父子(おやこ)不要 (Aパート)
「なんだ……なんなんだお前は!」
その日、出版業を営むミロク堂の主人は、妻が料理に使っている包丁で串刺しにされているのを発見した。娘は、主人の目の前で愛用の万年筆──勉学に励むようにと願いを込めた高級品だ──で喉を貫かれ、仰向けになって事切れていた。
そして、目の前の人物は、主人の使うペーパーナイフをどこから見つけてきたのやら、握りしめていた。妻を殺された怒り。娘を殺された悲しみ。心が焼きつくされそうになる中、主人はどこか冷静に次の展開を読み取っていた。このままであればおそらく、ペーパーナイフを突き立てられ、殺される。
「頼む! 頼む……お願いだ。このとおりだ。私はしがない本屋だ。どういうつもりなんだ。金なんかありゃしないんだ」
主人は跪き、涙声で許しを請うた。既に家族は無い。失われてしまった命は戻らぬ。せめて自分の命くらいは。そう願ってのことであった。
「生きたいの、あんた」
彼は冷たく言った。主人はまるで、氷か何かを当てられたようにびくりと跳ねた。彼の言葉には、何もなかった。ただ言葉を投げつけられたような、からっぽの言葉。
「私は生きたいんだ。それの何が悪いんだ」
「でも奥さんも娘さんも死んだぜ。愛してないのかい」
主人の言葉はそれから続かなくなった。妻は死んだ。娘も。何を希望に生きろというのだ。そんな虚無的な考えが、主人の脳裏をよぎった。顔をゆっくりと上げた先に、暗闇から覗く彼の双眸が飛び込む。
「だからさあ……証拠、示そうよ」
喉へと押し込まれる、ペーパーナイフ。主人はまるで受け入れるように刃を飲み込み、血反吐をぶちまいて、倒れ伏した。そこに死だけが遺された。
帝都イヴァン、自由市場ヘイヴンは、今日も賑やかであった。
その日、アクセサリー職人ソニアは一人で黙々と金槌を振るっていた。新作の鉄細工のアクセサリーだ。そろそろ装飾にこだわるくらいの余裕も出始めている。相棒たるデザイン担当、フィリュネのリクエストに答えられるくらいの技術を研鑽するのも彼自身の仕事だ。今日は寒く、自身の着ている黒いコートも心もとないほどだ。
「……あのう、すいません」
口の端に咥えていたタバコを上下させながら、ソニアは黒いサングラスで覆われた顔を上げた。女が一人立っていた。前髪の寝ぐせを強引にまっすぐ真面目に撫で付けたような黒髪の女だ。気の強そうな印象の女であった。だがソニアは知っている。この女が、何者か。
「あんた確か、ドモンの旦那の」
女は驚いたように見せたが、すぐに小さく頷いた。
「妹のセリカと申します。──今日は、フィリュネちゃんは」
「すまんね。営業に出てる。在庫を持ち出してるんで、商品もちょっと少ないが……気に入ったものがあったら手に取ってくれ」
ござよりはましの、少し小綺麗な布の上に並べられたアクセサリー。セリカはそれを一瞥するも、すぐに視線をソニアに戻した。彼女はこの店の常連だ。最近は、新作が出ると買ってくれたりする。ありがたいことだ。しかし今日はどうやら違うようだった。
「実は、フィリュネちゃんに相談があったのですが……こういうのは、男同士のほうがよろしいのかもしれません」
「……何の話だい」
「実は、お兄様の事で最近、ちょっとお話したいことが」
ソニアは俄にあたりを見回した。憲兵官吏の姿も、こちらを注視しているような素振りもない。目の前の女──セリカは確か、教師だったはずだ。ソニアの『裏の仕事』を嗅ぎつけるような輩ではない事は確かだろう。
「ここじゃ、話しにくいことかい」
「……正直言って、そうです」
ソニアは立ち上がり、ござを丸め始めた。隣の露天商の男に今日は店じまいをするので、フィリュネが帰ってきたらそう伝えて欲しいと言付けると、ソニアとセリカは連れ立って馴染みの喫茶店へと向かった。
「はい、コーヒーです。ソニアさん、お砂糖とミルクは?」
