蒐集不要(Aパート)
その日、帝国首都イヴァンより西南に六十キロメートル離れたナギト領で、一人の男が死んだ。男の名前は、エルヴィン・エスカランテ卿。帝国貴族二十家の内、現在のアルメイ政権を支えるに至った大貴族、ナギト家の筆頭家臣を務める男であり──魑魅魍魎が跋扈する政治の世界において、当主、クシャナ・ナギトの数少ない心許せる友人の一人であった。
「自殺」
クシャナはその一報を自室での執務を終え、就寝しようとしたところで耳にし、丸い眼鏡の中でその怜悧な瞳を驚愕に歪ませた。エスカランテ家は元々ナギト家の後見人めいた立場の名門貴族である。クシャナは若い。まだ三十にも満たない。帝国貴族二十家の当主連中の中では、まだまだ経験不足であると言い切って良い。今日、こうして帝国の中で重要な立ち位置を得ることが出来たのも、ひとえにエルヴィンを筆頭とした家臣団の後押しがあったからに他ならぬ。
「馬鹿な。エルヴィンが自殺だと? 彼は今度私とチェスをする約束をしていたんだぞ。それも昨日だ。いくらなんでも急すぎる。遺書はあるのか?」
クシャナは、同じく就寝直前であったのを叩き起こした家臣団に尋ねる。しかし家臣団にも事情が飲み込めないようで、お互い顔を見合わせるばかりだ。そんな中、奥に控えていた近衛隊長がずいと前に出ると、うやうやしく羊皮紙を一巻きと小さな木箱を差し出した。
「これは」
「エルヴィン卿が自害なされたお側に置かれておりました。お改めくださいませ」
クシャナは眼鏡をかけ直し、青白く長い髪を後ろで軽く束ねてから、友の遺した手紙を解く。短い手紙であった。
『我が主君にして友クシャナへ。私は、怪物を解き放ってしまった。怪物は獲物を探し、イヴァンへ向かった。私に彼女を止める事は叶わなかった。許して欲しい。だが私も帝国貴族の端くれとして、家名を犠牲にしたとしても、主君の名誉を命をかけて守る。君に迷惑をかけることはない。安心して欲しい。そして友人として最期の願いを君に託す。彼女を──』
その時であった。
轟音がナギト家の邸宅を揺らした。窓の外から、赤々と灯る炎の光。あの方向には、エスカランテ家の邸宅が建っている。窓からクシャナや家臣団が外を伺うと、遠くで炎の柱が上がっているのが目に入った。エルヴィンは、恐らく最後のけじめを自らつけたのだろう。最期に託された願いを無視するほど、クシャナという男は薄情な貴族ではなかった。もう一つ遺された木箱を開く。黄金の光。敷き詰められた金貨は、およそ五百枚にもなろうか。大金である! 手紙に書かれた最期の一文を、クシャナは何度も読む。まさに苦渋の選択であったのだろう。クシャナは友を想い目を閉じ、決意を固めた。
「誰か。キースを呼べ」
「というわけで、人事発表は以上だ。後は張り紙を確認しろ」
憲兵団では、定期的に人事異動が行われる。もちろん、実際に人員の異動がなされることは少ない。矛盾を抱えた言い様であるが、これには理由がある。国の治安を預かる憲兵官吏が、いつまでも同じ所にとどまってばかりでは癒着を引き起こすと、批判が起こった時期があったのだ。よって、半年に一度『形だけの』人事異動を行うことで批判を交わしたのである。しかし、今日だけは違った。
「さすがはサイだよなあ」
「ああ。出世株だとは思ってたが、大したもんだぜ」
同僚たちが憲兵団執務室の殺風景な掲示板に貼り付けられた紙を囲み、わいわい評した。憲兵官吏サイ・アーダイン、憲兵団内特別捜査班班長に任命す。特別捜査班は憲兵団内部に新設された部署であり、行政府から広域捜査を命じられる遊撃隊に対抗せんと、精鋭が集められた本物のエリート集団なのである。その班長ともなれば、サイもまた完全にエリートコースに乗ったと言い切っても過言ではないだろう。そんな喧騒を背に、ドモンは自分のデスクで惰眠をむさぼっていた。なにせそう言った人事異動に全く関係がないのだから、そもそも興味もないのだ。
「ドモン君。いやあ、サイ君はすごいのう」
定年寸前の憲兵官吏モルダが、ドモンの惰眠を知ってか知らずか、長く白いあごひげをしごきながらのんきに言った。彼もまた、もはや人事異動に無縁な憲兵官吏の一人である。
「噂によれば、恋人と結婚も秒読みらしい。なんでも帝国騎士団の総筆頭騎士を王国時代から務める家柄の娘らしくての。玉の輿……いや、逆玉の輿というヤツじゃそうじゃよ。うかうかしとられんのう、ドモン君」
「モルダさん、言わないでくださいよ、そういうのは。気にしてないのに気になっちゃうじゃないですか」
顔を伏せたまま、ドモンはどこか恨みがましく言った。口で言うとおり、彼はサイの動向を気にしているのだった。何しろ席も管轄も隣、年齢も同い年。状況はこうまで似ているにも関わらず、どうも自分のほうが貧乏くじを引いているような気がするのだった。
「そう言うなよ、ドモン」
辞令の羊皮紙をデスクに置き、ガイモンの執務室から戻ってきたサイが言う。
「俺は気楽に仕事ができる憲兵官吏の方が向いてると思ってるんだがな」
「そういうの、なんて言うか知ってます? いやみったらしいっていうんですよ」
サイは軽く笑って流すと、ドモンの肩を叩いた。
「じゃあいやみったらしくなったついでに、いやみったらしく奢って差し上げよう、ドモン殿」
がば、と立ち上がるドモンの動きは早かった。彼はとにかく底意地汚い。奢りとなれば話は別、いやみをなんべんぶつけられようと意に介さない!
