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必殺断罪人  作者: 高柳 総一郎
皇后不要
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皇后不要 (最終パート)

「義父上。何事でしょうか」

 突然の事に困惑しながらも、サイが行政府騎士団詰め所に上ったのは、日も傾き、夜に突入しようかという時間であった。後数日もすれば、彼は婚約者のミユキ・バリアントと式を挙げる。『皇帝陛下』がらみの血なまぐさい事件が頻発するので少々気が引けるが、こういう職業なのだから仕方がない。どことなく俯きがちな彼に、義理の父親となる男──ナルガは豪放磊落に笑い、肩を叩いてみせた。

「お前こそ何事だ、その顔は。これから貴様の今後のためになる御方を、ぜひ紹介しておきたいと思って呼んだのだ。もっとしゃっきりせい」

「はあ。その御方とは……?」

「うむ。こっちだ」

 行政府の中枢、元は皇帝への謁見室へと続く通路であったホールに、騎士団詰め所は存在する。ここには常に十名程度の騎士が常駐している。ホールからさらに階段を登った先に、元は謁見室であった、今サイがいる総筆頭騎士の執務室があるのだ。ここからさらに奥へと行くと、現在は総代の執務室が存在する。居住区も兼ねているので、余程のことでも無い限りは、アルメイはここから出ることは無いらしい。末端の役人──それも普段であれば行政府へ上がることすら許されぬ、立場の弱い憲兵官吏であるサイが知っているのは、その程度の知識であった。

「お主はミユキが認めた男。わしも親として、それは認めねばならん。しかしそれはつまり、わしとこのバリアント家を継ぐ者となる事を意味しておる。自覚を持ってもらわねばならぬ。即ち、帝国の要職を預かる責任をな」

 ナルガは執務室の椅子から立ち上がると、奥への──総代の部屋へと続く──扉を押し開けた。ナルガに続いて、サイも後を追う。荘厳な風景であった。天井には、おそらく遥か昔の神話を描いたのであろう宗教画が、自分がちっぽけな存在であることを伝えているかのようだ。奥へと長細い部屋の先、十段ほど高い位置に、二つの玉座が備え付けられている。天まで伸びるのではないか、と錯覚する高い背もたれ。煌々とランプで照らされたその玉座に座る男に、サイは大いに見覚えがあった。

「皇帝陛下、ご機嫌麗しゅう」

 ナルガは片膝を付き頭を垂れた。サイも義父に習う。よもや自分の父親となる男に、恥をかかせるわけにもいくまい。しかしその胸中は、複雑であった。何しろ、相手は今日、言われなき相手を一方的に殺し、親友に恥をかかせた男なのだから。

「ここにおりまするは、バリアント家の婿として、我が娘と婚姻するサイと申す憲兵官吏にございます。いずれは、私と同じく騎士となり、総筆頭騎士として陛下のお側でお仕えすることになりましょう」

「そうか。大義」

 玉座の肘置きに頬杖をつき、『皇帝』は漆黒の左目でサイを見下ろした。なんと冷たい言葉だろう。サイは下げた頭を上げることが出来なかった。もちろん許可もなしに頭を上げれば失礼千万と揶揄されても言い訳できないが、それ以前に、皇帝の目が恐ろしかったのだった。こんな冷たい言葉を吐ける人間の目を、俺はまともに見ることができるだろうか。

「ナルガ。貴様、隠居するのか」

 気だるげな言葉を受けたナルガに、サイは義父のわずかな緊張を感じ取った。思えばこの義父のナルガに、ミユキと結婚したい旨を伝えた時、頬を力いっぱい殴られたものだ。

 サイは、戦災孤児である。裕福な家庭に生まれたが、小さい頃に両親は戦争で死んだ。たまたま叔母──騎士団の内勤をしていた──がイヴァンに住んでいたので、上等な教育を受けることが出来たし、剣術道場へも通わせてもらえた。憲兵官吏になったのも、そうすれば食いっぱぐれない、と養母に勧められたからだ。故にサイは、父親というものが良くわからないままここまで育ってきた。父親がいないからこそ、人一倍責任感を持って生きてきたし、自分では『利口』に生きてきたつもりだ。これからもそうするつもりであった。

