luck.02 人徳者は偽りの仮面を被る
痴漢騒動から一ヶ月。
事件直後は事実無根にも関わらず、犯人扱いで半泣きだった。だがあの後、すべてを目撃したらしい証人が現れたお陰で、意外に早く駅で解放された。それから、わざわざ校長先生が車で迎えに来てくれたが、始業式には結局間に合わなかった。それで事が済めば良かったのに、案の定、弓張月は教室で孤立してしまっていた。
原因は始業式から遅刻したから……だけではない。
痴漢の犯人だという噂が出回ってしまっているのだ。
本当にやったか、やっていないか。そんなことはまるでお構いなし。
真実なんてグニャグニャに捻じ曲げられて、面白おかしく脚色された話が一年の教室はおろか、この一ヶ月で校内を一気に駆け巡った。
事件に巻き込まれてしまったというだけで、一躍時の人だ。
どいつもこいつもクラスメイト達は遠巻きに、今も弓張月の噂話をこそこそと囁いている。電車でお尻を触った挙句、女性のバッグを盗んで押し倒した変態だとか。中学時代から女の子泣かせだったとか、まるで見に覚えのない様々な憶測が飛び交っている。
以前。
そんな卑怯にも陰でグチグチ宣っている奴らに対し、俺が押し倒したのは男だ!! と、大声で主張したことがある。それも、弓張月の評価のズレを助長される発言だったことは反省すべきだったかもしれない。……一部の女子はキィヤヤアアアアと、歓喜の声を上げたが。
悪意に満ちたレッテルを貼られた弓張月に、まともな会話相手がいるとするならば、それはクラスにたった一人しかいない。
今でもどうしてそいつと仲良くなったのか解らない。
接点があるとするならば、同じ中学出身だということくらい。中学の時。挨拶すら交わさなかったそいつのことを、正直苦手なタイプだと思っていた。だが、話してみると、意外にも気が合うことが判明した。……それは、寂しさを紛らわすための、話せるならこいつでいいかと妥協した人間関係かもしれないが。
「考え事しているみたいだけど、何か分からない問題でもあるの?」
風鈴みたいに爽やかな声の主は、鵜飼朝鷺。
通称――うさぎ。
誰もが友達と談笑を義務付けられる休み時間。
それなのにこんな教室の隅っこの席で、弓張月は問題集を広げていた。はっきり言って全く空気を読んでいない。そのことは自覚ある。
黒春高校の普通科。それも、特進クラス。
お勉強が得意なクラスといっても、誰もが牽制し合っている。学力テストは全然勉強してないよーとか言いつつ、ふつーに全教科90点以上は確実にもぎ取るような連中。
だからこそ平穏な雰囲気を醸しつつ、実はお互いがお互いを蹴落とそうとしている。そんなピリピリとした教室で、ただ一人だけ弓張月はシャーペンを走らせる。
本当はそんなことしちゃいけない。だってそれは抜けがけだから。
勉強はしてない! 一夜漬けが基本! それが表向きの決まりみたいなもの。嘘でもそうやって自分は無能ですアピールをしなければならない。だが、これ以外に気まずい休み時間を消費できない。机に突っ伏して寝たふりするのも、イヤホンで雑音を消すのにも飽き飽きだ。それだったら少しでも学生の本分たる勉学に勤しむのがいい。
そうすれば、口うるさい教師から目をつけられることがない。無駄な争いも避けられる。
だが、そんな崇高な思いなど同級生に届くはずもなく、単純に変人扱いされている。
それでもうさぎは、何の憂いもなく自分に声を掛けてくる呆れた人格者だ。他の誰かがそんなことをすれば、えっ? なんでそいつに話かけてるの? 弓張月をハブるのは暗黙の了解でしょ? と声帯を震わせるだろうが、そんなことはなかった。
うさぎの人徳がなせるのか。
こいつがなにをしても全てが好印象に直結する。可哀想な孤立者である弓張月に声をかけてあげている、本当にいい奴だと思われているらしい。女子はおろか同性からも一目置かれている。
その理由の一つが容姿。そう――滅茶苦茶可愛いのだ。
うさぎと称せられるだけあって、雪原のような肌をしている。透過性のある肌は、後方にある教室の机すら見えそうなぐらいに真っ白。四肢は華奢で、それからしなやかそうで、力を入れてしまえば小枝のようにポッキリ折れてしまいそう。
ブカブカな制服から、ちょっぴり手が出ていて、もうこちらのハートを狙っているとしか思えないあざとさ。だが、じっと凝視している弓張月を、キョトンと首を傾げている様は、純真無垢な天使としか思えない壮絶なまでの可愛さだ。小動物を彷彿させるようなくりくりとした瞳をしていて、そこらにいる女子よりも女子らしい仕草をするので、ある意味とても危険な男だ。そっちに目醒めてしまったら、キッチリと責任をとってもらいたい。
