妄執不要(Cパート)
「旦那さんもついてませんね」
フィリュネが紅茶をすすりながら吐く言葉の一つ一つが、ドモンの心に突き刺さる。辛い。彼女は純粋に慰めてくれているのだろうが、ドモンにとっては言葉の棒でぶん殴られているようなものだ。
「もうやめてもらえませんか……これでも凹んでるんですから」
ここはヘイヴン外れのいつもの喫茶店である。フィリュネはドモンの憲兵官吏としての情報収集を担当することも有り、こうして安いケーキセットで情報収集の結果を聞くことも度々ある。
「で、いつになったらその腕治るんですか?」
「実はこの後、一度診察を受けてから治癒魔法の術者を決めるとか。なんでもいいから、さっさと治して欲しいもんですよ。休みは休みですけど、怪我してるからなんにもすることありませんし」
家に帰ればセリカがいる。こんな不名誉な怪我では、小言を言われるのも数度では済むまい。フィリュネはそんな彼を尻目に、おいしそうにケーキを口に運ぶばかりだ。それどころか、少し楽しそうにすら見える。
「……もしかして、喫茶店に誘ったのって……私からセリカさんにとりなして欲しいから、なんて言いませんよね」
「ダメですか」
「正直面白いので、ほっぽっておきたいんですけど」
ドモンは三角巾で釣り上げた腕で慎重に腕組みをしつつ、少しだけ考えた素振りをした後、メニューを差し出した。
「ケーキ、もう一個注文しませんか」
フィリュネは満面の笑みでメニューを受け取ると、元気よく店員を呼ぶのだった。
イヴァン東地区、飲み屋街。
いつも飲みに付き合ってくれるイオがいないので、仕方なしにソニアは一人で飲み屋街へと繰り出した。火薬を切らしたのでいつも火薬を仕入れに行く業者の元へ向かったのだが、なんと産地に買い付けに行っており、一週間は戻らないらしく、彼は完全に無駄足を踏んでしまった憂さ晴らしといったところだ。
ソニアは孤独を愛する男であった。俗世間から完全に離れて過ごしたい、そういうわけではなかったが、一人でゆっくり考え事をする時間を大切にしていた。普段は入らぬ別の居酒屋に入るのも、また一興だろう。ふと目についた居酒屋に飛び込み、カウンター席に座ると、帝国製ビールとパンをガーリックでトーストしたつまみを注文し、ちまちまとやりはじめた。小さな店だが、客は満員で活気づいている。
「で、ベアトリクスさんはその理論について意見が欲しかったってんすか」
隣の席には、小柄な金髪女と、茶髪の背の高い男が、既に何杯めかのワインを煽っていた。女の方は子どもと見紛う程の小ささであったが、語り口を聞くにこの男の上司のようだ。
「馬鹿らしい戯言よ。新治癒魔法の理論が完成した? その実穴だらけでどうしようも無いじゃない、どう意見しろっていうの。あの子も、もう少し頭がいいと思ってたけど」
「そうはいっても、ペコさんもちょっとくらい手伝ってあげればいいのに。俺なら意見、ばしばし出しちゃいますよ! 美人のベアトリクスさんのためなら」
男のほうが頬杖をつき、ここにはいない『ベアトリクス』を想っていたであろうところ、隣の金髪女が軽く殴った。
「貴方、どうせあの子の胸しか見ていないんでしょう」
「そんなことないっすよ、ペコさん! 自分、治癒師の中ではペコさんもベアトリクスさんも同じくらい美人だって……」
「カフカ。男の軽口ほど見苦しい物はないわ。黙りなさい」
そう言うと、ペコは最後に残ったワイングラスの一杯を一気に飲み干した。良い飲みっぷりだ。
「……すまないが、あんたは治癒師の先生かい」
ソニアはパンを口に運びながら、ペコに話しかけた。彼女は訝しげな表情を浮かべるのみであったが、となりの男──カフカはそうではなかったらしかった。
「そうなんす! ペコさんは、治癒師の中でも一番の実力なんす! 自分は、ペコさんのとこで勉強してる……一番弟子みたいなもので!」
「黙りなさい。……申し訳ありません。仕事帰りで疲れてますの。こんな時ぐらい、そっとしておいて頂けないかしら」