「おいおいサイ君。そういうことならワシに奢らせてくれ。最近、東地区にうまい食堂が出来ての。カツレツを出すんじゃが、これが良い肉を使っとる」
「では、モルダさんにご馳走になりますか。行こうぜ、ドモン」
「実はのドモン君。ワシは君にその店を是非に紹介しておきたかったんじゃよ」
道中、モルダは髭をしごきながら、にやりと茶目っ気のある笑みを見せながら言った。元々彼は世話好きで、心優しい温厚な憲兵官吏だ。争い事がむかず、長く出世が叶わなかったが、その人柄から憲兵団のみならず、管轄の住民からの信頼も厚い。
「そりゃまた、どうしてです?」
「君、女の子好きじゃろ。なのに長いこと恋人もおらんらしいじゃないか。もったいないぞ、若いのに」
ぐうの音も出ない。別に機会があればと考えてはいるのだが、肝心要のその機会が無いのだ。サイも時々協力してくれる、と言ってはくれるのだが、そこはそれ、なかなかうまくいかないものだ。
「それで、モルダさん。店とドモンの恋人、どう関係あるっていうんです?」
食堂の名前は『カツレツや』。思いがけないほどストレートな名前だ。モルダは店のドアノブに手をかけながら、いたずらっぽく笑った。
「それは入ってみれば分かるというもんじゃ」
扉が押し開けられると、元気の良い声が響く。そこは、二十人ほどで満員のちいさな食堂が広がっていた。
「いらっしゃいませ! ……モルダの旦那、いつもお世話になっております」
「うむ。同僚を連れてきた。こっちがサイで、あっちがドモン。世話になるぞ。カツレツセットを三つ頼む」
威勢のいい少女が元気よく厨房に注文を復唱した。深い海を感じさせるようなダーク・ブルーの短髪と同じ色の瞳が印象的で、その頭を三角巾で覆っている。笑顔の端から八重歯が覗いているのが、また可愛らしい。席にかけてから、男ども三人はひそひそ話を始めた。もちろん話題は、看板娘についてだ。
「……どうじゃね。いい子だと思わんか? サーヤと言ってな。父親と二人で、ここを盛り立てる看板娘よ。ワシもお気に入りなんじゃ」
「確かに美人だ。おい、ドモン。俺たちは職が安定してるってんで、モテるんだぜ。ちょっと声かけてみろよ」
面白がって声をかけるのはサイだ。改めて厨房を行き来するその少女を、ドモンは見た。可愛い。実はこういう元気の良い子がタイプなのだ。
「いや、しかし……なんというか。いきなり二人の前で堂々とナンパってのは」
「ドモン君、下手じゃのう……全くもって下手っぴじゃ。そういう時はの、手紙なりなんなり渡して呼び出して、後で上手いことやれば良いんじゃ」
いつになくモルダが強く言う。しかしドモンは動かぬ。じっと厨房を見ているだけだ。経験でどこかわかっている。ドモンは女運が良くない。恋は良いものだ。それ自体はよくわかっている。しかしかかわり合いになる女とは、ろくな結末を迎えないのだ。だからこそ、躊躇っていた。
「ま、とにかく今はカツレツを食べましょうよ。僕もたまには、分厚い肉が食べたいんで……」
「お、おやめ下さい!」
突然大きな声が食堂中に響いた。視線が集まった先には、先ほどの看板娘サーヤの手首をつかむ女が一人。腰まで届く黒髪をまっすぐ切りそろえ、ビスチェめいた軽装に短いスカートから伸びる足は、黒タイツで覆われている。腰には瞳と同じ色の朱鞘の洋剣を帯び、その出で立ちからくる雰囲気は冒険者のような貧乏臭いものではない。騎士のそれだ。
「お嬢様、ダーク・ブルーです」
女は座っている小柄な少女に報告した。女の向かいに座る少女の出で立ちもまた、どこか異様であった。フリル付きの青い高級ドレスにコートを羽織り、銀色の髪をリボンでまとめた旅姿。それだけならばどうということはない。しかし少女はなぜか、目を白い帯で覆っているのである。あれでは目は見えまい。
「そうですか。……ロゼ、私は色を聞いただけです。乱暴をせよとまでは申しておりません。離しておあげなさい」
「は。御意に」
目の前でこうまでされて、黙っている義理はない。モルダとサイは即座に立ち上がり、二人の異様な乱暴者に詰め寄った。
「憲兵団の者ですがな。いったい何がおありになったのか、お聞かせ願いたい」
モルダはいつになく語気を強めていった。この店は彼にとって馴染み深い店だ。土足で踏み荒らすような真似をされて許せるはずもない。サイも同じ気持ちだ。
「なんだ貴様ら!」