「別に……なんでもないけど」
机の上には数学の問題集が散乱している。
ミミズのように汚い文字で、隙間なく公式が埋められている。
特別勉強が好きというわけではない。それでも、難解な問題を解いた時のカタルシスは筆舌に尽くしがたいものがある。
「ほんとっ、勉強熱心だよね、弓張月は。普通科のクラスは、大学進学の進路が決定事項みたいなものだけどさー。今からそんなに頑張ってるってことは、もしかしてもう行きたい大学とかは決まってるの?」
「いや。……とにかく偏差値の高い大学に行きたい」
「だよねー。担任からは、一年生の内に行きたい大学決めろとか言われてるけど、そんなこと言われても実感なんてないって! とにかくこのクラスに馴染むので精一杯だし」
「そう、だな」
きっとこれからも、自分がこのクラスに馴染めることはないのだろうけどな。
「あっ、ウサギくん。おはよー」
愛嬌のある声で、女子5人組が器用にうさぎだけを視界に収めて話しかける。
弓張月など、文字通り眼中になさそうだ。うさぎの人気による副産物で、なんとも華やかな女子達に取り囲まれる。ぶっちゃけ、うさぎも女子みたいなもので、気分はハーレムだ。アラブの石油王だ。
垢抜けていて、クラスの中でもレベルが高い彼女たち。香水でもつけているのか、上空へ脱魂してしまいそうなほど素晴らしい芳香が漂ってくる。
ぷくぅと鼻腔を広げると、犬のようにクンカクンカと嗅ぐ。あまり音が出ないように口を開くという徹底ぷりだったが、人間をやめている気がするのでほどほどにしておく。
「おはよー。昨日のカラオケ楽しかったよ。誘ってくれてありがとうね」
「えぇ、そんな。こっちこそ楽しかったもんね。ねー」
ねー、は後ろに控えている女子たちに向けて。問われた女子たちもねー、と仲良くハモる。ほんとお前は女子かよ、と胸中でうさぎにツッコミを入れる。
いや、一人だけねー、を言わなかった奴がいた。髪を一束まとめていて、ボーイッシュな感じがする女子。他の女子たちとはちょっと距離を置いているけど、あまり気にならない程度の距離。薄ら化粧をしていて、他の誰よりも大人びている。ちょっと前まで中学生とは思えないほどの落ち着きを払っていて、どこか浮いているようにも見える。だが、その独特の雰囲気を持っているが故に、女子グループに参入できている気がする。
何だか、この、名前も知らない女子達は、ちょっぴり浮いてしまっている彼女をなるべく囲いたいと思っているようだ。始業式始まって、可愛い女子同士でくっつく。それでこの女子派閥は、みんなレベル高いですよアピールを下々のものにしている、といった感じ。
だから恐らく、このクラスで一番煌びやかなのはこの女子グループだろう。だからこそ、ちょっと面白くなさそうに一歩引いている彼女が目についた。
と、そのポニーテールの女子と視線が交錯した。
うわっ、と目線を逸らす。
何故だかそっぽを向いても視線を感じるから、頬づえをついて知らんぷりを決め込む。なんだ、なんかしたのか。だが、それ以上のリアクションはなかった。
それから、うさぎ含め六人組は談笑モードに突入した。手振りを交えながら、彼女らにとっては意義のあるであろう冗談を飛ばしあう。学校生活開始一ヶ月とは思えない、親密さを醸し出す。これは、とても会話に入り込めそうもない。まるで結界でも張られているよう。
暇過ぎて、シャーペンを動かしたい衝動に駆られるが、そんなことをすればこいつ何やってんの? 会話に参加しなさいよ、と白い目で見られるだろう。どいつもこいつも口を動かずとも、コミュニケーションをとろうする姿勢そのものに意義を感じているものだ。溶け込めないのは必須だが、仕方なくフンフン、と全く興味の持てない会話の応酬に相槌を打つ。
だが、カラオケの話題から、次の授業、あの先生って絶対ズラだよね、とかどんどん話は脱線していく。よくもまあ、立ちっぱなしで話が続くものだ。さっさと席に着けばいいのに。
何分か過ぎて、カクン、カクンと顎を上下させる動作にも流石に飽きてきた。
痺れを切らし、やっぱり勉強に取り掛かろうと――
「な、弓張月」
「ん?」
いきなり、うさぎから水を向けられる。やばい。聞いてなかったせいで、どんな話題だったのか分からない。早く答えなよ、と急かすような眼で女子連中が睨んでくる。
「あ、ああ、そうだよな!」
「ね! ほらね!」
適当な返答だったが、どうやら対応の仕方は合っていたようだ。
うんうん、と嬉しそうにうさぎは、
「弓張月も、みんなと一緒にカラオケ行きたいってさ」
……………………は?
