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必殺断罪人  作者: 高柳 総一郎
父子(おやこ)不要
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父子(おやこ)不要 (最終パート)

 ドモンは久々に普通の一日を過ごしていた。

 自由市場ヘイヴンをきちんと見回り、時折露店にちょっかいを出して、ジャケットの裾に仕込んだ隠しポケットに、受け取った賄賂を仕舞う。そして、憲兵団本部に戻り、上役のガイモンから叱責を受ける。哀れみめいた視線を受け取りながらデスクに座り、素知らぬ顔で書類を書く。いつもどおりだ。だが、ドモンはわかっている。いつかはこの日々も終わりを告げ、自分には無様な死が訪れるだろう。それまで、何であろうと生き続けなくてはいけないのだ。その死を受け入れるために。

「珍しいじゃないか。考え事か?」

 顔を上げると、サイがデスクの目の前に立っていた。ドモンは彼に、笑いかけすらしてみせた。サイも、そんな彼の雰囲気が変わったのに気づいたのだろう。ふっと口元に笑みを見せる。

「考え事ついでに……ドモン、相談なんだが。前に話した事件の事、覚えてるか」

「ええ。どうです、捜査のほうは。君のことですから、結構進んでいるんでしょう」

 サイは辺りを見回すと、ドモンの肩を叩き、外へ出るよう指を小さく向けた。ドモンも同じように辺りを見回し──尤も気にする者はいなかったが──外へ出た。露天のコーヒー・ショップが出ていたので二人分購入する。寒空の下、吸い込まれるように湯気が通りを抜けていく。

「や、寒いですねえ……それで、どうなんです。捜査は進んでいるんでしょう」

「打ち切りだ」

 サイは、熱いコーヒーにも関わらず、一気に飲み干した。苦々しげな表情であった。コーヒーに対してか、ままならぬ状況に対してか。ドモンには容易にその答えが見えたような気がした。

「そんなバカな。……『皇帝殺し』ですか?」

 皇帝殺しとは、いわゆる迷宮入り事件の事を指す隠語だ。とうとう見つからなかった『皇帝を殺した男』。憲兵団もその捜査に躍起になっていた時期もあったが、今では単なる不名誉な事件の称号でしか無い。

「そういうことだ。……だが、団長から情報は引き出した。多分……帝国貴族、それも二十家の誰かの……親族、もしくはご落胤かも」

 ご落胤。つまりは、妾にでも産ませた子供とでもいうことか。そんな位が高い人間でも、殺人に手を出す。親のメンツで、罪はもみ消される。それがこの帝国の現実だ。

「そりゃ、相当にヤバい事案ですねえ。ま、早めに手を切れて良かったじゃないですか。君も出世コースに乗った男。あんまり変な事件に顔を突っ込むと、出世はともかく命だって危うくなるところでしたよ」

 ドモンはふうふうとコーヒーに息を吹きかけながら、いつものとおりの言葉を吐いた。いつもならば、そうだな、と残念そうにサイは笑っておしまいだ。今回もそうだろうと、ドモンはなんとなく思っていた。

「そうじゃない。……そうじゃないんだよ。俺は、出世して……もっと犯罪と戦えるようになると思ってた。なのに、一声かかれば捜査がとまる構造は、何も変わらないなんて……こんなの、おかしいじゃないか」

「君らしくもない。今までの君なら、さっさと手を引いて、カシコく生きてたじゃありませんか。深いとこまで首を突っ込まないのが、君のポリシーじゃなかったんですか」

 サイは喋らなかった。コーヒーの入っていた空のコップが、音を立てて潰れた。ドモンには、彼の怒りが、絶望が分かる。それが、甘っちょろい理想論であるということも。立場は異なれど似たような事で悩んでいたのだから、なおさらだ。