 だから、この状況はサイが望んだ人生とはわずかに異なっているように思えた。いらぬ恐怖の中に身を置き、解決しようもない力の差を思い知る。そのようなどうしようもない状況下に陥ることだけは、これまで避けてきたつもりだ。今、まさにそんな恐怖の中にいる。義父も立場や生き方は違えど、同じようなことを考えてきたのではないだろうか、とふと頭をよぎる。義父も──ナルガもまた『皇帝』を恐れる一人なのではあるまいか。

「どうなのだ」

「はっ。本来ならば、今すぐにでも……と申したいところですが。陛下もご帰還あそばされて間ものうございます。それにこのナルガ、まだまだ義息には負けられませぬ」

「そうか。……サイとか申したな。励めよ」

「はっ」

 サイは短くそう返事するのが精一杯であった。皇帝はにわかに立ち上がると、穴だらけの赤いマントを翻した。

「俺は疲れたので寝る。お前の息子が、良い騎士になることを期待しているぞ」

「は、ははあ! 恐悦至極に存じまする!」

 ナルガのひときわ大きい返事に目をくれることもなく、皇帝の気配は奥へと遠ざかっていき、やがて扉の閉まる音とともに消えた。サイは、地べたに触れていた自分の手のひらが、汗で濡れていることに気づいた。

 恐ろしい男だ。





 謁見室の奥のフロアは、皇帝や会議等で来た貴族たちの居住室が備えられている。その中の一部屋が、総代アルメイの執務室だ。彼女は、イヴァンでの生活のほとんどをここで過ごす。それほど彼女がすべきことは山積みになっているのだ。

「皇后殿下。このような夜更けに、何用でございますか」

 アルメイはデスクから立ち上がりもせず、来客を迎え入れた。本来ならば、このような態度は彼女とてとりたくはない。しかし目の前にいるのは、今や昔のような──子供の頃共に遊び、憧れたような──エリスではなくなっている。ここ数日で、それがよくわかった。決断の時が迫っている。アルメイにとって、不遜な態度はそんな焦燥から目をそらすためのものだった。

「近々わかることであろうが、元をたどれば……お主とわらわはそれこそ、同じ産湯に浸かった仲。このまま座して死を待つような事をさせるのは、忍びないと思うてな」

 優雅に仰ぐ羽扇の下の口元は、いかような形をしているのか。アルメイが口を開こうとしたその時、執務室の扉が開く。ノックもなしに入ってきたのは、皇帝。アルメイは確信していた。

 この男が、本物などであってなるものか。

「おお、ケイ。ナルガの息子はどうであった?」

「凡庸な男だ。それらしく言って返した」

 皇帝は扉の側の椅子に腰掛け、漆黒の光無い瞳でアルメイを射抜く。メガネの下で、アルメイはその闇を見据えた。視線を逸らさずに。

「さて、アルメイ。聡明なるお主であれば、分かっておろう。わらわがなぜこのイヴァンに舞い戻ったのか」

「……この帝国を再び手にしたい。そう申されるのでしょう」

 かつての内乱で皇帝を殺すつもりは、アルメイにはなかった。皇帝を廃し、遠ざけ──魔王として政治経験豊富であった皇后エリスを女帝とすることで、帝国の安定を図ろうと考えたのだ。

 しかし結果は、何者かによって皇帝は殺され、それに呼応した貴族達によって、内乱まで起きた。結果、それが帝国貴族たちの問題点や、新体制を築く契機になったのは、まさしく怪我の功名であったが──このような事態を招くことまで、アルメイには予想がつかなかった。

「皇后殿下。正直に三つ申し上げます。ひとつ。帝政をお望みならば、このアルメイ喜んで身を引くつもりです。二つ。それには、エリス様が帝位に就かれることが条件です。三つ。この帝国は、曲りなりともかつての勇者、神聖皇帝アケガワケイ陛下が築き上げたもの。偽物が座る玉座は用意しておりませぬ」

「黙れ!」

 エリスは羽扇を畳みながら、一喝! 間髪をいれず、椅子から立ち上がろうともせぬアルメイの頬を殴った! アルメイは反撃も、反論もしなかった。それ以上、いうことなど何があろうものか。

