瞳の隙間から覗くのは
瑞穂は自分の輪郭がほどけてするすると抜け落ちていくような感覚を覚えた。ぽかぽかと暖かいまどろみのなかでずるずるとずり落ちていくような感覚を覚える。こんな風に、ああ夢だと自覚するような夢を見始めたのは、ここ数ヵ月辺りだろうか。
夢のなかで彼女はなにかとてつもなく大きなことをしてしまった。戻りたくても戻れなかった。分水嶺はとっくに越えてしまっていて、先へと進み進み、例えその先に虎が大きな口を開け瑞穂をいざ食べゆかんと待ち構えているとしても、例えその先が彼女の望んだ未来ではないとしても、例えその先がなんの憂いもなく笑い合える日常ではなかったとしても、ただ進み続けるしかなかった。しかし彼は、そんな瑞穂に真正面からぶつかり(もしか したら彼も彼で自らに決着をつけようとしていたのかもしれないが)最後まで何とかして瑞穂を守ろうとしてくれた。
彼。
彼とは誰なのか? ということが彼女には思い出せない。掴んだ瞬間、消えてしまいそうな、この上なくはかなく、そしてこの上なくやさしい、幸福の塊だった。拭いようのない失態を許してくれた相手でもあった。挫けそうな時、肩を抱き抱えて支えてくれた相手でもあった。
彼。
彼とは誰だろう。いや、彼は一人ではなかった筈だ。彼の周りには常に大勢の人がいた。様々な人間が彼の周りにいた。全てを含めて彼であったのに、全員の顔が瑞穂は思い出せなかった。
するり、と細かな糸が一本づつ寄り合わされ瑞穂を再構築していく。光の粒子の集合体のような、春の宵の夢のような、なんともいいがたい儚げなものたちが現実となっていくのを感じるのはいつもかわりなく目覚めの合図だ。どろどろとした混濁の中でこちらを振り向く彼の姿が離れてゆき、瑞穂が彼の手をとろうと伸ばした手はいつものごとく空を切った。
空虚な部屋にけたたましく鳴り響く目覚まし時計を手探りで止めると、瑞穂は暫し夢の中の温もりを探し求めるかのように布団にくるまる。
もう高校生になったのだから、と両親は更に輪をかけて放任主義になり、その影響か彼女に朝を共にする人物がいることは少ない。クラスの友人たちよりワンオクターブ高い声で今日の天気を告げるお天気お姉さんを横目に見ながら、ネクタイを閉め鞄の中身を確認する。昨晩数学の宿題を取り組んだ後机に起きっぱなしだったことを思いだし、数学教師の後退した頭と耳に響くヒステリックなどなり声を思いだしながらぱたぱたと自室へ向かった。自室の扉を開け、ふと右を向くと鏡に写る自分と目が合う。後ろで一つにくくった黒く真っ直ぐな髪。平凡なセーラー服から伸びる白い手足。弓なりのまゆに低くも高くもない鼻。薄い唇と奥二重のひとみ。可愛くないとはいわないが、雑踏に紛れ込んでしまえばすぐにわからなくなってしまいそうな、そんな顔だ。いつも見慣れている平凡な少女のはずなのに、なぜかこれが誰か思い出せなかった。何かが足りないな、と思った。なにがだ。わからない。夢の中より縁取りがぼやけている気がした。ふわりふわりと糸が解けていきそうな何かが欠落した世界で彼女はついと鏡から顔を背けると、コンタクトを装着するように、現実の世界を手に取った。
なんだか物足りない日常への違和感を頭の奥に押し込め、あわただしく準備を再開する。しがない女子高校生の朝はそんなに優雅ではない。鞄に荷物を詰め込み、ジャケットを羽織り、扉を開ける。
数分歩くと、中学から一緒の見知った友人が瑞穂を見つけ、小さく手を降ってきた。瑞穂は少し拝むようなポーズをしながら歩く速度を早める。
ここは彼女が幼い頃から渇望した非日常ではないが、親しい友人と馴染みの町並みにかこまれ、彼女は満足していた。