タバコの灰を落としつつ、ソニアは少し笑いながら頷いた。誰しも、こうした居酒屋という空間の中では客でしかない。無作法な物言いだったことに間違いはない。
「すまない。実は知り合いの憲兵官吏の旦那……ドモンってんだが、近々治癒師の先生に治療してもらうらしくてな」
「ドモンさんなら、今日申請が来ましたわ。明日診察して……大体三日後に施術のスケジュールを入れる事になると思います。私か……私の同僚のベアトリクスが担当することになるでしょうね。腕は保証しますわ」
ペコはにこりともせず、ただ淡々と事実を述べた。どうやら、愛想を振りまくことをしない人間のようだった。ソニアは短く礼を言い、ビールジョッキを持ち上げて、再びただの客に戻った。しかし、カフカと言う青年はこちらに興味をもったのか、まだ話しかけてこようとするのだった。
「あの、ペコさんも美人なんすけど。ベアトリクスさんって治癒師の先生も、すごい美人なんす。胸も……スタイルも凄いっすし」
「胸も」
ソニアは一言抜き出して言った。カフカはにんまり笑い、ベアトリクスがいかに美人かを話し始めた。ペコは注意する気力も無くしたのか、一人ワインボトルとチーズを追加し、弟子の軽口をBGMにして手酌をはじめたのだった。
「……で、何よりベアトリクスさんは凄いんす。完全治癒魔法の理論を作ったんす。……ペコさん曰く、まだまだ未完成だってことっすけど──これが実現すれば、不老不死も思うがままなんす! すごくないっすか!」
「興味深いな。……俺はごめんだがね」
もはや顔が赤くなりつつあるカフカは、どうして彼がそんな風に言うのか理解できなかった。カフカは若い。どうせなら、若いままで生きるほうが良いのだろう。
「死ぬべき時に死ねる方が気楽ってもんだぜ。若いままでもずるずる生きるのは、俺はごめんだ」
ソニアは金を支払い、新しいタバコに火を点けた。そのまま立ち上がり、軽く二人の男女に手を上げながら、店を去っていった。
翌日。ドモンはセリカが妙に優しく送り出してくれたことに疑問を持ちながらも、帝国医薬薬学研究所の診療棟に向かっていた。よくよく考えてみれば、送り出す直前のセリカが、見たことのないネックレスを下げていたような気がする。どうやらフィリュネがうまくやってくれたようだ。
「持つべきものは巨乳の友人ですかねえ……ソニアさんさえいなけりゃ、こう……アレしたりナニしたりしたいもんですが」
虚空を手で揉み、オッさん臭い事をぶつぶつ呟きながら、ドモンは受付を済ませた。行政府直属の医療機関と銘打つだけあって、清潔感のある白い壁や床がまず目に入った。白衣を纏い肩で風を切りながら行き交う研究員と思しき人々は、忙しそうにしている。とりあえず座るように促されたドモンは、落ち着かない様子で呼ばれるのを待った。
「ドモンさん、第三診療室へどうぞ」
鈴が鳴るような声で呼ばれたドモンは、そろそろと診療室へと滑りこむ。待ち構えていたのは、長い足を組んだ茶髪の女医──いや治癒師だろうか。
「診察を担当させていただく、ベアトリクスです。よろしくお願いします」
「や、これはこれは! なんとまあ美人の先生でしょうかねえ……ぜひ、よろしくお願いされたいです、ええ」
ベアトリクスはドモンの物言いに少し首をかしげながらも、簡単な問診を行った。治癒魔法は媒介を間違えると、副作用が発生する場合があるらしく、こうした事前のリサーチが必須となるらしい。
「や、しかし先生。実際の治癒魔法というのは、時間がかかるものなのでしょうかねえ? なにぶんこういった事は初めてなもんでして、ちょっと不安です」
「安心してください。ドモンさんの場合、治癒魔法の内容は骨折の治癒高速化です。これを魔法の本質──エネルギー操作という範疇に当てはめれば、部分的な時間の高速化に過ぎません。きちんとした媒介と、実力ある治癒師さえいれば、入院の必要さえありませんわ」
ドモンは大いに納得し、スケジュールを決めた。施術は、三日後の昼。ようやくこの邪魔な三角巾と包帯ぐるぐる巻きともおさらばだ。
「担当は、ペコという治癒師になりますので、当日受付で名前を呼んで下さいね」