「逆賊めが……言うに事欠いて、我が夫を侮辱するか」

「アケガワケイは死にました。皇帝陛下も、あなたの夫も、もうこの世には存在しないのです。この帝国もいずれ名を変え形を変えるでしょう。しかし、かつてこの偉大な帝国を作った男がいたことは、誰の記憶にも残ります。あなたがしていることは、過去を侮辱する行為でしかないのですよ!」

「黙れッ! 黙れえ! 元をたどればお主のはかりごとがために、ケイは命を落としたのだ! 侮辱をしているのは、お主であろうが! ここにいるのは、ケイだ! 我が夫だ! 皇帝だ! それを……」

 二人の間に、手が差し込まれた。いつのまにか皇帝は立ち上がっており、光なき漆黒の瞳で、二人を見つめていたのだった。彼は少し悲しげに、口を開いた。

「……エリス。もうやめろ」

 それはアルメイが報告で聞いたような、暴虐の限りを尽くした男と全く異なる印象の、優しげな──悲しささえ漂わせる声であった。

「アルメイ殿下。あなたの言うとおり、俺は偽物だ」

「……では、あなたは一体」

「エリスは、本物の皇帝陛下の死体を見つけた」

 皇帝が死んだ。衝撃の速報が入った三日後、皇后エリスは狂乱し、失われた古代の術である転移魔法を使い、行方不明になった。彼女は夫に会いたいという一心で魔法を使い、それは叶った。爆風から奇跡的に逃れ、教会の残骸の下、血の海に沈んだ、穴だらけの遺体に対面したのだ。彼女は三日三晩泣き続け、これから彼女がなすべき──答えに辿り着いた。

 ケイは死んだ。どのような魔法を使っても、死体を蘇らせることはできない。ならば、作れば良い。死んだ勇者を、皇帝を、愛した夫を、アケガワケイを、作れば良い。

 彼女は、ケイの剣とマントを取り、潰れず残っていた右目を回収した。そして、一人の戦災孤児の少年を拾った。彼は、初めてケイと出会った時と同じ年齢で、髪と瞳の色が漆黒であった。エリスは元魔王。魔法に関しては帝国でも随一、魔王にしか伝えられないとされる外法にも精通している。そんな彼女が、人一人の顔を作り替えることなど、たやすいことであった。彼女は、見事愛した男を再現した、完璧なる偽物を作り上げる事に成功したのだ。

「馬鹿な……そのような事を、たったの五年で……」

「ふ、ふふふ」

 エリスはふうふうと息を整え肩を上下させながら、にやりと笑った。勝利の笑みであった。らんらんと、青空色の瞳が淡く輝いたようなきさえした。目に宿った召喚印から、好意を植え付けられ続けたものは、自身の目も青く輝くことがある。副作用。死したはずのアケガワケイは、未だ彼女を狂気に駆り立てていたのだ。

「なぜか、わかるか? わらわがなぜそのような事をしたのか、わかるか? わからぬだろう。今教えてやる……のうケイよ。わらわは、お主がこの下賎な逆賊を犯すところが見たくなった」

 今なんと言った。アルメイはそんな言葉も吐けぬ間に、皇帝の右手を口に押し付けられ、そのまま広いデスクに背中を押し付けられた。重ねられていた書類が羽のように舞い、インク壺が黒い川を作って転がる。

 まともな抵抗もままならぬ中、アルメイの執務用ローブが、引き裂かれ剥ぎ取られる! 地味な色の下着があらわになり、それすらも一瞬で引き裂かれた。埃舞う執務室に、アルメイの白い肌がさらされた。

「そのケイはな、元はといえば、卑しい身分の男だ。まともな教育も、家柄も、血筋もない。だから良かったのだ。こうして貴様が下賤の者に犯され、総代などというふざけた職も全て失い──お主が作り上げた帝国を、無茶苦茶にするところを、見たかったのだ!」

 アルメイは、身じろぎもせず、されるがままにしていた。これは報いなのだ。皇帝の──男の漆黒の瞳が、悲しげにこちらを見つめている。全てが終わるまで、エリスは笑い続けていた。





