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必殺断罪人  作者: 高柳 総一郎
魔性不要
48/124

魔性不要(最終パート)




「こりゃ酷いですねえ……押し込み強盗ですかね」

 ブルース・ヴィッカーズの家族とメイド、そして庭師。娘以外の全員が殺された事件は、翌日になって発覚した。屋敷の門でばっさり斬られていた庭師、玄関で刺されていたメイド。そして、暖炉の前で喉を突かれ死んでいた夫婦。金目の物は奪われていなかったものの、凄惨な殺人事件だ。

 ドモンは、この地区担当の憲兵官吏から応援を頼まれ、現場検証に赴いたのである。と言っても、ドモンのやる現場検証などたかがしれている。ウロウロとその辺を歩きまわり、家探しをするのみだった。

 血まみれの現場に変わったリビングに代わり、応接間ではただ一人生き残った令嬢、セイラへの取り調べが行われていた。彼女は赤いスカーフを巻き、銀色のブローチで止めていたが、そのおしゃれに似合うような心持ちでは無かったらしい。当然だ。家族全員が殺されたのだから。

「……昨日の夜、君は寝ていてなにも分からなかった。そういうことじゃね」

 定年間際の老憲兵官吏・モルダがゆっくりと出来る限り刺激しないように、言葉を紡いだ。ベテランの彼はこのような柔らかい形の取り調べを得意としており、こうした犯罪被害者へのケアめいたものにも長けているのだ。それでも、セイラにはつらいものであることには変わらない。涙こそ流さなかったが、俯いたまま頷くのみだ。

「だいたいは分かった。しかし、この屋敷に一人でというわけにもいかんじゃろ」

 モルダは白い口ひげを撫でながら、しばらく思案していた。ドモンもモルダとセイラを交互に見やりながら、少しばかり考えるフリをする。そうでもしていないと、やることがなくてあくびをしてしまいそうになるのだ。

「モルダの旦那、ドモンの旦那。お疲れ様です」

 そう言いながら入ってきたのは、リゲルと部下のエレサだった。彼らは『たまたま』この屋敷周辺をパトロールしており、通って勤務している使用人の悲鳴を聞きつけ直ちに憲兵団に報告したのだ。

「おお、リゲル君。ご苦労じゃの。……ドモンよ、こりゃあ娘さんに聞くだけじゃまんじりともせんことじゃ。とりあえず、聞き込みをすべきじゃろうのう」

「そのようですねえ。あんたたち、憲兵団に本部にこの娘さんを連れてってやって下さい。犯人の目的も姿もわからない以上、ここに一人残しておくのは危険ですからねえ」

 そう言い残すと、ドモンはセイラから見えないようにあくびを噛み殺すと、腰を抱えながらゆっくりと退室するモルダに続いた。その場には、リゲルとエレサ、そして俯いたままのセイラだけが残される。沈黙が空気を重くした。

「セイラ……大変なことになったな」

 エレサは自分がいかにも沈痛な表情を浮かべているか、顔を撫でながら確認していた。幸いにも、セイラは顔を上げようとはしなかった。黒髪が重くのしかかったように、彼女は頑なに俯いたままだ。

「大丈夫さ……君は大丈夫だ。俺が君の力になるよ。今後この屋敷に一人で住むなんて難しいだろうし、お父さんの会社だって」

「よせ」

 リゲルは無表情にエレサの言葉を制し、セイラの椅子を自分の方向に向けさせる。髪の分け目から僅かに覗いた彼女の黒い瞳には、影が差し生命力が失われているような印象を覚えた。

「これから、憲兵団に連れて行く。保護されるんだ。落ち着いたら、モルダの旦那に話を──」

「知ってる」

 俯いたままの彼女から、小さく言葉が飛び出した。

「私は、知ってる」

「なにを」

 エレサが声を震わせながら訊ねる。恐怖を押し殺すように。

「なにを知ってるんだ、セイラ」

「あなたたちはお父さんと、お母さんを殺した。ジョナサンもメイドのマリーも」

「おいセイラ、やめろよ。デタラメを言うのは」

 声は完全に震えきっていた。エレサは臆病だ。臆病で鈍感で、都合の良いことしか信じない。その純粋さこそ、人を狂わす源泉となってきたのだ。だから、自分の化けの皮を剥がされる瞬間をひどく恐れる。

