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ラックライアー  作者: 魔桜
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luck.01 冤罪の遅刻魔は拘束される

ラックライアー

            魔桜



「がはっ。……はぁ……はぁ……」

 春になったというのに、早朝は総身が凍結しそうなぐらい寒い。吹き付ける風に至っては頬を裂きそうで、寒いというより痛い。

 昼時になれば過ごしやすいポカポカとした気温になるのだが、時計の針が七時を回らない今ぐらいの時間帯では、まだまだ肌寒さを感じる。

 少年は肩で息を弾ませながら、斜線を描く手すりに手をかける。素手のまま触れた金属製の手すりは、思いのほか冷たく、静電気を感じたかのように掌は反射的に跳ね上がった。

 手袋。それ以外の服とか小物やらその他諸々の生活用品は、荷物と一緒にダンボールに詰めていて。それから、この前一人で下見に行った男子寮へ既に郵送してしまった。

 駅のホームのエスカレーターなどでは速度が足りず、少年は人の間を縫いながら駆け下りていく。迷惑そうに顔を顰める人たちに、すいません! 通してください! と大声で謝罪しながら走っていると、ようやく開けた場所へと出る。

「……はぁ……はぁ……げぇっ!」

 弓張月道影ゆみはりづきみちかげは、ギョッと目ん玉を剥く。

 電子時刻表が示すのは、弓張月が乗るべき電車の出発時刻。

 その時刻はちょうど今――。

 ピピィーと甲高い出発の合図である笛が、地下に反響する。

 ガコン、と重々しい挙動で電車が動き出そうとしている。

 これから少しずつ加速していくのを思わせる動きだ。果てしない絶望が、胸に押し寄せてくる。距離的にもう間に合わない。この電車を逃してしまったら、次は完全に遅刻コースだ。

 早起きしなかった弓張月の自業自得とはいえ、初日から遅刻するなんてどんな高校デビューだ。

 このままでは不良のレッテルを貼られる。

 それとも始業式に参加できずに、クラスメイト達とのファーストコンタクトできる機会が自然消滅してしまう。三年間ぼっちになってしまう。

「ちょ――っと、待ってください!!」

 出発の合図を鳴らしている車掌に、必死になってアイコンタクトを取る。

 お願いします! 停車してください! という懇願を込めたウインクをしようとして失敗する。片方どころか両目一緒に瞑ってしまった。

 ちがっ、えぇ? と焦りが焦りを生み、何度も失敗を繰り返す。ウインクではなく、高速で両目を瞬きしてしまう。

 そんな少年のことを車掌は哀れに思ったのか、はたまた慄いたのか。電車は速度に乗る前に急ブレーキ。それから完全に停止して、強固に締まっていたドアが弓張月の目の前で開く。

「……た、たすかった……」

 そんな安堵も束の間。

 混雑している電車の乗客から、批難めいた視線を無遠慮に差し向けられる。

 ただでさえギュウギュウ詰めな満員電車状態だったのに、弓張月一人のスペースを空けるのは一苦労。できることならば、このまま立ち去って欲しいとさえ思っていそうな乗客達の眼差しを受け流し、弓張月は素知らぬ顔で乗り込む。

 だってこの電車に乗るしか遅刻回避できないし、わざわざ停車してくれた車掌にも申し訳ない。

 すいません、と弱々しく呟いて、適当に頭を下げながら電車に乗り込む。

 なんとか人一人分の隙間を空けてもらったところで、電車がゆったりと発車する。

 ようやく休息できる。

 全力疾走で、乱れに乱れきってしまった気息を整える。家から駅までの長い道程を疾駆してきたせいで、今にも心臓が破裂そうだ。

「ハァ……ハァ……ハァ……」

 弓張月のちょうど真正面に立っていたのは、鞄を持った若い女性。

 他の乗客に配慮して、鞄の角が当たらないよう抱えて持っている。女性と視線が合うと、何故かひっ、と怯えたような表情をされた。

 どうやら不審者と勘違いされているみたいだ。

 いくらなんでも自意識過剰だ。

 満員電車のせいで接近しきった彼女の前で、ハァハァと熱い吐息を漏らしていただけだ。特にこれといって奇怪な行動をしているわけではないのに、初対面の人間に不審者扱いされるなんて……。全くもって心外だ。

