恩讐不要 (Bパート)
西地区、喫茶「やすらぎ」にて。
こうして寒い時期になると、どうしても温かい紅茶が飲みたくなってしまう。そして、紅茶を飲むとなると何かしらお茶菓子が欲しくなってしまうのだ。抗うことのできない魅力に、アクセサリー屋のフィリュネは耐えられなかった。
「ドモン様から紹介して頂いたのは、本当にラッキーでしたよ」
ふわふわした銀髪を軽くまとめ、黒い給仕服に身を包んだ小柄な青年が、ガトー・ショコラの載った皿を差し出した。途端にフィリュネはそれに目を輝かせる! ケーキは手作り、紅茶は絶品……それでいて、一ヶ月間フィリュネはここに通い放題になってしまうというのだから、人生はわからないものだ。
「それにしても、リング一つ用意していないっていうんですから、了見を疑ってしまいますよ。フィリュネさんに頑張ってもらえなかったら、どうするんだって叱っちゃいました」
焦げ茶色の甘い城にフォークを通すと、どっしりとしたケーキの端をフィリュネはそのまま口に放り込む。ほろ苦さとふわっと香るカカオの薫り。まさしくチョコレートの城である!
「いいじゃないですか、マリアベルさん! 『始めっからダメでも終わった後なんとかなってりゃいい』。そういうことわざもありますから」
マリアベルはそうですね、とはにかみ笑った。彼は以前、違法デートクラブで働いていたが、とある事情で店が無くなってしまった後、密かに貯めていた金でこうして喫茶店を開いたのだ。これがまた甘いものから飲み物にいたるまで、中々にレベルが高いと評判なのだ。
「てえんちょお~。コーヒーとガトー・ショコラ二つ追加よ~」
「今行くー! ちょっと待っててくれるー?」
調理場から裏返った声が響き、マリアベルは元気にそれに答える! 以前の店の従業員を、まるごと引っ張ってきたのだ! 彼らは全員男だが、女性らしい繊細な心を持ち合わせ、それが各自遺憾なく発揮されていた。物珍しさもあってか、中々に評判をとっているのだ。
「あの、フィリュネさん。何度も申し訳ないんですけど、本当にいいんですか? あの二人、結婚資金が無いくせに、ちゃんと宝石がついたリングが欲しいなんて言ってて、あなたが損をしてないか心配なんです。うちの店で一ヶ月食べ放題っていっても、たらないんじゃ……」
フィリュネはもう一口で残りのガトーショコラをまとめて放り込むと、頭を振ってそれを否定した。カップルが用意出来たのは、金貨一枚だけ。宝石を使ったペアリングを作るためには、金貨がもう二枚ほど足らない。
しかし、フィリュネにとってみれば、この店で飲み食いが一月自由になることのほうが重要なのだ。ソニアからも、許可はとっている。気兼ねの必要など無い。
「二人のこれふぁらは、おふぁねがたくふぁん……かかりますからね。逆に、いいんですか? 私食べますよ? お店が赤字になっちゃうかも……なんて」
二人は顔を突き合わせて笑った。彼もひどい目にあったが、今は元気そうにしていて何よりだった。
「今ちょうど、職場にソニアさんが届けに行っているところですかね。多分、喜びますよ!」
「私も、反応を見るのが楽しみですよ」
南地区の安ホテルの一室が、二人の秘密基地となった。シシリアは軋む年代物の椅子に腰掛け、キングにベッドに座るよう促した。
「それで、バウアードさん。早速だけど……」
直後、キングはシシリアへと詰めより、襟を掴み右腕を首に押し付けた! これは戦場で武器がない状態でも戦えるよう王国の兵士たちが身につけていた格闘術の一つで、頸動脈を圧迫する技だ! 首が締めあげられる感覚に、シシリアは苦悶の表情を浮かべる!
