締出不要(Bパート)
「お兄様」
ドモンは上の空のまま、ぼーっと星空を眺めていた。こうなるともう半分現実逃避の様相を呈している。セリカの呼ぶ声も聞こえず上の空だ。
「お兄様!」
「ひゃい!」
思わず意味不明な声をあげるドモンが振り向くと、セリカがこちらを睨みつけていた。よくないこと続きだ。
「大事なお話があります」
「はあ、大事なお話ですか。僕も悩みがあるんですが」
リビングのテーブルに着席するよう促され、しぶしぶドモンはセリカの前に陣取った。
「お兄様の悩みなどこの際知ったことではありません。重要なことなのです!」
セリカがいつになく真剣な調子で言う。これはもしかするともしかするのではないか。セリカは男性と付き合っても長続きしなかった。兄に紹介したいほどの男に出会ったのでは。そうすれば、この実家はドモンのものになる。独身貴族生活を満喫できる!
「や、とうとうですか……兄としては寂しいような、嬉しいような……とにかく、まずは相手に会ってみないといけませんね」
「何の話をされておられるのですか、お兄様」
「いや、とうとう結婚の話かと」
「違います。そう報告できればと常々考えてはいますが。……実は、お兄様のことです」
セリカの顔は深刻だった。いつもであれば、小言と罵倒でドモンをなじるのが彼女だったが、今日は違うようだった。
「行政府から綱紀粛正担当官が憲兵団に来ているとか。お兄様、大丈夫なのでしょうね」
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味です。教師としてお兄様と同じく、帝国の税金から給金を食んでいますが、お兄様を養えるほどではありません」
一瞬、時間が止まったような気がした。何が言いたいのか。ドモンには聞かずとも察せてしまった。
「や、考えたくないことなのですが」
「でははっきりと申し上げます。クビになるようであればこの家から……」
「えっ!なんですか!全然聞こえません!」
「出て行ってもらいます」
ドモンは叫んだ。その場のセリカの声は掻き消えた。だが、事実は変わらない。セリカはドモンがクビになったあかつきには、完全に見捨てる気なのだ。セリカの言葉に耳を塞ぐと、ドモンは寝室にこもり、さめざめと枕を濡らすのであった。
「おはようございます」
憲兵団本部に出勤すると、氷のような印象の男──ヴィンセントが目の前に立っていた。相変わらず目が笑っていない。ガイモンがこちらを見ていたようだったが、すぐに視線を逸らした。ドモンはサイにも視線で助けを求めようとしたが、そもそも彼はまじめにパトロールを始めているようであった。つまり、彼を助けるものは誰も居ない。
「や、えーと……その」
「私は今あなたに挨拶をしています。ドモン君、良ければ私に挨拶を返して頂けませんか。真面目な勤務態度というのは日々の習慣から培われるものですから」
ヴィンセントは口元だけの笑みを浮かべながら、ドモンの言葉を遮った。有無を言わせない迫力があった。なおかつ、ぐうの音も出ない程の正論だ。
「おはようございます」
「すばらしい。適応能力が高いですね、ドモン君。さて、突然ですが。私は憲兵官吏の仕事について、一から十まで知っているわけではありません。今日は一日君の仕事ぶりを観察することで、理解の一端としたいと考えています」
「本気だったんですか……」
聞こえないようにつぶやいたつもりだったが、ヴィンセントには聞こえていたようだった。彼は金髪で左半分が隠れているが、見えている彼の右目が光ったような気さえした。
「本気です。私の仕事はそれなのでね、ドモン君。ぜひ君の仕事ぶりを拝見したい」
ドモンにはそこまで迫られて逃げるようなアイデアは思いつかなかった。ドモンが歩き、ヴィンセントが少し後ろにぴったりつく。さすがに、彼も連れ立って歩くようなことは避けたいらしかった。
