luck.21 感情の袋小路
「はぁああああああ」
水芸をする水族館のアザラシみたいに、弓張月は教室の机に突っ伏す。
時刻はもう放課後。
朝登校してきたと思ったら、いつの間にやら太陽が傾いてきた。それほどまでに、光陰矢の如し。
ボケボケと一日を浪費したにもかかわらず、この言い知れぬ疲弊感はなんだ。これは、授業によってもたらされたものではない。
いや、もちろんそれもある。
だが、一週間前のちょっとした苅宿とのいざこざがのしこりが、未だに胸の内で刃みたいに突き刺さっているのだ。取り払いたいのだが、深く突き刺さっていてどうしても取れない。無理やり取ろうとすれば、ドバァと血が溢れてきてしまいそうだ。
どうすればいい。
スコーン、と心の出血をせずに引っこ抜くことはできないものか。
……あれから、苅宿とは一度も口を利いていない。
グラウンド等ですれ違った時にも、顔を合わせないようにしている。
人に慣れていないせいか。
どう接していいいものか分からずじまい。
手持ち無沙汰になってしまった。そのおかげで最近手付かずだった勉強にも精が出るようになったのはいい。だが、何かが不足している気がする。
空のキャンパスに描かれる夕陽の赤いグラデーションが色褪せて視える。あんなにも綺麗なのに。それなのに、白黒映画を観ている気分になってしまう。
どうすれば。
ほんと、どうすれば……。
きっと時間が解決してくれるだろうが、でもこのモヤモヤがいつまで続くのかが不安で。
だからそんな不安を払拭するために、やりたくもない勉強をしようかと思う。宿題は授業中に先生の目を盗んだりとか、休み時間独りでいる時にやり終わった。
教科書の予習でもやっておこう。
勉強は心の整理ができる。
単語を書き続ける単純作業だけでなく、数式を解くような頭の使い方を問われるものもある。多種多様で飽きなくて、そしてなにより――現実逃避するのに凄く役立つ。
「また溜息? さっさと苅宿さんに謝ればいいのに」
半眼で呆れ返ったように、うさぎが見てくる。
弓張月の隣の席に自然な仕草で座ってくる。
まだその席の主である女子生徒がいたのだが、うさぎの顔を見るやいなや、分かりやすく赤面して席を譲る。
そして彼女は焦りすぎて、カバンからボトボト教科書が落ちる。うさぎが拾ってあげると、更に頬の赤みが強まって完全に真っ赤に染め上がる。
その女子生徒とは一ヶ月ほどお隣さんであるというのに、あんな表情を弓張月に見せたことはない。あるのは蠅がたかっている生ゴミを見るような瞳だけだ。どうやら、かなりのツンデレさんのようだ。
デレる時が頼みだなあ、と頬を弛緩させていると彼女はうわっ、と悲鳴のような声を上げられた。何か気持ち悪いものを見たみたいだ。後ろを振り返っても、もう誰もない。一体誰のことを見て怯えていたのだろうか。
それにしたって、苅宿と仲違いしたという情報を、うさぎはどこから聞き出したのか。ここ数日何か言いたげな挙動は目立っていたが、とうとう業を煮やしたらしい。
「別に……あいつのことで溜息ついてたわけじゃ……」
「そう? だったらどうして、最近放課後になったら苅宿さんと一緒になって特訓しないの? 教室に迎えにも来ないし」
「……知ってたのか?」
異性とちょっと話すだけでもからわれる。影で色々と吹聴されるのは分かりきっているから、こそこそ会っていた。
だが、下校経路であれだけ喋っていたら、嫌でも目に付くか。
「それは……あれだけ頻繁に会ってたら、誰だって気がつくと思うよ。だからパッタリと会わなくなったのも、ね」
「……でもさ。どの面下げて謝ればいいのかな。やっぱり今でも俺は間違ってないって思うんだよ。誰だってあんなに根掘り葉掘り聞いてきたら怒るだろ、ふつー」
自分語りみたいな口調になってしまった。事情をあまり知らない、あの場面に出くわしていなかったうさぎに通じるわけがない。
だが、う、うーん、とうさぎは悩ましげに眉毛を顰める。
だがそれでも、大雑把にこちらの言いたいことを把握したのか、
「詳しい事情を聴かないとなんとも言えないけど、例え自分が悪くなくとも謝らないといけないんじゃないのかな」
「はあ? なんで?」
