裏技不要(最終パート)
クリスタルボゥイは色白で小柄だ。なろうと思えば何にでもなれる。子供にも、老人にも、女にも。本人の顔立ちは整っているが、地味で特徴が無くとらえどころがない。まるで影を移動するように、彼は今までどんな場所にでも入り込んできた。
今回は、会計局に出入りする清掃会社の制服を着こみ、帽子を目深に被って内部に入り込んだ。既に会計局の人間は終業を迎えており、人気はない。警備にあたっていた騎士団も特に引き止めるようなことはなかった。連れ立って歩く銀髪の少年にもだ。
愚兄弟はこういう仕事には向いていない。そもそも、正直にまじめに生きることすら苦労するような二人だ。わざわざ片棒を担がせれば、こちらが損をしかねない。よって、今回は行政府の外で待機させている。
「スバル、地図は頭に入ってるだろうな」
「もちろん」
スバルは銀髪の間から醜い傷をのぞかせながら短く答えた。彼は優秀だ。見取り図の記憶に、逃走ルートの確保。万が一の相手を昏倒させる技術。全てをすぐに身につけた。そのほとんどが付け焼き刃であることは否めないが、それでもボゥイはこの仕事に賭けていた。
クリスタルボゥイに戻るのは、これが最初で最後だ。仕事を終えたらイヴァンを出て、自分が知られていない、あの愚かな兄弟が自分がいなくても食い扶持を稼げるような──スバルがのびのびと育てるような──そんな土地で暮らすのだ。
それは彼の夢であり、希望だった。食うため、稼ぐため以外に、初めて目標を持ったかもしれない。
「ボゥイさん、次の角を曲がった先に大金庫がある」
「ああ」
ボゥイとスバルは清掃用具を運ぶカートを止め、大金庫への角をすぐには曲がらず、その先を恐る恐る確認した。妙だ。声がする。それも数人の。
「……おいおい、聞いてないぞ」
四人の男女の騎士が、大金庫室の前で談笑していた。通りがかり、と言った風ではない。腰には剣。軽装甲の動きやすい鎧を身につけている。明らかにここを警備している。
確かに大金庫室には、会計局の重要書類や会計局の予算を管理していると聞いているが、それにしても厳重に過ぎる。何かがおかしい。ボゥイは覗きこんだ顔を引っ込めると、カートの側にいたスバルに手で合図する。この先は行けないと。仕事は見合わせる。今回は様子見で、警備パターンを良く観察してからでも遅くはない。
「ボゥイさん、行かないんですか」
「行かねえし行けねえ。俺はクリスタルボゥイ、無茶な仕事で顔が割れる真似はしねえ」
ボゥイは気持ちを落ち着かせるように帽子をかぶり直し、カートを入り口へ向けて押し出そうとした。
その手を、スバルがつかむ。ボゥイは事の真意が理解できず、スバルを見た。銀色の前髪の間から、髪と同じ色の雪のように冷たい瞳が覗いている。
「何のつもりだ」
「ボゥイさん、俺は俺が誰なのか分からないんだ。だから、俺はあんたに感謝してる。あんたは、俺の事を家族だと、兄弟だと言ってくれた。俺には何も分からない。本当の家族も、過去も」
ボゥイは彼の手を振り払い、カートを押そうとした。押せなかった。背中に冷たいものが当たっていた。悪党であった彼には──悪党に戻った彼には、その冷たさに心当たりがありすぎた。
「何のつもりなんだ、スバル」
このままこの冷たさに体を貫かれる気はさらさらなかった。ゆっくりと手を上げる。
「俺には分かる。誰かに課せられたすべき事がある。それは、あんたを大金庫室へ向かわせることなんだ」
「さっき言ったろう! 今は無理だ!」
「関係ない……行けよ!」
スバルの声に、クリスタルボゥイは振り向く。ナイフを構えたスバルの姿。左目だけから涙を流す、冷酷な右目をした少年の姿。ボゥイには分からなくなった、彼はスバルだ。自分や愚兄弟と同じく、居場所を失った孤児の少年で……今は冷酷で冷たい刃を掲げる敵だ。どちらが本物の彼なのかを、ボゥイは選びとることができなかった。
「分かった……言うことを聞く。だから落ち着け。そのナイフもしまえ」
「うるさい、行けよ!」
ボゥイはカートを手放し、ゆっくりと角を曲がる。背中には刃の冷たさが残っている。おそらく背けば刺される。ボゥイもまた混乱していたが、それだけは確実だろうとわかっていた。
「貴様、清掃員か。ここは必要ない。止まれ」
談笑していた騎士の一人がボゥイの姿を見咎め、止まるよう言った。ボゥイはただただ笑うしか無かった。かつて証拠も記憶も残さず犯行現場を去るのが信条のクリスタルボゥイが、こうしてにやけた面をぶら下げながら警備の人間の目の前に姿を表しているのだから。
「この男は」
スバルはよく通る声で口火を切った。
「この男は金庫室への侵入を目論んでいる!」
騎士達はその言葉に一気に警戒を強め、剣を抜いた! 当然の反応だ! しかし、一番年長と思われる中年の騎士が、後ろにいた少年を見咎め叫ぶ!