 執務室から出たエリスは、上機嫌なまま先んじて歩き出した。振り返ると、その場になおもぼおっと立ち尽くしたままの、俯いたケイ。

「どうした、ケイよ」

「エリス。これが、お前の望んだことなのか?」

「何を言うかと思えば……フフフ。わらわは、胸がすっとしたぞ。五年もかかってしまったが、待ったかいがあった」

 優雅に扇を仰ぎながら、エリスはなんのことなしに話してみせた。なおも、ケイはその場から動こうとしなかった。固く握った拳は、容易に解けもしなさそうだ。

「俺は、お前がアケガワケイになってほしいと言うからなった。勉学で教養を身につけ、剣を鍛えるために何人も殺した。お前が望んだことは、全てやってきた。このままお前が望めば、俺は皇帝になるのだろう」

 無表情な皇帝の顔に、エリスの白い指が這う。黒い眼帯から、顎を通り──彼女は首に自分の細腕を回し、口付けた。

「その通り。お主は皇帝となる。あの女が作ったような偽物とは違う、真に正統なる帝国の王だ」

「お前がそう望むのなら、そうなのだろう。だが」

「どうしたのだ?」

 彼女は微笑んだ。ケイは開きかけた口を一文字に結ぶ。彼女は俺を求めてくれる。何も持たなかった俺に、全てを与えてくれた。それ以上、何を求めろというのだ。彼女の心には、今も変わらずアケガワケイがいるというのに。

「なんでもない。行こう」

 ケイは無意識に手を彼女に差し出していた。彼女の白い手が、ひやりとケイの手を包む。それでいい。彼女の心のなかに誰が居ようと、構わなかった。この手の冷たさだけは、俺のものだ。俺のような男には、それで十分だ。ケイは彼女の手を引き、ランプの光も照らさぬ闇へ消えていった。






 

 

 引き裂かれたローブで身体を掻き抱いたまま、アルメイは壁に背中を押し付け、書類が散らばった暗い部屋をただ見ていた。二人が出て行くまで、一体何が起こったのか、未だ理解が追いついていなかったが──彼女の冷静な頭脳は、自分が犯され、それをただ受け入れるしかなかった事をようやく認識し始めていた。

 私は、彼女にとって、卑劣な手段で国を簒奪した逆賊でしかなかったのだ。分かってはいた。皇帝が死んだのは偶然であり、関与していないなどと言っても、信じてもらえぬと。所詮私は皇帝の『好意の植え付け』へ対抗するため、女の武器を思う存分に使ったアバズレだ。今更、何を反論するというのだろう。アルメイは笑った。笑いながら、両頬を涙が伝った。私と彼女は、永遠に分かり合えない。総代として国を率いて五年。流したことのない涙が止まらなかった。そんな時、不躾にそのノックは鳴った。

「アルメイ殿下。ナルガにございます。皇帝陛下に無事義息を拝謁させることができました」

「……そう、か」

 アルメイは、自分の言葉に涙が混じらぬようにするのに、精一杯であった。ナルガは、自分の父親のような男だ。小さいころなどは、エリスと共に叱られたものだ。そんな記憶が不意に脳裏で炸裂し、現在との乖離にアルメイは嗚咽する。

「アルメイ様。何か……」

「なんでも、ない」

 気の利いた返事も思いつかず、アルメイはなおも嗚咽する。涙があふれる。エリスがあの皇帝を連れて来た時、自分が許されたような気すらしたのだ。五年間、皇帝を擁立するでもなく、総代として国の基礎づくりに務めたのも、どこかでエリスからの許しを求めていたからかもしれない。それも、幻と消えた。

 とうとうナルガは、部屋に入ってきた。暗い部屋の中で悲嘆にくれる、ボロ雑巾のごときアルメイ。書類があたりに散らばり、血のように飛び散ったインク。それを見て──彼はここで何が行われたのか、理解してしまった。

「陛下が……陛下がおやりになったのですか」

 アルメイは答えなかった。答えられなかったのだ。彼女は昔のように、まるで十代の少女のごとく、泣いた。ナルガには、それを見つめることしか出来なかった。親ならば、彼女を抱きしめ頭を撫でてやることができただろう。だが、ナルガには出来ない。彼女は総代。この国の指導者だ。孤独を選び、今まで貫いてきた。そんな彼女に手を差し伸べ、最後に残ったプライドを折ることだけは、ナルガにはできなかったのだ。