ドモンは彼女の言葉にがっくり来たようだったが、帰りしなにこれ以上何も言えなかったようだった。
彼が去った後、次の患者が入ってくる。今日の診察担当はベアトリクスであり、今日の患者の診察の結果、施術担当の割り振りや、施術方針は彼女の思うがままなのである。逆に言えば、当日のスケジュールも治癒師次第で入れ替わるので、完全にベアトリクスがどうこうできるわけでもないのだが。
「失礼する」
ベアトリクスは羊皮紙にドモンの情報を書き終え、顔を上げた。身なりの良い二人連れだ。一人は、顔色の良くない少年。もう一人は、彼とよく似た顔の親。
「帝国貴族リカルド・ローテスだ。よろしく頼む、先生。どうか息子のロナルドを救って欲しい」
ローテス家。ベアトリクスは政争にはあまり興味を持たなかったが、存在は知っている。確か、帝国貴族六家の一つ、オズワルド家の家来の中でも、長きに渡って仕えた名家だったはずだ。国立病院からの紹介状まで来ている。あちらではお手上げだった、ということだろう。
「紹介状によりますと、悪性の腫瘍だとか……」
悪性腫瘍、いわゆるがん患者に有用な治療法は、現在確立されていない。手術によって患部を切除しても、再び腫瘍ができてしまい根本的な治療にならないからだ。そして、ロナルドのような小さな子どもがかかると、体力が続かず手術もできないためお手上げなのだ。
もちろん、治癒魔法においてもそれは同じだ。患部を消し去ったとしても、いずれ同じものが発生しないとも限らない。完全に治さなくては。完全に。
「……リカルド様。御存知の通り、この手の悪性腫瘍は確実に治る方法はありませんわ」
「治癒魔法でも、ダメなのか」
「根本的な解決にはなりません。──しかし、新しい方法なら別です」
ベアトリクスはにやりと笑う。ペコは、人の命で博打を打つなど言語道断だと言った。しかし、そうしなければ救えぬ命も確実に存在するのだ。
「ご子息を救う方法は、リスクの高い方法です。それでも良いと仰るのであれば──」
「息子が……息子が救われるのであれば。私はどんな方法にでもすがろう。この生命を、悪魔に捧げても良い……頼む、先生!」
リカルドはベアトリクスの前で片膝をつくと、神に祈りを捧げるがごとく固く自身の両手を握った。ベアトリクスは、自分がまさしく神になったような気分になっていた。
人の生命を、真に左右する存在になる。理論が証明されていないなら、実際に証明すればいいだけの話だ。
診察結果にすっかり安心したドモンは、医学薬学研究所の食堂で、左手を使い、食べにくそうにパンを口に運んでいた。ふわふわかりかりのできたてパンだ。さすが行政府付きだけあって、職員は良い物を食べている。
「や、あれは?」
ドモンが座った目の前のテーブルで、ベアトリクスが食事を摂っているのが見えた。ドモンにとっては残念なことに、なんと彼女の目の前には茶髪の男が座っているのであった。
「やっぱり美人はモテるんですねえ……」
ドモンはそろそろと近づいていき、二人が座っている隣のテーブルに移動し、なんでもないようなふりをして聞き耳を立てた。もしかすれば、ただの仕事相手かもしれない。もしそうであれば、ドモンにも一抹のチャンスは残されているはずだ。恋のチャンスは自分から引き寄せねば永遠に手にはいらないのだ。おそらく。
「……それ、本当ですか?」
「ええ。前ペコにも披露したのだけど、彼女に話した方法はまだ机上の空論だったの。……カフカ君、あなたの若い感性なら、理論の改良方法について何かヒントを思いつくかもしれない。……後で、ぜひ研究室でお話したいの」
カフカと呼ばれた青年は、でれでれと恐縮しながら頷いた。ベアトリクスは笑顔で手を叩く。
「決まりね。──後で、必ず来てね? 約束よ」
彼女が颯爽と去っていった後でも、カフカはまだでれでれと浮かれながら頭を掻いていた。一方ドモンは、イライラとまるで飲み込むような勢いでパンを咀嚼し、案の定咳き込み、水をがぶがぶ飲んだ。やはり自分には、なかなか恋のチャンスは回ってこないらしい。ドモンはがっくり肩を落としながら、その場を後にするのだった。