色事不要(Aパート)
その日、ドモンの帰りは遅かった。何しろ立て続けに、死体が見つかるわ目の前でかっぱらいが現れるわ、その報告をするにもおおわらわだったのだ。
「いや、久々に仕事らしい仕事をしましたねえ」
誰に聞かせるでもなくドモンはぼやく。どんなに仕事をしても、ドモンの給料は対して変わりはしない。ならば適当それなりに仕事をして、それなりの給料をもらうのが一番と言うものだ。それがダメ役人、ドモンのモットーであった。
ドモンの家は帝都イヴァンの南西地区、ヘイヴンから少し外れた場所にある。よって、西に広がるヘイヴン地区の中を通るのが、結果的に近道になるのだ。
夜のヘイヴンとは中々不気味なもので、いつもは賑わっているはずの通りが夜中は暗く静まり返る。歩いている者など誰も居らず、ただただ通りとゴザが広がっているばかりだ。
「待てよ! おい!」
若い男の声が響く。ドモンが辺りを見回す。手持ちのランプを持ち上げてみると、月明かりの中白い影が動いているのが見えた。良く見るとそれは、銀色の長い髪の女が走っているのだった。細身で小柄な女だ。少なくとも、遠目から見た印象はそうだった。女はすっ転び、月明かりに銀色の粒子を散らした。男が近づき、女を無理やり立たせ、壁に押し付ける。
「マリアベル! どうして逃げるんだよ!」
男もあまり体格が良くなかった。ドモンは曲がり角から二人の様子を伺うため、ランプを見えない場所に置き、月明かりだけで二人を観察しようとする。どうも、男の方もそこまで歳はいっていないようだった。というより、あれでは成人もしていまい。十七か十八くらい。暗がりから見てもなかなか良さそうな生地の服を着ている、小綺麗な青年だ。いいとこの坊っちゃんと言ったところだった。
「ハリーさん……私、貴方とはこれ以上……」
「何でだよ! あれだけ僕の事を、好きだって言ってくれたじゃないか。僕は、君を父上に紹介して結婚の約束だって考えているんだぜ」
下卑た目で、ドモンは事の成り行きを見守っていた。人間というものは、こうした揉め事を見るのを大なり小なり好んでいるものだ。彼もまたその例外ではなかった。
その時だった。女の顔に、月の光が差した。美しい女だった。ドモンはまるで、冷水でも浴びせられたかとでも思ったほどだ。銀色のふわふわとしたロングヘア。顔立ちはまるで人形のように全てが整い、可憐で、そして儚げだった。
「ハリーさん、本当にごめんなさい。また、今度……」
「今度っていつだよ! クソッ……」
ハリーと呼ばれた青年はマリアベルを押し付けたまましばらくそうしていたが、急に気でも違ったのか、へらへらと笑い出した。おまけに、声をあげて笑い始めたのだから不気味に過ぎるというものだった。
「……ハリー、さん?」
「マリアベル……なあ、ここはヘイヴンだぜ。昼間ならいざ知らず、夜に誰か通ると思うか?」
下卑た笑みを浮かべながら、ハリーは問う。マリアベルは始め、その問いが何を指しているのか分からない風であったが、みるみるうちに今置かれている状況を理解したのか、恐怖に顔を歪め始めた。次の瞬間、ハリーは彼女を粗末なゴザの上に引き倒し、着ている服を引き剥がし始めたのだ! マリアベルのなまめかしく白い肌が、惜しげも無く夜にさらされる!