しかし、ここ最近、あの夢を見るようになってからだろうか、何かがぽっかり抜け落ちてしまったような、まるでなにかひとつの色だけが欠落したように世界を感じる。この生活はとても楽しく、自ら進んで選んだ道のはずなのに、なぜか、なぜか、ここではな い、と感じる。違う、ここではないのだ、と。ぼんやりと虚空を見つめながら思い出していたのは、小学校で一緒だったが都会にいってしまいそれ以降疎遠になっていたある友人の姿だった。
夏休みについてのありきたりな注意事項をぐだぐだと話す中年の担任教師のか細い声と耳を揺さぶるような蝉の鳴き声に耳を済ませながら、何の気無しに窓のそとを見つめる。普段ならば、真面目な彼女がよそ見をすることなどあり得ないのだが、ここのところ、ふと気がつくとこのあたりの風景を眺めている。高台にある瑞穂の学校からはゆるやかな丘陵や町の中心部を流れる川などが見下ろせ、その屋上は若い恋人たちの格好のデートスポットと化していた。友人たちがこの景色を目にして、自らの架空の恋人へと思いを馳せるのに対し、瑞穂が感じるのは、やはりなにか物足りなさ、違和感であった。
自分はなぜ、ここにいるのか。
思春期にありがちな哲学的な問いだ、と一言で片付けてしまうこともできるありふれた問いであったが、「思春期」という一言に押し込めるにはあまりにもそれは切実で、不明瞭で、ひとりぼっちの家へ帰る夕暮れの道で騒がしい子供たちの声をふと耳にした時のような、つんと鼻を刺す感情に溢れていた。
夢のなかで触れる温かさにすがってしまいそうなほど、この世界はなぜか気持ちが悪かった。
そして夏休み三日目。なぜか瑞穂は東京都神田駅にいた。なぜだかはわからない。カレンダーで7月25日、という日付を見たとたん、なぜか神田駅の西口にいかなければいけない、思ったのである。しかし、
「帰りたい。」
今まで感じていた日常への違和感をぬぐいさるほどの人。人。人。夏休み中、さらには夕方4時という時間帯も合間って、西口改札はかなりの群衆を抱えていた。
しかし、彼女の言葉とは裏腹に、彼が何故か懐かしさや、もどかしさを感じていたのも事実であった。あと少しで彼に手が届きそうな気がする。無意識のうちにふらりとてを伸ばし、神田駅西口商店街に足を向け――――
「っといつまでそこにいるんだよ瑞穂!」
彼が意識を失う直前に見たものは、その言葉と、目の前に迫った重力に身を任せた重々しい植木鉢、そして、確かに腕に感じた指の感触と、懐かしいあの声だった。
暗転の世界が、くるり、と回され、目の前には自分を心配そうに覗き込む白衣の青年と、清潔な家具でシンプルにまとめられた高級マンションの一室が広がった。
「あ、瑞穂ちゃんおきたかい?大丈夫?目の前に大きい植木鉢が落ちてくりゃあそりゃびっくりするよね、どこか痛いところはない?」
手をぬぐいつつ、そう訪ねてくる青年に瑞穂は、ああ、大丈夫です、と生返事を返す。どういうことなのだろう。やはり、あの世界は本当の世界ではなかったのか。
夢のあまりのリアルさに驚くも、それよりなにより、自分の感じていた違和感が本物だったということ、そして、戻ってこれたということに安心感を覚える。いや、あちらの世界は本当ではないのだから、いつかこちらにもどってくるというのは当たり前なのだろうが、今は、神というものがいるのならば、無性に感謝したい気分であった。
「壮一くんが君を担いできたときは驚いたよ。必死な顔でさあ、『瑞穂が死んじまう!!』って。話を聞いたら植木鉢が落ちてきたとか言うからさあ。びっくりしたよ。しかも、植木鉢を落としたのが凛さんだっていうじゃない?いやあ、偶然ってあるものだねえ」