「苅宿さんは感情的に激怒したと思うんだ。そして弓張月は正論でそれを捩じ伏せた。まずこの時点で苅宿さんは、感情の袋小路に追い込まれたといっていいね」
「感情の袋小路? 悪いけど、もっとわかり易く言ってくれないかな」
うさぎは頭が良すぎて、たまに言っている意味が分からない時がある。もうちょっと丁寧に説明して欲しい。
「うーん。そうだね。どう言えばいいのか……。きっと苅宿さんは自分が言い過ぎたっていう自覚があるんと思うんだ。そして、弓張月が正しいってことも。でも、だからこそ苅宿さんは引けないんだよ」
「な……なんだよ。それ。意味わからないんだけど。だったら、どうして?」
「苅宿さん自身、どうして弓張月くんと喧嘩したのか分かってない。感情に振り回されて、暴言を吐くことしかできなくて、でもそんな自分のことを分かって欲しい。だから……引けなかった。……いや引かなかったんだ」
うさぎは眩しいものでも見るかのように目を眇めせて、
「弓張月だったら、きっと全部受け止めてくれるって。そう信頼してたんじゃないのかな」
そんな小っ恥ずかしいことを、臆面もなく言ってくるのだった。
「そんな身勝手……まあ――」
弓張月はフンと、まんざらでもなく、
「本当にそんな気持ちだったなら、こっちから謝ってやれなくもないかな」
希望的観測な見解でしかない。
苅宿の真意など当の本人に聴かなければ分からない。
だが、うさぎが自信を持って言ってくれるのならば、全幅の信頼を置いてもいい。こういった相談事で、うさぎの読みが外れるなんて思えない。期待を裏切られることはきっとない。
「ありがとう。うさぎ」
「……随分、弓張月らしくない殊勝な物言いだね。明日は槍でも降ってきそうだ」
「……どんだけ普段の俺のこと暴虐武人だと思ってるんだよ」
弓張月ほど親切な心の持ち主が他にいるとは到底思えない。うさぎの慧眼も曇に曇ったものだ。
フゥ、やれやれだぜ、と両肩を外国人みたいに竦めていると、視界の隅に嫌な影が写る。
誰かを捜索しているかのよう。
ラック科の人間がなんでこんなところまで人探しをしているのか。最悪の展開が頭に過ぎってしまう。探し人がうさぎのことだと願おう。どうやって逃げようか、とキョロキョロ周りを見渡す弓張月に、不審がるうさぎ。後で説明するから今は――
「ああ、いたいた。弓張月、ちょっと来てよ」
忍に見つかってしまった。
うさぎとのせっかくのひと時が台無しだ。
「行ってくれば。僕は弓張月に大した用事ないし」
もうちょっと引き止めて欲しかったな。
弓張月にとって、クラスでは唯一無二の話し相手だからちょっとした依存心すらあるというのに。
それなのに弓張月が忍のいる廊下に歩み寄っていくと、一瞬にしてうさぎの周りには人の輪ができる。弓張月がどこかに行くのを待ち構えていたかのような速さだ。しかも重要なことに、群がったのは全員女子。モテるとか、そういうレベルじゃないぞ。
それにしても、うさぎと喋っている時に割って入ることすら躊躇われるって、クラスメイトにはどういう認識をされているのだろうか。
ガラス塊のような心を引きずりながら、
「なんだよ、急に――」
忍に文句の一つでも零してやろうかと思ったが、半端な口の形のまま硬直してしまった。
「うん、ちょっと大事な話があるから――『3人』で話し合える場所で話そうよ」
廊下を支える角柱の死角。
そこには、借りてきた猫みたいに黙り込んでいる苅宿の姿があった。いったいどんな組み合わせだ。弓張月の知らぬ間に、お互いの仲を進展させる何かが起こっていたのか。食堂の一件以外で、この2人が一緒にいるところを見たことがない。
いや、それにしてはよそよそすぎる。
弓張月と顔を合わせようとしないのには得心いくが、どうも忍に対して心理的距離を置いているように見える。苅宿は、忍の背中あたりを不安げに視線を彷徨わせている。一体どういうつもりで連れてきたのかと責め立てるような感じ。どこか敵意のようなものすら感じる。
どうやら、この呼び出しの意味について苅宿も納得いっていないようだった。
「……話し合える場所って、どこで」
「大丈夫、場所はもう予約済みだから」
そう言うと忍は勝手に歩き出す。まるでついてこないと後悔するとでも言いたげで、肩ごしに囁く。
「第4訓練所――『グレイヴ』――」