「お前は何者だ、少年。仲間ではないのか」
スバルはしばらく口をぱくぱくさせていた。それは彼にとって、最も難しい質問に違いなかった。彼が何か言葉を発する前に、後ろから声が響く。
「すまない、諸君。彼は会計局の人間だ」
後ろから姿を現したのは、車椅子にのったニヤけづらの男。金髪をきれいに七三に分け、四角いサングラスの下に狂気めいた笑みを浮かべる男。マークフーディーベ博士!
「貴公は……?」
「し、失敬。私は会計局技術顧問のマークフーディーベと言うものだ。普段は局には出てこないのだが、たまたま用があってね……とにかく、その男を早く連れて行きなさい」
三人の騎士がボゥイを取り囲み、腕を持ち引きずる! 三人の中のリーダー格を、博士は引き止めそっと耳打ちした。
「ランプ管理課に連絡して、施設のランプを全てつけさせた上で捜索したまえ。他に侵入者がいたら、た、大変だからな」
「ハイ。この男は」
「大金庫室へここまで侵入を許した……とても看過しがたい問題だ。君たちの責任問題になりかねん……しかし、抵抗されたなら斬り殺しても問題はないのではないかね?」
騎士は得心したように頷くと、スバルと博士、他の二人と共にボゥイを会計局の外まで引きずって行くと、剣を振り上げ、彼の無防備な背中に振り下ろし──彼の血が飛び散った。
愚兄弟は、それが意味することがほとんど理解できなかったが、スバルが自分たちの仲間で無くなったこと……そして、ボゥイがその場で死にかけている事は理解した。彼らができることは、スバル達や騎士がいなくなったのを見計ってから、ボゥイを逃すことくらいだった。
「完璧な作戦だったな、博士!」
博士は急いでスバルを伴ってヒューリーのオフィスに戻った。博士はよほど嬉しかったと見え、右手がそわそわと動き出すのを左手で抑えるのに忙しかった。
「安心するのはまだ早い! 彼を急ぎ大金庫へ送るのです。鏡の準備はできておりますな」
ヒューリーは部屋に備え付けてあった姿見の布を取ると、スバルに向けた。スバルは、自分の姿を初めて見たような気がしていた。銀髪の清掃員の格好をした少年。右目の回りには醜い傷が覆っている。
これが自分か?