「ドモン、俺は諦めないぜ。人が三人も殺されてるんだ。絶対に犯人を捕まえてやる」

「……そうは言いますがねえ……当てはあるんですか?」

「ああ。ヘイヴンから少し離れたところに、教会があるだろ。ほら、お前がたまにサボりに行く教会だ。……あそこの付近で、隻腕の男がうろついてるのを見た奴がいるらしい。西地区の聖人通りを抜けたところにあるからな。少なくともその近辺を虱潰しにすれば見つかるはずだ。なあ、ドモン。お前あの教会の神父様とは知り合いなんだろ? ちょっと口を利いておいてくれないか」






 ドモンは腕組みをしながら教会へ歩みを進めていた。あまりよろしくない展開だ。ドモンが教会に入り浸っているのは別にいい。周知の事実だからだ。しかし、あまり探られるのはよろしくない。もし、何かのはずみで断罪人だとバレれば、その時は。

「旦那さん」

 いつの間にか、フィリュネが隣を歩いていたことに、ドモンは話しかけられるまで気付かなかった。さらに隣には、ソニアも一緒だ。

「や、おふたりとも。あんたらも教会に?」

「ええ。……あの、実はちょっと聞きたいんですけど。……旦那さん、断罪の話、聞いてます?」

 初耳であった。ここ数週間は、断罪の依頼自体ご無沙汰であったし、何よりドモンにやる気が無かった。何か問題があるというのだろうか。モヤモヤとした気持ちのまま、ドモン達は教会の前に辿り着き──そこで立ち止まった。

「で、どういうことです。断罪の話ってのは」

「実はな。ちょっと前に、とある婆さんに出会ったんだ。話を聞いてみたら、例のミロク堂の事件で、殺された主人の母親だって言うじゃないか。……息子夫婦に孫まで皆殺しにされて、悔しいって言ってな……それとなく、教会で懺悔してみたらって薦めてみたのさ。もちろん、喜捨の金をきちんと持てとも伝えておいた。それがもう三日前。いくらなんでも、神父が懺悔を見逃すとも思えねえ」

 確かに妙な話ではあった。イオは油断ならないところはあるが、断罪になりそうな懺悔をわざと見逃すようなことはしない。ドモンは、彼のそういうところは認めているつもりだ。

「……とにかく、聞いてみないことにはなんとも言えないでしょう。金になる話を独り占めにはさせないってことは、ガツンと言っとかないと後々尾を引きますからね」

 ドモンが教会に入るのは久々であった。何しろ、ここ最近は呆けたような生活を続けてきたものだから、こうしてフィリュネ達と会ったことすら遠い記憶のような気がしていた。

 教会の中には、いつものように聖書を頭に被せて惰眠をむさぼるイオ……は居なかった。教会の中にいるのは、聖書台の上に聖書を広げ、たった一人の聴衆に対し、神の言葉を簡潔に述べる神父イオの姿だ。

 彼はドモン達三人の姿を見て、聖書を閉じると、目の前の青年に残念そうに声をかけた。

「すまねェ、テツ。今日はここまでだ。……俺は仕事ができた。今日は、別宅で復習をしておいてくれ」

 青年は頷き、小脇に古ぼけた聖書をはさむと、裏口へと向かってゆく。彼の左腕は、無かった。隻腕の男。野暮ったい黒髪。彼の姿が消えると同時に、ドモンは口を開いた。

「神父。彼は?」

「最近、手伝いをしてもらってんだ。聖書の事も教えてる。……何か、問題でもあんのかい、旦那」

 ドモンが口を開く前に、たばこを口の端に咥えたソニアが話を切り出した。彼の機嫌は、すこぶるよくないようであった。

「神父、三日前に婆さんが、息子夫婦に孫まで殺されたってんで、断罪の依頼をしにきただろう。金も、いくらか受け取ったはずだ。なんで俺たちに話そうとしない?」

「知ってたのかい」

「紹介したのは俺だからな。で、なぜ話さないんだ。納得の行く理由があるなら、聞かせてみろ」

 イオは喋らなかった。巨大十字架オブジェを見上げ、こちらに背をむけるばかりだ。ソニアは珍しく苛ついた様子で咥えたたばこを上下させると、イオの肩を掴んで正面をむかせ、容赦なく殴った! イオは、反撃もしない。ただただ、甘んじて殴られ、埃っぽい教会の床に転がるばかりだ。