「いいか、始めに二つ言っておきたいことがある……一つ! 俺をナメるな。君も知っている通り、俺はプロだ。どんな仕事でもやる……だが仕事には信頼がいる。ナメた真似をしてみろ……俺は君を即座に殺す。二つ! 信頼とは裏切りがないことだ。嘘がないことだ。俺は仕事のために嘘をつくが嘘をつかれるのが嫌いだ! その場末のバーのコメディアンみたいな臭い演技をやめろ!」
シシリアが苦しそうに頷くのを見て、キングはようやく腕を離した。シシリアは即座に立ち上がると、キングを平手で殴る! キングは微動だにせず、反撃もしなかった。予め彼女がそう行動するのが、分かっていたかのように。
「当然の権利だ」
「……ミスタ・バウアード。いつから私が『演技をしている』と思ったんですか?」
キングは窓の側に移動すると、ほこりだらけのブラインドをこじ開け、外を見た。目の前は、別の建物の壁だ。
「君はとても魅力的な女性だ。魅力的な女性というものは、多かれ少なかれ、外見に見合った形で立ち居振る舞いに無駄がないものだ。当然、話し方もそうだ。君は、話す度に何か違和感があった。故郷が違う人間が、別の国の言葉を喋ったような違和感がな。嘘をつかれたと思うのも無理は無いだろう」
「さすがですね」
シシリアは再び椅子に腰掛け、足を組んだ。キングもまた、ベッドに腰掛けた。殺風景な部屋だ。小洒落た絵一つ無い、タバコのヤニで汚れたようなくすんだ壁のホテル。
「ではあなたに敬意を払って、私の事を少しだけお話したいのですが」
「仕事に関係あれば聞きたい」
「大いに。……お話したいのは、私がなぜあなたに辿り着いたのか? ということです、ミスタ・バウアード。単刀直入に言えば、私は触れたものの過去を読み取ることができるんです」
キングは大して驚かなかった。それどころか、話を進めるよう、小さく「続けて」とまで言ってのけたのだった。かつてキングは、魔国へ潜入し、魔法研究の第一線を垣間見たことのある男である。そうした知識は、シシリアのような異様な能力を持つ人間の存在を容易に肯定できたのだった。
「弟さんの墓にあなたが置いたナイフから、私はあなたにたどり着いた。人でも、物でも、私が触れたもので過去を読み取れないものはありません。そしてそれは同時に、死者の声を聞く事さえできるということ。厳密に言えば『死者の過去を読み取る』ことができれば、今回の『仕事』はすぐに終わるというわけです」
「だが君はできなかった。墓場に行ったのは、死体から断罪人の正体を知るためか?」
「その通りです、ミスタ・バウアード。……私は、流れ者の探偵です。死んだ恩人からは、この世の中を『探偵として』渡っていくために色々教わりました。……まあ、探偵などと言えばまだ聞こえはいいのですが、所詮はただの一般人です。あなたと同じく無茶をやれば、憲兵団に捕まっておしまいという事実は変わりません」
キングは頬と口を手で撫でた。彼女の分析に間違いはない。キングはただの肉体労働者で、行政府にコネなど残っていない。話を聞く限りでは、シシリアもそうだろう。
「シシリア。記憶を読み取って、俺まで辿り着いたと言ったな。同じように、君は殺された恩人から記憶を読み取ろうとした。その死体を掘り起こす事はできなかった。そうだな」
「ええ」
「君の記憶を読み取る能力は、確かに使える。しかし、死体にこだわる必要はないと思う」
キングは手を組み、顔をシシリアに突き出した。シシリアは微動だにせず、美しい青い瞳で、キングをただ見ていた。
「……俺に作戦がある。だがその前に聞きたい。君は仕事だと言った。元に俺もそう思っている。報酬は、一体何だ。死んだのは、確かに俺の弟だ。できることなら、仇をとってやりたい。だが復讐をするだけなら、正体の分からない殺し屋相手に、リスクが大きいだけだ。返答次第で俺は降りるぞ」
シシリアは形の良い唇に人差し指を当て、何度かそのままなぞった。指を離し、彼女は淡々と告げた。
「失った名誉を取り戻す。断罪人を捕まえた男として」
「俺はもう死んだ男だぞ。名誉もクソもない」
キングはせせら笑った。まるで、自らのこれまでの全てに泥をかけるように。
「別人としてですよ、ミスタ・バウアード。私は探偵、その手の情報を扱うのは得意です。捏造するだけの能力を持った人脈もある。あなたは、あのゴミの山から、表舞台にもう一度上がる権利を得る。私は、シスターの仇を討つ。それで、おしまいです」
シシリアも笑った。キングに向かって、せせら笑った。彼はそれが何を意味するのかを、正確に感じ取ることが出来た。不甲斐ない男だ。決意も出来ない、捨てられた男。
俺は、ゴミの中から這い上がらなくてはならない。ポケットの中で、黒い機械を握りしめる。マリカの声が聞きたい。だが、俺は、俺の力でやり遂げなくてはならないのだ。
憲兵団本部。
あいも変わらずデスクの上に突っ伏し、惰眠をむさぼる男が一人あった。何やら言葉にならぬ寝言をもぞもぞと言っているようだったが、隣で書物をしている同僚──サイの呼びかけにも応じる様子はない。