この男がボゥイを裏切ったのか。
いや、ボゥイを陥れる事こそが任務だった。
ボゥイは自分の父に、兄になってくれるかもしれなかった。
任務を達成するためには必要な犠牲だった。
スバルの中で様々な感情が渦巻いた。孤児としてのスバル。アンダーカバーとしてのスバル。少年としてのスバル。冷酷な戦士としてのスバル。家族が欲しかったスバル。任務こそ生きる目的だったスバル。
右目は冷酷に鏡から自分を見て、左目は涙を流していた。どちらが本物の自分だったのか、スバルにはもはやわからなくなっていた。目の前にいる二人の大人に対して、どのような反応を取れば良いのかも、既に答えは出ない。
「俺は、誰だ」
スバルは懐に差し入れていたナイフを抜いた。博士とヒューリーはお互いに顔を見合わせ、その行動の行方を見守る。鏡を背にして振り返り、二人の前にスバルは立つ。
「博士、俺は誰なんだ」
「今そんなことはどうでもいい! 早く鏡から大金庫へ跳ぶんだ!」
「俺には重要なんだ」
「任務を優先するんだ! 早くしろ!」
博士は右腕を震わせながら、ヒステリックに叫んだ。ヒューリーもそれに同意したように頷き、こちらの様子を伺っていた。スバルは理解した。自分の背景など、誰にも分からないし、望まれていなかったのだと。
スバルは冷静に、まるでステーキ肉にナイフを入れるように、ヒューリーの胸に刃を突き立てた。ヒューリーは何が起こったのか全く分からず、スバルの肩を強く握ろうとし……刃が体から抜けたことで力を失って、デスクに倒れた。ねっとりとした赤黒い血が刃を濡らし、雫が高級なカーペットに落ちる。
「な、な……何をしている、スバル! 貴様、主人に……」
「俺が誰かどうでもいいなら、俺は誰でもないんだ。そういうことなんだろ、博士」
左目の涙は、いつの間にか止まっていた。スバルは博士にゆっくりと迫る。車椅子ごと後ずさりし、いつのまにか狂気を失った博士を部屋の角に追いやり……とうとう博士は追い詰められ、車椅子はそれ以上後ろへは下がれなくなった。
「博士……俺は、俺は……」
「やめろ、やめるんだ! 私は、私は、君の……」
ナイフは博士の心臓を正確に貫き、そわそわとせわしなく動いていた手は、とうとう垂れ下がって動かなくなった。そしてヒューリーの部屋は、スバルと二つの死体だけになったのだった。
ドモンはいつものように見回りを終え、帰路につくところであった。既に日は落ち、辺りは暗い。ドモンは吹いてきた風の冷たさに驚き、身を縮める。
世の中は冷たい。
ドモンは不条理を転嫁し、虚しさを覚える。この憤りとも悲しみともつかぬ感情だけは、どうにもしがたかった。人がまばらな大通りを抜け、側道へと入り、人気のない裏路地を進む。
手が伸びていた。
正確には、手が側道からのぞいていた。誰かが曲がり角で座り込んでいるのだ。見ると、ドモンの左側には、赤く伸びた線が側道の手へと伸びている。ところどころ手をついたのだろう、赤い手形も残っていた。おまけに、獣の咆哮のような嗚咽がその先から聞こえてくる。
「……誰です。なんなんですか、この血は」
ドモンは剣の柄に手を伸ばしながら、慎重に進む。憲兵官吏は危険な仕事だ。狂ったサイコパスが、誰かを仕留めるために手負いを演じている、という可能性も捨てきれないのだ。
「……旦那……あんた、ドモンの旦那か……」
「旦那……ボゥイがお世話になってる」
「ドモンの旦那。お世話になってる……」
聞き覚えのある声だった。駆け寄ると、そこは凄惨な現場だった。ボゥイが、赤く血に染まったままその場に座り込んでいた。背中はざっくり裂け、息も絶え絶えだ。それを心配そうに見守るしか無いデカブツ二人。愚兄弟が涙を流しながら、自分の無力から地面やら壁に拳を叩きつけている。
「……しっかりしてください。あんた、一体なにがあったってんです! カタギに戻ったんでしょう? クリスタルボゥイは辞めたんでしょう!」
「すまねえ。すまねえ……俺は、俺はダメだ。正直に、まじめに生きようと……兄弟を食わせていこうと……それでもダメだったんだ。ドジっちまった。あのクリスタルボゥイがだぜ……笑えるよな」