 リゲルは動かない。俯いたままのセイラをじっと見つめたままだ。セイラもまた、動かない。リゲルは柄に手を既に置いていた。彼女の言葉次第では、死体を増やす必要があるかもしれない。

「私も殺すの? それなら、そうして。一人だけ生かされても、仕方ない」

 セイラは顔を上げる。絶望の色に染まった黒い瞳を見て、リゲルは柄から手を離した。死ぬべき時に死ねなかった、生きるべき目的を失ったものが生きるには、この世界は美しすぎるのだ。

「や、困りましたねえ。あれ、戻ってきちゃいましたか」

 なぜか戻ってきたドモンの間抜けた言葉に、リゲルは立ち上がりエレサはあさっての方向を向いた。何事も起こらなかったのように振る舞った。セイラもまた動かなかった。

「いやあ、困りましたよ。トイレどこなんですか、この屋敷。もう漏れそうでいけません」

「旦那、突き当たって右に曲がったところにありますよ」

 エレサの言葉に、ドモンはへらへらと例を言って、応接室のドアノブに手をかけた。

「あ、そうそう。エレサさん、でしたっけ? あんた、なんでそんなに屋敷に詳しいんです? この屋敷に来たことあるんですか」

「それは……その。さっき手洗いを借りたんです」

「そうですか。あ、ダメだコレ漏れる。じゃ、僕はこれで!」

 慌ただしく扉を閉めると、どたどたと廊下を走る音が響く。リゲルは立ち上がり、セイラをしばらく見つめていた。彼女が立ち上がる気は、無いようだった。

「しばらく、憲兵団にいてもらうことになる。もし適当な証言をしてみろ。その時は殺す。ま、モルダとドモンの旦那の捜査じゃ、俺達が殺ったことなんて証拠はまず出てこないだろうがな……」

「最後に」

 セイラはつぶやいた。

「最後に神に祈りたい」

「いいだろう。祈るがいいさ。好きなだけな」





 その教会には今日も誰もいなかった。主の神父イオは大きくあくびをした後、身震いする。近頃はめっきり寒くなってきた。かけるものでもないと、風邪を引きそうだ。

「こういう時は、おねェちゃんの一人でも抱きゃあ温かいんだがなァ」

 だが体も寒ければ、イオの懐具合も最高に寒い。何せこのボロ教会は美男子(他称だ。もちろん自分自身もそう思ってはいる)の神父イオの女性人気でなんとかやっていけているようなものだ。つまり、それ以外に人気となる要素がなく信者が少ない。要は金が無いのだ。

「……お客さんご案内かァ」

 裏口の開く音がし、懺悔室へと向かう人影に追従しカーテンが揺れる。イオは手を擦り息を吹きかけながら、懺悔室に入る。小さな小窓から、小柄な影が覗いている。もちろん、お互いの顔はわからないくらいの暗さになっている。ここで、人々は吐き出せない悩みや犯した罪を吐き出すのだ。

「迷える子羊よ、何でも懺悔なさい。神は全てをお許しになるでしょう」

 大げさな舞台役者のように、イオはもったいつけて言った。

「……私は、命を捨てるつもりです。神から授かった、父と母から授かった命を」

 少女の声に似つかわしくない、いかめしい言葉にイオは眉を寄せた。だが、懺悔とは吐き出す場だ。全てを聞く義務が、神父には課せられている。

「その父と母は亡くなりました。殺されたんです。庭師と、メイドも同じように。私が、好きだった人と……その仲間に殺された。駐屯兵のリゲルとエレサという男達です」

 無感情な言葉は、彼女の深い絶望を感じさせた。それ以上に、彼女の変えようのない決意も。様々な懺悔を聞いてきた彼だからこそ、感じ取れるものだった。イオは小窓の下の引き出しを相手側に押し出し、悪魔のごとく囁いた。

「父上と母上、そして使用人達の魂のために、祈りなさい。そして、喜捨してゆかれると良いでしょう。その魂の救済のために」

 小箱に金がこすれあう高貴な音が鳴る。少女は小さくつぶやいた。決意を曲げぬ絶望しきった瞳で、ただ一度きりの恨みのこもった願いを。

「みんなの魂を、救ってください。神様、あの二人に……天罰をお与えください」






その日の夜。イオを除く三人──ソニアとフィリュネ、そしてドモンは、寒空の下人気なく薄暗い教会にいた。聖書台には、四枚の金貨。そして、フィリュネにとって見覚えのある、銀色のブローチに赤いスカーフ。