「ドモン。朝から寝てるってのはどういう了見なんだよお前。いつだったら眠くないんだ」
今日はガイモンが騎士団と遊撃隊の合同会議に出席しているので、不在にしている。よって、ドモンを咎めるものはいないのである。
「勘弁して下さいよ、ガイモン様みたいなことを言うのは……昨日は遅番で、辛いんですよ……こうして来てるだけでも……マシって……」
再び寝息を立て始めるドモンにため息を吐きながら、サイは自分の書類を片付け始めた。インク壺に羽ペンをつけたその時、これまた同僚でベテランの憲兵官吏、モルダが話しかけてきた。あごひげの長い、定年退職寸前の彼は、ゆっくりと用件を話し始める。
「ドモン君。これ。ドモン君。……起きとらんのかね?」
「言うだけ無駄ってもんですよ、モルダさん。昨日は夜更かしだったそうで」
「そりゃ災難じゃの。……実はの。すごい美人が来とってな! なんでも、この間のほら……孤児院のシスターが殺された事件。あれについて確認したいことがあるとかで、二人連れで来ておるんじゃ」
すごい美人。ドモンが飛びつきそうなワードだが、ちらりと見た限りではドモンは起きそうにない。あのシスターが殺された事件は、結局犯人がわからずじまいで、次々に巻き起こる事件に埋もれていった結果、忘れ去られた。イヴァンで憲兵官吏が所掌する事件は、それこそ多数に渡る。全てを解決に導く事はできず、こうして迷宮入りすることも少なくないのだ。
「たしかあの時、ビリーさんも亡くなったんですよね。寡黙だったけど、良い人だったのに」
「うん。惜しい者を亡くしたわい……お、そうそう。それで、お客の話なんじゃがな。要は、閉鎖された孤児院の中を見たいと言うんじゃ。薄気味悪がって、土地も誰も買い手がおらんから、今のところ憲兵団で管理しておるからな」
「しかし、ガイモン様がなんて言うか分かりませんよ」
「構わんよ、どうせ。まわりまわって、暇そうなワシかドモン君に振られるだけじゃ。遅いか、早いかだけの違いしか無いわい。で、どうせなら喜びそうなドモン君にお願いしようと思ったんじゃが」
モルダは白く長いあごひげをしごきながら、少々呆れた面持ちでドモンを見た。会話がなされている最中も、起きるつもりはないらしい。このまま昼間で寝ぼけるつもりだろう。
「ま、この調子ではどうにもならんじゃろう。すまんな、邪魔をして」
「いや、そんな。悪いのはドモンですよ」
モルダは口元をふがふがさせながら、おかしそうに笑った。
「違いないわい」
「……というわけで、孤児院の中の取材ということならば構いませんぞ」
モルダはゆっくりとした穏やかな口調で、必要書類を差し出しながら言った。女はそれを受け取り、羽ペンで美しいサインを書き始めた。
「しかし、新聞記者も大変ですのう。憲兵団などに足を運ぶのは、気兼ねされるでしょうにの」
「いやあ、仕事ですからね」
男は、大きな黒いレンズのメガネをかけ、古ぼけたスーツを着ていた。怪しい風貌だが、人好きのする笑顔を見せながら言った。
「なにせ、シスター・ラビは慈悲深いお方と有名でしたし、あのへんでやってる孤児院は少ない。今後、イヴァンでも問題になっている戦災孤児の受け入れ問題は、未だ根深いテーマです。我々の取材は、意義あるものですから」
モルダの手前には、男の名刺が置かれている。書かれている名前は「フランク・フリン」。女は、彼の助手なのだという。
「では、これで」
女が書類を差し出し、モルダがそれを見もせずまとめた。ガイモンに提出するのだが、ガイモン自身もこんな書類は見もしないだろう。作らせたという事実が重要なのだ。
「お、ちょっと待ってもらえるかの? すぐ戻りますでのう」
モルダがいなくなたっとたん、フランクは──いやキングは、ふうと息をついた。こうした潜入任務はお手のモノだったが、急ごしらえの設定と名刺でうまくいくかどうかははっきり言って博打に等しかった。
「うまくいったようですね」
「ああ。これで、孤児院の中を見ることができる。シスターは中で殺されたんだろう」
「その通りです。中に入り、シスターの死んだ現場の『過去』を見ることができれば」
キングは頷いた。そう、シスターが死んだ現場に触れ、過去を見ることができれば、シスターを殺した人物の姿が分かる。
「……すまない。少し席を立つ。あの憲兵官吏が戻ってきたら、話を聞いておいてくれ」
キングは落ち着かない様子で立ち上がると、応接室を飛び出した。憲兵団本部のホールだ。行き交う憲兵官吏。ここでは人が多すぎる。くしくも、キングと同じような黒いメガネの男が、何やら大柄な男に小さな箱を手渡していた。
「……クソッ! おい君!」
「な、なんですか?」
意外にもつぶらな瞳の気弱そうな男であった。しかし今のキングには関係ない! 彼はその男の肩を掴み、まるで詰め寄るように肩を揺らす!