ドモンはボゥイの傷口を見る。裂けた服の間から、鉄製の防刃チョッキが覗いているのが見えた。そのチョッキすら切り裂かれている。よほどの手練に斬られたのだろう。
「旦那、勘違いしないでくれ……俺は、最後までクリスタルボゥイだ。誰も俺の事には気づかねえ。警備の騎士も俺の正体にも、死んだふりにも気づかなかった……お陰で本当に死んじまうところだったのさ……」
ボゥイは激しく咳き込み、抑えた手を血で染める。斬られた拍子に、おそらく肺を傷つけている。ボロボロの上着で血管の通り道をきつく縛っているのが功を奏して、こうして生きていたのだ。
だが、もう手遅れだ。
ドモンにはそれが痛いほどわかった。相手を殺すものは、相手の死期を過敏に感じ取れる。ボゥイに残された時間は少ない。
「ボゥイ! 死ぬなよ!」
「死なないでくれよ、ボゥイ!」
愚かな兄弟たちも、巨大な手をそれぞれボゥイに伸ばし、ふだんより青白いボゥイの顔に触れる。吹く風より冷たい体温が、彼らを驚かせ、絶望の淵に叩き落とす。
「何か、言い残すことは」
ドモンはせめて彼に残された名誉を守ろうと思った。彼を追い続けたドモンだからこそ持つ敬意を示そうとしたのだ。
「旦那……兄弟を頼む……。……後、スバルを……救ってやってくれ……あいつは……自分が……何者なのか……分かっちゃいないだけなんだ……恐れているだけなんだ……だから、愚兄弟と同じなのさ……俺に嘘ついたのだって……悪くねえんだ……頼む……」
ドモンは彼の血まみれの手を握り、頷いた。あたかも自分の手を握るように。ボゥイは満足気に微笑むと、力尽きた。既にボゥイの座り込んでいた地面は、おびただしい量の血で濡れていた。普通ならドモンが来る前に死んでいてもおかしくはなかったはずなのに。
「ボゥイが言ってた」
「ボゥイは困ったことがあったら、旦那に金を渡して助けてくれって言えって」
愚兄弟はおのおのの服のポケットから小銭入れを取り出し、地面に金を落とし数え始めた。彼らの頭では、これを数えきるのに何時間かかることだろう。彼らの手は、指は、震えていた。数える度に涙が落ち、彼らの視界は歪む。それでも愚兄弟は数えるのを辞めない。彼らが信じた兄弟の言いつけを守るために。
ドモンはその散らばった金の中から銀貨を二枚取る。
「あんたらに難しい質問をする気はありません」
ドモンは彼の目を閉じさせてやり、立ち上がった。友ではなかった。ましてや兄弟でも。だが、彼の遺言を守ってやりたいと願うだけの気持ちは、ドモンの中に残っていたのだった。
「だが、あんたらも悔しいでしょう。悲しいでしょう。いくら時間がかかっても構いません。何が、あったのか。誰が、ボゥイを殺したのか。僕に教えてください」
「断る」
深夜、イオの教会。結局たっぷり二時間は愚兄弟の説明を聞き、ドモンは真実に辿り着いた。孤児・スバルはボゥイを裏切り、無慈悲に切り捨てたのだ。だが、その理由や真意までは分からなかった。
「旦那ァ、あんたはそういうの一番キライだって思ってたがな。そんなはした金で、理由もよくわからねェ断罪はできねェ」
イオは大きくあくびをすると、ドモンが何か言おうとするのを聞きもせずに、居室に引っ込んでいった。
「俺もだ、旦那。はっきり言って、金が少なすぎる。銀貨二枚じゃ、弾も作れねえ。降りる」
ソニアも興味を無くしたようで、タバコを地面に落とし踏み消してから、教会を去っていった。その場には、おぼろげに銀貨を照らすろうそくに、聖書台の前でそれを見ているドモン。そして、フィリュネだけ。
「旦那さん。本当にやるんですか? 話を聞く限りちょっと動機が弱いというか……本当にその少年が悪いかどうかわからないじゃないですか」
ドモンは腕組みし押し黙っていたが、銀貨を一枚取り、袖の中の隠しポケットにしまった。残りは、銀貨一枚。
「この銀貨ですけど、取らなくたって構いません。断罪をやるのは僕一人でいいんです。今回に限っては」
フィリュネはしばらく沈思默考し、聖書台の前を行ったり来たりしていた。やがて決意したように目を開き、銀貨を取る。
「……お金は頂きました。で、私はお金頂いたからにはちゃんと仕事します。何を調べればいいですか?」
フィリュネの調査は常に迅速だった。兄弟の断片的な話を、まるで糸で縫い合わせていくかのように、見事な裏付けを翌日には取ってみせた。