「理由を言え。あの婆さんの無念が、お前に分からなかったとは言わせねえ」

「知らねェよ。断罪の依頼か、ただの懺悔かを決めるのは俺だろ。アンタも旦那も嬢ちゃんも、それは納得づくのはずだ。今更それにビービー言われたって困るぜ」

 イオは殴られた頬を擦りながら、不機嫌そうに言った。彼は聖書を抱えながらベンチに寝転がり、いつものようにそれを頭に被せる。

「用がそれだけってんなら、帰ってくれよ」

「それだけってわけにはいきませんね」

 ドモンはすかさず口を挟み込んだ。

「……さっきのガキ。いつからここにいるんです」

「二週間くらい前だが、それがどうかしたのかい。旦那」

 殺人事件。隻腕の男。サイの掴んだ、唯一の目撃証言。そして、老婆の依頼。それを握りつぶすイオ。すべてが重なりあった結果は、残酷であった。もはや、猶予は無い。ドモンは意を決した。

「近々、サイがこの教会に捜査に来ます。……頭の回転は、あんた多少はいいほうでしょう、神父。それがどういう意味か、分かってんじゃ無いですか。どうやってあんたがガキを吐かせたのかは知りませんが──僕も、あんたの持ってる『答え』にたどり着いているってことです」

 イオの表情は聖書で遮られ分からなかった。だがその下で彼がどんな表情をしているか、なんとなく察せられるような気がしていた。

「一家惨殺事件の犯人は隻腕の男。どうやら、憲兵団団長にも即捜査の差し止めを要求できるレベルの、大物の身内のようです。普通なら、そこで終わってる話です。僕らが、さっさと断罪にすればいいだけですが、サイは捜査を続けるつもりです。しかもあのガキの存在にも気づいてる。もしあんたがしっぽを掴ませでもしたら、この教会でできる死体は、あんたも含めて二つに増えなくちゃならない」

 なおも、イオは語らなかった。ソニアも不機嫌そうにタバコをふかすばかりだ。フィリュネは俯き喋らない。彼女の脳裏には、数日前のイオの顔が浮かぶ。幸せそうな──平和で穏やかな日々に、安息すら感じていたイオの顔が。クッキーを食べ、わずかながらに顔をほころばせた、テツの顔が。そのすべてを、イオは捨てねばならない。自らの業と、保身のために。

「さあ、理由を聞かせてもらいましょうか、神父。なぜあんたは、わざわざ断罪の依頼を握りつぶしたりなんかしたんです? ガキに、情でも湧きましたか? そりゃ結構なことですが、そのガキはなんの落ち度もない家族の命を奪ったんです。その事実は変えようがない。懺悔も、行われた後です。あんたも断罪人でしょう。それなら、やることは一つってもんじゃないんですか」

「俺に……俺にあの子を殺れってのか」

 誰も、何も答えなかった。答えるまでもない──辛い答えであった。

「あんたら、テツの事情を知らねェからそんなことを言うんだ。確かに、テツの体は殺しをやった。だが意識は違うんだ。やつの体の中には、ドウって野郎がいる。奴は、テツのために殺しをやってるって……」

「二重人格」

 異常者でも見るような目をするドモンとフィリュネであったが、ソニアだけが小さくその言葉を呟いた。彼はこことは違う世界から転生して来た男である。故に、知っていることと知らないことで差があるのだ。

