや」
高校入学してからラックを始めて。
そして苅宿自身は、少しは強くなれたのだろうか。あの人の背中に少しは近づくことができたのだろうか。
それは分からないけれど、ただ今は感謝の言葉を捧げたい。
「あの時からずっと憧れていた――弓張月さんのおかげや」
憧れの人は瞠目する。
やっぱり、気がついていなかったらしい。それもそうか。こっちが一方通行にずっと思い続けていただけなのだから。
「会えて……良かった。ホンマに……ありがとな」
それだけ言い終えると満足して、目を瞑――
「アッ――ハハハハハハッ! 憧れの人? 夢? 何それ?」
だが、眠らせてはくれなかった。
忍は哄笑すると、
「弱い人間が言う台詞は、やっぱり違うね。弱い人間ってぇ、ほんとなんにでも縋るみたいだね。弓張月に憧れたって、どうせいつか裏切られるだけじゃん。夢なんて持ってたって、叶えられるわけないじゃん。そんな脆いものを心の支えにするから、弱いんだよ」
そうだ。
苅宿はとても弱い。弱すぎて、涙がでそうなぐらいに。
「自分以外は誰も、何も信じない。それが強者の絶対条件だよ。自分だけの力を信じていれば、必ず強くなる。そんな当たり前のことも分からないの?」
人差し指を顎のあたりに触れて、首を傾げる。
無知な子どもに躾けるみたいな言い方だった。
「ああ、あと……いいや……これは言わなくて」
「言え」
抑揚のない言葉で、弓張月は訊く。
まるで表情という表情がなくて、酷薄としている瞳が怖い。
「えっ、でもぉ、あんまりぃ、これを言って苅宿さんをぉ、傷つけたくないなあ」
「いいから言え」
「……そう。弓張月がそこまで言うなら、言ってあげるけど……」
ズバーン、と効果音が出そうなぐらい立派に、忍は両腕を広げると、
「良かったね! これでキッチリ夢を諦めることができて!」
ふふふ、と笑いながら、
「井の中の蛙がようやく大海の広さを知れたね。これでどれだけ高校からラックを始めるのが無駄か分かったよね。私に負けるぐらいなんだから、全国大会どころか地区予選ですら突破できないことぐらい気づいたでしょ?」
苅宿が何も言い返せないのは、今にも意識が途切れそうだったからだけではない。
彼女の告げていることが、全て真実だからだ。
「あーあ、これで深い傷を負う前に、ラックを辞められたね! ほんッ――と、苅宿さんはぁ、私に感謝すべきだよぉ。……いいことをしたあとって、最ッ――高に気分いいなぁ!! アッハハハハハハハハハハ!!」
興味なさげに弓張月に視線を移すと、
「あー、弓張月。まだいたんだあ? もう帰っていいよ。もう充分笑わせてもらって満足したから。どうせ弓張月だって戦わなくて済んでラッキーとか思ってるんでしょ。ほら! これがぁ、これこそがぁ! ここにいる全員が満足する最高のハッピーエンドだよ!!」
弓張月は無言のまま、苅宿の身体を一端地面に落ち着かせる。
「戦いたくないよ」
膝に力を入れて、起き上がる。
「俺はきっと誰より弱いんだよなあ。勝負からだって逃げだしたいよ。だって……負けるのが怖いから。土の味をあじわって、涙なんて流したくないんだ。そんなの誰だってそうだろ?」
だけど――と付け加えると、
「一番怖いのは一生戦えなくなることなんだよな……」
貧乏ゆすりするみたいに、忍は指を動かすと、
「だから?」
「ああ、だから――」
弓張月は大音声で叫ぶ。
「お前だけは俺が手ずからぶっ飛ばすッ!!」




