身代(みがわり)不要(Aパート)
三年前。イヴァンより南にあるアハマド領にて。
閑静な住宅街に小さく叫び声が響いたのを、聞くものは居なかった。乱入してきた一団は既に仕事を終え、後に残されたのは肉塊と化した家族が転がっている。
その中のひとりの少女は血の池に浸かっているような錯覚を覚えていた。右手にはいつも振るっている木剣。なんの役にも立たなかった。父は死んだ。母親はその場で犯され殺された。妹は連れ去られた。商品にするのだ、と言っていた。
私は無力だ。少女は血だまりの中で木剣を握る。視界は半分無くなっていた。涙が両方の目から流れでたのかどうか、少女──ノゾミには分からなかった。
「旦那、何してんだこんなところで」
ソニアは柄にもなく呆れた声をあげた。ドモンがうろうろしていたからだ。もちろん、彼はイヴァンをうろうろするのが仕事なのだから、いつもの様に町中でうろうろしている分にはこんな声を上げようが無かっただろう。イヴァン北西部歓楽街、通称「色街」。いわゆる風俗街であり、今日も男女が色とりどりの照明で光る店へと引き込まれていく。
「や、どなたでしょう。とんと見覚えがありませんねえ。ここは色街ですよ。知り合いに似てるからって話しかけるのは野暮ってもんでしょ」
ドモンはいつもの憲兵団のジャケットを羽織っているので、妙に目立った。当然、この地区にはこの地区の担当者がいるので、ここにドモンがいること自体あまり褒められたことではない。
「それもそうだ。……で、どっかの憲兵さん。あんたなんでこんなとこに?」
「決まってるでしょう。僕も男ですよ? たまにはいい女を抱きたいんですよ」
きょろきょろと辺りの様子を見回すドモン。色街の女を抱こうとすれば、金とそれなりの礼儀が必要になる。色街とは、ただ娼婦と寝るだけの場所ではなく、娼婦達との駆け引きを楽しむ大人の遊び場なのである。
「こういう時は神父に連れてきてもらえよ。俺も馴染みの場所を紹介してもらったんだ」
「……それいつの話です」
「この間だよ。旦那はいつもさっさと帰っちまうから」
ソニアは紙巻たばこを一本作り咥えた。火花から手早く火種を作ると、紫煙を二、三回吐き出す。ドモンは煙たそうに空気を手で払いのけながら、色とりどりの光で装飾された通りを見つめた。
「そういうことなら話は別ですよ。……僕の安月給じゃ、こんなとこは中々来れませんからねえ」
色街の相場は銀貨五枚からである。高級店ともなれば、その十倍を取ってくるところもあるが、庶民が一晩を楽しむには、財布事情としてそれだけでは心もとない。場所によってはふっかけてくるところや、娼婦と飲み食いする代金が別になっているところも存在するのだ。
「んで、準備したのは金貨二枚かい。俺はいつもの店に冷やかしに行く感じだが、旦那もどうだい。それだけありゃ、女の子を二人は侍らせられるぜ」
「遠慮しときますよ。……しかし、フィリュネさんはこんなとこ来て何も言わないんですか」
ドモンがにやにやと笑いかけるが、ソニアは意に介さない様子だ。
「言わねえよ、別に夫婦や恋人じゃないんだから。……ま、俺が言うのも何だが、旦那も変な店には寄り付かないほうがいいぜ。金どころか全部持ってかれても文句言えない。ここじゃ憲兵も何も関係ないんだからな」
ソニアはそのままひらひらと手のひらを振りながら。光の海の中へと溶けこんでいった。ドモンは再び通りを注意深く観察する。ソニアの言うとおり、ここでは男は男、女は女として扱われる。身分や過去、名前は考慮されない。客に求められるのは、金をいくら持っているかどうかだけだ。
「旦那。お遊びでございますか?」
不意に後ろから声をかけられ、ドモンは恐る恐る振り返った。人の良さそうな笑みを貼り付けた男が、手もみをしながら立っていた。
「や、実はそうなんです。実はひさ……」
「ひさ?」
ドモンはひさびさ、と言いかけた言葉を強引に飲み込んだ。色街では、食うか食われるかどちらかでしかない。慣れていないような事を言う客は、店に食われても文句を言えないのだ!
「ひさ……そう、悲惨な店に入ってしまいましてねえ。女の子は不細工、接客もなっちゃいない。あんなの、お金を払うのもバカバカしかったんですが、とにかく早く出たかったんで金を置いて飛び出してきたところなんです」
「ははあ、それは災難にございましたね。いかがでございましょう。手前どものお店でお口直しをされては。自慢ではございませんが、うちの店は主人が直接女の子を雇い入れておりますし、教育も行き届いていると自負しておりますので……」
ドモンにとってはまさしく、『飯屋で頼んだら料理が作ってあった』というコトワザ通りであった。ドモンは男にひょこひょこついていき、裏路地の闇へと消えていくのだった。
「ソニアちゃん、ごめ~ん。今日普段より客が多くてえ。お店が一杯なのよ~」
行きつけの店の主人がくねくねと体をひねりながら、申し訳無さそうに頭を下げた。イオも利用している、老舗で安く、安全性お墨付きというお気に入りの店だ。
「おいおい、金貯めてきたんだぞ、こっちは……」
「ごめんって言ってるじゃなあい。今度、サービスしてあげるから。あ、それとも、アタシが相手してあげようか?」
店の主人が一際くねくねしながら答えた。しかし彼は男で、ソニアにはそういう趣味は無い。
「遠慮しとく。じゃ、また今度な」
光の海と男女の喧騒と据えた臭いが、ソニアの過去を掘り返した。世界が変わっても、その構造はどこも同じだ。それが有難くもあったし、悲しくもあった。自分は恐らく、こんな夜の世界から逃れられないのだ。
「オジさん。そこの黒いコートの」
女の声がした。ソニアは注意深く周囲を見回すと、建物の壁に寄りかかっている小柄な女が目に入った。肩まである黒髪。右目には黒眼帯。左目は澄んだ青が宿っている。それだけなら、店に所属していない娼婦ではないかと思うことも出来ただろう。しかし、娼婦は腰に剣を帯びたりしていない。茶色に煤けたマントから見るに、冒険者のたぐいだろう、とソニアは適当に辺りをつけた。
「……どうしたんだ、お嬢さん。何か用か」
「さっきの店に入ろうとしたんでしょう」
「ああ」
女は感情を込めないまま、青い瞳をソニアに投げかけ続けた。どこか懐かしい感覚を覚えた。かつて愛した女に、どことなく似ているような気がしたからだった。
「どう? 私で良ければ相手をします」
「残念だが、子供の相手をするほど暇じゃなくてね。五年経ったらまた来るといい」
そう言うと、ソニアは歩き始めた。女は今度は後ろを付いてくると、コートを引っ張った。
「なら、宿に一緒に止まるだけでいいんです。お金は私が出すから」
ますますおかしな話だった。普通なら怪しさから断るところだろうが、残念なことにソニアは暇を持て余していた。
「このまま帰るのも癪だしな。そういうことなら、付き合ってみようか。先に言っておくが、俺は金はほとんど持ってないぜ」
「構いません。ただし、宿だけは指定させて下さい。どうしてもそこじゃないといけないんです」
女は強い光を左目に宿しながら答えた。それがますます、ソニアの中の『彼女』を思い起こさせた。こんな夜だ。彼女の生き写しに出会うこともあるのだろう。ソニアはたばこを強くふかすと、紫煙と共に女を伴い、光の海へと再び消えていくのだった。