「ちょ、京介、何余計なこといってんだ!!」
怒号とともに部屋に飛び込んできたクッションのあとに顔を表した、墨のように黒く艶のあるまっすぐな髪の毛と鬼のような表情の持ち主は、瑞穂を見るとすぐさま眉尻を下げ、すまなさそうにぼそぼそと大丈夫か?とつぶやいてきた。
大丈夫ですよ、と返した瑞穂の言葉に心底安心したように顔をほころばせると、ちょっと待ってろといい、元来た道を引き返していく。
彼女の行動の意図がつかめず首をかしげていると、ばたばたと騒々しい足音が聞こえてきた。弾丸のごとく部屋に入ってきたのは彼がずっと手を伸ばし続けていたあの少年であった。
「壮一」
「大丈夫だったか、瑞穂!お前が珍しくぼさっとしてると思ったら、凛さんの落とした植木鉢が目の前に落ちてくるんだもんなあ、ついてねえよ!」
そういってにかっと笑った壮一は、本当に大丈夫か?とでもいうように瑞穂のからだをぺたぺたと触り、自分で心ゆくまで彼女の安心を確かめると、
「歩けるか?歩けるようなら送ってくけど。ひとりで動くのが辛かったら俺の家にとまってもいいぜ。」
と声をかけてきた。壮一の言葉に、首を時計の方へと向けると、ちょうど短針が11時ぴったりを刺したところであった。
「そうだね、もう大丈夫だし。帰ろうかな。京介さん、ありがとうございました。凛さんも、大丈夫ですからお気になさらず、ありがとうございました。」
目を覚めた後、慌ただしくベッドを降りると二人にそう告げながら深く頭を下げ、壮一とともに出口へ向かう。
京介と凛に見送られながら扉の外へと足を踏み出すと、夏特有のねっとりとした生ぬるい空気が二人を包んだ。
マンションを出て、比較的人通りの少ない小道を二人で歩いてゆく。数ヶ月前から付き合い始めた二人は、どちらからともなくそっと手を取り合っていた。
言葉は少ないながらも、瑞穂は、壮一がいるというだけで、この沈黙にとてつもなく満足感を感じていたし、これこそこの手から取りこぼしてはいけないものだと、再認識していた。
星の瞬きは、瑞穂がかつていた田舎とは比べ物にならないほどくすんでいたが、それでも、彼女にとってこの街はもう、彼女の故郷であった。それほどの人物がここにはいたし、それほどの出来事が、ここではあった。これから成長し、色々な所へその身を移したとしても、自分が最後に帰ってくるのはきっとこの街で、その時にはきっととなりに壮一がいるのだろう、ということも瑞穂は心のどこかで確信していた。
かつて、彼女が渇望していた非日常はとっくに彼女の日常と化し、彼女を刺激するものではなく、彼女を優しく見守り、暖かく包み込むものとなっていたのだ。
非日常を渇望していると口にしながらも、彼女が心の奥底から本当に渇望していたのは、この日常の継続であった。そのことも、そしてそれは、この日常にこの壮一、という一人の少年がいるからであろうということも、瑞穂は気づいていたのだ。しかし、見ないふりをしていた。非日常への渇望を口にし続けてきた。ここで、非日常への渇望を諦めてしまえば、今までの自分の行動を全て否定することになりやしないか、全て無に還るのではなかろうか、という漠然とした不安を新聞紙を丸めるかのようにいとも簡単に握りつぶし、こっちだと手を引っ張ってくれたのは、ただ、ただひたすら瑞穂の手をそっと握るこの無骨な手であった。
「壮一」
飴を舐めるかのように、ゆっくりと愛おしみをこめて瑞穂はその名を口にする。ん?と振り返った少年の影と自らの影を重ねると、瑞穂はもう離さない、とでも言うかのようにそっと壮一の手を握り直した。