スバルはもともとイヴァンで暮らす孤児で、親も頼れる親戚もなく、ストリートで辛い生活を強いられていた。しかしそんな中で、彼すら予想だにしていなかった引き取り手が現れた。引取人は、会計局主任会計官、ヒューリー。今から二ヶ月前のことであった。
「で、このヒューリーなんですけど。実は先日食客のなんとか博士っていう人と部屋で殺されちゃったみたいなんです。それが、ボゥイさんの死んだ日と同じ。博士は車椅子生活で、当日会計局に現れて、ボゥイさんを殺すように警備の騎士にそそのかしたみたいなんです。しかも、潜入したスバルを連れて帰ってます。これは愚兄弟さんも目撃していたので間違いないですね」
いつもの喫茶店でシフォンケーキを頬張りながら、フィリュネはドモンに自身の調査結果……事の次第を報告していた。
「つまり、ヒューリーと博士はボゥイを殺すためにスバルに入れ知恵をして……スバルを連れ帰った直後に自宅で殺された」
「はい。当日なんですけど、清掃員の格好をした銀髪の人が、血まみれのままヒューリーの家を出るのを見られてます。犯人は彼で間違い無いと思うんですけど……なんでそんなことしたんでしょうね」
フィリュネの疑問も尤もだ。普段のドモンならば、ある程度そこに潜む謎も解こうとしただろう。だが、ドモンが今一番求めているものは、ボゥイを死に追いやった人物がスバルであるという確信だけだ。
自分がしようとしていることは、復讐というにもおこがましい、醜い逆恨みだ。だがわずかな金でも託された願いならば、断罪人は意地でもそれを遂行してのける。
「関係ありませんよ。……世話をかけましたね。後は僕がやります」
イヴァン南東部、処理場への道の途中の橋にて。
ゴミを運搬するために、巨大な馬車が行き来できるよう、橋は広く大きい。しかし、ゴミ処理場も夜となれば人気はなくなり、辺りは闇に落ちる。
そんな中を、スバルは一人歩いていた。かつて死なせたボゥイがくれた、赤いスーツを身にまとい、腰にはヒューリーの家から奪った剣。雲の間から覗く月明かりだけが、スバルと橋を照らす。
自分は何者なのか。魔法実験と投薬により破壊された自我と記憶。全てがこの夜のように闇に沈み、真実を掘り起こす方法は無くなった。
スバルは絶えず流れる左目からの涙を拭いながら、広く長い橋を進む。その先に何があり、自分が何を為すことができるのか。何も答えは見つからない。
左目を拭い、傷跡を撫でるようにハンカチを当て、ポケットにそれをしまうと、その男は現れた。憲兵官吏のジャケットを着た、はねた黒髪の男。腰には長剣。強い意志を湛えた目。
「誰だ、お前は」
男は答えない。無言のまま、柄に手を当てる。長い時間が過ぎたような感覚がスバルをかけめぐり、ようやく男は口を開いた。
「断罪人が、あんたの命を貰い受けに来ましたよ」
「お前、俺が誰だか知ってるのか」
背丈に合わない長剣を、スバルは無表情に抜いてみせた。雲に隠れていた月が再び合間から覗き、男の──断罪人の──ドモンの顔を浮かび上がらせる。ドモンはゆっくりと剣を抜き、構えた。
「知らない、と言ったら」
「……なら、死ねよ」
二人の剣が同時に交錯! 闇夜に火花が散る! 二度! 三度! 上、右、下、左、右、上! 鋭い太刀筋がお互い踏み込む度に繰り出され、その都度火花は散り、空気を鉄の音色が裂く!
しかし、スバルの太刀筋は小柄な体躯から繰り出される弱いものだ。いくら薬物による身体強化や、魔法による技術を埋め込まれても、経験を覆す事は敵わない! ドモンは横から自分の剣を叩きつけ、スバルの剣を橋に突き刺すと叩き折る! いつの間にか橋の欄干まで追い詰められている事に気づいたスバルは、左目だけでなく右目からも涙を流した!
「死ぬのはてめえだ。細切れにしてやるから……地獄に落ちろ!」
一回、二回、三回、とドモンは容赦なくスバルを切り刻む! 断末魔の叫びを挙げることもかなわず、血だるまとなったスバルの体は欄干を乗り越え落下していく!
そして、水しぶきの後揺れる水面にスバルの姿は無く、ただただ月明かりが照らす赤黒い水が揺れているのだった。
裏技不要 終