「昔、そんな映画……話を見たことがあるぜ。一つの体に二つの心を持つ男がいて、もう一方の心がどんどん暴走していくのさ」

「……まさかとは思いますが、そのもう一方の『心』がやった事だから見逃してくれ、とでも言うつもりじゃないでしょうね」

 イオは苛立ったように聖書をとり、立ち上がった。そうだと言ってやれたら、どんなにも楽か。イオはドモンを無視し、ソニアに言葉を投げかけることで抵抗とした。

「なあ、ソニアよう。その話のオチはどうなるんでェ」

「男はもう一つの心に打ち勝ったさ。だが間に合わなかった。男は恋人と共に、もう一つの心が引き起こした破滅を目にして、話は終わりだ」

「続きはねェのかい」

 ソニアは無言で頷いた。イオとて馬鹿ではない。このままサイが教会に来れば、テツは見つかる。その間だけどこかに隠す? 神父イオの教会に、隻腕の手伝いがいることは、周囲に住んでいる信者達にも知れている。隠れていても、いずれは露見するだろう。テツは殺人犯として始末される。黙したままのイオに、ドモンはさらに追い打ちをかけた。

「はっきり言っておきますがね、神父。僕はガキと暮らしてたことをああだこうだというつもりはありません。懺悔を握りつぶしたことも、あんたの言い分を認めます。僕らは断罪人である前に人間。気の迷いがあって当然です。ですが、これだけははっきり言っておきますよ。サイがもしここに来れば、あのガキのことに気づく。隠し通せるはずもありません。僕の知ってる中で、彼は最も優秀な憲兵官吏です。もしかすると、『気づかなくても良いこと』にも勘付くかもしれません。そうなったら、僕らはおしまい。それは、分かってますね?」

 聞かなくても分かっている問いであった。まるで、自分ではない自分が言葉を発しているような気すらしていた。

「旦那……違うんだ。違うんだよ。俺ァよ、両親の顔なんて大して覚えちゃいねえ。孤児院で良くしてもらったし、俺は出会った旅の神父様に身を立てる方法を教えてもらった。人間は、一人で生きていける。誰かに愛されることなく、一人寂しく生きていける。だがそりゃ、生きながら死んでるようなもんだ。愛されずに生きてきた奴に、愛を教えてやるのが、俺の仕事だ。今更、断罪人だからああだ、バレるからこうだなんて考えるつもりはねェんだ。俺は、テツを……」

 俯いたまま、イオの言葉は詰まった。断罪人は弱き人々の恨みを肩代わりし、復讐を遂げる稼業だ。ドモンは、考える。断罪人は悪党だ。悪党以下の外道どもを地獄に叩き込む代わりに金を得る。そして、徐々に人間性を失っていくのだ。

「……旦那。俺は神父にケジメをつけさせるべきだと思う」

 皆、ソニアの方に顔を向けた。彼はただ、冷徹に冷静に考えを述べるばかりであった。

「神父、お前はガキをどう思っているかしらないが……俺たちみたいな殺し屋に、ガキなんざ育てられるわけないだろう。ましてや、そいつは他人の命を謂われなく奪ったんだ。許されると思うか? それでお前は、理由はどうあれ懺悔を受けた。金だって受け取った。調べもついてる。俺達がそれを握りつぶすなんてこと、あっちゃならねえ。だから、ガキはお前が殺るんだ」

「そんな……ソニアさん、いくらなんでもそれは酷すぎますよ!」

 フィリュネの言葉は悲鳴に近かった。イオが、テツの事を大切に思っている事を彼女は痛いほど知っていた。それを自らの手で始末をつけるなど、残酷に過ぎる。

「フィリュネ。勘違いするんじゃねえ。本当なら、神父ごと始末つけなきゃならないところだ。だが、サイの旦那が来る前にガキを始末すりゃ、とりあえず神父まで殺らなくて済む」