 そこまでひどい顔をしているだろうか。

 気になって、電車の窓に写っている容姿を自己評価してみる。

 八方に伸びている髪は敢えての無造作ヘアなどではなく、ただの寝癖。

 腐敗したドブ川のような瞳。

 トロンとしている眠気眼は奥二重。

 口元には拭いきれなかったらしい、歯磨き粉がついていた。うへっと、気恥ずかしくなって、ゴシゴシと新品の制服の裾で汚れを落とす。制服の下に着込んでいる白いシャツは、アイロン掛けしなかったせいで皺だらけだ。

 格好だけでなく、全体的に締りのない顔をしている。

 だらーと口の端から涎を垂らしてもおかしくないアホヅラをぶら下げている男がそこに立っていた。こんなの自分じゃない! 俺はもっとイケメンだ! と現実逃避したくなるが、16年間鏡で見てきた自分の顔を見まごうことはない。

 ただでさえ冴えない顔なのに、早朝自主マラソンの徒労感からかひどく顔を歪めていて、普段以上に見るも無残なものになっていた。ペタリ、とグロ注意のシールを額にでも張っておきたいほどに。

 これじゃあ、前に立っている女性が身の危険を感じるのも、納得してしまうレベルの酷さ。先刻のカメラの連続写真のような高速瞬きを見られていただろうから、心証は最悪だろう。

 どん底の気分になった弓張月は、なんの気なしに焦点を窓の外の景観へと合わせた。瞬間、バン! と体当たりするようにして、窓を叩いてしまう。ショーウインドウ越しにトランペットを眺める哀れな子どもみたいにはしゃしでしまった。

「うっ――わ。すっげええええ!」

 独り言の範疇を超えた大きめのボリューム。

 他の乗客の警戒度がさらに上昇し、なんだか距離が空いた気がするが、車内環境が快適になって好都合だ。そうだ、これってラッキーなことなんだと……そんな無理やりなポジティブシンキングで、折れかかっている心を繋ぎ留める。

 まず眼に飛び込んできたのは――強烈な青。

 雲一つない無限の蒼穹。

 それから、飲み込まれそうなぐらい圧巻な大洋。

 鮮烈な朝日の光がキラキラ雪のように舞い散り、海面に反射して眼球を優しく刺激する。乱積みされている消波ブロックに寄せては返す白波は、刹那的であるからこそ綺麗で。名前も知らぬ白い鳥達は、まるで乗客を歓迎しているかのように大空を自由に羽ばたく。

 目的地は――黒春島こくしゅんとう

 米粒程度の島には、まだ新しい住宅街や商店街が立ち並んでいる。そこには弓張月が通う予定の黒春高校もあった。普通科とラック科の校舎と、更には訓練所があるので、かなりの広さを誇る。

 あの黒春島を行き来できる通行手段は2種類だけ。電車が走るたった一つだけの橋と、それから車を数十台乗せることも可能な巨大フェリーだ。

 だからこそ、電車内はこんなにも人が多いのだろう。乗客の中にはまだまだ大きめな制服を着込んだ人も多く散見される。その中の多くは、2人以上のグループで楽しげに歓談していた。

 中学から一緒の友人なのか。

 それとも自分の着用している制服と同じ服装なのが眼中に入り、お仲間意識を持って、短い乗車時間であんなにも仲良くなってしまったリア充様達なのか。

 人見知りのエリートたる弓張月も、ああやって無理にでも会話をした方がいい気がする。今日は寒いね、とか、始業式だから緊張するね、とかそんな当たり障りない会話の端緒の広げ方ぐらいは心得ている。

 だが、今はスーツを着込んだ大人達に囲まれ、こんな電車の隅にまで押しやられている。こんな状況にいる限り、あんな軽い感じで会話のキャッチボールなんてできない。電車内での私語は禁じられてはいないものの、正直うるさいし。だから、別にいいんじゃないんだろうか。学校に着いてから話せばいい。……いや、こんなのただの言い訳だ。