「今回の標的は、駐屯兵のリゲルとその部下エレサの二人だ。旦那、あんたならよくご存知じゃないのかィ」

 イオがそう尋ねると、ドモンはがりがりと黒髪を掻いてから口を開いた。

「今日、ヴィッカーズ家の殺人をいの一番に嗅ぎつけた二人ですねえ。──僕はその二人がヴィッカーズ夫婦と使用人達を殺したんだと目星をつけてました」

「旦那にしちゃあ、妙に頭の回転が早いじゃないか」

 火打ち石を鳴らし、ようやくタバコに火をつけたソニアが、くつくつと笑いながら茶化す。

「第一発見者は真っ先に疑われるもんです。ま、ヴィッカーズの令嬢が遺した言葉なわけですし、間違いはないでしょう」

 フィリュネは沈痛な面持ちでベンチに腰掛けていた。リゲル達が憲兵団本部にセイラを引き渡して、数十分後。彼女は上着をロープのように硬く絞り、拘置所代わりの応接間のドアノブにそれを引っ掛け、首を括り……帰らぬ人となった。

 もはや彼女になにがあったのかを知る人はいなくなった。だが、彼女が遺した恨みは、誰かが晴らしてやらねばなるまい。幸い、こうして金もある。断罪人にとっては、理由はともかく悪人と金があればよいのだ。

「駐屯隊長のリゲルは頭もいいですし、腕も立ちます。行政府に顔も利く……恐らく、証拠も残っちゃいないでしょう。なら、僕らでたたっ斬る他ないってわけです。ただ……」

「ただ、なんだよ旦那。まさか、今更出来ねえなんて言うなよ」

 ソニアが金貨を一枚取りながらやはり茶化す。だが、ドモンにはすぐ反論できなかった。リゲルは超一流の剣士である。それも二刀流を使う……正面を切って相手どるには、危険すぎると考えたのだ。

「まァ、俺はその部下の方をやらせてもらうぜェ。旦那、人がいるなら、ソニアと嬢ちゃんはリゲルって男を殺るのに使えばいいだろ」

「人をモノ扱いするな。……とにかく、旦那次第だ。俺は金が入るなら、楽な仕事だろうがなんだろうが、文句は言わん。フィリュネ、お前もそうだろ」

 フィリュネは、意を決したように立ち上がり、おもむろに金貨とスカーフを取る。スカーフを巻き、ブローチで止める。泣いてなど居られない。彼女は恐らく、散々泣きはらしたはずだ。自分たちはその涙の代行者なのだ。

「旦那さん。やりましょう。後悔させてやりましょう。そんな暇も無いくらいに」

 ドモンは金貨を取り、袖口の隠しポケットに収納する。準備は全て整った。教会のわずかな明かりが吹き消え、四人は闇に溶けていった。









 イヴァン北西部、風俗街・色街。エレサはパトロールの名目で店をひやかしながら歩いていた。イヴァンの中でも例外的に、ここだけが夜中まで活気がある。

「まあ、エレサじゃない。久しぶりねえ」

「またウチに来てよ、色男!」

 エレサは曖昧に店から飛ぶ黄色い声に答える。商売女は金を持っているし、やりやすい。彼にとっては絶好のカモとも言えた。リゲルは、自分を許してくれた。セイラは死んだ。ならば、新しくカモとなる女を探さなくてはならない。

「さて、どうしようかな……」

 エレサが周囲を見回しながら歩いていると、誰かにぶつかってしまった。慌てて、詫びをいれようと振り向く。

「す、すいません!」

「おい、ちゃんと前見なァ。気を付けろ……ちょっと待て、アンタ。リゲルさんとこの、エレサじゃないか」

 ウェーブのかかった栗色の髪の神父が、そこには立っていた。見覚えのない男だ。だが、顔の広いリゲルの知り合いなのかもしれない。

「ちょうどいい。ちょっと顔貸してくれねェかい」

 神父がそういうので、仕方なくエレサは後ろへついていった。薄暗い路地裏を抜けると、色街は打って変わって、人気のない薄暗い街へと変わる。ただ喧騒のみが残っていて、騒がしかった。喧騒の中、空気の破裂するような音が二・三回聞こえたような気がしたが、エレサにその異常を気づくことができなかった。

