色事不要(Bパート)
ハリー・レオサイドの父親は、南側騎士団所属の騎士である。朝帰りを決め込んだ彼の視界に飛び込んできたのは、他ならぬ彼の父親の拳だった。吹き飛ばされて玄関から外へと転がったハリーは、似ても似つかぬひげ面の偉丈夫である父親に恐怖した。
「どこをほっつき歩いていた、貴様!」
突風の如き大喝に、ハリーはたじろぐ。ただでさえハリーにとって、父親──ミーシャ・レオサイドの存在は大きい。彼はまさしく騎士の鑑であり、それを家族にも押し付ける男であった。
そんな父親に反発し、ハリーがいかがわしい『遊び』に手を出すのは、至極当然な流れであると言えた。幸い、彼は兄弟の中の三男であり、家の事を気にする必要がなかったことが、それに拍車をかけた。
「父上、僕はもう一人前だ。どこで何をしようと勝手だろう」
「貴様……口答えを! するな!」
ミーシャの大きな平手がハリーの頬を捕らえ、高らかに音を鳴らす! 右! 左! 平手に合わせてハリーの顔は右を向き、左を向く! 不健康な白い肌に赤みが差す!
「何で二度もぶつんだよ!」
「ぶたねば分からんからだ、貴様は! 兄を見習え、馬鹿者が。お前は剣の訓練も続かず、手に職も付けず、学校にも行かなかった。挙句の果ての放蕩三昧だ! 今ここで変わらずいつ変わる……」
「なんなんだよ! 父さんはそうやって、自分の理想を押し付けることしかしないじゃないか!」
ハリーは確かにろくでもない人間だったかもしれない。だが、彼はどうしてもそれを自分自身のせいだとは断じられなかったのだ。
「口だけは達者だな。ならば、俺が何も言わずとも、自活していけるのだろうな」
ミーシャは髭で覆われた顎を手で撫で、懐から財布を取り出し、金貨を四枚投げた。黄金の光と高貴な音が、床に転がる度に舞い散った。
「餞別だ。貴様の顔など、見る気もせん。今日限り家を出ていけい!」
ハリーは、そのまま背を向けた父親を睨めつけていたが、床に落ちた金貨を拾い、壁にかけていた剣を取ると、何も言わずに玄関へと向かった。父親の言うとおりにするのは癪だ。だが、誰あろう自分が一人前であると宣言した手前、これ以上家に頼るのは恥ずかしかったのである。それに、マリアベルの事も気にかかる。
「くそッ……あの憲兵官吏め……思い知らせてやる」
ハリーはひとりごちると、騎士団住宅街からイヴァン中心部へ向かわんと、歩を進めるのだった。
「旦那。だーんな。何をぼーっとしてらっしゃるんで」
ドモンの仕事は、帝都イヴァンの自由市場、通称・ヘイヴンの見回りが主である。よって、ちょろちょろとうろつき回ると同時に、治安維持の名目で店の者と話し込んだりするのも常であるため、何か異常があればすぐ分かってしまうのだ。
「はい、何か?」
「何か、じゃありませんや。パン。買っていかないんで?」
いつの間やら、ドモンはいつも買いに並ぶパン屋の前に来ていたのだった。そういえば、昼飯をどうするか何も決めていない。何しろ、胸がつっかえたようにいっぱいで、腹が減らないのだ。
「あー……また今度にしますよ。じゃ、僕はこれで」
「え? ちょ、ちょっと! 旦那? ドモンの旦那!」
ふらふらとおぼつかない足取りで、パン屋の店主の言葉も振り切ると、ドモンはなおも見回りを続けた。頭の中も胸の内も、ドモンはあの日の事で一杯になってしまっているのだ。
「あ、旦那さん! 見回りご苦労様で……」
アクセサリーをならべながら、朗らかに挨拶したフィリュネにも一瞥すらせず、背を丸め、考え事をするかのごとく顎に手を当てたまま通り過ぎていった。異様な雰囲気に、まるで凶暴な魔物が闊歩しているかのごとく、人々が道を避けていく。
「あれ、聞こえなかったのかな……」
「どうしたんだ」
ソニアは手にタバコを咥えたまま、手に持ったアクセサリーから顔を上げた。既にドモンの姿は無く、人々が口々に何かあったのだろうか、とヒソヒソと話しているだけであった。
「さあ……なんだったんでしょう。ちょっとわたし、様子見てきていいですか」
「早く戻ってこいよ。看板娘がいないんじゃ困る」
ソニアは僅かに笑みを見せると、フィリュネが立ち上がるのを見守る。何か面白いことでも起こるのでは無いのか、という期待もこもっているのだった。
結局ドモンはその後もふらふらと歩くだけ歩き、これまたいつもの通り神父イオの教会へと入っていった。イオは懺悔室からちょうど出てくるところであった。イオは、いつも以上に脱力した状態でベンチに腰掛けているドモンに、幽霊でもみたように驚いた。
「……来てたんならいえよォ、旦那」
「知りませんよ。僕がここで休んでちゃいけないんですか」
「んなこたあねェがよ」
イオはドモンの隣のベンチに座り、聖書を置く。頬杖をつき、自身の額に拳をつけた。言いにくい。しかし言わねばならない。静寂に耐え切れず、口を開こうとした時、フィリュネの大声が聖堂に響く!