 もしも発車時刻に余裕を持っていて、ああやって誰か他の生徒と隣り合ったとしても、自発的に談笑しようだなんて勇気はない。そんなのあるわけがない。

 実は一年間ほど、まともに同級生と会話をしていない。

 別に友達が一人もいなかったとか、引きこもりだったとか、いじめられていたとか、そんな同情されるような過去があったわけではない。

 一番深い関係だった同級生に対する巨大な劣等感が、日に日に膨れ上がっていって。

 隣にいるだけで辛くなって。

 一緒の空気を吸っているだけで死にそうで。

 巨大なプレッシャーに、勝手に押しつぶされた。

 つまり、自滅したのだ。

 あいつが悪かったわけじゃない。

 中学生活最後の一年が灰色だったのは、才能のない自分が招いた結果に過ぎない。

 そう――たったそれだけのことだ。

「おっ――と――」

 キキキィ、と金属同士が擦れるようなブレーキ音。

 考え事に熱中している間に、電車が目的地まで運んでくれたようだ。意識していなかったせいで、慣性の法則に抗えきれずに前のめりになる。掴めるところがないかと無我夢中で手を前に突き出す。

 そして――。

 吊り革に手を掛けている女性の胸のあたりに、ポヨンと額を当ててしまった。ついでに、片手を胸と脇のあたりを掠らせてしまう。キャア! と悲鳴を上げると、眼前の女性は目を吊り上げる。

 柔らかいエアバックのような胸のおかげで、蹈鞴を踏むだけに留まった。やはり学生ではなく社会人だからか、キッチリと成長していて弾力のあるいい胸だった。

「あ……ありがとうございますっ!!」

 身を挺して助けてくれて!

 そんな誠心誠意込めたお礼の言葉に、女性は唇の端をヒクつかせる。

 顔の色をみるみる真っ赤にさせながら、手に持っていた鞄を落とす。ゆっくりと口を開いて、何か激しい感情を迸らせようとした、その時――


 ニット帽をかぶった男が、女性の落とした鞄を横合いからかっさらう。


 唐突な出来事に固まっていた女性は我に返ると、

「泥棒っ! 誰か捕まえてっ!!」

 女性は激昂すると、鞄の中には財布も入っていることを大声で吐露する。ひったくりが喜びそうな情報を与えたせいか、泥棒の走る速度が加速した気がする。

 くそっ、と悪態づくと、弓張月はひったくりの男を追いかける。

 条件反射で走り出したのはいいが、遁走するひったくりの背中を見失わないだけで精一杯だ。早朝から駅のホームを全速力で走ったせいで、体力など残っていない。

 やばい。

 このままでは本当に逃げられてしまう。

 早く手を打たなければ。

 なんで今日はこんなに走ってばかりいるのだろうか。厄日だ。

 不意に、野球部らしき奴らが視界に入る。野球のユニフォームを着こみ、バットとボールを持ちながら、横一列になりながら口うるさげに話している。

 普段は迷惑きわまりない集団行動。

 だが、ひったくりは野球部の壁に阻まれて、少しばかり動きを止める。今日だけは良くやったと褒めてやりたい。

 だが、ひったくりはめげずに、人垣をかき分けると階段前まで到達した。

 階段を上がってしまえば、はっきり言ってお手上げだ。

 ここよりもっと人がひしめく場所に紛れてしまえば、追走するのは不可能に近い。ひったくりにはその根性を盗みにではなく、もっと有意義なものに燃やして欲しいものだ。

「借りてくぞ!!」

 逡巡する余裕もなく、野球部の一人からボールを拝借する。なっ、と驚いた様子の坊主頭だったが、今は説明する時間すら惜しい。

 五指をボールの縫い目に添えて、予備動作もなく射出する。

 それは、指先の力だけで飛来しているとは思えない。プロ野球選手のような剛速球。ひったくりは何やら嫌な予感を感じたらしく、首だけ振り返る。男のすっとぼけている顔面目掛けて、ボールは直線の軌道を描く。

「うわっ!」

 ひったくりは反射神経というよりは、足を挫くようにしてボールをギリギリ避ける。

 はっ、なんだ……と安堵したひったくりにはボールの行方を追うことはできていない。

 頭をかすめたボールは、ピンボールのように天井を跳ね返ると、ひったくりの左手に直撃する。その手に持っていた鞄を激痛のあまり、思わず取り落としてしまう。

「あっ!」

 と、せっかく手に入れた獲物を逃してしまった男の足が一瞬止まったのをいいことに、弓張月は一気に距離を詰める。口を半開きにして驚愕しているひったくりの膝あたりにスライディングをかます。