「一体なんなんです。俺、これから詰め所に……」

「いやァ、ちょっとな。……実はな」

 神父──イオは突然エレサを壁に押しやると、彼の後ろの壁にてのひらをつき、封じた! イオの顔がエレサに息がかかるくらいの距離に近づき、エレサは顔をそむける。

「な、なにを……」

「いや何。全然大した用事じゃねェのよ」

 エレサの腹に、何かが突き刺さった感覚があった。神父は左手でロザリオを握っており、その先を自分の胸に突き刺しているのだ。

「テメェがさっさとくたばってくれりゃ、全然な……」

 イオはロザリオの横棒から今度は長い針を抜き出すと、躊躇なく今度はエレサの喉に押し込む! 痺れ薬の利いた針が根本まで押し込まれ、エレサは壁に押し付けられたまま痙攣! イオが喉と腹の針を抜くと、エレサは二・三歩歩いた後、地面に突っ伏し、とうとう動かなくなった。

 首筋で軽く脈を取ると、イオはロザリオを逆回転させ、突き出た針をしまう。痺れ針も同じようにしまうと、何事もなかったかのように、色街の喧騒へ消えていくのだった。






 駐屯兵第十五団詰め所。リゲルは眠れなくなり剣の手入れを始めた。感情が高ぶっている。満足感は得られているが、得過ぎているのも考えものだ。エレサを抱くことも考えたが、今ヤツは見回り中だ。

「戻ってきたら、にするか……」

 リゲルは少しだけ口角を上げた。エレサのためなら何でも出来る。彼がいれば、リゲルは満たされるのだ。彼がいなければ、こうして笑うこともできなかっただろう。

 悩んでいたのが馬鹿らしい。どちらが上でも下でも、利用されていても構うものか。

「すみません! 誰かいませんか!」

 けたたましくノックされる詰め所のドア。女の金切り声が、夜の静かな詰め所を切り裂く。リゲルは剣を腰に帯びてから、ドアを開けた。見覚えのある赤いスカーフを巻いた、フードを被った女が立っていた。月明かりで僅かに見える表情には、切羽詰まった焦りの表情がかいま見える。

「た、た……助けてください! さっきから……怪しい男に追われているんです!」

 リゲルは反射的に女を詰め所に押し込むと、扉を閉め、剣を抜いた。一本だけではない。二本目も。右手と、左手。

 男が、路地の曲がり角からこちらを覗いていた。黒メガネをかけた、闇に溶け込むコートを羽織った男。口元にはタバコから紫煙が漂っていた。

「出てこい」

 リゲルは近づく。剣を握り、じりじりとすり足でにじり寄る。剣の範囲に入れば、迷わず斬るつもりだった。やはり、剣はいい。

「話を聞くだけだ。早く出てこい」

 男は答えず、懐から何か黒い塊を出した。リゲルは剣を交差し、構えた。何かをしてくる。男はリゲルの正面に月明かりを背に立ち、手を前に突き出す。手には拳銃。リゲルは直感的に何かマズいと感じたのか、交差した剣で顔を守る!

 直後、銃声! 銃弾はリゲルの右太ももを食いちぎり、貫通した! 途端に、リゲルはバランスを崩し、右手の剣を地面に突き立てることで何とか倒れることを避けた。男の姿は既に無い。ただ痛みだけが、リゲルに残されている。血がぽたぽたと地面に落ちる。

「あの……さっきの音は……」

 スカーフを巻いた少女が詰め所から顔を出し、リゲルの様子を伺った。リゲルがしゃがみこんでいるのを見て、駆け寄ってくる。

「大丈夫ですか?」

「ああ。この程度なら、大したことはない」

「じゃあ……大したことになるよう祈ってますよ」

 少女の言葉に若干の違和感を覚える暇もなく、今度は左足に激痛が走る! 直後、少女は全速力で走り去り消えた! 見ると、ナイフが足の甲に深々と突き刺さっているのだ! 激痛から立ち上がるのがやっとなリゲルの目の前に、人影が現れる。黒メガネでもなければ、少女でもない。リゲル自身も良く見知った男。

「や、どうしたんですか。リゲルさんともあろう方が、フラフラで……」

「ドモンの旦那……すまない、手を貸してくれないか。わけのわからん奴らにやられて怪我を……」

 リゲルのただならぬ雰囲気に、ドモンは剣を抜いた。とにかく大怪我だが、憲兵官吏が側にいるなら大丈夫だろう。

 その時である。ドモンは抜いた剣を振りかぶり、リゲルに斬りかかる! 足元の激痛を奥歯を噛み締め殺すと、リゲルは右手の剣をふるいいなす!