物腰柔らかく、銀色のふわふわの髪を後ろでまとめた、若きマスターのマリアベルが自慢のブレンドコーヒーを差し出した。二人分。向かい側にはセリカがいる。ここは喫茶やすらぎ。マスターの青年マリアベルとは、以前とある出来事で出会った知り合いだ。セリカもわずかながら面識がある。ここならば、多少は話しやすいだろうというソニアの配慮であった。マリアベルも、奥まった場所にあるテーブルを選んでくれた。
「俺はいらん。あんたは」
「私も結構です」
「ありがとうございます。ではごゆっくり」
マリアベルは小さく会釈すると、テーブルから離れた。ソニアは作りおきの紙巻タバコと、携帯火種を取り出すと、セリカに見せた。
「タバコ、吸っても大丈夫かい」
「ええ、どうぞ」
ソニアはタバコに火を点けながら、彼女が話しだすのを待っていた。身内のことだ。それを他人に、ましてやそこまで親密でもないソニアに打ち明けるなど、並大抵の覚悟ではない。相当に参っているのだろう。
「前、ここで結婚式の二次会をやった時にお会いしましたね。あなたの事は、フィリュネちゃんからよく聞いています。言葉は少なくても、とても頼りになる殿方でいらっしゃると」
「あの子が言うんなら、そうなんだろう。嬉しいね」
「それで、折り入って相談をさせていただきたいのです」
「兄さんのことかい」
セリカは頷いた。普段、ドモンから聞く印象とはまるで異なる表情であった。勝ち気さや、傲慢さや横暴さ、そういった強さがすべて失われているような、不安げな表情だ。
「最近、お兄様の酒の量が増えてきたのです。それも以前のお兄様なら、卒倒するようなほどの量。もともと、下戸で……憲兵団で飲み会に誘われても、すべて断っていると言っておりました。兄妹同士、仲が良いと言えるのか、私にはわかりかねますが……それでも何かお兄様に起こっていることくらいは、察しが付きます」
確かに、イオもそんなことを言っていたように思う。イオとソニア、そして時折フィリュネは教会で飲み会をやる。労働の間の、ささやかな楽しみ程度のものであるが……ドモンはそうした会にも、あまり積極的ではなかったはずだ。それでも、たまに来た時は人並みに酒を飲んでいた。下戸には見えなかった覚えがある。
「どれくらいなんだい、酒の量ってのは」
「多い時は、ワインボトルを一人で一本開けてしまいます」
それは多い。ソニアとて、酒には強いほうだと自負はしているが、ワインボトルを一人で開けたりすれば、家に帰れるかどうか分からぬ。
「ソニアさん、幸い……あなたはお兄様より年上。あからさまに憲兵官吏の傘を着るような事は無いと思います。私も度々注意をしているのですが、まるで効果が無いのです」
ソニアは唸った。所詮ソニアは一アクセサリー職人である。人様に自慢できるような人生でもなかったし、誰かに説教を垂れられる程えらくもない。
「セリカさん。俺は頼まれると弱い。断れねえタチだ。一応、頼まれたからには言ってみるがね。それで全部が解決するとは、思わねえことだぜ」
「はい。それはよく存じています。とにかく別の方法を探りたいと考えていたのです」
「なら、早速だが……場を作ってもらえるかい。場所はここでいい。あんたは、ここに旦那を呼び出してくれ」
夕方からは雨が降っていた。冷たい雨だった。体温から何から、すべて奪われてしまいそうな雨。神父イオは、その日新しく引っ掛けた人妻を抱いた後、傘を差して家路を急いでいた。なかなかいい女であった。夫は行政府務めの役人らしく、忙しくて相手をしてもらえないらしかった。もったいないことだ。彼女で温まったイオの体も、芯まで冷えてしまいそうな雨だ。イオはカソックコートを体に巻き付け、手をこすりあわせた。
「さっさと寝るか、今日は……」
ここのところ、断罪の依頼もない。イオは断罪人なる復讐代行人という裏の顔を持っている。彼の教会はその窓口とでも言うべき場所だ。懺悔した恨みの言葉を汲み取り、悪党を殺す。だがその懺悔が最近とんと聞かぬ。通常の懺悔の際に要求する喜捨は、イオの収入源の一つだ。それが絶たれたとあっては、別の方法を探る他無い。例えば、女を引っ掛けてたかる、というのがそれだ。今日は成功例であると言えた。