 結果、彼が選んだのは、まずアルメイの側に跪くことであった。

「……あの皇帝と皇后殿下を連れて参ったのは、私です」

 俯いたまま顔をあげようとしないアルメイに、ナルガは言葉を続けるほかなかった。覚悟の上であった。ナルガは武人である。自分のしたことで主君に責めを負わすことはできない。責任は、自分で負う。命を賭けてでも。アルメイの泣き顔と、娘のミユキの顔が重なる。思えば、娘が生まれた時、幼いエリスとアルメイが、祝福してくれたものだ。無数の思い出が濁流のようにナルガの全身を奔り──やがて消えた。彼は騎士で、剣士であった。どんな名誉も、剣で手に入れ、取り戻してきた。最後まで、一人の剣士であれ。自分の信念と主のために。彼の決意は固かった。

「……義息のサイは、まだまだ頼りのうございますが、鍛えれば必ずモノになりまする。いずれ、お取り立てくださいませ。それまでは、憲兵団団長のリードに任せます。アルメイ様。長い間お世話になりました。今日限りで、帝国騎士団総筆頭騎士・ナルガは死に申した。そうお思いくださりませ」

 アルメイはなおも返事をしなかった。ナルガの背中が遠ざかっていく。また、置いて行かれてしまったのだ。皇帝や、皇后と同じように。アルメイの頬を、またも涙が伝う。もうあの愚直で心優しき騎士とは会えない。鈍った頭の中を、確信に近い直感が走っていた。





 冬が近づいてきた。

 埃っぽい教会の聖堂へ滑り込んだイオが感じたのは、この冬も辛くなるのだろうという予感であった。本格的な冬になれば、神父の仕事も難しくなってくる。信者の足も遠のくし、新規の信者の加入も見込めない。イオの考えているしのぎ方といえば、いつもの手──女を引っ掛けて食わせてもらうと言ったものだ。金のある聖職者ならば、布教の名目で温かい土地を目指したりするものだが、あいにくそんな余裕はない。

 かまどに火を入れ、ランプで種火を作ってから、なけなしのろうそくを燭台に立て、火を点ける。わずかだが、暖かくなったような気がする。そんな事をつらつら考えながら、イオは身体を手でこすりながら、ちらと懺悔室へ続く通路を隔てるカーテンを見た。扉が開く音。ひゅう、と風切音が鳴り、カーテンを揺らす。

「ちったあ、金になるといいんだがなァ」

 栗色の髪に手櫛を通しながら、イオは暗い懺悔室へと入る。格子窓の向こう側で、影が揺れている。イオはいつものお決まりのセリフを言ってから、影へと懺悔を促した。

「神父様。私は罪を犯しました」

「神は全てを見ておられます。そして、あなたの罪をきっと許すことでしょう。正直に全てを話しなさい」

「罪は二つ。ひとつは、世間を騒がす皇帝。よく正体を見極めもせず、いたずらにイヴァンに呼び込んだのは──この私なのです」

 野太い声から紡がれた衝撃の告白に、思わずイオは鋭い視線を影に送る。暗い懺悔室の中では、お互いの事はわからない。だからこそプライバシーが守られ、人々は安心して懺悔をすることができるのだ。

「もう一つの罪とは、一体何でしょうか」

「……皇后殿下と『皇帝』は、今日の夜、混乱を避けるためヘイヴンを通り色街へ向かい、宴席に参加するよう仕向けてあります。ヘイヴンで待ち伏せ、二人を斬る。それが、私のもう一つの罪です」

「なぜです」

 イオは思わず聞かざるを得なかった。彼も神父として様々な懺悔を聞いてきた。どうでもいい話も多かったが、中には聞かないほうが良かった話題も往々にしてある。今回は後者であった。一度、断罪対象に上がった二人であれば、尚更だ。

「なぜ、あなたが斬らねばならないのですか」

「私は死を覚悟した身。帝国騎士団総筆頭騎士、そう呼ばれた事もありましたが、今は既にその肩書も捨てました。行政府のアルメイ総代も、預かり知らぬこと。どちらへ転んでも、迷惑はかかりませぬ。神父様も、存じておられるでしょう。あの『皇帝』が、どれほどの無益な死を臣民に与えてきたか。そのきっかけを作ったのは私なのです。だから、決着も私が付けねばならんのです。……しかし私は騎士。曲りなりとも主君に刃を向ける以上──許しが、欲しかったのです」