「……どういうことだ、旦那! なぜ俺に剣を……」

 ドモンは答えず、切っ先を地面に向け、今度は切り上げる! 地面を這う剣に合わせリゲルが剣を交差し防ごうと試みるも、踏み込みが甘くドモンの剣の重さには耐え切れない! 足を怪我しているので、強く踏み込めないのだ! 交差した剣をバンザイでもするかのように上空へ広げたところに、ドモンの縦一文字の一閃が、リゲルの体を真っ二つに切り裂く!

「馬鹿な……こんなに……強いなんて……」

 持っていた剣が落ち、地面に乾いた音を立て転がる。

「あんたが大した事なかったんだよ。来世じゃ足元に気をつけな」

 地面に倒れるリゲルの袖口で剣の血を拭い、ドモンは無感情に剣を納めた。リゲルの回りで、闇と同じ色の血がねっとりと広がっていく。ドモンは、それを物陰で見ていたフィリュネを見咎め、言った。

「刺したナイフ、ちゃんと回収しといて下さいよ」







「ただいま帰りました」

 家に帰り着いたドモンが見たのは、ダイニングテーブルで本を読みながら真剣に悩んでいる様子のセリカであった。嫌な予感がした。彼女はいつも真面目で正論家だ。だからこそ、帝国魔導師学校の教鞭を取るほどの才媛なのだが、時折変な書物でおかしな知識を吸収することがあるのだ。その『おかしな知識』で被害に遭うのは、いつも一番近くにいるドモンなのである。そんな彼女から離れようと、そろそろと足音を消し、自室へ滑り込もうと試みる。

「お兄様」

 失敗した。ドモンは猫背気味の背を反射的に伸ばした。

「な、なんでしょうかね、セリカ。僕は今日疲れちゃったんで、早く寝たいなー、なんて……」

「お兄様は、恋人などいらっしゃらないんですか」

「は?」

 また、おかしな質問である。嘘を答えることもないだろうと、ドモンは正直に言うことにした。

「えー……そうですねえ。いませんね。ええ」

「何ヶ月くらいですか」

「えーと……五年くらいでしょうか。忙しいですからねえ、仕事が」

 セリカがものすごい勢いで振り返ると、立ち上がりドモンににじり寄る! その顔は、知識欲が満載された暴走車両の如し! あまりの勢いにドモンは狂気すら感じた!

「では、お兄様は……お兄様は殿方がお好きなのですね!」

「は? いや、何を馬鹿なことを言ってるんですか」

「この書物……帝国医薬薬学研究所の偉い教授がお書きになった本なのですが……ここに『五年以上恋人がいない人は、同性愛者である可能性が極めて高い』と書いてあるのです!」

 鼻息荒く該当のページを指さしながら、セリカはドモンに詰め寄った。どうやら本はともかくとして、極めてとんでもなく偏った知識を吸収してしまったらしい。

「ああ……私、お兄様の事を誤解しておりましたわ。人々に理解され得ない、秘密の花園を、私のお兄様がお持ちだったなんて」

「いや……そんな花園、持ってるわけ無いじゃないですか。というか飛躍し過ぎだと思うんですが……」

「いえお兄様。いいのです。セリカはお兄様の事を根掘り葉掘りほじくり返すような無粋な事は申し上げません。でもどうか、どうか気持ちが落ち着いたら私にも色々と教えて下さいまし。では」

 そう言うが早いが、書物を抱え、何に恥じらっているのやら、片方の手で顔を隠しながら、セリカは自室に入っていった。

「……恋人探しでもしたほうがいいんですかねえ」

 ドモンはダイニングの椅子に座ると、頬杖をついてため息をつく。一瞬イオやソニアを始めとする知り合い達が脳裏に浮かんだが、そんな妄想をかき消すように必死に手を振るのであった。





魔性不要 終

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