臆さず声をあげるロゼであったが、意外にも主人たる少女はそれを立ち上がって手で制した。目は見えずとも、声で誰がどこにいるかは分かる様子だ。
「おやめなさい、ロゼ。みっともない……見ての通り、私目に病を抱えておりますの。彼女がきれいな色だと言うので、何色かを尋ねただけなのです。彼女の無礼は謝りますわ。私はシルヴィア。トラダント領の乾物ギルドの娘でございまして、世の見分を広める旅の最中なのです」
そう丁寧に言うものだから、モルダもサイも強くは言えぬ。しかし、意外にもその現場に口を挟んだのは、じっと座って様子を見ていたドモンであった。のっそりと立ち上がると、二人の同僚の首の間から顔をのぞかせ、のんきに尋ねたのだった。
「シルヴィアさん。お聞きしたいんですが……実は僕、魚の干物が好物なんです。今の季節は、そろそろ寒くなってきましたから、タイなんか美味いんじゃないんですかねえ」
シルヴィアは微笑むと、淀みなく言った。
「ええ、そうですわね。……実家に戻りましたら、ぜひうちの乾物を送らせて頂きます。あなた、お名前は?」
「イヴァン憲兵団憲兵官吏、ドモンと申します」
「お嬢様、支払いが終わりました」
「そう。ではドモン様、ご機嫌よう……」
いつの間にか、ロゼはサーヤに金を渡し終えていた。これ以上、彼女らを引き止めておく道理は何もない。モルダもサイも、そしてドモンも、呆然と彼女らの後ろ姿を見送るしか無かった。
「何なの、あの二人……」
「サーヤちゃん。怪我は無かったかの?」
サーヤは頷きながらも、二人が去っていった先を見ながら眉根を寄せていた。彼女は気が強い。恐怖よりも、理不尽への怒りが勝ったのだ。
「モルダの旦那、助かりました。サイの旦那も。ちょうどカツレツできましたから、召し上がって下さい」
湯気立つカツレツから立ち上る匂いに飛びつくように、ドモンは席に座った。久しくこんな美味そうな揚げ物は食べていない。後始末が面倒だからと、妹のセリカはなかなか作ってくれないのだ。
「や、これは美味そうですねえ。さっそくいただきましょう、ね!」
「……あの旦那、なんなんですか? わけの分からない事を聞くし……」
サーヤは侮蔑混じりの視線をドモンに送る。モルダとサイは顔を見合わせ、苦笑いを浮かべるばかりだ。今に始まったことではないし、小言も意に介さないのだからどうしようもないのだ。
「ドモン君はああは見えるが、なかなか……いい男なんじゃよ。うん」
「そうそう。悪いやつじゃ……ないんだ。うん」
さくさく気持ちの良い音を立てながら衣と肉を噛み締めるドモンを見ながら、二人の同僚は首をかしげそうになるのを必死にこらえていた。とにかくサーヤに背を向け席に付き、ナイフとフォークでカツを切り分け、口へ運ぶ。噛む度に肉に閉じ込められていた肉汁が溢れだす。至福の瞬間!
「いやあ、モルダさん。このカツは実に絶品ですねえ!」
「うん。こんなうまいのは食べたことがない」
モルダも幸せそうに肉を噛み締めながら、ナイフを置きナプキンで口を拭うと、思い出したように膝を叩いた。
「そうじゃそうじゃ。ひとつ聞きたいんじゃが、ドモン君」
「なんでふか」
ドモンは肉をもぐもぐと口で貧乏臭く噛み締め続けながら、ふがふがと返事した。
「わし、タイの干物なんか聞いたことないんじゃが……美味いのかね?」
「ああ、アレですか。いや食べたことはありませんけどね。でも多分、旬じゃないでしょ。タイは確か春の魚ですよ。干物屋の娘が、そんなことも知らないなんてありえません。おつきの女剣士も只者には見えませんでしたし……ありゃどっかの貴族の娘とかそんなんでしょう」
モルダとサイは顔を突き合わせ驚くばかりだ。ドモンには時折こういうことがある。とんちんかんな風に見せても、鋭いところを突く。だが、意図的にそう見せているのではないかと思えるほど、普段はそういった側面を他人に見せないのだ。結果、誰にも評価されない。
サイは時折考える。ドモンという男は、本性を別に持っているのではあるまいか。何かの理由で、隠しているのではないのか。その理由と言っても、せいぜい面倒くさがりだからというようなものしか思いつかないが……。
「もう本当にこれ……僕毎日このカツレツでもいいですよ。毎食でも」
「胃がもたれるだろ。栄養を考えろよ」
幸せそうにカツを口に運び続けるドモンを見て、やっぱり自分の思い過ごしだろうとサイは思い直し、残りの自分のカツを口に運ぶのだった。