「どこだ……どこにあるんだ!」
「おいあんた、落ち着けよ。なんだって言うんだ」
くわえタバコの黒メガネが、なだめるように言うが、キングは意に介さない!
「どこにあると聞いているんだ! 手洗いは! 早く言え! 言うんだ!」
「そ、そこの角を曲がって……右ですが」
「右か! クソッ!」
間に合わない! キングはぶるぶるとスーツのポケットに突っ込んだ右手を震わせながら、トイレへと走る! 残された二人の男──一方は、アクセサリー屋のソニアだ──は、呆然と立ち尽くす他無かった。
「何だありゃあ。お前の知り合いか、ジェイク」
ジェイクは首をかしげながら、ぽつりとつぶやいた。彼は駐屯兵で、この憲兵団本部にはモルダの手伝いでよく来るのだが、今までに全く見たことのない人物であった。
「へ、へえ……自分には分かりません。……と、とにかくソニアさん。確かに受け取りました。これで、結婚式が上げられます」
ソニアはぼりぼりと頭をかき、照れくさそうに紫煙を吐いた。アクセサリー屋はこうしためでたいことに立ち会うことも多いが、どうにもなれない。
「ま、俺にはよく分からん世界だが……せいぜい幸せにやるんだな」
「おや、フランクさんはどちらに?」
シシリアは背中をすっと伸ばした状態で、上品に美しく紅茶を飲んでいた。静かにソーサーとカップをテーブルに置くと、静かにその問いに答える。
「お手洗いにいったようです。用件に続きがあるようなら、聞いておいてくれと」
モルダは得心した様子で微笑むと、白いあごひげをしごいた。
「そうですかそうですか。それでの。孤児院の土地は知っての通り、現在憲兵団……つまり国の管理に置かれておっての。あなた方を疑うわけではありませんが、一応立会人をつけさせてもらいたいんじゃよ。……入りなさい」
大きな身体を小さく丸めて、その男は入ってきた。大柄な身体に似合わぬ、つぶらな瞳。もみあげから繋がったあごひげは男らしさを感じさせたが、どこか気弱な印象が拭えない男だった。
「彼は駐屯兵のジェイク。ジェイクや、結婚式の準備は進んでおるのか?」
「へ、へい旦那、お陰様で……。僭越ながら、自分が立会人を務めさせていただきます」
シシリアは彼に軽く会釈をしながら、予想外の事に心のなかで舌打ちする。孤児院での調べ物で、ケチをつけられてはたまらないからだ。しかし、それが条件ならば、飲む他ないだろう。
「分かりました。彼──フランクも、それは了承するでしょう」
既に、シシリアの分の紅茶は無くなっていた。あれから十五分は経っただろうか。妙に時間がかかっている。モルダはというと、のほほんとした調子で、ジェイクにも紅茶を淹れてやっているようであった。
「しかし、お前さんがの。世の中には色々あるもんじゃ。わしも長生きしてみるもんじゃのう」
「旦那にゃ、世話になり通しで……俺、金そんなにないですから、結婚式もやめようかと思ったんですけど……」
「水臭いことを言うでないわ。……フランクさん、遅いですのう」
あなたは大丈夫ですよ、キング。だって、今までだってうまく行ってきたじゃないですか。
「マリカ……俺は……俺は怖い!」
私がサポートします。大丈夫よ、キング。シシリアは、確かにおかしいと思う。でも、彼女はあなたにチャンスをくれた。その恩義には報いるべきだわ。
キングは、荒い息を吐きながら、耳に機械を押し付け、トイレの床に座り込んでいた。すえた臭いの中でも、彼にとってはマリカの声を聞くことが唯一の精神の平穏を保つ方法だったのだ。
「そうか……ああ。そうだな。すまない。うん。分かった。またかけ直す」
キングは顔を手で拭い、手洗い場の水桶から水をすくうと、それでバシャバシャと顔を洗った。前から、眠そうな顔の憲兵官吏がトイレに入ってきたのに気付かず、肩が触れた。
「や、失礼しました」
「気をつけてくれ」
その憲兵官吏は、眠そうな目をごしごしこすりながら、ぶつかった男のことを見つめ続けていた。トイレの扉が閉まり、彼は首をかしげながら、ひとりごちた。
「……どこかで、会ったような。気のせいでしょうかね」