「結果論でしょう、そんなの!」

 フィリュネが掴みかかろうとするのへ、ドモンが手を差し込み制した。彼の目は暗く、深い決意が感じられた。フィリュネはその瞳の深淵を見た。そして、最早説得など不可能であることを悟った。川が山に向かって逆流することが無いように、これ以上この議論がひっくり返ることもありえないのだ。イオも、力なく手を下ろした。

「時間を……時間をくれよ、旦那」

 最早イオからは、生気が抜けきったような声が出るのみであった。

「サイは足止めしておきます。一日は持つでしょう。期限は明日の夜中十二時。それ以上時間がかかるってんなら、その時は」

 話は終わった。

 フィリュネは、イオの小さな背中に何度も振り向き続けた。なんと寂しい背中であろう。命をつなぐために、命を断つ。それが自分たちの仕事なのだ。フィリュネは、ソニアのコートの裾を掴んだ。そうでもしないと、自分の心がどこかに行ってしまいそうな気分になるのだった。





 

 深夜。

 ドウは、懺悔室にいた。イオも同じく、格子窓を挟んで向こう側の部屋に入っていた。テツの姿が別宅に無かったことから、当たりをつけた結果、この部屋にイオは足を踏み入れたのだった。

「なあ、ドウ。お前、出て行っちゃくれねェか」

 無駄な問答であった。しかしそんな言葉であっても、神父イオにとってすがらざるを得ない細い糸なのであった。

「あの家族を殺したのは、お前なんだろう。テツの心は、何もしちゃいねェ。もともとお前が後から来たってんなら、出て行ってくれよ。テツの心から、出てってくれよ……」

「神父様、それはできないよ」

 ドウは楽しげに言った。格子窓の向こう側で、彼の野暮ったい黒髪の間から、小さな黒い三白眼が覗く。

「テツと俺は、同じなんだ。テツがいれば俺がいる。テツは認めてくれないけど。だから、出て行くなんてそもそもできないんだ」

「ならどうすりゃいいってェんだ!」

 イオは無力から壁を叩き、目頭を押さえるばかりであった。イオには家族が無かった。できた家族も恋人も、すべて自ら葬ってきた。それでも彼は神と愛を信じていた。飯の種であるから仕方なく、という理由もある。だがそれ以上に、どこかで彼は信じていたのだ。

 自分が、いつか本当に愛を手に入れることができるということを。

「ドウ。お前、死ななきゃならねェんだぜ。殺し屋が来るんだ。そうなりゃテツも死ななくちゃならねェ」

 イオは首から下げたロザリオを握りしめた。一日が経ち、刻限はただただ迫り続けている。今日、テツは聖書の勉強を三ページも進めた。小さくたどたどしいが、通りすがりのご近所に挨拶ができるようになった。彼は、まだ人間に戻れるかもしれないのだ。少なくとも、金のために人殺しに身をやつした、自分よりは……。

「だったら殺させないように、殺すだけさ。俺は、テツを守るために生まれたんだから……」

 懺悔室の闇の中で、イオはロザリオの持ち手を捻り、回転させる。空気の破裂する音。一回。二回。

「それで、神父様。どうしてそれを、俺に?」

 彼の言葉が、ピリオドとなった。もはや、戻る道は無い。

「俺がその殺し屋……断罪人だからだ」

 二人は懺悔室から同時に聖堂に飛び出した。どこから取り出したのか、ドウの手には、捻くれた長い釘! イオもロザリオを構え、十字架オブジェを背に対峙する。長い釘が宙を舞う! 聖書台に十字架オブジェ、オルガンに釘が突き刺さり、イオの体を掠め血の筋を残してゆく! しかしイオは怯まぬ! ドウは肩を通したベルトからナイフを抜き払い、イオの顔めがけ、上から振り下ろした! イオは刃が近づくのをただ見つめていた。死の間際に自分の人生が見えるというそれを見ているようであった。まさに眉間に到達しようかというその瞬間、刃は止まった。イオには分かった。ドウは、テツになっていた。