 格子窓の下の引き出しを、イオは影側に押し出した。彼の覚悟は変わらぬことだろう。──そして、これは千載一遇の好機だ。

「喜捨されると良いでしょう」

 金貨がぶつかる豪奢な音が響き、影は去っていった。残された金貨は、二十枚。ここで自ら命を断ったヘラが残した金も合わせれば、二十四枚の金貨が積み上がったことになる。

「殺るなら、今しかねェな」

 イオは呟いた。懺悔室で命を賭けて皇帝と皇后の断罪を望んだヘラに、答えてやれる。ならば、やるしか選択肢はない。







「そりゃ、ほんとなんでしょうね」

 ドモンはイオの懺悔をひと通り聞き終えた後、聖書台の上に並べられた金貨に、ちらりと目線を送った。金貨は一人六枚ずつ。報酬としては十分な額だ。

「俺が適当に懺悔を聞くわけねェだろう。話が本当なら、今夜勝手に皇帝を殺しに行く奴がいるってことだぜ。帝国騎士団総筆頭騎士、なあんて立派な肩書が付いてるんだ。もしかしたら、殺ってくれるかも」

 どこかで聞いたような肩書だ。木っ端役人のドモンでは、顔も見られぬような高位の騎士。知り合いのはずもない。彼の取り留めのない思考を、ソニアの言葉が遮った。

「そんな都合がいいことあるかよ。……しかし旦那。絶好の機会だぜ。そんな肩書の男がどうしてまたそんなことを考えたのかしらんが、相手はあの怪しい皇帝と、その皇后だ。一応建前ってもんがある。身内の殺し合いって事になるなら、俺達は怪しまれないだろ」

 ソニアの言葉に同意するように、ドモンは静かに頷いた。腹は決まった。機会はただ一度。これを逃せば、ヘラや皇帝に殺された人々の死は無駄になるだろう。

 聖書台に置かれた金貨を、四人は一人ずつ受け取っていった。ドモンは六枚全てをジャケットの右袖口にあつらえた隠しポケットに仕舞ってから、フィリュネの後、金貨を六枚取ったソニアに向き直る。

「あんた、今回は『自分でやる』とか言わないんですね」

「そういや、そうだよなァ。ソニアよう、曲りなりとも一度は皇帝を殺ったんだろ。二度目も自分で、なんて考えねェのかい」

 ソニアはコートの内ポケットに金貨を仕舞い、にやりと不敵な笑みを浮かべる。フィリュネもそれを察したのか、同じようににやりと笑った。

「だって、ソニアさんの仕事はいつでも完璧なんですよ。二回目なんて、必要ないじゃないですか」

「そういうことだ。皇帝は俺が殺した。俺にとっちゃそれで十分だ。二人目が本物だろうとなんだろうと、構いやしねえ。二人目に積もった恨みを、どんな手使っても晴らしてやる。それが断罪人だろう」

 ドモンも、イオもつられて笑った。皇帝の剣の腕は、本物だ。それこそ手段など選べない。懺悔に来たという騎士も、それを知らないではないだろう。その騎士が正統な決闘を挑むのなら、断罪人はその裏を欠く。

 悪党に、正々堂々たる舞台を望む権利など、無いのだから。







 夜。自由市場であるヘイヴンは、夕日が落ち闇に沈んだ後、人気がなくなってしまう。露天商は夜に弱い。もちろん祭りでも行われていれば別であるが、ことヘイヴンに限っては、ほぼ無人である。周囲の人間も、さすがに夜は気味悪がって近づかない。

 つまり、今のケイとエリスにとっては、いらぬ騒ぎを避けるためここを通るよう指示されるのは、なんら不思議なことではない。

「月が美しいな、ケイよ」

 腕を組んだままのエリスは、羽扇で空に浮かぶ三日月を指して言った。周りには人気がない。光もない。星空がまるで落ちてきそうだ。

「もう少し、見ていくか」

「フフフ。お主もなかなかロマンチストよな。だが、明後日はいよいよ諸侯がイヴァンに集まる日。名残惜しいが、グズグズはしておれぬ。ナルガめ、打ち合わせとはなかなか慎重なことをしよるわ」

 くつくつと笑うエリスを見て、ケイは幸せを噛み締めた。俺は国などいらぬ。皇帝の地位など、どうでもいい。ただ、彼女の笑顔を見ていられれば良い。彼女は、俺の事を求めてくれる。それに答え続ければ、側にいられるのだから。