ナニヲイッテイルンダ、コイツ。
いきなり眼前にダンッと取り付けられたハードルが高すぎる。眼前の女子たちとはまともに会話すらしたことがないというのに。無謀と勇猛は違うということを知らないのか。
それなのに、何の頓着もなくうさぎは言い切った。
一欠けらの悪意もなく。
恐らくは、ただはた迷惑な心の無駄遣い。
弓張月を、クラスの連中に溶け込ませることが狙いだったらしいが、そんなものは失敗するに決まっていた。
「え、う、う~ん。そ、そうだよね」
明らかに困惑している女子軍。
え、どうするの? 来るって言ってるんだけど。まあ、いいんじゃないの。それでうさぎくんが来るって言ってるなら、と何やらオマケ要因として容認されている。
エグイ。
見た目は可愛いけど、やることはエグイな。こいつら。
そういう中途半端な小声で詰られるのが、一番深く心を抉るってこいつらは知っているのだろうか。どうせだったら絶対に聞こえないよう気遣いをすべきだ。
「あの、うさぎ。やっぱり……俺……」
ガタガタッ、と急に椅子が動く音がする。
どうやら次の授業のヅラ疑惑な先生が来たようだ。そう言われてみれば、確かに不自然な髪型な気がする。
「あ、先生だ。じゃあ、話の続きはまた」
良かった。
いいタイミングで横槍が入ってくれて。
よくよく考えれば、行くよ、行く、行く、と受け流しておいても問題なかった気がする。どうせ、うやむやになるだろうし。別に本当にカラオケに行かなくてもいいだろう。仮に行ったとしら、絶対にいたたまれない空気に晒される。
それだけ弓張月は、クラスで浮いているのだ。
さきほどの女子とは別ベクトルの、悪い意味での浮き方。
怖いのは、カラオケでうさぎがトイレ等の用事で席を立った時だろう。取り残された弓張月は、女子たちとどんな気まずい沈黙を共有するか想像に難くない。
気まずさを払拭するために、へい! へい! と空元気丸出しで、備え付けのタンバリンなんか叩いたりしたらどうだろうか。いや、普段根暗で便所飯をするような弓張月が、テンションを上げてしまっても逆効果。どのアイディアを実行してもより一層ドン引きされそうだ。
だったら、女子たちの前で、ズボンをすぽーんと景気よく脱いで見たらだろうか。
インパクトはあるだろう。
確実に。
そして、シャツとパンツ姿になった弓張月は、俺はまだ変身を2回残している。この意味が分かるか? ……と今まで温めてきた渾身の一発芸を披露するのはどうだろうか。
これだ!
これで間違いない!
そのままの状態で某アニメ主題歌を、『もってけ! 俺の制服!』というタイトルに変え、替え唄して歌えば、その場は爆笑の渦になるに違いない。仮にカラオケに強制連行されることになったら、この手で乗り切ろう。天啓じみた発想に、我ながら身震いすらしてしまう。
あ、そういえば、とうさぎはくるりと踵を返すと、
「弓張月、放課後は付き合ってよ。新作ビデオが入荷したからさ」
「えっ、まじかっ!? わかった!! 絶対付き合う!!」
テンションが跳ね上がる。
それにしても、どうしてウサギみたいなクラスの中心にいる奴が仲良くしてくるのか未だに分からない。というより、あいつという人間がイマイチ理解できない。
そこまで目立つ、というわけじゃない。
積極的にグイグイみんなを引っ張るような性格じゃなく、ただそこにいるだけなのに、うさぎが発言すると、何故かみんな真剣な顔をして聞き入るのだ。ふむふむ、それで、と話の続きを促す。
男子だろうが、女子だろうが、部活組だろうが、帰宅部連中だろうが、とにかくあらゆる人間たちと交流を持っている。
この前なんか、三年生と仲睦まじく話すのを見かけたことがある。
なんという人脈の広さなのだろうか。
だが、だからこその危うさを感じてしまっている。
いつだって笑顔を振りまいて、沢山の人間と等間隔の距離を保っている。だが、その接し方はあまりにも平等過ぎる。そんなこと、弓張月には到底できっこない。というかできたとして、本当にやってしまっていいのだろうか。
絶対に、どのクラスであろうと、人間関係にはグループというものは存在する。
誰もが、どこかに属している。属さなければ、弓張月のように孤独になるはず。それなのに、うさぎはどのグループも自由に行き来できている。そしていつだって誰かに囲まれている。
それは本当に凄いことで、だからこそ高校一年生にしては器用過ぎる気がするのだ。
笑顔のその裏で、苦しんでいるような。
演技をしている自分を嫌悪しているかのような。
そんな気がするのだ。
誰もそんなうさぎのことを気がついていないし、弓張月がそんなこと言おうものなら、何を言っているんだ、こいつは。失礼だぞ、という怒りに満ちた反応をされるだろう。嫉妬も過ぎると妄想に走るようになるんだな、と相手にもされないだろう。
だが、独りぼっちである弓張月だからこそ、うさぎのことを客観視できる。一歩線を引いて、冷静にうさぎの表情の変化も観られる。
うさぎは、どれだけ集団にいても、心の底からは本音で話せていない。
いつだって嘘をついている。
そんなことをずっと続けていると、いつかその小さな歪みが突如として、心に大きな亀裂を生み出しそうだ。
そういう悲しい奴なのかもしれないってことを、弓張月はなんとなく感じ取っていた。