「いやッ!」
「いやじゃないだろ、マリアベル! 今か後か、遅いか早いかの問題だろ! な!」
さすがに目の前でここまでされて、ドモンも黙っているわけにもいかない。憲兵官吏かどうか以前の問題だ。
「や、いけませんねえ。おさかんなのは結構ですが、ムードってもんがあるでしょうに」
ハリーは振り向き、闇の中に立つ男の憲兵官吏のジャケットを見て、驚きつつマリアベルから手を離す。その瞬間、ドモンはハリーの顔を容赦なく蹴り上げる! 鼻から赤い鼻血が夜空に弧を描き、ハリーは昏倒! あっという間に気絶したハリーをさらに横に蹴り倒すと、破れかけた服ごと体を掻き抱き、震えている彼女に手を差し伸べる。
「怪我は?」
「あ、ありません」
「それは良かった。……気にしなくて結構ですよ、マリアベルさん。イヴァン憲兵団憲兵官吏のドモンというものです。困った方を助けるのは当然の義務ではありませんか」
ドモンは普段では絶対に言わないであろうセリフを発しながら、彼女を助け起こした。ハリーはそのまま気絶させたままにして、ここを離れることにした。もちろんマリアベルも一緒だ。つい数分前に襲われそうになった人間を一人にしておくほど、ドモンは鈍感にはなれない。
「とにかく、家までお送りしましょう。どちらですか、家」
「え、えっと……」
マリアベルは途端にもじもじと口ごもり始めた。それもまた可憐だ。男とは不思議なもので、こうしたものを見ながら待つのは全く苦痛にならないのだ。しばらく、ランプの炎が揺れる音だけがあたりに響いていた。
「あの……本当に大丈夫です」
「え? しかし……」
「本当に、大丈夫です。本当です。さ、さようなら!」
マリアベルはそう言うが早いが、銀色の髪を揺らしながら闇の中へ駆け出し、曲がり角を折れてゆく! ドモンが止める間もなく、彼女の姿は消え──静寂が残った。ドモンが曲がり角を折れた時、そこに誰の姿も残ってはいなかった。
マリアベルが『店』に辿り着いた時、客は誰も残っていなかった。仲間の店員達も、既に上がってしまっているようだ。気が重かった。
「お帰り。遅かったじゃない?」
落ち着いた木目調のバー・カウンターのスツールの上で、グラスに赤いカクテルを満たし、傾けている人物が一人。この店のオーナー、通称ロストマンである。毛皮のマフラーを巻いている他は上半身裸に、レザーのスキニーパンツ。頭から爪先まで体毛が無く、病的に白い肌、カクテルと同じ赤い目。どこかミステリアスな雰囲気を漂わせる人物だ。ロストマンという名ももちろん本名ではない。
「オーナー……遅くなって、ごめんなさい」
「ハリーは? 一体どうしたの。それにそのカッコ。まさかそのカッコで夜道歩いてきたんじゃないんでしょうね」
マリアベルは服がはだけそうになるのも構わず、オーナーに抱きつき、泣いた。ロストマンは慈悲深く、彼女を見捨てなかった。そして、おそらく彼女を襲ったのであろう事象を察し、頭を撫でてやった。
「ごめんなさいね。いじわるしたんじゃないのよ」
「オーナー……オーナーぁ」
「はーいはい。泣くんじゃないわよ、もう」
マリアベルは泣きながらロストマンに自身に起こった事を話して聞かせた。いきり立ったハリーに犯されそうになったこと。そこで、憲兵官吏に助けを求めたこと。男はドモンと名乗り、マリアベルは多くを語らずその場を去ったこと。
「なるほどねえ。あんたもなんというか。ウチで一番ってことは相当人気あるってことなんだから、そういう自覚もって行動してもらいたいわね。焦んなくても慎重にやりゃいいのよ」
「ハイ。ごめんなさい」
「あんた謝ってばっかじゃない、もう。今日はお上がんなさい。また明日ね。ハリーの事は、こっちでうまいことやっておくから」
マリアベルはしばらくすすり上げていたが、ロストマンから渡されたハンカチで涙を拭って、ようやく退出した。そうして、店にはロストマン一人だけが残された。
「ハリーは早々に処理するとして……久々に、ビッグビジネスの香りがするわね」
ロストマンは赤い目を鋭く光らせ、今後に想いを馳せた。夜はまだ長く、考えるだけの時間は多く残されていた。