ヘイヴンは暑い。刺すような日差しの中、ドモンはハンカチで何度も汗を拭った。こういう季節のための薄手のジャケットにしたのだが、まるで効果がなく、体全体がじっとりと汗に濡れていた。それが緊張の汗かどうかは、ドモンにも分からなかった。
「旦那さん、御役目ご苦労さまです」
いつの間にか、フィリュネの店の前まで来ていたのに気づかなかった。今日は普段のように賄賂をせびるような真似をしなかったので、あっという間にここまで来てしまったのだ。ソニアはどうやら材料の仕入れに行っているらしく、フィリュネだけが店番をしていた。
「や、暑いのに大変ですねえ」
「旦那さんこそ。あ、これ」
事件は起こってしまった。フィリュネがいつものように紙に包んだ賄賂を渡さんと手を伸ばしてきたのだ。咄嗟にドモンは身体の向きを変えることでヴィンセントに見えないようにする。見えてないと信じたい。
「や、いいんです今日は」
「何でですか?」
「何でって……いいったらいいんですよ。とにかく」
ヴィンセントが異変を察知したのか、近づいてくる。今こんな場面を見られでもしたら、言い訳ができない。それどころか、クビになる決定的な証拠になってしまう! ドモンの目は泳いだ。嫌な汗が吹き出し、ドモンのゆるんだ脳がフル回転を始める!
「や、困りましたねえ。そういうのはお断りすることにしてるんですよ! あー、困りましたねえ! そういうの断ることが多すぎて困りますよ!」
フィリュネはドモンの様子から何かを察することが出来たのか、ゆっくりと差し出した手をフードの中へ戻した。ドモンはハンカチで汗を拭きながら、フィリュネの店を離れていく。
「変な旦那さん」
ドモンの後ろ姿を追っていると、この時期には考えられない白いコートを羽織った男がフィリュネの視界に入った。先日の光景が蘇る。すれ違った時、冷気を帯びていた男。間違いなく、あの男だ。
「今日は冷たくなかった。なんでだろ?」
ドモンとヴィンセントは距離を保ちながら、ヘイヴン周辺の警戒を続けたが、事件らしい事件は起こらなかった。不祥事という意味でもひやりとする瞬間はあったが、まあ咎められるようなことはないとドモンは満足していた。
「そろそろ休憩にしましょう」
「や、いいんですか。実は喉もカラカラ、お腹もペコペコでして」
既に日は落ち、夜になっていた。憲兵官吏は基本的に朝から夜まで働く。夜勤は月番で定められているので、慣れれば勤務自体はそうきつくない。だが、今日は別だ。今日は一日中みはられた状態で、好きな昼寝や買い食いもダメとあってはストレスも溜まる。
二人は閉店前のホットドッグ屋でホットドッグとぬるいコーヒーを買い、ヘイヴンの外れにある川べりのベンチに腰掛け、食べた。会話はない。ただ咀嚼音と虫の鳴き声だけが聞こえている。
「ドモン君、今日はお疲れ様でした」
「や、ありがとうございます。どうですか、憲兵官吏の仕事は理解してもらえましたかねえ」
「ええ。大変参考になりました。……ところで」
ヴィンセントは言葉を切り、こちらを見つめた。冷たい視線だ。ドモンは空恐ろしいものを感じて、身体を少し震わせた。この暑さにも関わらず、である。
「君、私が人殺しだと知ったらどうします?」
「……からかうのはよしてもらえませんかねえ。や、憲兵官吏としての答えを求めてるなら、この場でとっ捕まえるっていうのが一番なんでしょうが」
「フフ、いや失礼。少し意地の悪い質問でした。忘れて下さい」
川の水面だけを見つめていた二人だったが、ドモンの身体の震えはしばらく止まらなかった。幸い、その日は何も起こらなかった。しかし人生に全く同じ日が存在しないのと同様に、何もない日々が続くわけがない。事件はその次の日に起こってしまうのだった。