「エリス」

「なんだ……いかんぞ、ケイ。ここは人はおらぬが往来なのだぞ……」

 言葉では拒否しながらまんざらでもない、といったエリスを、ケイは強く抱き寄せた。しばらく彼女の暖かさを堪能していたが、彼女の肩越しにケイは男の姿を見た。総白髪からのぞくシワだらけの顔に、無数の刀傷を刻んだ男。白い鉢巻をし、全身髪と同じ色の白装束。左手には鞘。右手には、抜身の剣。見覚えのある老騎士。ナルガ。色街で待っているのではなかったのか。それに、その格好は。全てを察したケイは、ゆっくりとエリスを離し、持っていたランプを地面に置いた。

「エリス」

「どうしたのだ、ケイよ」

「下がっていろ。……手を出すなよ」

 ようやくナルガの姿に気づいたエリスは、ひっ、と恐怖の声を漏らした。手に握る抜身の剣と同じ、刃の如き研ぎ澄まされた殺意を、空気越しに感じ取ったのだ。

「何の真似だ、ナルガ」

「誤解を恐れず言えば──アルメイ様は、私の娘同然」

「それがどうした」

 ケイは腰に下げた剣を一気に引き抜き、構え、腰を落とし、剣を伸ばした。殺す気でかかってくる者には、殺す気でやらねば勝てない。アケガワケイになるために剣を鍛えた彼には、分かりきった理屈であった。

「ナルガ・バリアント。娘同然のアルメイ・ポルフォニカを辱めた外道を成敗しに参った」

「下郎! 下がらぬか、ナルガ! 我が夫にして帝国皇帝に剣を向け、図らずも外道呼ばわりとは……無礼であるぞ!」

「黙れ!」

 一喝。ケイの言葉に力がぬけてしまったのか、エリスはよろよろと壁によりかかる。ケイは、このように強い言葉を自分に吐かない。こんなことがあるわけがない。ただそんな声にならぬ否定をし続ける他に、エリスには何も出来なかった。剣士の果たし合いに、エリスが口を挟むことなど出来るわけがない。ナルガは固く柄を握り、構えを解かない。ケイも同じく構えたまま、歯を剥いて笑った。

「来い、下郎。命が終わる前に、俺を殺してみせるがいい」

 咆哮! じりじりと間合いを詰めていたナルガは、一気に剣を横薙ぎにし、胴を切り裂きにかかった! しかしケイは既に読んでおり、聖剣でそれを防ぐ! 鍔で強引に競り合わせ、剣で円を描く! 剣の持ち手が捻じれ、握力を失い手放しそうになったナルガの剣を、すかさず弾き飛ばす! 宙を舞うナルガの剣。絶望に思わず天を仰ぐナルガ。

 夫の勝利を確信し、月明かりを反射させるナルガの剣を見つめていたエリスの口が、何者かの手によって塞がれた! 助けを求めることも叶わず、路地裏に押し込められたエリス。何が起こったのかわからぬエリスが次に見たのは、ロザリオの右端を咥えている、神父の姿。恐ろしく顔立ちの整った男の口元で、ロザリオの横棒が伸び──そこから銀色に鈍く輝く細い針が現れた。ロザリオが地面に落下し、黄金を孕んでわずかに音を立て転がる。エリスは恐怖に声を震わせながら、口を開く。

「貴様、何も」

 神父は答えず、咥えた針を素早く手に持つと、エリスの眉間に針が打ち込まれた! 針の根本まで眉間に押し込まれた瞬間、彼女の身体は痙攣を始める! 神父が──イオがすかさず針を抜くと、痙攣を止めた彼女はゆっくりと膝をつき、壁へと背中を付け絶命!