「テツ……お前、戻ったんだな」

「神父、様」

 彼は、涙を流し続けていた。溢れ出るそれを拭おうともしない。手に握りしめたナイフはいつの間にかこぼれ落ち、床にあたって虚しく甲高い音を立てた。

「テツ、奴はどうなったんだ?」

「俺、死ななくちゃいけないんだね」

 不気味なくらい、テツは淀みなく述べてみせた。彼はゆっくりと十字架オブジェへ歩み寄り、膝を付き見上げた。

「テツ、お前……」

「ドウは俺じゃない。でも、俺の知らないことを教えてくれる。神父様、俺は、死ななくちゃならないんだね? そうなんだろう?」

「違う、死ななくちゃならねェのは……」

「違わないよ」

 雲の合間から月が覗き、月明かりがひび割れたステンドグラスを通して、朧げに十字架オブジェを照らした。テツはその光に包まれながら、ただただ十字架を見上げ続けていた。

「ドウから、聞いたんだ。俺、人を殺したんだよ。幸せそうで、羨ましくて、それで殺したんだ。ドウは黙ってくれてた。悪かったのは、俺だったんだ」

 イオはすっかり小さくなった彼の背中に近づきながら、ロザリオの持ち手を回転させた。これで、三回目。テツの背中は神々しい光に包まれながらも、寂しげであった。

「神父様、俺を……殺してくれるんだろう?」

 イオは彼を後ろから抱きしめた。これ以上、彼にどんな言葉を投げかけろと言うのだろう? イオにできることといえば、彼を人殺しとして世間の晒し者にすることなく、静かに送ってやることのみだ。

「なあ、テツ。神に祈りを捧げよう」

「神、に?」

「そうさ」

 イオは、ロザリオを持たない左手を、テツに遺された右手と握った。手に震えはなかった。イオは神父だ。死に私情を挟まない。感傷を受けない。そうあろうと決めたからだ。たとえ自ら死を振りまく、断罪人であろうとも。

「お前は、目を瞑って祈りを捧げればいい。俺は、聖句を神に捧げる。安心しな」

 ロザリオは右手に。テツの首筋近く。テツはその言葉を聞いて、どこか安堵したような雰囲気すら漂わせた。皮肉にも、二人の間の『信頼』は、既に完成していたのだ。

「我らが全知全能たる主よ」

 テツの涙は止まっていた。冷たい床の上に、頬を伝ってわずかに雫が落ちてゆく。

「我ら罪深き者共を、どうか天へとお導き下さい」

 首筋に押し付けられたロザリオのゼンマイが回転し、長い針が打ち出される。テツの首筋を針が貫き、彼はイオにもたれかかるように息絶えた。遺された右手は、固くイオの左手と結ばれ、容易に離れることはなさそうであった。

「終わったのか」

 教会の外では、ソニアとドモン、そしてフィリュネが一部始終を見つめていた。ソニアの表情は暗い。フィリュネも同じだ。ドモンはゆっくりと聖堂へと繋がる扉を、イオに聞こえるであろうほど大げさに閉めた。彼の表情もまた、沈痛そのものであった。

「旦那さん。神父さんに何か、その……」

「僕らが、何を言うってんですか」

 ドモンは再び月明かりが失せた暗い夜道を歩き始めた。もはや、この場に留まる理由など何もない。なおも留まろうとするフィリュネに対して、背中を見せたままドモンは続けた。

「神父はケジメをつけた。僕らはそれを見届けた。それで今度の事はおしまいです。──後は、神父次第でしょう。僕らがどうこういうもんじゃありません」

 ソニアの吐いた紫煙が、夜風に散らされ消えた。運命は変えられない。無様な死を迎えるまで、生き続けなくてはならない。風の中に、慟哭が聞こえたような気がした。ドモンは振り向くこともせず、夜道へと溶けていった。




父子不要 終

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