自身の教会の前にたどり着くと、イオはふと誰かがいることに気づいた。聖堂への入り口の側に、背をつけしゃがみこんでいる。冷たい雨の雫が、野暮ったい黒髪を伝って落ちた。少年、いや青年であった。肩から袈裟懸けにベルトを通し、後ろに何やら背負っている。黒い上着にマントの如きボロ布を羽織、カーゴパンツと言った風体。イオにはこんな知り合いはいない。
「祈りを捧げにいらしたのですか」
イオは神父らしく言葉を投げかけた。青年は動かなかった。横顔は幼い。二十歳はいっていないだろう。恐らく、十七か十八。場合によってはそれ以下ではあるまいか。青年は何も答えぬ。
「……冷やかしかい。もしそうなら帰ってくれ。俺はあんまり好かねェが、老若男女問わず困ってるっていうやつに助けの手を差し伸べるのが教会だ。んな黙ってねェで、困ってんならなんとか言ったらどうなんでェ」
イオは自身のウェーブがかった栗色の髪をかきあげながら、そう言った。青年はなおも答えない。動きもしない。
「まさか死んでるんじゃ……」
手を伸ばした途端、青年はその手を跳ね除けた! イオの覗きこんだ黒い瞳には、怯えるような色が滲んでいる。
「おい! 何なんだよ、てめェはよ。分かった分かった。いたきゃ、いくらでもいりゃいいぜ。だがよ、今日の雨は冷たいだろうな。そのまま後何時間か過ごしてみな。翌朝にゃ、冷えた死体のいっちょあがりってもんだ。まさかとは思うがよォ、お前そのままここでおっ死んで、死体の処理でもしてもらおうなんて腹じゃねェだろうな。迷惑だぜ、そういうのは」
少しおちゃらけた様子でそう言うと、青年はようやくゆっくりと立ち上がり、口を開いた。おどおどとした様子で、顔をあげようともしない。
「行くところが……」
「ねェのかい」
青年は頷いた。イオは大きくため息をつき、聖堂への扉を開ける。
「入んなよ。神は大きな愛ですべての人々を受け入れてくださる」
「愛」
青年は小さく呟いたが、イオには聞こえなかった。雨は、未だ降り続き、止むどころか地面を引っ叩くように威力を強めている。青年に適当なところに座るよう言うと、タオルを投げてやった。自身は、台所へ。イオ自身、体が冷えてどうにもならぬ。まるで氷になったようだ。
「で、名前は」
イオは手際よく紅茶を作ってやってから、青年に差し出しながら尋ねた。なかなか答えようとしない──というのがイオが始めに抱いた印象であったが、違った。彼は口をもぐもぐと動かそうとしていた。喋るのが苦手なのだろう。
「テツ」
「それが名前かい」
テツは頷いた。その度に、彼の羽織るボロ布から水滴が飛んだ。
「おい、そのマントみてェなのは取ってくれよ。せっかくの紅茶に入っちまうぜ」
イオの言葉にびくりと身を震わせ、テツはゆっくりとボロ布を取った。
「汚れてんならよ、洗濯屋にでも出しちまうから……」
そこから、イオの言葉は続かなくなってしまった。テツは黒い長袖のシャツを着ていた。右手は袖から顔を出している。だが、左袖はぐにゃぐにゃと揺れるのみ。中身が無い。左腕がない。
「……どうしたんだい、その腕」
イオは落ち着いた様子で言った。神父たるもの、相手の神経を逆撫でしないように話をするのはたやすいことだ。だが、テツは俯いたまま、話そうとしない。言葉がうまく出てこないのかもしれない、とイオは考えたが、それ以前の事情かもしれないと思い至った。言うに言われぬ、わけあり。
「分かった。聞かねェ。テツ、お前も言わなくてもいい。今日は、ここで寝な。明日のことは、明日考えりゃいいだろ」
テツは少しだけ嬉しそうに頷いた。ずいぶんお人好しになったものだ、とイオは一人自問自答しながら、予備の毛布を取りに、離れの自宅へ向かうのだった。