「ぐわっ!」

 両足を縺らせるようにして倒れたひったくりは、床で打ったのか口元を抑えながら悶絶する。往生際悪く、果敢に逃走しようとする男を体ごと押さえ付け、手首を捻って確保すると、

「こら!! 貴様あっ!」

 年季の入った制服を着ている駅員2人が、怒号を叫びながら走り寄ってきた。遅れてやってくるのは、鞄の持ち主である女性。セットしている髪を振り乱しながらも、駅員に置いていかれないよう必死の形相だ。

「あれです、あの人です!」

 ずびしっ、と、弓張月は女性に指をさされる。

 あの人、っていうのはどういう人のことだろうか。危険を顧みず、勇気を振り絞ってひったくり犯を華麗に捕らえた自分は、女性にとってどのぐらいの場所に位置する人物なのだろうか。

 大恩人。

 もしかしたら、それ以上の感情を抱いてもおかしくないほどの活躍っぷり。

 もしも一目惚れされてしまったのなら、どうやって断ろう。実は中々に好みの顔をしている。彼女が年上であることもポイント高い。

 彼女が傷つくことがないように、ごめん。今の俺には恋をする余裕なんてないんだ、とか憂いをたっぷり含ませた声色で、横を向くとか、そういうカッコイイ振り方がきっとふさわしいだろう。やれやれ、モテる男は辛いぜ。

 くぅぅぅぅ~、何やら胸の高鳴りが止まらない。こんな衆目の集まる駅で、朝っぱらからドラマチックな事をしていいのか。

 女性は迷いなき瞳をしながら明瞭な声で、弓張月のことを――


「あれが痴漢ですっ!!」


 ん? と疑問の声を出せるのも間があってこそ。

 駅員二人がかりで強引に取り押さえられる。思いのほか制服下は筋肉がついているようで、振りほどくことができなく、下敷きになったまま、もがくことしかできなかった。

「ちょ、なんで俺が痴漢っ!? むしろ捕縛するのはこっちのひったくりの方だろ!?」

「なに言ってんの? 電車の外で私のことを変な目で見たりとか、わざと私の隣に来て、ハァハァ喘いだりして……もしかして私のストーカー!?」

「は、はあ? なんでそーなるんだよっ! 誤解だ!!」

「それだけじゃないわ。わざと私の……私の胸にぶつかってきて……」

「あれはたまたまだっ! 胸が思ってたよりも柔らかかったから、ちゃんと『ありがとう』ってお礼も言った! そんな品行方正な俺がなんで変態になるんだよっ!?」

 おいかぶさっている駅員の眉間の小皺がさらに深くなる。

 なにやら弁明の言葉を発するたびに、ドブドブと泥沼にはまっていっているような……。

「こ、この変態がっ~。一体どれだけひどいことを自分がやっているのか、わかっているのか」

「違うんです! 落ち着いてください! 信じましょうよ、人間の誠実さってやつを! もしかしたらこれは『全部偶然とすれ違いから生まれた、悲しい事件なのかも知れない』って想像力を働かせましょうよ。俺は! 絶対! 無実だ! 誰でもいいから、弁護士を呼んでくれ!!」

 反駁されないよう、物凄い剣幕で言い募る。その迫力に気圧されたのか、その場にいた全員の時が示し合わしたように一瞬停止する。

 それは少年の無実を信じているというよりは、少年と関わることの危険性についてたじろいでいるような、そんな顔面蒼白な顔を一様に並べていた。

 これならば、なんとか切り抜けられる! と確信していると、

「あのー、すいません。俺の野球ボール、その人に盗られたんですけど」

「なあっ!?」

 坊主頭の集団が包囲網を敷いて差し迫ってきた。

 痴漢だけでなく、盗難の現行犯という濡れ衣が合わさったことにより駅員の眼光の鋭さが増す。

 これで決まりだな、と最早警察に連れて行く気満々のしたり顔。

 どんな言い訳も通じないような最悪の状況で唯一できることといえば、笑って誤魔化すことぐらいだった。

「ハハハハ。こいつは困ったなあー」

 冤罪の少年――弓張月が笑うと、アハハハと年寄りな駅員も笑顔を返しながら、かなり強めに肩を掴んでくる。それはハートフルな笑いには最もほど遠い、凶悪犯を追い詰めることができた達成感による作られた笑みだった。


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