 その瞬間! ケイの剣はナルガの身体を袈裟懸けに引き裂いた! 飛び散る血、大の字に崩れ落ちるナルガの身体。白装束は鮮血で真っ赤に染まり始めていた。

「俺は外道で卑しい偽物かもしれん。だが、エリスが俺を皇帝と認める限り、俺は皇帝なのだ。どうだ。まだ死なずに済んでいるぞ、ナルガ。偽物に許しを請え」

 そこまで言ってから、ケイはふと周りの様子がおかしいことに気づいた。エリスがいない。負けを認めさせる直前までくれば、エリスが何か言うはずだ。あたりを見回すが、姿はどこにも無かった。

「や、これは一体」

 間抜けな声が響いた。ケイは声のした方を、反射的に振り返った。白いジャケットを着た憲兵官吏であった。手元にはランプ。後ろには、黒いコートを着た男を連れている。コートの男はどうやら両手を縛られているのか、両手の上に布が被せられ、そこから憲兵官吏が持っているロープが伸びていた。

「貴様、何者だ」

 ケイの言葉に、憲兵官吏はゆっくりとランプを掲げた。こちらを覗きこんでいる、収まりの悪い黒髪に眠そうな目には、見覚えがある。

「や、どうも。イヴァン憲兵団憲兵官吏、ドモンです。これはこれは、皇帝陛下! このような夜更けに、一体……やや、まさか。また果たし合いでございますか」

 のんきな物言いに、ケイの心は粟立った。今はそれどころではない。エリスがどこにもいないのだ。言い知れぬ不安に対抗すべく彼にできたのは、精々皇帝の顔を取り繕うくらいのものであった。

「護送中か?」

「はっ。いかにもその通りでございます」

「そうか。大儀である。しかしお前の出る幕ではない。失せろ」

「左様でございますか。しかし、皇后殿下はよろしいので? なにやらあちらで差し込んでおられるご様子ですが」

 ドモンの言葉に振り返ると、確かに小さな白い影がうずくまっている。まさか体調でも悪くしたのだろうか。慌てて駆け寄るケイの後ろから様子を伺うように、ドモンもくっついて近づいていく。ケイは拾い上げたランプの光を、うずくまった白い影に当てた。白いフードを被った顔から覗くのは、金髪。

 エリスではない。

「……何者だ、貴様」

 首元に赤いスカーフを巻き、銀色のブローチで止めた少女は、無表情な顔をあげた。ランプの炎が少女の瞳に映る。少女──フィリュネはゆっくりと立ち上がりながら、口を開けた。

「皇帝陛下をお迎えにあがった者です」

「何……」

「あの世で、黄金騎士……ソニア卿がお待ちですよ。お迎えはほら、あちらに」

 振り返るケイ。白い布が風に揺れ宙を舞い、ケイの顔を掠め虚空に消える。闇に溶けるコートにサングラス。そして、銃。ソニアが咥えたタバコが朱々と灯り、紫煙が舞う。狙いを定めて、トリガーを引く。マズルフラッシュ。閃光が星の光と暗闇を裂いて、ケイの右目に着弾! 眼帯を貫き、激痛に呻くケイ! 続いて、左目にも着弾! 絶叫! 幽鬼の如く剣を振り回す彼の背中で、ドモンはゆっくりと剣を抜く。そして間髪をいれずに、容赦なく彼の背中へ刃を振り下ろした! くぐもった苦悶の声を挙げる彼の耳に、ドモンは背中越しにささやいた。

「どうされました、皇帝陛下」

 ごぼごぼと口からあふれる血を避けて、ケイは最期の言葉を吐こうとしていた。

「貴様……貴様……! エリスを……どうした!」

「さあ。土下座でもすれば、教えて差し上げますよ。……無理なら、地獄であんたが殺した人にやりな」

 ドモンは皇帝の背中に更に深く冷徹に刃を押し込み、捻じってから引きぬいた。よろよろと二・三歩踏み出し、ケイはごろりとあおむけに身体を横たえ、二度と起き上がらなかった。念入りに刃についた血を振って飛ばし、皇帝の赤い穴だらけのマントで血を拭ってから、ドモンは刃を鞘に納め、振り返りもせず去っていく。ソニアは銃を仕舞い、全てを失ったケイの目の前で、フィリュネに手を差し伸べ──転がって割れたランプから漏れる炎の光すら届かぬ、暗い闇へと消えた。天に向かって、血まみれのケイの手が伸びる。彼には何も残っていない。目の前には、闇。

「エリス……お前は、どこにいる……一人は……寂しい……」

 虚空をつかもうとしたケイの手が、力なく地に落ちた。彼の手は冷たく、孤独だった。星の瞬く音さえも、死にゆく彼には煩わしかった。



皇后不要 終


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