「やっと見つけました! どこ行ってたんですか、旦那さん!」
「嬢ちゃんじゃねェかい。店はどうした」
「ソニアさんにお任せしてます。それより旦那さん! ヘイヴンのみんな変に思ってますよ。いつもならお小言を投げつけたり賄賂をせびったりするのに、全然しないんですから。なにかあったんですか?」
イオは改めてドモンの顔を見る。確かに悩み顔だ。しかし悩ましげな顔の中に時折、憂いを帯びたような雰囲気が交じるのだ。イオは、こういう顔をする連中の事をよく知っている。イオは自他共に認める色男だ。よって女遊びも激しい。大抵は、その場限りの関係で終わったり、何度か会っても自然消滅したりすることもある。しかし時たま『遊び』で済まず、本気になる女も少なくないのだ。ドモンがしているのは、そうした『恋する』人のそれである。間違いない。
「……旦那、さては誰かに惚れたな」
「へ、は、えっ! いや、ははは、何を言っているんですか、いきなり!」
ドモンは顔を赤らめながら、手足をばたつかせた。まるで子供である。フィリュネはとたんにやらしい笑みを浮かべると、立ち上がったドモンの回りをちょろちょろと回る。
「なるほどなるほどお……つまり、あの旦那さんが恋しちゃってるってことですか!」
「あの旦那さんってどんなです! ぼ、僕が恋しちゃいけないんですかっ!」
「照れんなよォ。で、どこの店の娘だ? 多少は顔が利くからよ、セッティングくらいなら俺がなんとかしてやるよ」
イオがそういうのへ、ドモンはいつになく真剣な顔でイオに目線を向け、首を横に振った。
「や、違うんですよ。僕だってそういう店に行かないわけじゃないですが、いわゆる玄人ってやつじゃないんです。襲われそうになってたところを助けたってだけで……」
「旦那さん、カッコイイじゃないですか!」
フィリュネは普段のドモンの姿とかけ離れた活躍ぶりに、純粋に賞賛の言葉を送った。ドモンは照れくさそうに寝ぐせだらけの頭をがりがりと掻く。
「で、どんな女なんでェ。名前くらいは聞いてるんだろ」
「マリアベル……って子です。銀髪で……長くてふわふわの髪型の……でも、それ以外は何も分からなくて」
イオはベンチの上であぐらをかき、唸った。ドモンの恋、それ自体は良い。裏稼業はあくまで裏、掟さえ守れるのであれば、表の日常生活のあれこれを、頭ごなしに否定するものではないからだ。ドモンはそれを痛いほどよく分かっている。
しかし、イオにとっては先ほど懺悔室で聞いた事のほうが問題なのだった。マリアベルという恋人を寝取られたというありふれた恨みつらみ。その対象は、憲兵官吏の男だと言う。その男は言った。できることなら殺してやりたいと。そのために、金貨を三枚も落としていったのだ。
「参ったなァ」
イオはぼそっと呟きながら、黄色い声を出して盛り上がるフィリュネと、照れくさそうに笑うドモンを、冷静に見つめているのだった。
一方その頃、ミーシャ・レオサイドは、行政府警護の輪番が来ていたため、イヴァン中心街へと向かっていた。今朝方の事は彼にとってショックな出来事だった。母親を戦争で亡くし、多感な時期を三男坊だからと甘やかして育てた結果、放蕩三昧のダメ人間となってしまったのだ。いつもはそう長くは感じない行政府への道のりが、今日は長く遠かった。
「失礼いたします。南側騎士団正騎士、ミーシャ・レオサイド様とお見受けしますが」
帝都の中心へと向かう途中の、影になっているため薄暗く、狭い通りを歩いていると、突如ミーシャを引き止めるものがあった。振り向くと、そこには何者かが一人立っていた。闇に溶けこむような、黒いロングジャケットに、白いタンクトップ。これまたレザーの黒いスキニーパンツ。首元には毛皮のマフラーが巻かれており、つば広の黒い帽子からは口元が覗いている。口元には鋭い犬歯が光っており、どこか中性的でミステリアスな雰囲気を感じさせた。
「いかにも。貴公は」
「貴公などと呼ばれるような立場ではありませんわ、ミーシャ様。わたくし、ロストマンという卑しい身分の者です。全く同じ名前の店を経営しておりますの」
ミーシャは彼の言葉に多少眉を潜めたが、そっぽを向きそのまま歩き始めた。何者かは知らないが、かまっている暇はない。
「良ければ、少しお話を」
「すまぬが、行政府への出勤途中でな。先を急ぐ故、失礼する」
ロストマンの口角が上がり、赤い瞳が暗闇で光る。彼は呟く。ミーシャのよく知る人物の名前を。
「ハリー・レオサイド。ミーシャ様のご子息でいらっしゃいますわね」
ミーシャは立ち止まり、不穏な雰囲気を察したのか、腰に帯びた剣の柄に手を添える。その時であった。病的に白く長い指が、柄に添えた手に絡まっていた。振り向くとそこには、ロストマンの赤い瞳! 鈍色のピアスの嵌った唇で、ロストマンは詠うように言葉を紡ぐ。
「いけないわよ、こんなところで……殿方はせっかちだと嫌われるわ」
「貴様……何が目的だ!」
「決まってるじゃない。お・は・な・し」
ミーシャの手を、ロストマンの手が恋人のように這う。ミーシャに走る怖気すらも、ロストマンにとっては愛おしかった。彼は『慈愛』の精神を体の芯まで根付かせた人物なのだ。
「ハリーの事について話があるの。とっても大事な話よ。悪いことは言わないわ……聞いた方がいい」
ミーシャはゆっくりと剣から手を離す。それを見てロストマンもようやくミーシャから離れ、口元に手を当てながらくつくつと喉を鳴らした。
「いい子ね」
「……何が目的だ」
「だから、こんなところじゃダメよ。店が近くにあるの。ついてらして?」
ミーシャは、おとなしく彼についていく他なかった。自分の事なら良い。しかし、他ならぬ息子の話となれば、無下に聞かぬ事もできまい。ミーシャはそういう意味では、どこまでも父親だった。